漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

「お前の漫画全然面白くなかったよ」関連

 漫画を描くようになって何年かの時間が経ってきましたが、僕が描いている漫画への反応として、悪いものもたまに目にしたり、直接伝えられることもある感じになってきました。つまりそれは、もともと好意的に思ってくれていた人以外の色んな人に読まれる感じになってきたということだと思うので、大枠の傾向としては良いことだなと思います。

 

 それに対して言われた僕がどう思うかというと、その人が面白く感じなかったことについては、まずは「仕方がない」と感じています。読書体験は漫画と読者の共同作業なので、同じ漫画でも、人によってその体験の形は様々ですし、僕の漫画が共同作業の相手として合う人もいれば合わない人もいると思うからです。

 ただそこで、面白くなかったと感じた人に、どこが面白くなかったか?を聞くのは興味深いことで、そこに僕が想定していなかった、「そこでそう感じるのか」とか、「そこをそのように理解したのか」という発見があったりします。

 

 それを踏まえて自分の次の漫画を変えたりすることもあるでしょうし、別に変えないこともあります(変えない方が多いかもしれません…)。なぜなら、その人の全て言う通りに変えた場合、その人にはウケるかもしれませんが、別の人には逆にウケなくなるかもしれないからです。

 

 これは肯定的な反応の場合でも同様で、面白いと言ってくれた人がどこを面白く感じてくれたり、どこをどのように受け取ったかを教えてくれた場合でも、その後、その部分をよりその通りにするとは限りません。誰かひとりのためだけに作るのであれば、その人に合わせればいいですが、より多くの読者を想定している漫画については、良いも悪いも色んな感性や意見があると認識した中で、改めて自分として何を選ぶかというところに意味があるだろうと思っています。

 ただ、その結果として、特定の誰かひとりにウケるために漫画を描くのが良いという結論になることだってあるかもしれませんが。

 

 僕の基本の考えとしてはそういう感じです。ただし、「お前の漫画全然面白くなかったよ」という話を実際言われたときには、結構取り扱い注意だなと思うところもあります。それは、その人が「本当に面白く感じなかった」のか、内容は関係なく僕のことを「傷つけてやろう」と思っているのかの区別が必要だと思うからです。

 後者の傷つけてやろうとしての発言の場合、面白く感じなかったということはそれを実行するための手段でしかないので、中身は虚偽であったり、実はまともに読んですらないかもしれません。その場合、言葉の中身をそのまま受け取ると誤解を重ねることになってしまいます。

 

 他人の心そのものは見ることができないので、実際のところ何故言われたのかは正確には分かりません。なので、自分がその疑惑を感じた時点で何らかの判断をすることになります。幸い、僕はもともと他人の感じた個別の意見にはあまり左右されないように心掛けているので、何を言われてもまずは「そうなんですね」と思って終わりということになります。

 

 世の中には、「気に食わない他人を嫌な気持ちにさせたら勝ち」という価値観があると感じていて、僕もそれは感覚としては分かると思います。感覚では分かりますが、少なくとも近年はできるだけそういうことはしないようにしようと思っています。なぜそう思うかというと、そういったことを人々が互いに繰り返していくと、場の空気がどんどん悪くなり、日々居心地が悪い空間になるのではないかと思うからです。

 また、そういったことを他人にされたときについては、どういう態度をとるのがいいのかな?と思います。一番良いのは、そこからどうにかして、その相手に好かれてしまうことでしょう。そうすれば、僕を嫌な気持ちにさせたいというモチベーションそのものがなくなるので、大変平和的です。

 

 なので、できるだけ多くの人に好かれてえと思っています。でも、他人の好悪感情をコントロールなんてできませんからね。なので、なんか嫌なことを言われたりするのは無くならないし、ある程度はどうしようもない気がします。

 

 さて、幸い僕はもうおっさんなので、精神の鈍麻が始まっており、他人にどう思われようともうどうでもいい、という部分が結構あります。けど、自分の若い頃は他人にどう思われるかを過剰に気にしていたので、今の若い人がそういうのに影響され過ぎないといいなと思ったりしています。

 最近は、新人漫画家の読切作品がネットで無料で公開されることが増えていて、人の目を集めることも多くなっているように思います。そういうところに、他人の目を強く気にしてしまう新人漫画家の人がいることを想像すると、勝手に心配になってしまうんですよね。

 

 そういう危惧を抱いてしまう理由としては、毎日次々に流れてくる新人の読み切り漫画に一言を加えていく中で、審査員のような物言いをする人を目にすることがあるからです。つまり、自分個人のの好き嫌いではなく、世間的な良い悪いをジャッジしようとする姿勢です。

 それだってやるのは人の自由ですが、それはあくまでその審査員っぽいことを言う人個人の中での良い悪いの話であって、それに準拠したところで、その人に好かれる、あるいは悪く言われなくなるだけだったりするとも思います。なので、目指すべき場所はその人に言われた通りのそこなのだろうか?と思ってしまいます。

 

 実際の審査員に評価されると、何らか賞が得られたりすると思うので、そこに準拠したりする分かりやすいメリットがあると思いますが、審査員っぽいことを言うだけ人の価値観に準拠すべきか?というとそうとも限らないんじゃないかなと思ったりします。あくまでそういう意見がひとつあったと思えばいい話です。

 そしてひとつの意見としてはそれはそれで有用でしょう。

 

