漫画皇国

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批判的な批評がやりにくい時代関連

 「今は共感性が重視される風潮があるので、批判的な批評をすると叩かれるし、批判的な批評ができない時代になってしまった」みたいな嘆きを、ここのところたて続けに目にしたので、そのあたりについて思うところを書きます。

 

 「批判的な批評が叩かれる」というのは、色々な理由は考えられますが、基本的には、「その対象を肯定的に捉えている人たちから、自分たちが肯定的に感じているものを貶されたと感じたために、今度はその批評者への批判が届いてしまう」ということだと思います。他の理由としては、その批判対象そのものには大した興味はないが、批判している人がとにかく偉そうなので腹が立つ、みたいなこともありそうです。

 そして、批評者への大量の批判が発生した結果起こることは、「叩かれたくないので、批判的なことを言わないようにする」という処世術だと思います。そう考えると、この現象によって、自由な発言の機会が失われ、考え方の多様性が失われているように感じるので、良くないなと思います。良くないなと思うのは、僕の個人的な価値観で、人は基本的に自由であるのが良いと感じているからです。

 

 ただ一方で、これは自由と自由の衝突でもあると感じていて、つまり、批判的な批評に対しても、その批評に対して批判的であることを表明する自由が行使されているという話でもあると思います。なので、「批判的な批評を叩くな」というのもまた、人の自由な発言を阻害する行為であって、これも良くないなとも思うんですよね。

 

 また、こういう置き換えで言えば、「批判的な意見が集まると、それを避けるような批評しかされなくなる」というのは、批評対象となる何かの創作物に対しても同じ話だと思っていて、つまり、「批判的な批評が多くあると言うことは、その批判的批評を受けることを避けるために、創作物の多様性が失われてしまう」という危惧も同様にあるということです。

 

 なので、僕の「基本的に自由であるべき」だという考え方だけでは、批判的批評が存在することも、批判的批評がまた批判されることも自由の範疇であるので、整理ができない問題だなと思います。誰かの自由には、同時に、批判対象の在り方を制限する力も生じていて、それがまた自由を制限しているように見ることもできます。

 

 このように、創作者、創作物の批判的批評者、批判的批評の批判者の自由な活動は、それぞれが別の立場の自由を制限しようとする力を持ち得るものであり、それはときに、お互いが自分は自由でありたいが、自分とは異なる立場の人たちはその自由を制限すべきだと感じているというような状態になってしまうと解釈することができるなと思いました。

 

 つまり、どれかひとつの立場だけを肯定することが、同時に同じ考えのもとにその立場が否定されてしまい、矛盾が出てきてしまうということです。それは自由と自由の間の摩擦であり、単純な「自由であるべき」という考えだけでは調整がつかない領域です。

 

 ただし、この矛盾を解消する方法は簡単で、3つの立場が平等なものではなく、不平等なものであると規定しまえばすぐになくなります。

 不平等であれば、AからBに対する態度と、BからAに対する態度は別物として取り扱うことができるので、「自分は他人の自由を制限してもよいが、他人は自分の自由を制限してはいけない」という状況は普通に成り立ちます。

 

 揉め事はいつも、この辺りで発生していると感じています。つまり、皆自分は特権的な立場を得られるという根拠を感じており(何故なら自分にとっての自分は、他人より特別だから)、他人に対して不平等な態度をとる状況を暗黙の前提としてしまっているのではないかということです。

 

 もちろん、これらの異なる立場が暗黙の平等であるというのも、何にも保証されていません。例えば、創作者が一番自由であることが何かが生み出されやすくなるので良いという価値観もありますし、そういった自由に対して監視する立場こそが一番自由であるべきだという考え方もあるでしょう。あるいは、その創作物の受益者が一番数が多く、優遇されるべきだという意見も強くなるかもしれません。

 

 そう考えた場合に、「批判的な批評をできない」というのは、「批評者が特権的な立場を得るべきだ」という種類の偏りの話であると考えられ、その偏りは、異なる偏り方をしている立場の人に説明しても通らないだろうなという理解があります。

 

 じゃあ、今の状態がいいのか?と言えば、僕自身はそうは思っていません。批判的批評者と、その批評者に批判的な人はそれぞれ同じ種類の自由の行使をしているだけとはいえ、その人数に偏りがある場合があり、そこでの揉め事が、数の論理だけで決着がついてしまうことがあるからです。

 例えば、1の意見に対して100の批判が届いた場合、1の意見はその100人の一人一人に対して応対するリソースがありません。であるならば、その状況になることを回避しようとしてしまう可能性があり、それはつまり、数が多い方が少数意見を封殺する構図となります。

 それは良くないなと思うんですよね。

 

 つまり、少数派の意見を持ってしまった時点で負けているという状況になるからです。

 

 この辺りを考えていくと、冒頭に書いた「批判的批評をすると叩かれる」というのは不正確ではないかという認識が出てきます。つまり、批判的批評であったとしても、世間の大半が、その批評対象に批判的であるならば、容易に批判的な批評をできると思うからです。世間の風潮が、何かの作品を叩いているときには逆に、その対象に対する肯定的な批評がやり玉にあがることだってあります。

 

 この話は、正確には「大量の人のリアクションが瞬時に得られるようになった現代の課題として、世間の主流とは異なる意見を言ったときに、数の論理でその意見を曲げさせられるという状況がある」という話なのではないでしょうか?

