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「龍が如く7」の会社経営ゲームをやってて感じたこと関連

 龍が如く7が出ましたね!

 ここのところ仕事も立て込んでいるくせに同人誌も作っていて、ゲームをやっていられる場合じゃないのですが、なぜだかもう30時間近く遊んでいて、いったいどこにそんな時間が?自分はいったい何を犠牲にして?という疑問が湧いてきますし、順調に仕事も同人誌の進捗も悪く、睡眠時間も削れています。ゲームは体に悪い可能性があります。でも、面白いんだ…。

 

 さて、今回の龍が如く7は従来のアクションゲームからRPGへの大胆な方向転換をしたゲームです。ではありますが、いつものようにミニゲーム集でもあり、街から街へと旅をすることがない代わりに、街の中にある様々な場所に、様々な人がいて、そこに様々な遊びが存在しています。

 

 その中のひとつに会社経営ゲームがあります。

 

 これは潰れかけた煎餅屋さんを立て直すために主人公の春日一番が社長に就任し、経営を立て直すと同時に、新たな物件も買収し、人を雇って割り当てて、お金を儲けていくゲームです。このゲームは、中間目標を達成してひと段落するまで辞めどきがなく、また、役員報酬によってお金を儲けやすいゲームなので、優先的に進めています。

 そして、このゲーム、遊んでいて色んなことを思うんですよね。

 

 「マネーの拳」という漫画があります。元ボクサーが会社を作る漫画なんですが、作中で会社とは何ですか?と聞かれた主人公が「人を雇うことだ」と答える場面がありました。僕はこの答えが好きなので、そうだよなあ、会社とは人を雇うことだよなあと思います。

 

 さて、経営ゲームはそんなに難しいゲームではありません。要は収入より支出を減らせばいいので、ちょっと数字を確認して調整するだけで簡単に儲かっていきます。

 買収した店舗には成長性があって、収益性アップにお金をかけると代わりに要求されるリソース(商品力、サービス力、知名度)も増えます。店舗ごとの各リソースにも成長性があるのですが、マックスまで育てても最高の収益性で要求される量には足りません。そこを補填して辻褄を合わせるのが人の能力値です。人間にも成長性があり、それは仕事を通じた自然な成長と、お金をかけて強制的に成長せることもできます。

 このゲームは、お金を基本のリソースとして、人と物にそれぞれ投資して成長させるとともに、組み合わせて安定的な収益源を確保することで簡単に進めることができます。

 

 このゲームの重要なポイントは金主との約束と、株主総会です。金主との約束は、ある時期までに株価ランキングの何位に食い込むかというものです。それを最初にお金を貸してもらうときに約束してしまいました。そして、株主総会はチャンスです。通常の経営ではじわじわとしか上下しない株価を、株主たちに効果的に対応することで一気に上げることが可能になります。

 株主総会のためには基本となる業績を上げておくと有利ですから、資本と従業員と売り上げの3つの評価軸に気を配らなければなりません。投資をし過ぎて資本を食いつぶしてしまうと、悪い評価の中で株主総会に挑まなければなりませんし、従業員の不満を解消したり(お金を使えば黙ります)、売り上げも達成しなければなりません。

 とはいえ、こちらに株主対応用の能力に長けた人員をちゃんと用意しておき、株主からの不満に対して適切に「人」「物」「金」の3すくみの属性を配慮して対応していけば、ある程度業績が悪くても株主総会を成功させることができます。

 

 ゲームの難度をもっと難しくすることもできたのでしょうが、今のところ普通に遊んでいるだけでは結構ぬるいバランスになっていると思います。

 

 さて、テンポよく成功体験を積めて、新しい課題に取り組んでいれば、僕の会社は気が付くと株価ランキング10位以内になっていて、本社も一等地のビルに移転しましたし、毎期数億円のお金が入ってくる構造を構築することができました。もうちょっと頑張れば1位にまで行けそうなんですが、その前に、ゲームを遊んでいる僕の心について色々気づきが得られてしまったので、それについて書きます。

 そう、この文章の本題はここからです。

 

 ゲームを進めていくうちに気が付くと、僕は人間を数字としか見なくなっているんですよ。

 

 このゲームでは従業員を街中でスカウトすることができます。様々な事情を抱えた人を条件をクリアするとスカウトすることができ、経営ゲームの中で従業員として利用することができるのですが、ここで、それぞれの従業員には人生があることが分かります。

 例えば、今はホームレスになってしまったが、僕のやっている会社に就職することで、また社会との接点を取り戻していきたいなどの気持ちを抱えた従業員がいたりします。序盤でカードとして手に入る彼らは、レア度が低く、能力値も低いという事情があります。

 だから、会社が拡大していくにあたって、彼らの能力では店舗のリソースを補填するには能力不足であることが分かっていくわけです。1店舗に割り当てられる従業員数は3人までなので、運用できる店舗数にも上限があり、人をどんどん雇える状況になると、彼らに割り当てられる仕事がなくなっていきます。

 そして、収入より支出を抑えておけばOKというゲームでは、彼らの存在は意味なく支出を増やす負債でしかないかのように見えるようになっていくのです。彼らはそれぞれ人生の事情を抱えて働いているのにもかかわらず!!

