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お金を使わないことが良いことだと思っていた関連

 物心ついたころから、周囲の大人がお金がないお金がないという話をしていて、僕もずっとお金がないという状況の中で生きて行かなければならないという意識があり、「お金を使わなこと」って「良いこと」なんだと思っていました。

 

 例えば、学校で体育の選択の授業があったときに、柔道は柔道着を買わなければならなかったのですが、剣道は竹刀や防具は貸して貰えて、籠手の下につける布だけを買えばよかったので、剣道の方がお金がかからないなと思い、迷わず剣道を選びましたし、お金がかからない自分は良い子だろうと思っていたからです。

 

 これはウチの家族全体がそんな感じで、まだ小さかった頃の妹と出かけたときに、お店で何でも好きな物を買っていいよと言ったら、目を輝かせて色んな商品を見ていたものの、最終的に妹が僕に伝えてきたのは「もったいないから何も買わなくていい」ということでした。

 僕はそのとき、この子は自分がお金のかからない子であるということが、周囲の大人に対して一番良い子だとアピールできることなのだと感じているんだろうなと思いました。なぜなら、僕自身もそういう子だったからです。なので、環境の話だなと思いましたし、環境の話は閑居を変えればいいので、金がないなんてことを気にしなくていいように、僕がいっぱい金を稼いでやろうと思ったおぼえがあります。

 

 「お金を使わないことがより良い」という価値観については、働き始めて生活が安定してからも数年は引きずっていて、例えば喫茶店なんかにはなかなか入ることができませんでした。なぜなら、スーパーで買った缶コーヒーを道端で飲む方がお金を使わなくて済むからです。わざわざ何百円もするコーヒーを買うことに抵抗がありましたし、友達とファミレスに行くにしても、ロイヤルホストには行きたくない(高いから!)と思ったり、電車を使わずに何駅か歩くのも美徳だと思っていました。

 

 子供の頃は、お金のかかる遊びも嫌だったので、図書館で本を読んだり、ブックオフで立ち読みをしたりして、多くの時間を過ごしました。皆がボーリングやカラオケに行くと言ったときも、金がかかるなら行かないと言ってしまったり、そんな僕を見かねて、皆がお金を出してくれたりしていました。実際、当時の僕はお小遣いというものを親から貰ったことがなく、お年玉の切り崩しだけで生活していたので、おいそれとお金を使えなかったという事情もあります。

 大学生のときになると独り暮らしを始め、仕送りも貰っていましたが、それを使わずに生活することに拘ったりしていて、大学院の学費も自分で貯めたお金から出したりして、貰った仕送りは、その後、妹の学費に使えばいいと返したりしていました。それについてもまだ、自分は金がかからない良い息子だろうと思っていたと思います。

 

 当時のことを思い出すと、お金というのは限りある資源で、それを使わずに生活をすることは、なんというかエコ?なことだろうと思っていました。少しお金を払えばいいことも、大きな手間をかけてよりお金を払わないで済む方法を選んだりしていて、数十円の価格差のために、遠くのディスカウントストアまで自転車を走らせていたと思います。そういうのは今もあるので悪くはありませんが、それが唯一の良いことだと思っていたことが囚われていたなと思います。

 限りある資源というのは、実際個人のレベルではそうで、なぜなら、お金を得られる手段というものが限られていたからです。特に当時の自分の立場と能力で得られるお金の量には限界があり、それをより使わずに生きるということに意味がありました。

 

 僕が生きるために必要なお金には困らないという状態になってから十年以上が経ちます。仕事でもお金の稼ぎ方や使い方に関することにも関わることが増え、その流れの中で、お金というものの捉え方は随分変わってきました。

 今はお金をより使わないことが常に美徳だとは感じていません。それは、お金というものの捉え方が変わったからです。今の認識では、お金というのは社会を動かすための手段と感じています。

 

 つまり、お金というのは見ず知らずの大量の人たちが協力して社会を運営していくための歯車や潤滑油であって、「お金を使わない」ということは「他人と適切な協力をしない」となる場合が多いのだと捉えています。

 社会にはせっかく特性の異なる多様な人がいるのに、お金を使うことをしぶって、つまり、他人の協力を得ずに何でも自分でやろうとしたり、協力をして貰えた他人に適切な報酬を払わないというようなことをすることが、実際は良いことではなく、社会全体の流れを停滞させてしまうことなのではないか?という印象を持つようになりました。