 それは批評である必要はありませんし、批判的な批評に限定することもありません。皆が嫌いなものを好きだと表明したり、皆が好きなものを嫌いだと表明することは数の論理で封殺されるので、主流の意見に合わせたことを言わないといけない(と人が思い込んでしまう)ことに対するしんどさはあり、そこには何らかの手当てがあった方がいいのではないかと感じています。

 

 でもこれって、自分が少数派のときには問題だと感じても、自分が多数派のときには、人はこれを都合よく使ってしまったりもしているんですよね。ちょっと主流から外れたおかしなことを言っている人がいたときに、その人をネットで話題にするためのおもちゃのように取り扱ってしまったり、その人との意見の交換をするのではなく、一方的に馬鹿にするだけのような意見を送ってしまったりを、人はしてしまうことがあります。

 自分たちは正しく多数派なのだから、このような間違った少数派といちいち細かいコミュニケーションをとる必要はなく、相手の言うことを理解することも、考え方の落としどころやすり合わせもする必要もなく、とにかく多数の力で相手に不快感を与えてやればいいという態度で人が行動する様子については、ネットを見ていれば覚えがあるのではないでしょうか?

 

 そのような態度は、自分が主流と異なる意見を抱えたときに言えなくなるという不自由さと表裏一体の話であって、それを都合が良いときだけ肯定し、都合が悪くなると否定するというのは、先に述べたように、自分を特権的人間であると置かない限り説明がつかないことです。そのように、お互いがお互いに、自分だけが特権的な人間だと認識したコミュニケーションをとっていれば、それはきっと揉め事になるだろうなと思います。

 

 これは現時点で明確な解決方法があるわけではない話ですが、少なくともそれがフェアではないのではないか?という認識が僕にはあり、自分もまたそれを温存する側にいるかもしれないという自覚を持つことは、まずは解決に向けての課題の一歩目だと思っているので、思うことを書きました。

 どうしたもんでしょうね。

3年前に作った同人誌のリマスター版が商業誌に掲載されます関連

 6/13(月)発売のヤングキングに「ラブソング」という漫画が掲載されます。56ページもある読み切り漫画を載せて貰えてラッキーですね。この漫画は、3年と4ヶ月ぐらい前のコミティアに出した同人誌で、当時確か70冊とかそれぐらいだけ刷って、ほどなく完売して在庫もなくなったので、ネットにもぼちぼち上げていた漫画です。

 

 この漫画が掲載に至る経緯としては、今の担当編集さんがこの漫画を見て僕に初めて連絡をくれたというというのが理由のひとつです。きっかけの漫画なんですよね。同人誌は趣味なりに一生懸命描いていたので、こういった形で、もう当時より広い場所に出すことができることは嬉しく、これきっかけで今まで届かなかった読者に読まれてほしいなと思います。

 

 このラブソングという漫画は、amazarashiの曲からタイトルをとって描いているヤクザ漫画のシリーズのうち一作で、描いた経緯としては、コミティアで次回描く漫画の話のときに「ピエテヅくんは百合をテーマに描ける?」⇒「描けらあ!!」という感じて描き始めた漫画です。最終的に当初の想定とは違う話になったような気がしました。

 内容としては、僕の日記のような内容で(日記のような漫画しか描けない…)、ずっと悩んでいる対人コミュニケーションと、あとは生き方の話です。

 amazarashiのラブソングは、「愛こそすべて」という言葉を皮肉のように歌う歌で、なので、作中の愛とは何か?という問いかけはそのあたりから出てきています。あとこの漫画は他に、大森靖子の「さっちゃんのセクシーカレー」という曲も聞きながら描いていたので、その影響も入れています。さっちゃんのセクシーカレーは他人に対する目線がとても気持ちの悪い歌で、その気持ちの悪さが覆い隠されずにちゃんと描かれていることに人間を感じて、とても好きです。

 

 さて、4月から、月刊連載が始まったので、毎月そっちの〆切が存在しているということもあり、あんまりそれ以外の漫画仕事について動きにくくなっています。ですが、同人誌の再掲であれば少ない労力で対応できるなと思って、いいですよいいですよと引き受けたものの、さすがに3年以上前の自分の絵を今見ると、「直したい…」という気持ちがムクムク出てきてしまい、そもそも同人誌は入稿までの時間ギリギリで殴り描きで描いていたので、今ならもう少しましにできるかもしれないと思って、全ページにわたって何らかの手を入れました。

 幸い今月は連載漫画の作業進行に余裕があったので、そこそこ多めに手を入れられたと思います。

 

