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「TENET」と「円盤」から時間の認識について考える関連

 「TENET」を何となく見に行くかと思って見に行ったのですがすごく面白かったです。劇場についてから、これクリストファー・ノーランの映画なのか!と知るぐらいに全然予備知識がなかったのですが、見に行って良かったです。なお、この鈍感さは意図的なところがあって、敏感に世の中を見ているとネタバレを読んでしまう可能性があるので、あ、この情報をシャットアウトしておこうとなんとなく思ったらそうして、それに成功しました(自分が見るまでネタバレを見ずに済みました)。

 

 さて、TENETは時間を取り扱ったSFの映画で、この映画を楽しむためには、この映画の中で時間がどのように取り扱われているかを上手く捉えることが重要だと思います。

 物語の前半には分からない描写が沢山ありますが、だんだんと理解を得てくることで、意味が分かるようになり、何より親切なのは後半からは時間を遡っていくことで、最初の分からなかった描写のところに戻って来てくれるので、より分かりやすくなります。

 僕が最後まで上手く理解できなかったのは冒頭のシーンだけで、それは冒頭のシーンは作中で再び訪れることがないからなので、もう一回見たら分かるのかもしれません。

 

 映画を見て思ったのは、「カメラを止めるな」と構成が似ているなと思うことで、映画の中で違和感があるが意味が分からない描写をたくさん前振りされ、それらの理解に対する補助線が引かれたあと、再び描写されることで意味がどんどん分かっていきます。

 TENETでいう補助線は「本作での時間に対する理解」であって、それがおもしろいところだなと思いました。

 

 TENETにおける時間は、可逆なものとして描かれます。時間が過去から未来の一方向にしか動かないという常識に反し、ある発明によって未来から過去の時間の流れを生きることもできるようになるのです。そして、物語のクライマックスは順方向と逆方向の時間の流れが交錯する場所、特異点たるその瞬間になります。

 

 人間は因果で物事を理解しようとしがちです。しかし、過去があって未来があり、原因があって結果があります。しかし、それは本当に自明でしょうか?人間は因果に固執するあまりに、物理現象としては説明のつかない因果も見出してしまうこともあります。

 例えば、ジンクスなどはそのような認識の不具合であり、黒猫が目の前を横切ったから不幸が訪れることを説明できる理屈はありませんが、人間はそういった認識をしてしまうことがあります(そういう話に実はまだ解明されてない因果がまれにあったりするのも小憎らしい)。

 

 人間が因果と認識しているものは、本当に因果でしょうか?目の前にあるその果は、因が存在しなければ本当に存在し得ないものなのでしょうか?もしかすると、人間が今自明だと思っているその認識が間違いなのではないか?と物語の中で示唆されることが、僕がTENETを見て面白いと感じた部分です。

 ただし、TENETの中でも、時間の認識に対する確たる正解はありません。この物語は、未来人と現代人の時間に対する解釈違いが起こした戦いの話でもあります。時間が可逆になった場合、過去に干渉することは未来に干渉することでもあります。なぜなら、過去の因にもとづいて未来の果があるからです。その場合の因果関係の矛盾が、どのようなことを引き起こすのかは分かりません。

 作中では、その分からない部分に足を踏み入れるほどの理由が未来人にはあったのでした。

 

 僕がこの映画を見ていて思ったのは、時間を特別視せず、ただの物理現象として捉えた場合に、親殺しのパラドックスは許容され得るのではないかということです(急進的未来人派)。なぜなら、人間が時間を遡って親を殺した瞬間に自分がその場から消えてしまうということは、物理現象としての説明ができないからです。

 

 また、このような時間認識はテッド・チャンの「あなたの人生の物語」で描かれていたこととも似ていたように思いました。「あなたの人生の物語」には、過去と現在と未来を区別せず、等しくただあるものとして捉える異星人の姿があります。例えば、時間を映画フィルムのようなものとして捉えたときに、過去も現在も未来も、区別なく同じように見ることができます。現在とは、たまたま映写レンズに映っている場面に過ぎません。

 こういう、日頃自分が当たり前と思っていることに対して、当たり前でなかったとしたらという仮定を設定できるのが、SFの面白いところで、頭の中に、未発見の領域を見つけることができて面白くなるのが面白いなと思います。

 

 最後に、TENETを見ていて思い出した漫画としては黄島点心の「円盤」があります(単行本「黄色い円盤」に収録)。円盤はDJの漫画です。地球の空に突如として円盤が現れ、そして、赤道を取り囲んで星に密着した土星の環のような巨大な円盤が発生します。