 自分が進む方向性で迷走しないためには、そういう感じに他人にジャッジされることに対して過剰に反応しないことって大事だなと思っていて、僕自身が若い頃にそうだったこともあって、今の若い人がそういうのにひっかかって迷走しないといいなと思ったりしています。

同人誌が勝手に中国語翻訳されてアップロードされている関連

 2年ぐらい前に「少年対組織暴力」という漫画を描いて、コミティアで同人誌として売ったのですが、その同人誌が、誰がやったのか、中国語に翻訳されて海外のサイトに勝手にアップロードされていることにしばらく前に気づきました。

 手元にある同人誌は売り切っていたので、既にWebに無料公開しており、別段そのことで実害はないので、この件に限定すれば個人的に問題は感じていません。

 

 

 なお、商業媒体で描いている漫画も、いずれそういうことが起きるかもなという想像があり、それに関しては問題を感じるだろうなと思います。

 

 この辺りについて思うことは、法的な問題と、金銭的な問題と、感情的な問題はそれぞれ別だなと思うことです。

 つまり、著作権的に問題がある/ないと、無料のものだから(あるいはお金を払っているから)問題がある/ないと、作者の感情的に問題がある/ないは、それぞれ独立して存在していて、上記の場合だと、法的に問題はあり、どうせ無料のものだから個人的に問題はなく、感情的にも個人的に問題はありません。

 むしろ、僕の描いていたパロディを解説する注釈を入れてくれていたりして、頑張ってるやんけという気持ちもあり、面白かったです。

 なので別に同人誌に関してはいいんですけど、これはあくまで「この条件なら」という感じです。

 

 そうではないケースも色々あるでしょう。

 

 そういえば、自分の子供の頃を振り返ってみて、「お金を払ったことはないがファン」ということは全然あるよなと思っていて、なぜなら欲しい漫画を全部買えるわけではありませんから、立ち読みしただけだけど、この漫画はすごく好きだし自分はファンだと思うということは実感としても全然あります。

 ただ、それをわざわざ作者に言うのは良くないなという気持ちはあります。ちゃんと買っている本もあるのだから、あなたの漫画は好きだが、お金を払うランキングでは他の本に劣りました、みたいなことを伝えられて良い気持ちになる人がいるとは思えません。

 

 漫画のキャプチャをネットに貼ったりすることも、著作権法違反は親告罪なので、黙認されているなら合法と言うこともできます。しかし、レギュレーションが明示されていない場合、黙認されているかどうかを確認するすべはなく、法的には危ないことをしているという状態でしょう。

 法的には本来問題があるような状態でも、それを読者が好きで盛り上がってくれているのだからと公認してくれる漫画もあり、ファン活動としてやっているように見えるものであれば、基本的には黙認されている方が多いと思います(そうでない場合は訴えられているケースもあります)。

 

 一方で、法的にも金銭的にも問題なくても、作者が嫌だと思うこともあり、それはそれで尊重する態度もあるだろうなと思います。

mgkkk.hatenablog.com

 

 何が正しいと考え、どう行動するかはそれぞれの人にその選択があるのだと思います。権利を侵害され、金銭的被害が出ていても、その状況を何らの理由でよしとする作者だっているかもしれません。

 

 ジャンプ+の連載作が基本的に多言語で同時配信されるようになるというニュースを見て、どこかの誰かに勝手にやられるぐらいなら自分たちでやろうという感じなんだなと思いました。MANGA PLUS(ジャンプ+の海外版)自体は以前からありましたが、その方向性の加速です。勝手に翻訳されてどこかに掲載されるよりは、ずっといいのかもしれません。

 ただ、無料と競争するなら、無料になっていくので、単純には儲からないことをやらないといけないのはしんどいなという感じに見ているのですが、そういう部分を今金銭的に余裕のありそうなところがやってくれるのは良い話だなと思います。

 余裕があったら、僕の「恋のニノウチ」もやってくれないかな…。

 

shonenjumpplus.com

親子の物語としてのドラゴンボール関連

 「ドラゴンボール超スーパーヒーロー」を観ましたか?僕は見ました。以下、ネタバレが含まれているので、ご了承の上で読んで下さい。

 

 さて、前作の「ブロリー」は顕著に親子の物語として描かれていました。バーダックと悟空、ベジータ王とベジータ、パラガスとブロリーの関係性は、それぞれが対比的に描かれており、また、対比的に描かれていたとはいえ、どれかの在り方が単純に一番いいということはなく、それぞれはそれぞれに良いところも悪いところもあって、色んな親子の関係性が、比較的並列的なものとして描かれていたのが良かったと思います。

 

 惑星ベジータフリーザに滅ぼす前に、バーダックに地球に逃された悟空は親に育てられた記憶があまりありません。それだけではなく、頭を打って性格も変わったらしいので、何も覚えていないようです。悟空の親に育てられた記憶は、父バーダックと母ギネからのものではなく孫悟飯おじいちゃんからのものです。悟空は実の親には育てられませんでしたが、のびのびと自由に育つことができました。

 ベジータは父であるベジータ王に多少過保護に育てられていたいようです。ベジータ王は、息子のベジータを脅かす可能性のあるブロリーを辺境の惑星に追放しました。子を思ってのことかもしれませんが、王という立場を利用して、他の家庭に干渉するのは良くないことです。ベジータは自分がサイヤ人の王子であることに誇りを感じています。一方で、父親であるベジータ王の死についてはあまり強い感情を見せたことがありません。