 過去の漫画の描き直しって、完全に自己満足で、そんなことをしている暇があるなら新作を描けというのはそうだと思っていて、ただ、今回のように違う形で載せてもらえる機会があると、堂々とそれができるので良かったなと思いました。多分、今の絵も、何年か後には直したい!と思うかもしれませんし、こんなことをやろうとすると終わりない話だなと思います。今回は例外的な話で。

 

 漫画仕事については、今はたいへん恵まれており、連載に並行して、無理せずともできそうなスケジュールの仕事をいくつかやろうとしています。その中でも過去の同人誌のリマスタリングみたいなのは、機会があれば今後もやっていきたいと思っていて、なぜなら、過去の同人誌は、結構自分の切実な思いを入れながら描いたので、もっと日の目を見させてやりたいと思うからです。

 とにかく、やっていきますよ!これからも。できるだけ。

せっかくだからあえてバッドエンドを選ぶぜ関連

 バッドエンドの漫画を読んで満足感を得るのは、ハッピーエンドの漫画を読んで満足感を得るのよりも難しいのではないかと感じています。

 

 ここで僕がバッドエンドと呼んでいるのは、「主人公の望みは最終的に叶わなかった、という終わり方」の意味です。なので、例えば、その身を犠牲にしてでも何かを守り切った主人公の物語は、ハッピーエンドの方に分類されると思います。主人公も生還すればなおハッピーでしょうが、ハッピーとバッドの間はゼロかイチかではなく、どれぐらいハッピーでどれぐらいバッドかという段階が存在しているという認識です。

 少なくとも主人公の望みが何らか叶わなければ、そこにバッドエンドの要素はあると思います。

 

 そのような主人公の望みが叶わないという終わり方は、読者が主人公を応援する立場で読んでいる場合、読者をも傷つける行為となります。そこで、傷つけられたということに大きな意味を見出す読者もいると思いますが、わざわざ自分が傷つくものは読みたくなかった読者もいるでしょう。

 だからこそ、バッドエンドというのは難しく、その「主人公の望みが叶わない」というところにあえて選ぶ強い主張を伴わなければ、面白く読んでくれる人の数をいたずらに減らすだけとなってしまうのではないでしょうか?

 

 自分が物語を作るときを思い出すと、お話の終わり方としてバッドエンドが選びたくなる理由としては、例えば、「この物語が、ここからハッピーエンドになったら嘘だな…」と思ってしまうというものがあります。

 つまり、「それはただのご都合主義であり、リアルではない」と認識してしまうことで、そんなことをすれば、描いている自分も、読む読者も冷めてしまうのではないか?という危惧です。

 

 こういう悩みはきっとお話を作っていても読んでいてもよくあるものなのではないかと感じていて、例えば、お金に困って悩み苦しんでいる主人公が、最後に理由なく道端で大金を拾ってそのまま幸せに終わったら、なんなんだよ!と思ってしまうかもしれません。

 なぜなら、そこには、それまで抱えてきた苦しみから解放されるというところと繋がった納得感のある道筋がないからです。

 ただし、このようないきなり強い力が発生して問題が解決する作劇手法は「デウス・エクス・マキナ(機会仕掛けの神)」と呼ばれており、禁じ手というわけでもありません。その一方で、デウス・エクス・マキナには納得がいかないという批判的意見もずっとあるわけです。

 

 つまり、消極的にバッドエンドを選ぶということは、ハッピーエンドに向かうための納得のいく道筋がつけられず、そこでデウス・エクス・マキナをやるのも嫌だと思った場合に発生するのかもしれません。

 それはある種の仕方がない結末ですが、でも、ハッピーエンドに向かうための納得のいく道筋がつけるということは、簡単に諦めても良かったことなのでしょうか?

 そこで、積極的にバッドエンドにしたいという強い理由がないのであれば、ただ考えなくてよく、楽だからバッドエンドにしただけなのでは?と読者に思われてしまうかもしれません。

 

 だとすれば、消極的なバッドエンドは、物語をやり遂げることを途中で諦めたと認識され、中途半端な物語だと思われてしまう可能性もあるわけです。

 辛いですね。

 

 また、積極的にバッドエンドにする方の意味としては、例えば、主人公が立ち向かっていた困難が、物語の中ではどうしようもないぐらいにどうしようもなということを描くことなどがあると思います。人生にはどうしようもないぐらいにどうしようもないことがあり、その気持ちを読者から呼び起こさせるための、積極的なバッドエンドというのもあり得ます。

 あるいは、そこで語られている物語が、現実では解決していない問題を取り扱っている場合に、誠実さから選ばれるバッドエンドもあります。つまり、現実にある問題を、物語の中でだけ勝手に解決して見せるのは不誠実である、と考えるということです。ならば、それはやはり解決不能な問題ではあるが、その解決不能な問題に対して、人間がどのように取り組んだか?という敗北の姿そのものを描くことには意味を見出すことができます。