 この円盤は何なのか?それはレコードです。それもただのレコードではありません、アカシックレコードです。アカシックレコードとは、この世界に存在する全ての記録が収められた存在です。

 地球上の人々は、突如現れた地球のアカシックレコードの再生によって、この地球の全ての歴史を追体験していくことになります。しかし、人々は気づきます。円盤のレコードにはいずれ終わりがあるのです。その終わりとはつまり、地球の歴史の終わりです。人々は、このアカシックレコードの再生が終わるとき、地球が終わることを理解するのです。

 

 円盤はDJの漫画です。DJとはレコードと別のレコードを繋ぎ、曲を終わらせない技術を持った人々です。終焉に向かって奏でられる地球のアカシックレコードに立ち向かえるのは、もはやDJだけなのです(この詳細と結末は是非単行本を読んで下さい!!)。

 

 TENETの未来人と、円盤のDJには共通点があるように思えます(僕には思えます!!)。終わることを諦観して受け入れることなく、繰り返す循環の中に永遠を見出そうとしているからです。

 永遠が、0から無限の先にあるのではなく、たとえ0から1の間であったとしても、そこを無限に循環させていく中に見いだすという認識がそこにあり、TENETを見ておもしろかったと思った人は、黄島点心の黄色い円盤も買って読むといいのではないか??という今回言いたかったことがやっと出てきました。

 

 なので、読んでくださいね。

「The Wonderful 101」を何回もクリアしている関連

 プラチナゲームズの「The Wonderful 101」はめちゃくちゃ好きなのゲームですが、僕の周りではあまり遊んでくれない、もしくは遊んでも自分には合わないと告げられることがあり、ほんとめちゃくちゃ面白いのに、なぜ理解しない?という気持ちになるとともに、だいたいそうなってしまう気持ちも分かります。

 

 このゲームのチュートリアルは、とりあえず全部クリアするところからなので、全部クリアして操作に慣れると、その先にめちゃくちゃ面白い世界があるのですが、そこに至るまでに遊ぶのをやめてしまう人が多いのではないかと思います。

 それは仕方がないかなと思うところもあるのですが、とりあえず僕がどう楽しんでいるのかだけは記録しておこうと思います。

 

 ちなみに、僕は最初のWiiUで遊んでハマり、WiiU自体があまり流行らなかったゲーム機なので、他人にオススメしにくいなと思っていて、現行機に移植してくれないかな?と思っていたところ、ついに移植を行うためのKickStarterクラウドファンディングが始まったので、よっしゃ頑張ってくれ!と何万円かを突っ込んだのですが、おかげでSwitchのカートリッジ版とSteam版が手に入り、Switch版はとりあえずクリアして、最近GPD WIN MAXという小型のゲーミングノートPCを買ったので、Steam版もまた最初からやってさっきクリアしました。

 

 さて、The Wonderful 101は、宇宙からやってくる悪い奴らと戦う戦隊もののゲームです。プレイヤーはThe Wonderful 100(ワンダフルワンダブルオー)を操作しながら敵と戦います。このThe Wonderful 100、名前の通り、100人の部隊で、100人のヒーローを操作しながら敵と戦うことになります。

 

 このゲームを知らない人はどうやって100人を同時に?と思うかもしれません。それができるのがユナイトモーフという技です。ユナイトモーフはヒーロー同士が組体操のように合体することで、様々な形態に変化し、様々な行動がとれるようになる技です。

 

 このユナイトモーフがゲームシステムとして最高に良くて、ただし、操作に慣れるのが難しい部分でもあります。

 

 ユナイトモーフの発動には図形を描きます。もともとWiiUという手元にタッチパネルの入力装置があるコントローラに向けて作られており、Switch版でもタッチパネルで操作できると思いますが、僕はもう右スティックでしか図形を描いていません。

 これが難し要素のひとつだと思っていて、タッチパネルなら画面と手元を両方見ないといけないのが難しいですし、右スティックなら、マウスで絵を描くのだって難しいのに、スティックで任意の図形を描くのなんて、まあやりにくいわけじゃないですか。でも、クリアするぐらいまでプレイすれば普通にできるようになりますし、この仕組みが描き損じしにくくなるように工夫されてできていることも分かるんですよね。

 

 例えば拳を作りたいときには円を描いたり、剣を作りたいときには直線を描いたりします。様々なユナイトモーフが、ゲームを進める中で順次アンロックされていき、だんだんと複雑な図形を描く必要ができたりします。でも、曲線と直線を描けると、あとはその組み合わせなんですよね。