 これは親子の情の薄さと捉えることもできますが、一方で、上手い親子関係であったと解釈することもできます。過保護であるにも関わらず、子供が親に対して負い目を感じることがなく育ったということは、親から子に心を支配するタイプの押しつけがましさを発揮しなかったとも言えるからです。

 ベジータ王は、ベジータを自分の願いを叶えるための道具として扱わず、一人の人間として生きられるように、その周りの環境を構築するところに力を割いたようにも思えます。その結果、王子はいささか自由過ぎる(ワガママに)育ってしまったようですが。

 ブロリーとその親パラガスの関係性は、あまり良くないものであるように思います。パラガスにはブロリーに対する愛情は確かにあったと思われますが、一方で、自分の願いを叶えるための道具のように取り扱ってしまっている側面や、自分よりも明らかに強大な力を持つブロリーを制御するために、痛みを使ったりしてしまいます。

 それは西遊記孫悟空の頭にはめられた輪っかのようなものです。ドラゴンボール孫悟空が、輪っかによる制御を受けていないのに、ブロリーが受けているのはなんか可哀想さが増してしまいます。

 これはとても良くないことですが、そうでもしなければ自分より圧倒的に強大な力を持つブロリーをどうにもできなかったという部分には同情の余地はあります。

 また、ブロリーを助けるために辺境の星まで駆けつけたり、ブロリー側も父親の死に怒ったように、良くない部分はありつつも親子関係の互いの情も確かにあったのではないかと思います。

 

 話をスーパーヒーローに戻しますが、本作はピッコロと悟飯の2人が活躍する物語でした。悟空やベジータも話の中には登場はしますが、いつものように遅れて到着し、最後の戦いを担ってくれるわけではありません。これは原作をベースに考えると画期的な内容で、なぜなら原作では、結局最後は悟空が戦うことになりがちだったからです。数少ない例外が、セル編で、本作はセル編の展開になぞられている雰囲気もありました。

 さて、本作は、ブロリーでもそうであったように、過去の劇場公開作の要素を色々ピックアップして組み込んでいる内容でしたが、鳥山明が脚本を書いていながら、アニメオリジナルの内容も想起させる感じがあったのもおもしろかったです。アニメオリジナルであれば、悟空が不在のときに、残りのメンバーだけで敵を倒すケースも色々あったんですよね。

 

 本作のピッコロと悟飯は、その潜在能力を引き出すというような形でのパワーアップをします。これをご都合主義と捉えることもできますが、彼らにはそれだけの力がもともとあったと解釈することもできます。では、なぜこれまでそれが出てこなかったかというと、それは悟空がいたからではないでしょうか?

 いつも最後は悟空が決めてくれるからこそ、他の人たちは自分の能力を限界以上まで引き出す必要がある状況までにはならなかったと思えます。

 

 これは別に悟空が悪いわけではなく、悟空自身もこの状態を良くないと感じていたはずです。原作の人造人間編で、自分の死後、仲間たちや息子が人造人間に無残に殺されてしまうという未来を知ってしまった悟空は、これまで自分が担ってきた役割を、次の世代に譲ろうとする動きを見せていました。

 それはきっと、自分がいなくなってしまったあとのことを、どうしても考えてしまうようになったからではないかと思います。

 

 悟空は息子の悟飯なら、その役割を担えると考え、その潜在能力は自分を大きく上回ることも感じていました。しかし、その試みは、周囲からの反発を受けてしまいます。なぜなら、悟飯は悟飯であって、悟空ではなかったからです。悟飯には悟飯の特性と人生があります。なので、悟空が手渡した、人類を守るための戦いのしんがりの役目を、悟飯は簡単に受け取ることができませんでした。

 そこで怒ったのはピッコロです。悟空は悟飯のことを分かっていないことを指摘します。悟空と違い、戦うことそのものが好きなわけではない悟飯のことを、ピッコロは代弁しようとします。それはもしかすると、マジュニアと呼ばれたピッコロ自身が、先代のピッコロ大魔王のコピーとして、悟空を抹殺するという使命を帯びて生きてきたことと重なるかもしれません。

 卵から生まれたピッコロは、使命だけを抱いてたった一人で生きてきました。悟空を倒すことをその目的としていたはずですが、しかし、ピッコロはいつの頃からかその使命を口にすることがなくなります。それはベジータ戦以後のことです。そこまでの中で、ピッコロは悟飯との出会いによって、初めて自分に人と人として接してくれる存在を得て、自らの人生を歩むことができたように見えました。

 

 このように、親から、そのコピーとして使命を手渡されることの苦しみと、そこから親とは異なる一人の人間としての生き方を得ることの喜びをピッコロは誰よりも知っていると考えることができます。

 だからこそ、悟飯が、悟空の担ってきた役割をそのまま担わされようとしていることに反発心が出たのかもしれません。その後の悟飯の言葉を参考にすれば、ピッコロの言ったこともまた、悟飯の本心とも異なるようでした。

 

 「今 悟飯がなにを思っているかわかるか!? 怒りなんかじゃない!!なぜ おとうさんはボクがこんなに苦しんで死にそうなのに助けてくれないんだろう…」

 

 この言葉が悟飯の心情をピッコロなりに類推しただけのものではなく、ピッコロ自身の先代のピッコロ大魔王から使命だけを手渡され、たった一人で生きてきた心情が反映されていたとしたらと考えると、とても悲しいことだったんだという理解になります。