 他にも、そんな真面目っぽい話ではなくても、ただ、主人公の望みが叶わないことで、読者の度肝が抜けるというか、読者を単純にびっくりさせられるという愉快犯的なバッドエンドもあると思います。

 積極的なバッドエンドは、バッドエンドでなければ描けない何かがあるからそれをしているはずです。それによって憤る読者がいたとしても、楽しめない読者がいたとしても、楽しませたくなんてなく、憤らせたいのであれば、それは物語のひとつの正解です。

 

 もし、そのような積極的な意図がなく、ただ、消極的にバッドエンドを選んでしまったのであれば、そこからもう一度、どうにかしてハッピーエンドに持って行くという道筋を考えるのもいいかもしれません。どうしようもないほどの絶望的な状況であるからこそ、そこからなんとか納得感のあるハッピーエンドに至ることができれば、それは強い物語となるのではないかと思うからです。

 そういうことを思ったということがあるので、僕は今は基本的にハッピーエンドになる方向で物語を考えています。それは、どん詰まりのように描き進めながら、この状態からどうやったらハッピーエンドになるんだろうか?というところを考えるのが面白いし、それが上手く出来たら強いだろうなと考えているということです。

 

 その上で、バッドエンドを選ぶこともあり得て、ただし、せっかくバッドエンドを選ぶのであれば、そこにはバッドエンドでなければならない大きな意味があった方が良いだろうなと思っている感じです。

綺麗事を語るような大人になってしまった関連

 ここ何年か、自分が前向きでポジティブな綺麗事を日々語るような人間になってしまったなという実感があります。この状態は、自分の心境の変化で、そうなったことは別に嫌ではないんですが、子供の頃ならば、そんな理想みたいなことばかり言う大人に対しては、ケッという気持ちがあり、目の前のどうしようもなさに対して、そんな上っ面の綺麗事なんて言ってなんの足しになるんだよ?というような気持ちがありました。

 

 では、最近の心境の変化は、どこから来ているんだ?と思ったのですが、自分が社会における実務をやる中心的な年代となり、そういう立場になってきたことの影響が大きい気がします。

 例えば、良くない現状があったときに、それを良くするためのアクションをとれる立場になってきているので、良くないことに対しては「良くないね」と言って終わりではなく、それを今から良くするためには何をすればいいか?ということを考え、実行していくのが自分の担っている役割になってきているなと感じています。

 その「どのように良くしたいか?」という部分が、つまりは理想的な部分で、綺麗事です。例えば、部屋が汚れているときに、「汚れている現状を見ろ」というところから出発したとしても、じゃあその汚れた部屋をどのように片付ければ理想的かを考えるのが綺麗事です。もちろんそれは、その片づけを自分の手元で実行していくことがセットなので、言って終わりにするわけではありません。そして、理想的な形に片付くとも限りません。でも、どのように綺麗にしたいかという考えはあるわけです。

 

 綺麗事を言うことが軽んじられるのは、「結局のところ、口先だけのことじゃないか」と思われるからなんじゃないかと思います。「食事を制限して運動すれば痩せる」と理想的なことを言っても、実際に食事を制限できずに、運動もしないのであれば、その言葉は軽んじられます。

 なので、自分でその綺麗事を実行することが徐々にできるようになってきたことで、軽くなく言えるようになってきたのかもしれません。

 

 僕は会社員生活の多くの部分を、企業の研究所で先端研究を行って過ごしているのですが、それを考えると例えば、「日本の技術力が海外に比べて劣っている」という言説を目にした場合、その「日本の技術力」という部分は自分の話なんですよね。「日本の企業はマネジメントが弱い」という話を見ても、その「日本の企業におけるマネジメント」は自分の今の業務の話です。

 

 そこに対して、じゃあ国際競争力のある技術をやっていくにはどうすればいいか?より良いマネジメントをやって、若手を伸び伸び働かせて成果を出しやすい環境を作るためにはどうすればいいのか?というのは、日々、自分が頭を悩ませ、その環境を実行していかなければならない領域です。

 「世の中は良くない」という現状認識は、現状の立場からすると出発点でしかなく、そこから先の綺麗事を言いながら、それを実現していくという面倒で厄介なことをやっていくのが自分の役回りなんだろうなと思うと、自然とその目標であるところの綺麗事を口にするようになってきました。

 

 この辺を具体的に意識したのは、2年ほど前に「プリティーリズム ディアマイフューチャー」という女の子向けのアイドルアニメを見ていたときです。作中のクライマックスで、「私たちはプリズムスタァだ!みんなが進む道は明るいって、未来は美しく輝いているって、私たちが言わなきゃ誰が言うんだ!」という言葉が出てきて、ああ、このアニメを作っている人たちは、子供たちに対して「未来は明るい」というメッセージを伝えようとしているなと思いました。