 

 このゲームの良いところで、ある意味悪いところは、ゲームの最初のチュートリアルで最初に練習としてやらされるのが「解雇」であるところです。初期のどう考えても収入より支出が大きい赤字店舗では、人員整理をすることが簡単な収益化に繋がります。初期は収入も少ないですから、一人雇うか雇わないかが命取りなのです。

 そういう状況にしておいて、ゲームはまずプレイヤーである僕たちに練習をさせるわけです。「ほら、解雇すれば利益が上がるようになったでしょ?」と囁きかけるのです。解雇による利益増という成功体験をまず積まされます。

 

 ゲームの序盤を支えてくれた人たちが、いつの間にか戦力外になっており、その過程で成長のためにそこそこ給料も高くなっており、ただ支出を増やすだけの存在として認識してしまうということが発生します。その先にある合理的な結論は彼らを解雇するということです。そして、僕はもはや気軽にそれをしてしまっています。なぜならそれが目的に対して合理的だからです。

 

 このゲームには解雇制限がないということから、ノーリスクで人を解雇することができます。そして、また雇いたくなったらまた同じ人を雇うこともできることで、罪悪感も減らされます。

 経営という数字を達成するゲームをしていると、個別の人を見ることをだんだんと止めていき、その人がどの数字を達成できるかということしか見なくなります。また、だんだん面倒くさくなってくると、まずは人のレア度を確認し、レア度が低ければ、そもそも能力も確認しないなどということまで発生します。採用も雑になります。

 

 金主からの催促がなければ、のんびり利益を上げて段々と株価を上げてもいいじゃないかと思う可能性もありますが、どうしてもある時期までに株価を上げないといけないとしたら、そうも言っていられません。収益性の低い店舗はすぐに閉鎖し、新しくて大きな店舗を買収してそこにレア度の高い従業員を配属させ、一定時間に生み出す利益をとにかく最大化することに注力します。

 地道なことをやるのではなく、いかにマイナス条件を誤魔化して株主総会を乗り切り、その結果株価を上げるかにばかり興味を持つようになります。

 

 そうやって、いつの間にかステレオタイプな「経営者」になっている自分がそこにいるわけです。自分が自然とそうなってしまったと気づくときに、ああ、面白いなと思うわけです。

 

 会社とは「人を雇うこと」だという言葉に共感を得ていました。しかしながら、ここでいう「人」が「今利益を生み出すのに役に立つ人」の略であるということにも気づいてしまうからです。

 

 こういうことを思いながら遊んでいると、気まずいことが起こりました。

 ゲームの本編ストーリーで、ずっと一緒にやってきた仲間をリスクマネジメントと称して簡単に切り捨てている人が出てくるのです。それに対して主人公の春日一番は、なんでそんなことができるんだ?と憤るわけですが、一方で僕が操作する春日一番は、冷徹な経営者として、かつて一緒に会社を経営した仲間たちを「利益にならないから」という理由だけでバンバン解雇しまくっていて、こいつ、気が狂っとるんか?と思ったりしました。

 しかし、春日一番は悪くない!彼の気を狂わせたのは僕の遊び方だからです。

 

 でも、そういうゲーム設計にしているのは意図的じゃないんですか??

 

 必達することを求められる目標は、そのために生じる犠牲の存在を軽くします。一度やってしまったことを再びやることは、随分と気が楽になります。だから、誰かを何かに引きずり込みたい人は、まず一度体験をさせようとします。表面的に不快なリアクションの無いことは、その裏に実はどれだけの悲しみがあったとしても気になりにくくなります。あらゆる合理性は、大切な非合理を粗雑に扱うことの言い訳として機能します。

 誰かが何かをするのは全てお膳立てされた末のことで、人の自由意志の及ぶ範囲なんてとても狭いのかもしれません。でも、そうやって仕方ないで回っていることも多い世の中ですよ。そして、このゲームの舞台である伊勢佐木異人町は、そんな仕方ないの中で傷ついて生きる人間のるつぼです。

 

 世の中がそうであるということを考えるとき、様々な立場で生きる人々の視点がなければ、誰かの人間性の問題としての理解をしてしまうのかもしれません。でも、それがそう強いられる環境の問題であったとしたならば、その誰かの人間性を否定したとしても、後釜に座った人がまた同じことをしでかすでしょう。

 

 僕は、様々な人を解雇したりして合理的な考えのもとに得られた大金を無駄にはしません。病気の人にポンとお金を出してあげたりします。お金が人を救うわけです。他にも、工場に投資したり、発明に投資したり、選挙資金に提供したり、高額な武器を購入したり、ギャンブルにつぎ込んだりをしています。

 

 それは果たしていいことなのか?そして、それは本当に僕の意志でやっていることなのか?ゲームをクリアするころには、自分なりの答えが出ていることを期待しています。