 そういうことを考えると、今悟飯とビーデルとパンの家族に囲まれて日々生活している今のピッコロさんの日常があることが、本当によかったなと思うんですよね。

 

 また、この辺を考えていくと悟空とピッコロの境遇は似ていて、お互いに親に直接育てられることがなく、使命を帯びて一人で生きることを求められました。ただし、悟空はおじいさん方の悟飯に拾われつつ、頭を打ったことで、幼少期の時点でその使命を忘れ、愛情を受けて育つことができました。   

 ピッコロも子供の方の悟飯との出会いによって同じように使命を忘れることができましたが、幼少期の数年の差や、それぞれの性格の問題か、その捉え方は大きく異なっており、セル編の最後でついにそこにあった差が爆発したのではないかと思うんですよね。

 悟空は、自分の息子だからといって悟飯がその役割を担う必要がないし、そこにも向き不向きがあるという考えになったように思います。それでも、悟空は自分が解決するのではなく今の世代で解決してほしいと、ブウ編でも立ち回りますが(子供の頃に読んでいたときには悟空が戦えばいいのに、なんでそうしないんだろう?と思っていました)、結局最後を決めるのは悟空でした。

 

 そんな悟空は、ブウにとどめをさすときに、「よくがんばった、たったひとりで」という言葉を残します。それはもしかすると、自分の役割を、ついに誰にも手渡すことが悟空の心情が反映されていたのかもしれません。最終回でブウの生まれ変わりのウーブを悟空が鍛えようとして終わるのも、そういった解釈ができます。たったひとりで戦っていたウーブなら、悟空の役割を担えるかもしれないと。

 このあたりは、僕が勝手に思ったことなので、実際そう描かれているのかは分かりませんが。

 

 とにかく、スーパーヒーローは、「悟空が来なくても世界がきっと大丈夫だ」という、原作漫画の中にあった苦しい状況を打破する内容なので、画期的だなと個人的に感じました。それは実は、アニメオリジナルの中では既に何度か描かれていて、そこにあった要素を拾うような物語であったことにも、勝手に意味を感じてしまいました。

 

 悟飯の見せた姿、ビーストは、悟空の後を追うようなものではなく、悟飯独自のものでした。親から子へ、必ずしも役割が継承されなくたっていいということと、自分の担う役割を適切に次代に引き継ぐことができないという苦悩についての、両方の答えが示されていたように思って、それがとても良かったなと思いました。

明日やろうと思ったら今やることにしている関連

 会社員仕事と漫画の仕事のスケジュールを同時に管理するようになって、ますますスケジュール管理の方法が上手くないと破綻してしまう、という気持ちになってきました。

 

 スケジュール管理において、今一番重要だと考えている行動指針は「明日やろうと思ったら今やる」です。自分の「明日やろう…」という先送りの気持ちを感じてしまったら、その罰として、今作業を始めないといけないという条件付け行動をしている感じです。

 

 なぜそういうことをしているかというと、「明日やろう」という気持ちの自分の中での本質は、「今やりたくない」だと感じているからです。「今やりたくない」という気持ちは、明日になっても「今やりたくない」のままだったりするので、結局明日になっても再び「明日やろう」と思ってしまうのではないでしょうか?

 その状態を見過ごしていると、何もしないままにすぐに数日経ってしまうことがあります。そしてそうなってしまったときに思うことは、数日前から少しずつでもやっておけばよかった!!!です。

 

 なので、たとえ線を一本引くだけで終わったとしても、今すぐに何かをやった方がいいと感じています。一旦始めてしまえば興が乗って、数コマ描けてしまうこともあります(描けないこともあります)。とにかく始めるきっかけの最大静止摩擦力みたいなものがとても大きいので、そこを乗り越える必要があり、今はそのきっかけを「明日やろう」と思った瞬間に設定するということにしている感じです。

 その結果、「くそ!明日やろうと思ってしまった!からには、1コマ描くか…」というような行動を日々しており、このままでは本当にやりたくないときには、明日やろうと最初から思うことすらないように自分を調整してしまうかもしれません。

 

 漫画の連載は、昨年1年かけて自分が1ヶ月でどれぐらい描けるかを確認しながら、ペースを決めたところがあるので、今のところそんなに無理もしていないのですが、しかしながら、その前提は「日々コツコツやっていくこと」だったりするので、なんとなく数日サボったりすると、とたんにスケジュールが厳しくなってしまいます。

 つまり、毎日ちょっとずつやるということができなければ破綻するので、どうにか毎日ちょっとずつやる方法を考えなければならないんですよね。

 

 僕が無限のやる気がある人間ならいいのですが、実際はあらゆることにやる気がなく、やる気をベースにしていたら何もしないので、やる気がない状態でも何かを作れるようにならないといけないという厄介な性質をしています。今やっている方法は割と良くて、おかけで作画のスケジュールも遅れずにやれているのですが、人と一緒にいるときもこのルールでやっているので、楽しそうに話していたかと思ったら、いきなり漫画を描き始めたりするという奇行をしてしまうことがあり、一応許されてはいると思いますが、客観的な気持ちで振り返ると、ヤバいやつだなと思ったりします。

 