 実際、このような台詞を子供のときに聞いていたら、「ケッ、中身のない綺麗事ばかり言いやがって」と思ったかもしれません。でも、大人になってみると、未来のことなんて分からないし、その時点では何の根拠もない空虚な言葉であったとしても、それでも、君たちの未来は明るいと子供たちに言い切って、そして自分がその明るい未来を作るための実務をやっていった方が良いんじゃないかなと思ったりしています。

 

 なぜなら、子供に向かって「自分は世の中の汚いところや、世の中に絶望する要素を君たちよりも沢山知っているし、未来はどん詰まりで、日本の行く末は暗黒で、だからこの絶望的な世の中を君たちは生きて行くしかない」なんてメッセージを投げかけることの方が、真っ当だとはとても思えないなと感じるからです。

 

 とはいえ、そのような綺麗事の言葉は、口にした時点では空虚であるとは今でも感じていて、ただ、その空虚な言葉を現実にしていくことは、今は自分たちの世代の仕事だろうなと思っています。

 

 あとは、自分が子供の頃にとにかく自分の未来が不安だったということがあって、特に生きるための金のまわりの話が大きかったですが、自分は将来生きて行けるんだろうか?とか、自分には社会の中で担えるポジションがなく路頭に迷うのではないか?とかで、ずっとぼんやりと不安で、でも、不安になることが頭の結構な部分を占めていた割に、それが自分にとって意義があったとは思えなかったんですよね。

 それらはただ自分の行動を停滞させていただけのようにも思いました。

 

 なので、そんなことはもう止めようという気持ちがあります。少なくとも身の回りでは、人がそういう停滞状態に陥ってしまうことは避けられるようにしたいと感じています。

 

 そういうこともあってか、綺麗事を平気で口にするような大人になってしまいました。子供の頃の自分が今の自分を見たら、やっぱりケッと思うかもしれませんが、今はそれが良いと思っているのでそうしています。

ネタバレのジレンマ関連

 「ゴールデンカムイ」の完結にあたって、連載も含めて全てをWebで無料で読み放題にするという施策が行われていました。延長してゴールデンウイーク中は継続するとのことなので、ゴールデンウイークは、ゴールデンカムイのウイークということですね。

 

 この施策については、色々思うところがあって、様々な意図があるとは思うんですけど、僕が感じたのは、ネットのマナーとしてのネタバレの自粛に関するジレンマへの対応の効果があるのではないかと思いました。

 つまり、「初読者の体験を阻害しないように、ネタバレの話は自粛しよう」という既読者の態度と、「せっかくの完結なのだから読んだ人はどんどん話題に出して広がってほしい」という作り手側の思惑が、すれ違ってしまうというジレンマへの対策です。

 

 このような課題は、例えば「シンエヴァンゲリオン劇場版」でも見られたものです。長期間待たれていた、たくさんのファンがいる作品であるからこそ、まだ見ていない人への配慮が必要であると考えたり、配慮をして欲しいと主張する人がいて、多くの人が、映画を見たあとも、内容の詳細については極力喋らないようにして話していました。

 しかしながら、ネタバレを含んだ具体的な話は、広がっていく力が強いものです。それは例えば、漫画についてどれだけ丁寧に語ったツイートよりも、漫画のキャプチャ画像をそのまま貼ったものの方がすごい速度で広がっていくところなどからも伺えます。

 言葉で語られたものを漫画の内容に変換して理解しなければならない、という部分がもう既にブレーキとなってしまいます。そして、内容に仔細に触れることのない言葉は、なおのこと、外に向かって広がっていく力は弱いでしょう。

 

 なので、シンエヴァの場合は、公式がネタバレ自粛はここまででやめてくれという主旨の発信を行い、公式自ら内容を含んだ映像を公開していくことで、まだ観ていない人にまで広げていこうとする態度を見せました。

 読者、視聴者のマナーの他の人の体験を阻害しないようにしようとするマナーの良さが、結果的に作品を多くの人に届けることを阻害してしまうのは、超メジャーな作品であればブレーキ程度かもしれませんが、まだまだマイナーと言っていい作品であれば、完全に情報の伝達がストップしてしまいます。

 

 そのため、例えば「忍者と極道」では、単行本発売前後などに、漫画の内容を貼って応援するということを公式に推奨したりもしています。著作権法親告罪ですから、公式が許可を出せば、安心してそれをすることができます。

 念のため書いておきますが、これはあくまで作品側が公式にそういう態度を良しとしているケースであって、良しとしない作者も当然います。なので、宣伝になるからいいだろうという態度で漫画のキャプチャをネットに貼れば、それは当然、罪として捉えられる場合もあります。そういう認識でいる必要はあると思います。

 

 さて、「ゴールデンカムイ」の話に戻りますが、この無料公開の施策は、せっかくの最終回なのだから、この盛り上がりのブレーキとなるものは可能な限り排除し、みんなが気兼ねなく盛り上がることで、その様子を、未読の人や、読むのをやめてしまっていた人たちに向けてまで広げて行こうということだと思いました。