 

 なので、お金の使い方としては、その使い方をすることで、自分にできないことを他人にしてもらえているか?や、自分を取り巻く社会の中でお金を媒介にして適切な役割分担ができているか?というところに視点を持ってくるように今はなっています。

 一方で、この視点で見て行くと、「お金は使わない」か必ずしも「非協力」とも限らないことにも気づきます。適切な役割分担と協力ができている環境であれば、そこで別にわざわざお金を使う必要もないからです。メンバーがそれぞれバランスよく材料を持ち寄った鍋会では、終了後に精算が必要ない、みたいな話です。

 

 しかし、とりわけ面識のない人同士がたくさん集まる場所では、そのような環境を維持することは難しく、お金を払わずに鍋だけ食べて帰るような人が出てきてしまいます。なので、特に密な人間関係がないところでは、お金が大事なんだろうなと思います。参加費を払うことさえすれば、相手との個別の人間関係がなくとも役割分担ができるので、知らない人たちとの鍋会が成立します。

 なので、近年の僕は、お金を使う使わないについて、このような感じに、それによって知らない人同士が自分の目的に対して適切な役割分担ができているか?という視点で見ていて、役割分担のバランスが悪ければお金の使い方を変えて補正した方がいいですし、お金を使うことでその補正が上手くできないなら払う意味がないなと思っています。

 

 このように、自分が何に対してお金を払っていて、それによって払った相手の他人からどんな効果を得たいかというところを気にするようになりました。なので、お金を使わないことこそが良いことだとは、闇雲に思わなくなったと思います。

 

 ただし、この辺の考え方は、僕が生きることそのもののお金に困らなくなったからそう考えているだけで、実際にお金に困っていれば、とにかくお金を使い過ぎると生きられないんだから、やっぱり、できるだけ使わないことこそが善となるのも仕方がないのかもしれません。事実、僕は働き始めて生活が安定するまで、そうなることができませんでした。

 なので、人の状況による話ですし、これまで書いてきたこととしては「お金を使わないことを善と考えている人は社会の効率を落としている」なんて言いたいわけでもないんですよね。

 

 ただ、お金というのは人と人が協力して社会をやっていくために便宜的に存在しているのであって、その目的がどれだけ達成されているのか?という目線で見て行くべきことなのではないかと思っています。お金を使うこと使わないこと、それそのものには単純な善悪はなく、それによって社会の役割分担が適切に行われているかどうかを見る必要があるだろうなという話です。

 お金がないことだって、お金がないから選択肢が狭まっていることは、社会の構成員が協力し合うという視点からすれば、そもそも良くない状況なんだと思います。お金を媒介にして協力し合うという選択肢がそもそも消されているからです。

 

 この観点に置いて、例えば僕は個人的にベーシックインカムなどの施策に対して、半分好意的で半分懐疑的なのですが、好意的な部分は「お金によって他人に協力を募るための原資が全ての人にまず存在する」という協力が進みやすくなるかもというところで、懐疑的な部分は「お金によって、必死で節約すれば働かなくて済む」というように、より他人と協力をしないで済む方向を選ぼうとしている考えも目につくというところです。

 

 社会の構成員が協力し合う量が減れば減るほど、社会を回す効率は落ちて行くのではないかと思っていて(これもそう思い込んでいるだけで、別段自明なことではないですが…)、僕がそういう視点でお金の流れを見ているという話です。

 

 今の僕は特に地縁血縁から離れた地域で一人で暮らしているので、生活における人間関係というものが全然ありません。しかし、普通に生活ができているのは、こんな自分にも関わってくれる人がいるからだと思います。

 その媒介となるのがお金であって、お金があれば、自分以外の誰かが自分の代わりにご飯を作ってくれたり、物を届けてくれたり、商品を作って売ってくれたりします。もちろん、僕も仕事をする中で誰かに何かを提供しています。そのように、見ず知らずの人たちが協力し合うひとつの循環が、出来ているということが社会の良いところだなと思っています。

 

 お金を稼ぐこととお金を使うことは、その循環を止めないためにとても重要なことで、なので、昔の自分の、とにかくお金を使わないことが得であるという価値観は、大きな目で見れば色んな視点が欠けていたなと思っているという話でした。

 なおかつ、金が足りなければ、使わないことを美徳として捉えても、仕方ないよなともやっぱり思います。どうにかして豊かになるしかない感じがしますね。