 例えばハンマーを作りたいときには直線の先に円を描く必要があるのですが、これは普通に剣を作るときのように直線を描いたあと、一瞬止めて、拳を作るときのように円を描けばいいだけです。時間をゆっくりにするボムを作るときはその逆で、円のあとに直線です。

 線を直線に曲げることで作れる銃のあと、もう一回鋭角に線を引けば爪になります。基本の動きが見についていれば、あとはその組み合わせの問題なわけです。格闘技の型稽古みたいですね。必要な動きは最初から使える基礎の型の中に存在しています。

 

 自分が描いた図形がゲームでどのように認識されているかは、描いている線の色で判別できます。また描いている時間はゲーム内の時間がゆっくり流れるので、割と落ち着いて描けるというのもあります。

 

 このユナイトモーフの何が素晴らしいと思うかというと、通常のアクションゲームではありえない数の多彩な技を出すことができる点です。いや、コマンド入力で技を出す格闘ゲームと同じじゃんと言われると、まあそうなのですが、3Dアクションゲームとコマンド操作を融合させたゲームを僕がプレイしたことがなかったので、すごく新鮮に感じてしまったんですよね。

 

 例えば、他のゲームでよくある操作だと、技を発動する際に、左右のボタンを何度か押して技を選んでから実行ボタンを押すとか、予め十字キーに4個だけのショートカットを登録しておくなどの操作が求められます。前者は技の名前を見ながら選んで実行するという時間のかかる操作ですし、後者は使える技の数が制限されてしまいます。

 でも、ユナイトモーフはその制限がありません。素早く全ての操作を瞬間的な判断で発動することができ、今まさに迫ってくる敵に対して、適切な技を選択し、バトルのテンポを阻害することなく、自由自在な戦い方ができるようになります。

 

 また、このユナイトモーフのもうひとつの良さは、描いた図形の大きさで威力が変わることです。図形をデカく描けば強くなります。これも再プレイをする上でいいところで、ゲームを進める中で隊員を増やしていけばより大きく強力に技を出せるようになるので、2周目以降は明確に強くなって戦えるんですよね。

 またマルチユナイトモーフという、同時に複数の技を発動することもできるのですが、そのときの隊員数の振り分けをどうするかも直感的に行うことができます。

 ユナイトモーフは、種類の選択と強さの選択、そして振り分けの選択を、ひとつの操作で実現できる、非常に優れたアイデアなのです。

 

 また、敵の動作はパターン化されており、弱点も設定されています。つまり、そこに正解の対処が存在します。この正解に気づいて覚えていくというのも、一回クリアする必要がある要素なのですが、一度理解に至れば、相手の行動に対してユナイトモーフで高速に正解を選んでいくことができます。

 そのように集中することで、頭がフロー状態になっていくんですよね。それが気持ちいいわけです。また、完全な正解だけを延々選んで発動できているとき、今、自分はゾーンに入っているなと思うときもあります。

 

 僕はこの状態をWiiU版を遊んでいたときから、ハンターハンターのネテロ会長が、キメラアントの王メルエムと戦ったときの百式観音という技になぞらえて感じています。強大な敵を前に、相手からのダメージを一切受けないままに高速の正解を出し続けることで、相手を圧倒することができるということに、ものすごく興奮してしまいます。そしてネテロは負けましたが、ゲームの僕は勝てるわけです(ネテロ会長の意志は僕が継ぎますよ…)。

 

 慣れてくると音ゲーに近いというか、音楽のセッションをしているような気持ちでバトルをすることができるので、それがなんかホント気持ちよく楽しくて、何回もクリアしている感じです。

 

 とにかく今は現行機で遊べるようになっていて非常にチャンスなので、もし興味を持った人がいれば、まずは一回クリアしてみてください。

 

 以下、参考用のビデオクリップです。

 

 

 

 

 

面白奉行とスベりフリー関連

 僕が「面白奉行」って読んでいる行為があります。それは人が集まっている場において、他人の言動について、何がおもしろいとか何がおもしろくないとかをジャッジする行為なのですが、これがあんまりよくない使われ方をされているのを昔よく見ました。

 おもしろをジャッジするとは、例えば、他人の話について「オチは?」と聞いてきたり、「スベった」と認定してきたりすることです。

 

 大阪に住んでいたときには、「おもしろい人である」ということが、他の土地よりもより意味を持っていたと感じていて、特に若い男なんかは、おもしろい人間であると思われたいと思いがちであったように思います。そのためにおもしろいことを積極的に言おうとすることは、僕は基本的に良いことだと思っていて、なぜなら、周りの人が笑うようなことをお互いに言い合うような場所は楽しいからです。

 