 大きなブレーキになるものは、単行本派への配慮です。つまり、連載が完結しても、単行本でそれを初めて見る人への配慮のため、せっかく完結してもその内容について大っぴらに語ることがなく、単行本が発売されるまで待つということがよく発生しています。

 そのため、ある物語の完結に対しての言及が分散してしまうということがあって、せっかくの完結で、多くの人が満足しているのに、それらが散発的になってあまり可視化されないということを、これまで多く目にしてきました。

 

 しかし、ネットで無料で公開されているということは、「ネタバレをやめてください」ではなく、「今読めるのだから、今読んでくださいよ」ということにできるので、かなりブレーキの効果を小さくすることができると思います(それでも単行本で初めてじっくり読みたいという人もいるでしょうが)。

 

 結果として、ネットで最終回の内容そのものに対する言及が、かつてないほど多く見えたように見えるので、これが結果的に単行本の売り上げにつながるのかどうかはわかりませんが、ひとまず長期連載の完結というものを、ある種の祭りにすることで、盛り上げることには成功したように思います。今までのように気を使いながらではなく、気兼ねなく話すことができて僕も楽しかったです。

 僕はもともと全巻買ってきていますし、雑誌連載でも読んでいるので、個人的には購買行動にはあまり影響がないのですが、こういうのが読者にどのように捉えられるのかによって、今後もこのような施策が増えていったり、また別の試みがされたりするんだろうなと思っています。

「さよなら絵梨」と現実を元にした物語関連

 そういえば、感想を書いてなかったなと思ったので書きます。

 「さよなら絵梨」を読みました。すごく面白かったです。

shonenjumpplus.com

 

 初読時に思ったのは、本作は「ルックバック」を描いたことを踏まえた物語なのかなということで、そのような感じに読みました。

 

 「ルックバック」はある事件を元にしていることが示唆されつつ、そこに漫画というものの無力さとできることを描き、そして、この先も漫画を描いていくということを描いた物語だと僕は感じました。「ルックバック」には様々な反応があり、僕自身も、「物語はそのものとしてとても良かったが、事件を元にしたことを宣伝レベルで示唆されてしまったこと」については、それをすんなりと受け止めることへの抵抗がありました。

 なぜなら、実際に起きた事件を取り扱うということは自分の中でセンシティブなことだからです。そこには実際の被害者がいて、遺族もいます。バランスを崩せば、その人たちの悲しみを第三者が勝手に利用して作品を作っているという認識にもなってしまいます。なので、その部分にもっと距離があった方が、もっと引っ掛かりなしに楽しめたなと思いました(念のため繰り返しておきますが、作品自体はとても胸に響きました)。

mgkkk.hatenablog.com

 

 さて、「さよなら絵梨」は、主人公が、病気で死にゆく母親の映像を元に作った映画から始まります。その作品はドキュメンタリーのようでありながら、最後は病院が爆発するという映像で終わります。

 学校で全校生徒を前に上映したその作品は、散々な否定的な評価を受けます。その中のひとつは、人の死を題材に映画を作る上で、爆発で終わるのは、人の死に対して失礼ではないか?というような意味のもので、それは僕自身の「ルックバック」に抱いた気持ちと重なる部分があります。

 

 そのため、僕は初読時に、まず、これは「ルックバック」への反応を踏まえた上で、改めて、現実と、それを元にしたフィクションの関係性についてを描く物語なのではないかと思いました。

 

 この物語は、酷評に終わった作中作「デッドエクスプロージョンマザー」を踏まえて、そのファンであると主張する少女、絵梨との出会いの果てに、主人公が再び映画を作るために試行錯誤する様子が描かれます。

 以前の映画は何が良くなかったのか?次の映画はどうなればいいのか?そもそも物語とはどのように描くべきなのか?その作者はどうあるべきなのか?それらの問いかけは、前作と今作、それは「ルックバック」と「さよなら絵梨」になぞらえて読むことができるような形で描かれていると思いました。

 

 つまり、この映画は、「ルックバック」への反応を踏まえて、この漫画はどうあればいいのか?ということそのものを物語の中での葛藤として持ってくるという構造になっていると思いました。

 

 作中で、映画は「現実をそのまま映したものではない」ということが描かれます。現実の一部を切り取り、上手くつなぎ合わせることで、本当にあったこととは別の物語を作り上げることができます。作中では、それがどんでん返しのように、あるいは映画のメイキングのような場面を入れることにより、現実の映像を元にしていたとしても、それは現実そのものではないということが描かれました。

 そして、それらを元に作り上げた現実とは異なる美しい物語は、ときに人の美しい記憶になり変わります。

 

 考えてみれば人の記憶も似たようなものかもしれません。何かの事実があっても、複数の当事者によって異なる語られ方がされることがあります。人は事実をそのまま記憶するのではなく、色んな事実の断片を繋げ合わせて、それぞれの物語を作り、その中を生きていくものなのかもしれません。

 