 まあ、ヤバくても〆切までに描ければまずはいいので、淡々としたペースが確立するまでのしばらくは急に漫画を描き始めるヤバ人間として生活をやっていこうと思います。

お金を使わないことが良いことだと思っていた関連

 物心ついたころから、周囲の大人がお金がないお金がないという話をしていて、僕もずっとお金がないという状況の中で生きて行かなければならないという意識があり、「お金を使わなこと」って「良いこと」なんだと思っていました。

 

 例えば、学校で体育の選択の授業があったときに、柔道は柔道着を買わなければならなかったのですが、剣道は竹刀や防具は貸して貰えて、籠手の下につける布だけを買えばよかったので、剣道の方がお金がかからないなと思い、迷わず剣道を選びましたし、お金がかからない自分は良い子だろうと思っていたからです。

 

 これはウチの家族全体がそんな感じで、まだ小さかった頃の妹と出かけたときに、お店で何でも好きな物を買っていいよと言ったら、目を輝かせて色んな商品を見ていたものの、最終的に妹が僕に伝えてきたのは「もったいないから何も買わなくていい」ということでした。

 僕はそのとき、この子は自分がお金のかからない子であるということが、周囲の大人に対して一番良い子だとアピールできることなのだと感じているんだろうなと思いました。なぜなら、僕自身もそういう子だったからです。なので、環境の話だなと思いましたし、環境の話は閑居を変えればいいので、金がないなんてことを気にしなくていいように、僕がいっぱい金を稼いでやろうと思ったおぼえがあります。

 

 「お金を使わないことがより良い」という価値観については、働き始めて生活が安定してからも数年は引きずっていて、例えば喫茶店なんかにはなかなか入ることができませんでした。なぜなら、スーパーで買った缶コーヒーを道端で飲む方がお金を使わなくて済むからです。わざわざ何百円もするコーヒーを買うことに抵抗がありましたし、友達とファミレスに行くにしても、ロイヤルホストには行きたくない(高いから!)と思ったり、電車を使わずに何駅か歩くのも美徳だと思っていました。

 

 子供の頃は、お金のかかる遊びも嫌だったので、図書館で本を読んだり、ブックオフで立ち読みをしたりして、多くの時間を過ごしました。皆がボーリングやカラオケに行くと言ったときも、金がかかるなら行かないと言ってしまったり、そんな僕を見かねて、皆がお金を出してくれたりしていました。実際、当時の僕はお小遣いというものを親から貰ったことがなく、お年玉の切り崩しだけで生活していたので、おいそれとお金を使えなかったという事情もあります。

 大学生のときになると独り暮らしを始め、仕送りも貰っていましたが、それを使わずに生活することに拘ったりしていて、大学院の学費も自分で貯めたお金から出したりして、貰った仕送りは、その後、妹の学費に使えばいいと返したりしていました。それについてもまだ、自分は金がかからない良い息子だろうと思っていたと思います。

 

 当時のことを思い出すと、お金というのは限りある資源で、それを使わずに生活をすることは、なんというかエコ?なことだろうと思っていました。少しお金を払えばいいことも、大きな手間をかけてよりお金を払わないで済む方法を選んだりしていて、数十円の価格差のために、遠くのディスカウントストアまで自転車を走らせていたと思います。そういうのは今もあるので悪くはありませんが、それが唯一の良いことだと思っていたことが囚われていたなと思います。

 限りある資源というのは、実際個人のレベルではそうで、なぜなら、お金を得られる手段というものが限られていたからです。特に当時の自分の立場と能力で得られるお金の量には限界があり、それをより使わずに生きるということに意味がありました。

 

 僕が生きるために必要なお金には困らないという状態になってから十年以上が経ちます。仕事でもお金の稼ぎ方や使い方に関することにも関わることが増え、その流れの中で、お金というものの捉え方は随分変わってきました。

 今はお金をより使わないことが常に美徳だとは感じていません。それは、お金というものの捉え方が変わったからです。今の認識では、お金というのは社会を動かすための手段と感じています。

 

 つまり、お金というのは見ず知らずの大量の人たちが協力して社会を運営していくための歯車や潤滑油であって、「お金を使わない」ということは「他人と適切な協力をしない」となる場合が多いのだと捉えています。

 社会にはせっかく特性の異なる多様な人がいるのに、お金を使うことをしぶって、つまり、他人の協力を得ずに何でも自分でやろうとしたり、協力をして貰えた他人に適切な報酬を払わないというようなことをすることが、実際は良いことではなく、社会全体の流れを停滞させてしまうことなのではないか?という印象を持つようになりました。

 

 なので、お金の使い方としては、その使い方をすることで、自分にできないことを他人にしてもらえているか?や、自分を取り巻く社会の中でお金を媒介にして適切な役割分担ができているか?というところに視点を持ってくるように今はなっています。

 一方で、この視点で見て行くと、「お金は使わない」か必ずしも「非協力」とも限らないことにも気づきます。適切な役割分担と協力ができている環境であれば、そこで別にわざわざお金を使う必要もないからです。メンバーがそれぞれバランスよく材料を持ち寄った鍋会では、終了後に精算が必要ない、みたいな話です。

 

 しかし、とりわけ面識のない人同士がたくさん集まる場所では、そのような環境を維持することは難しく、お金を払わずに鍋だけ食べて帰るような人が出てきてしまいます。なので、特に密な人間関係がないところでは、お金が大事なんだろうなと思います。参加費を払うことさえすれば、相手との個別の人間関係がなくとも役割分担ができるので、知らない人たちとの鍋会が成立します。

