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「法律もウェッブルールもクソ喰らえだ。俺が嫌だと言ってる」関連

 「法律もウェッブルールもクソ喰らえだ。俺が嫌だと言ってる」は、昔、久保帯人先生が自分のウェブサイトに載せていた絵を、ダウンロードしたりプリントアウトしたりする人がいることに苦言を呈したときに出た言葉なのですが、ほんと良い言葉だなあと近年めきめき思っているのでその話を書きます。

 

 インターネットにアップロードしたものは、技術的にコピーされうるものですし、作者本人が合法的にアップロードした絵を、誰かがローカルにダウンロードする行為も法律上は問題ありません。その画像データをプリントアウトすることも、私的利用の範囲内なら問題になることはないでしょう。

 また、インターネットの雰囲気では、技術的に可能なことはしていいことと考えられがちです。そして、それを許容できない人は、時代遅れでインターネットに適応できない人だと認定されたりすることもあります。それについては、まあそうだなと僕もある程度は思います。

 

 法や場のルールでOKなのに、他人の行動を縛ることの強制力を発揮することはきっとできないでしょう。やっても問題ないとされていることは、きっとやる人がいますし、やめさせることはきっとできないだろうなと思います。

 ただそれでも、自分が嫌だと感じてしまう何かしらについて、「自分が嫌だ」と自覚し表明すること、世間に向かって表明できるということはとてもいいことだなとすごく思ってしまうんですよね。

 

 なので、久保帯人先生の「俺が嫌だと言ってる」発言は、たとえ、それらの嫌な行為がいかなる理由で世間的に認められていたとしても、自分が嫌だということは揺るがないと表明しているという意味で、とても好感が持てます。共感性が高いです。

 この発言の背後には、自分が嫌だと言ったことについて、「でも法律違反じゃないから」とか、「それがインターネットの常識だから」というコメントをされて、嫌だという気持ちを表明することすら咎められてしまうような状況が想像されます。実際に久保帯人先生がそう言われたかどうかは知りませんが、似たような光景をインターネットで目にすることがあります。

 それって、めちゃくちゃ嫌ですよね。ルールが許容しているのだから、アナタが嫌だと思うこと自体が間違っているという話にされてしまうからです。

 

 でも、嫌なものは嫌じゃないですか。

 

 関係ありそうで、あんまり関係ないような個人的な経験の話をすると、小学生のときに、友達に僕のノートに赤ペンで落書きをされまくり、嫌だったので先生に言いつけたことがありました。

 言いつけた瞬間、その友達はかなりビビった顔をしていましたが、そのときの先生は「それがどうしたの?」と全く問題にせず流しました。その結果、起こったことは、その友達はその後も延々と僕のノートに赤ペンで勝手に落書きを繰り返したということです。だって、それをしてはいけないと先生は言わなかったじゃないか、ということがそれをしていいという根拠になりました。

 目の前の人が嫌だと思っていても、それをやっていいということになったら、人が嫌がることを楽しむように人がその嫌がらせをしてしまうということはあります。それを咎める根拠がなければ、やめさせることはできないかもしれません。

 

 でもまあ、嫌じゃないですか。自分の感情の話をすれば。

 

 僕の思い出の話についてはその後暴力的な解決をしたので、今となっては、まあ子供はそういうところがあるよなと、友達に対しても僕自身に対しても思ったりします。

 

 嫌だと表明することは、まず、嫌だと思っていることを相手に伝えるためには重要なことです。その上で、自分が嫌だと思っていることを相手に繰り返され続けるなら、相手は明確に「この人に嫌な気持ちになって欲しい」という目的で行動していると解釈できるので、人間関係を保つことができないなという理解に至ることができます。

 こういうときに、早めに明確に嫌だと表明していないと、「だって嫌だと思っているなら言ってくれないと分からないじゃないか」ということを後から言われたりします。そんなふうに嫌だと表明をしなかった方が悪いという話にされてしまうことだってあります。

 なので、その表明が、相手の行為を止めることができるかどうかは場合にはよりますが(できないことの方が多いかもしれない)、自分がそれを嫌だと思っているということは表明しておいた方が、人間の距離感が掴みやすくていいなと思うんですよね。

 

 あと、何かが嫌だと言うと「あれ?フリですか?」とか言われて、わざとそれをやってくるタイプの人が世の中にはいて、これはもう無理なところがあって、仲が良い人だったとしても、めちゃくちゃ心が冷めていきます。

 いや、でも自分もそれを誰かにしたこともあると思います。そうやって人間関係には傷が入り、ときに維持できなくなっていくわけですよ。

 

 人と人が集まる場所だと、全ての人の望みは叶わないのかもしれません。誰しもが少なからず我慢をして社会をやっているような気もします。でも、そのような社会がそのままであるために、嫌なことがあっても黙っていろって感じの雰囲気があるとすごく嫌なんですよね。

 

 世の中には「あなたが我慢しさえすれば皆が幸せになれる」というタイプの圧のかけ方があるわけですよ。その我慢を内面化することが、その社会に属するためのチケットになったりもするわけです。

 でもなんか嫌だなという気持ちを押し込めてしまうと、心の調子がどんどん悪くなってくる感じがしていて、それよりは嫌なものは嫌なままだと認識しておいて、それでいて「社会をやっている」と思った方がいいなと思ったりしています。

 そんでもって、場合によっては嫌なものについては嫌だと公言することも必要だなと思ったりしています。それがたとえ、自分以外の他の人たちにとって、どれほどルール違反であったとしても。

 

 そういうことを感じるようになってから、20年も前に見た「俺が嫌だと言ってる」発言を思い返すと、ホントその通りだよなー!!という気持ちになって、久保帯人先生!僕はやっと分かるようになったよ!!ということを思いました。

 という話です。