 「人はなぜ物語を求めるのだろうか?」という話は、藤本タツキ作品では繰り返し描かれています。そして、僕自身、特に若い頃は物語の中に耽溺して生きてきたので、同じ疑問をずっと抱えています。

 僕のとっては物語は逃避する場所で、自分が登場しない物語に浸かっている時間は自分の人生のことを考えなくて済んだので落ち着いたという記憶があります。今は自分の人生を生きることへのしんどさもなくなってきたので、物語にすがらなければならない時間は減ってきました(楽しみのために読んでいます)。

 物語は現実ではなく、しかし、人はときにその現実ではないものを求めてしまいます。亡くなった人の思い出は綺麗なものばかりが残されたり、現実を曲解した都合のよい物語を認識することで生きることが楽になる人もいるかもしれません。

 

 本作では、作中でのやり直しとして、絵梨の死を題材にした物語が観客に向けて成功する場面が収録されています。それは前にやったことが間違いであったなら、こうやって正解にすることもできるということの示唆ではないかと思いました。皆に喜ばれる正解のやり直し方は分かるかもしれないということです。しかし、この物語はその先へ続いていきます。

 

 最後のパートでは、これまでスマホで撮影したような画面で描かれきたものが、主人公を写す別のカメラに切り替わります。これまでそのような画面が唯一あったのは、「デッドエクスプロージョンマザー」の最後の爆発のシーンの切り替わりだけだと思ったので、これはやり直しとして、そこに相当するパートなのだと思いました。

 つまりファンタジーです。ドキュメンタリーのようにするのではなく、ひとつまみのファンタジーを入れることの美学が語られてきました。

 

 そこには記憶を失った絵梨がいて、主人公のとった映画を見て、かつての自分のことを思い出します。しかし、その映画は、編集によって作られた、事実からは改変された物語です。ただ、絵梨は現実からは失われたものを何度も思い出せる物語が存在しているということを素敵だと表現します。

 今の現実はいずれ失われるもので、残るものはその現実を元にして作られた物語だけなのかもしれません。もし、人に物語が不要ならば、それらのかつての現実はただ失われていくだけなのかもしれないなと思いました。

 

 この物語は最後ファンタジーで終わります。それはつまり爆発です。「デッドエクスプロージョンマザー」では酷評された要素を、主人公は再び最後に表現します。人の死をドキュメンタリーのように取り扱うことで、多くの人が望むような涙を流せる「正解」の物語を作ることだってできた主人公がです。

 それが僕には、当初に立ち返り、どんなに酷評があったとしても「変わらない」ということの決意表明のように思えて、とても痛快な場面だなと思いました。

 

 それは作中の絵梨の言葉にも重なります。「デッドエクスプロージョンマザー」の爆発シーンは多くの人には笑いのネタとされていて、唯一、絵梨だけがそれを見て泣いていました。爆発の場面はギャグとして見ることもできて、実際そう見て全然面白いんですが、僕は上記のようなことを考えながら読んでしまっていたので、感じたのは、笑いよりは痛快さの方でした。

 

 現実を元にした物語を作ることはセンシティブで難しい話です。ただ、あからさまに何かの人や事件をモデルにしなかったとしても、物語にはその作者の実体験が反映されるもので、それも当然現実を元にした物語であるはずです。それはゼロイチで切り分けられるものではなく、多かれ少なかれの程度の問題です。

 現実そのものを切り貼りし作られた物語は、実際にあったこととは異なるかもしれません。そこにファンタジーが加わればなおのことです。しかしながら、作品という形をとることによって、それを体験した人が失われても、自分がその体験そのものを忘れてしまっても、残るものになり得るかもしれません。

 再びその物語を読めば、思い出せるかもしれません。

 

 というようなことを思ったので、「さよなら絵梨」は「ルックバック」を描いたあとに起こったことを物語という形にすることで固定化させた存在なのかなと思いました。そして、人間と物語に対する認識の思索の話は、「ルックバック」から、さらに一歩進んだように思います。

 僕自身、自分がなぜいまだに物語を求め続けているのかの明確な答えを得てはいません。だからこそ、そこに共感を感じたように思いました。

自分を蔑むという自衛戦略関連

 よくしている話ですが、人間の基本的な性質として、「序列に敏感」というものがあると思います。一般的な日本の教育では、「全ての人間は平等」だと教えられます。しかし、多くの人はそれはそれで肯定する一方で、自分が接する人間に対して、すぐにその人に「価値があるかないか」などの判定をしようとしてしまいます。もちろん僕自身も自分がすぐにそれをやろうとしていることに気づいたりします。

 

 そして、自分が認識している序列認識と、その人が世間から扱われている序列認識に齟齬があると、人はすぐに「それはちょっとおかしいのではないか?」と思ってしまいます。場合によっては、「こいつはそんなにすごくないだろ!」と世間に対して主張することで、自分の中の序列と、世間の序列を、なんとかして一致させようと躍起になってしまったりもします。あるいは逆に、「この人が世間で評価されていないのはおかしいのでは?」などとも思って、もっと評価されるべきだ!と主張してしまうかもしれません。