 なので、近年の僕は、お金を使う使わないについて、このような感じに、それによって知らない人同士が自分の目的に対して適切な役割分担ができているか?という視点で見ていて、役割分担のバランスが悪ければお金の使い方を変えて補正した方がいいですし、お金を使うことでその補正が上手くできないなら払う意味がないなと思っています。

 

 このように、自分が何に対してお金を払っていて、それによって払った相手の他人からどんな効果を得たいかというところを気にするようになりました。なので、お金を使わないことこそが良いことだとは、闇雲に思わなくなったと思います。

 

 ただし、この辺の考え方は、僕が生きることそのもののお金に困らなくなったからそう考えているだけで、実際にお金に困っていれば、とにかくお金を使い過ぎると生きられないんだから、やっぱり、できるだけ使わないことこそが善となるのも仕方がないのかもしれません。事実、僕は働き始めて生活が安定するまで、そうなることができませんでした。

 なので、人の状況による話ですし、これまで書いてきたこととしては「お金を使わないことを善と考えている人は社会の効率を落としている」なんて言いたいわけでもないんですよね。

 

 ただ、お金というのは人と人が協力して社会をやっていくために便宜的に存在しているのであって、その目的がどれだけ達成されているのか?という目線で見て行くべきことなのではないかと思っています。お金を使うこと使わないこと、それそのものには単純な善悪はなく、それによって社会の役割分担が適切に行われているかどうかを見る必要があるだろうなという話です。

 お金がないことだって、お金がないから選択肢が狭まっていることは、社会の構成員が協力し合うという視点からすれば、そもそも良くない状況なんだと思います。お金を媒介にして協力し合うという選択肢がそもそも消されているからです。

 

 この観点に置いて、例えば僕は個人的にベーシックインカムなどの施策に対して、半分好意的で半分懐疑的なのですが、好意的な部分は「お金によって他人に協力を募るための原資が全ての人にまず存在する」という協力が進みやすくなるかもというところで、懐疑的な部分は「お金によって、必死で節約すれば働かなくて済む」というように、より他人と協力をしないで済む方向を選ぼうとしている考えも目につくというところです。

 

 社会の構成員が協力し合う量が減れば減るほど、社会を回す効率は落ちて行くのではないかと思っていて(これもそう思い込んでいるだけで、別段自明なことではないですが…)、僕がそういう視点でお金の流れを見ているという話です。

 

 今の僕は特に地縁血縁から離れた地域で一人で暮らしているので、生活における人間関係というものが全然ありません。しかし、普通に生活ができているのは、こんな自分にも関わってくれる人がいるからだと思います。

 その媒介となるのがお金であって、お金があれば、自分以外の誰かが自分の代わりにご飯を作ってくれたり、物を届けてくれたり、商品を作って売ってくれたりします。もちろん、僕も仕事をする中で誰かに何かを提供しています。そのように、見ず知らずの人たちが協力し合うひとつの循環が、出来ているということが社会の良いところだなと思っています。

 

 お金を稼ぐこととお金を使うことは、その循環を止めないためにとても重要なことで、なので、昔の自分の、とにかくお金を使わないことが得であるという価値観は、大きな目で見れば色んな視点が欠けていたなと思っているという話でした。

 なおかつ、金が足りなければ、使わないことを美徳として捉えても、仕方ないよなともやっぱり思います。どうにかして豊かになるしかない感じがしますね。

オタク同士の念能力バトル関連

 昨日、仕事先で色々な企画を考える会が催され、その考えをまとめるために、ホワイトボードを使って、あれこれ図や絵や字を描きながら、どういうことを考えているのかの共有や議論を一日やっていたのですが、そのとき初対面の仕事先の女性(デザイナーではなく技術者)の描く絵が、「これはやっているな…!」と感じる絵だったので、この人、ひょっとして同人活動をしているのではないか?という疑いが出てきました。

 

 もちろん相手に確認はしていないので結局正解は分からないのですが、その絵は完全にやっている人の絵で、つまり、漫画の絵は情報を伝えるために特化したある種の象形文字みたいなものなので、その文字を書けるということは、その文字が通じる文化圏でコミュニケーションを繰り返している可能性が高く、「絵を描くオタク」の可能性が高いなと感じられたということです。

 

 僕は、漫画を描いていることを仕事関係の人に一切言っていないので、特に仕事先には知られたくねえ…という気持ちが強く(本業以外を頑張っていることを知られて良いことがない)、その後、自分の説明用の絵からあえて漫画的記号を抜く意識で描いたりしました。ただし、そういうものは隠そうとしてもにじみ出るものなので、向こうにも気づかれてしまっていたのかもしれません。

 

 ハンターハンターの念能力者同士の戦いは、まずは相手を認識した時点で「凝」を使うことが基本です。凝はオーラを一部に集中させる技法ですが、目に集中させたオーラは相手のオーラの形を見ることができ、それによって様々な状況判断が可能になります。

 何が言いたいかというと、オタクのオタクを見分ける力もそれに近く、そのときの僕も、向こうの人の絵を見た瞬間に警戒して凝を行い、向こうの色々描いてくれる図示や絵の中から、明確にオタクがオタクに何かを伝えるときに使われる記号をいくつも見つけたので、この人は同人をやっているオタクかもしれない…と、即座に対策をすることができました。