 人間は自分の頭の中の序列と、世間における序列に齟齬があることを見せられた場合に、それについて黙っていることが難しいのではないかと思っています。

 

 この考え方をベースにしてみると、「人間は調子をこいていると、他人から叩かれやすくなる」と思います。なぜなら、人間が調子をこいているというのは「序列が上の行為」だと思われがちだからです。人は、自分が「こいつはカス」と思っている人間が、カスのくせに調子をこいていたら、叩きたくなってしまうかもしれません。

 

 しかし、人は自分が誰からカスと思われているかは分からないものです。インターネット経由の全然面識のない人たちから、知らぬ間にカスと思われているかもしれません。ただ、そういったことは、おとなしくしているときには目に入りにくいものです。なぜなら、カスがカスのように振る舞っていれば、序列認識の齟齬は出ないため、わざわざ声高に主張する必要がないからです。

 そんな場合、一旦調子をこいてみれば、場に伏せられていたカードが一気に開いて、苛烈な叩きが発生する可能性があります。それは、「カスのくせに調子をこいた」ことで、「こいつを叩いて、カスにふさわしい態度に戻させよう」というモチベーションが人に発生したりするからではないかと思っています。

 

 これを避けるためには、常にカスの態度で生きて行くという方法があります。つまり、自分はゴミカスですよという感じに振る舞うことで、誰かに叩かれることを回避することができます。このように、「自虐」は「身を守る盾」です。こちらをカスだと思ってくる他人の目を、上手い感じにくらませる技術です。

 このように考えると、日々自虐ばかりしている人は、もしかするとそのような「誰かに叩かれにくい振る舞い」を意識的にか無意識にか、心の深いところで内面化してしまっているのかもしれません。

 

 一方で、このような防衛方法も、見抜かれているところがあり、自虐の中に少しでも調子こいた部分が混じると、目ざとく見つけられ、今度は「自虐風自慢」と言われて叩かれたりします。謙虚なふりをしているぶんだけ余計に悪いと怒られます。誰かに叩かれたくなければ、そのような部分を強く脱臭していくしかありません。調子をこいてはいけません。それは常に無意識にできた方がよく、その先にあるのは、自分という人間には本当に価値がないと心から思って生活する人の姿です。

 

 でも人がそういう状況に陥ってしまったとしたら悲しくないですか??

 

 もちろんここで挙げたものが世の中の全てではないと思いますが、自分の経験や人の話を聞くにつけ、こういうのは確実にあることだなと感じています。「自分という人間には価値がない」というように、自虐的な振る舞いをしてしまう人には、他人の目を強く気にして、調子をこいて誰かに叩かれることを回避しようとしている部分があるのではないでしょうか?つまり、自己を否定的に捉え、自虐的に振る舞うことこそが、その人にとって一番得をする振る舞いだということです。

 それは個人の問題だけではなくて、周囲との関わり方がそうなっているという環境が良くないという話です。

 

 でも、調子こいてる人間に、調子こきやがって!と言う人がいない環境ってちょっと想像できなくて、なら、人間は一生調子をこかない方がいいのか?ずっと「自分なんてカスでゲスよゲヘヘヘヘ」と笑っていればいいのか?みたいなことを思い、よくないな!と思い、じゃあ僕自身はもう調子をこいてしまおうと思う感じになってきました。

 それでもし、僕を蔑んでいる人たちが怒り出してもいいじゃないかというか、僕のことをカスだと思っている人に怒られないために生きるのって、そういう人たちに何よりも影響を受けて、自分の行動を変化させるということじゃないですか。それって嫌じゃないですか?という気持ちになってきたので、今は良いこととか上手くいったことがあれば、調子をこいていこうと思ってそうしています。

 

 それで叩かれたりすることもあるんですけど、逆に、僕が嬉しいことを嬉しそうにしてたり、自慢したいことを自慢していたりすると、それを良かったねと言ってくれる人もいます。周囲の反応としては、悪かったり良かったりはそれぞれあります。

 他人は様々なんですけど、じゃあ自分はどうなのかというと、自分で自分の今の状態を良いと感じていると表現することに対して、屈託がなくなったことにより、日頃からの気分がかなりよくなったので、他人との兼ね合いは今後も全く考えないわけではないんですけど、とにかく自分が良いと思えるようにする状態を維持しておくのが、自分にとっては良いだろうなと思っているところです。この先また考え方が変わるかもしれませんが。

 

 自虐的であったり、自己評価が低い人というのは、社会の中でそれが最適だからやっている側面ってあるんじゃないかなと思っていて、そういうのってとりあえずは最適に見えますけど、もうちょっと広めの視点で見たら、なんか損してるような気もしていて、とはいえ、知らん人に怒られたりしたくもなくて、まあ、そういうところを色々考えて調整するのがいいんだろうなと思っています。