 

 その次に僕がやったのは「絶」です。絶は、自分の出すオーラをゼロにすることで、向こうに察せられないように隠れる技術です。僕は自分が漫画を描いているオタクであることを隠したいので、そのオーラを隠し、向こうにできるだけ察せられないようにしました。

 しかし、オーラを急に隠すと、それはそれで警戒されますし、向こうは、円(自分の周囲にオーラを球状に広げ、その範囲に入ったものを知覚する技術)を使って、常に認識の範囲内のオタクオーラを監視しているかもしれません。このようにオタクの集まる場所以外でオタク同士が偶然出会ってしまった場合、オタクでない人には見えない様々な念能力バトルが発生していることがあります。

 

 オタクかどうかの話で言えば、僕は見た目が「まあ、コイツはオタクだろうな」という感じなので、存在しているだけで常に、自分がオタクであることを世間にメッセージとして発してしまっているみたいなところはあります。そう、人間は存在しているだけで、その見た目から様々なメッセージを発しており、髪型や服装、アクセサリーなどによって、言葉を発さずとも、その人が属している文化圏が露わになります。

 なので、自分が見た目によってどのようなメッセージを発してしまっているかについてはある程度自覚的になった方がよく、ただし、それによって周囲にどう思われたいかを見た目をコントロールすることは、行き過ぎれば大変な気持ちになることでもあります。

 

 メイクやファッションの流行のどこに合わせているかによって、どう思われるかが変わってきますし、それによって仲間だと思われたり、敵だと思われたりすることもあります。そこで、相手にどう思われたいかのコントロールのために、自分が好きでもないファッションをすることになると、それはそれで苦しみがあるかもしれません。

 さりとて、自分がしたいような服装だけをしていると、それが周囲と合わせられない人みたいに思われたりもしますし、人は様々なバランスの中で何かを選び取っています。

 特に男のオタクの場合は、あまり見た目の発するメッセージに気を遣わない人も多く、気を遣わない場合は、「自分は気を遣わない人間であるというメッセージ」を周囲に発しているので、この人は見た目によって自分が発するメッセージに無頓着な人である、というメッセージを発していることになります(もちろんオシャレが大好きな男オタクもいると思いますが)。

 そういうところから無頓着系のオタクであることは周囲に瞬時に伝わり、僕が「自分はオタクです」と言ったとしても、「だろうね…」で終わることだと思います。

 

 僕が今警戒しているのは、「自分が漫画活動をしていること」と「描いている漫画に到達されること」なので、オタクであることそのものは感じられてしまっても問題ありません。

 

 さて、女性のオタクの場合、その見た目から「オタクである」というメッセージを隠すこと(絶)に長けた人も沢山います。であるからこそ、女性同士の方が上記のさぐり合うようなオタク念能力バトルが起きやすかったりするのかもなと思いました。

 以前にも、ママ友が実はオタクなのではないか?ということを疑いつつも、その確証がないので、リサーチを繰り返している人の話を聞いたことがあります。

 

 その場合、ハンターハンターで言うと、念能力の凝を使う訓練の光景思い出されます。ビスケは、ゴンとキルアの2人を鍛えるにあたって、自分のオーラを数字の形にして、即座にそれを読めるかのテストを仕掛けてきました。常に凝をおこたっていなければ気づけるはずですが、凝を使えない人には決して気づくことができないメッセージです。

 

 相手がオタクかの探りをいれるときには、これを同じことをする人もいて、つまり、オタクならば分かる符丁を会話の中に入れたりして、向こうがそれに反応するかどうかの様子を見たりします。相手がオタク念能力を使える相手であれば、それに反応してしまったり、反応を押し殺しても、何かしらのオーラの揺らぎを感じて気づけるかもしれません。

 

 オタクの集まる場所以外のところでオタクの可能性がある人を見つけたとき、その人とオタクとして開示し合いたい人と、絶対気づかれてはならない(オタク活動とそれ以外の活動を切り分けておきたい)人の2種類がいて、どちらの場合も、相手がオタクであるかどうかに先に気づくことが重要なのではないかと思います。

 開示目的の場合は、オーラを数字の形にして試してみたりするでしょうが、それをやってしまうと自分がオタク念能力を使うことがバレてしまうので、隠したい人の場合は、可能性を感じた瞬間からよどみなく絶に移行する必要があります。

 今回の僕は後者だったという話でした。

 

 このように、オタク同士が街で出会った場合、そういったオタク念能力バトルが発生していることがあります。どうですか?皆さんはバトルをやっていますか?

 合言葉は「凝をおこたるなよ」です。

来てるかも!?中年新人漫画家の時代関連

 漫画家に限らず、何かの志望者は若い方がいいみたいな風潮が世間的にはある気がします。そこには、志望する側からの「いい歳して何かを始めるのは恥ずかしい(いい年して拙い何かを晒したくない)」みたいな意識もあるかもしれません。しかし昨今、漫画に関しては、中年や中高年になって初めて漫画の仕事を始める新人漫画家が結構いるのが目に見えてきたようにも思います。

 中年新人の時代です。

 

 僕自身の今の状況がその一例で、34歳のときに何となくコミティアで初同人誌を出し、37歳で出していた同人誌をもとにちばてつや賞を受賞、39歳で原稿料を貰っての読み切り漫画の初仕事を行い、40歳で会社員を継続したままでコミックビームで連載デビューしました。

 同人活動を始めたときの僕は、「自分にも漫画を描けたらいいな」と思っていたぐらいで、お金を貰って商業誌に漫画を描かせて貰える機会が自分に来るなんて思ってもいなかったことですが、たまたま色んな人に声をかけて貰えたおかげで、うっかり運よくこのような道に繋がりました。もちろん新人ですから、この先も続けられるかどうかは全然未知数のスタートラインに立ったばかりです。

 

 僕の漫画活動は、昔の世間的な雰囲気からすれば、漫画家志望者が漫画家になることをもう諦めるぐらいのタイミングでようやくスタートしており、「何かを本格的に始めるのに遅いということはない」という事例として使えるな、と自分自身で思っています(いいでしょ?)。

 一方で、じゃあ、今の僕は特異な事例なのかというとそうでもないように感じていて、ここしばらくのビッグコミックスペリオールには60代の新人の漫画が載っていたり、この前は別の50代の新人の漫画が載っていました。他にもいくつもの30代後半や40代になってから漫画家としての歩みを始めた人の話も目にしています。

 なので、別に自分程度の年齢は今の状況ではさほど特別と言い張れるようなことでもないなという認識もあります。

 

 実際、色んな編集部と話をさせて貰ったときに、「もういい歳なので…」という話をすると「年齢そのものが何かの障害になることはない(むしろ年齢以外のハードルの方がずっと大きい)」と毎回言われていて、そうなんだ…中年がチャレンジするには良い時代だな…と思いました。そんな時代です。

 

 僕のケースについては、「もっと早くに始められていれば良かったんじゃないの?」と言われることもあるのですが、このタイミングでなければできなかったなとも思っていて、その理由を端的に言えばテクノロジーの進歩が、中年新人が漫画に取り組む上でのハードルを劇的に下げてくれているということがあるからです。

 iPadとClip Studioがあることで、僕はなんとか漫画仕事をすることができていて、それがなければきっと、やりたいなと思ったとしても、具体的なアクションに行く前にハードルの高さで何もできなかっただろうなと思います。

 

 iPadとClip Studioの組み合わせの素晴らしいところは、いつでもどこでもできること、デジタルなので何度でもやり直しができ、描いたあとの絵を加工もできること、パースに合わせて自由に設定できる定規など、デジタルならではの絵を描く上での便利な機能があること、色んな素材を簡単に入手加工できることなどです。言葉にすればそれだけのことですが、それだけのことがとても重要です。

 やりたいことがある場合、やりたい気持ちを積み増して突破するのもいいですが、ハードルを下げることで、やりたい気持ちを無限湧きさせなくても淡々とやれるようにできるといいんじゃないかと思うからです。特に中年になってくると、やる気がそもそも出てきませんし、そんな曖昧なものを手がかりにしていては何にもできません。

 

 やる気に欠ける中年が何かを作る上では、お金を使って下げられるハードルはいくらでも下げた方がいいと思います。それが色んなやり方でできるようになってきたのが今の時代のいいところだと思うんですよね。

 

 同人活動も、ネットがあれば、データをアップロードするだけで簡単に印刷して貰えます。これが印刷所と事前に色々話をしないといけなければ、よく知らない人と話すことで疲弊しやすい僕はできなかったと思うので、デバイスやソフトウェアのテクノロジーの進歩、高速なネットの普及と、同人活動が簡単にできる印刷所が存在してくれていることなど、やろうと思えばすぐにでもできる環境が、今めちゃくちゃ良い感じにあってよかったなと思います。

 やりたいと思う気持ちがわずかにでもあるなら、このような高速道路が既に整備されているので、それらを使えば最速で何かを作れるはずです。

 

 僕がこういったことを奨励するとかしないとか関係なく、事実として「漫画を描いて発表する」ということのハードルは年々どんどん下がっているので、当然の現象として、中年以上になってからちょっくら漫画でも描いてみるかと描き始める人は今後どんどん増えてくるんじゃないかと思っていて、それに比例して中年になってから描き始めた漫画でプロになる人も増えそうだと思っています。

 

 今は漫画を描くにはとても良い時代になりました。中年だけどやってみたいかも!と思う人は、とりあえずすぐに始めてみてもいいかもしれません。

 

 ただ、最初から反応を得ようとすると、反応がすぐには得られない(運の要素も大きいので)という報酬の低さにくじけてしまうかもしれません。なのでまずは、自分が感じる面白いものって何だろう?と考えながら、それを上手く再現する方法を試行錯誤をしてみるのがいいんじゃないかと思っています。

 少なくとも僕はそうしていて、面白いとはどういうことだろう?と考えて、それに対して自分なりに仮説を立て、試してみてるところが面白いなと思ってやっています。それが他の人にとっても面白いかなんて分かりませんが、まずは自分の手ごたえを感じられれば達成感がありますし、達成感があれば続けられます。

 続けて行けば昨日の自分と比較して、だんだんと上手くなります。僕もこの前3年ちょっと前の自分の原稿を見て、下手くそだなと思いましたが、下手くそだなと思えるようになったのは、つまりそのときよりは上手くなったということだと思います。あと、当時も下手くそなりに、何かを一生懸命描こうとしているなとも思って、それもよかったですね。

 

 中年になってから漫画を描いてみるのはとてもオススメだと思います。なんでかというと、僕が今それを面白いと思っているからです。