 ただし、ここで注意しないといけないことは、おもしろいことについての絶対的な尺度はないということです。100人いたら100人が笑うおもしろいことということはなく、それぞれの人には何をおもしろいと感じるかという感性があります。また、人間の性質として、100人いたら5人ぐらいしか笑わないことの、その5人に自分がなったときに強烈におもしろくなったりもします。

 だから、おもしろいことを言うということは、きっと目の前の人が何をおもしろいと感じるかに寄り添うということでもあって、そこには他者とのコミュニケーションの問題がある気がするんですよね。

 

 だから、ある場所でウケている人が、他の場所に行くと全然ウケないことも普通にあります。人が何で笑うかには様々な下地が必要だからです。何かしらの共通認識が下地となったおもしろは、それがない場所では伝わりません。そう思うと、お笑い芸人が、舞台の上やテレビの中で、自分が笑わせようとしている相手が誰かを明確に認識することなくお笑いをやることの難しさについても考えることになるわけです。

 個人的な経験としても、インターネットで、この人は面白いなと思う人が自分と同年代であることが分かることが多くあります。それはきっと、世代的な共通の下地を持っていることが多いからではないかと思います。そう考えれば、自分より世代が上だったり下だったりする人たちが、もし自分が分からないことで笑っていても、それは、そこにそれぞれ独自の下地があるからで、決してつまらないことで笑っているわけではないという理解ができます。

 

 さて、話がめちゃくちゃずれたので面白奉行の話に戻しますが、面白奉行とは、他人のおもしろをジャッジする行為であるとともに、「自分、お笑いのレベル高いですよ?」とアピールする行為となることがあります。

 この使い方は危ない行為だと思っていて、おもしろい人はすごいという価値観に寄り添う上で、「他人をおもしろがらせる」というやり方ではなく、「他人におもんないと言いまくることで、相対的に自分がおもしろい人であるということを示せる」と思い込んでいるということです。

 ただ実際、それが効果が出ることもあって、特に年長者や立場的に強い人が面白奉行行為をしてしまうと、立場の弱い人たちは、自分の言うことがおもしろいと判断されるのか?ということに委縮してしまい、口数が少なくなってしまったりします。というか、大阪に住んでたときに、こういうことがちょいちょいあったんですよね。

 場におけるおもしろいおもしろくないを立場の強い人が面白奉行として一手に握っていていることはあって、でもよくよく考えたら、その面白奉行、他人を全然笑わせてなかったりもするわけです。結果として起こるのは、その「別に他人を笑わせることができない人」が、自分はおもしろのレベルが高いとアピールするために、場からおもしろをどんどん減らしていくということになります。辛い。

 

 前述のように、おもしろの尺度は多様です。全世界の誰も笑っていなくても、ひとりの人が自分自身で心から爆笑できていれば、それはきっとおもしろであるはずです。ただ、その人からすれば、世界の残りの全てはおもんないかもしれません。

 それは、その人の中で閉じているなら全然いいんだと思います。そして、より多くの人がおもしろいと感じるからこそより意味があるとも限りません。100人が100人おもしろいと思うものと、100人のうち1人しかおもしろいと思わないものの間に根本的な優劣はないわけです。あるとしたら、「より多くの人を笑わせた方が勝ち」というような、別の価値観を流し込んだ場合でしょう。それだって、100人がどの100人かによって結果が全然変わってきてしまうことです。

 

 ただし、何らかの場においては、この辺に考える余地があると思います。おもしろに優劣も貴賤もありませんが、その場が全体として結果的に楽しくなるかならないかという差はあり、僕はあまり楽しくない場所にはいたくないので、この手の面白奉行行為をされると非常に嫌です。

 誰かをおもしろくないと言うことで自分をおもしろい人間であると言えるのであれば、周りの全員をおもしろくないと思う人が一番おもしろいことになります。さらに、他人を笑わせることから一番縁遠い人がおもしろいということになっている場所だったりするとき、その場所ってめちゃくちゃ居心地が悪くないですか?

 

 だから、僕はそういう場所からはスッと逃げるか、面白奉行を完全に無視するかみたいな感じになってしまったりするんですよね。

 

 今ここで出した面白奉行行為についてはとても極端な例示です。誰しも心の中に、ある程度の面白奉行は飼っているでしょうし、他人のおもしろについてジャッジしてしまうのは、ある程度は仕方ないとも思います。その上で、皆がいる場所で、どの程度のことをやっていくかが、まさにコミュニケーションなんだと思うんですよね。

 場にいる人がどのような人でも、絶対に勝てるやり方はありません。そこには自分の価値観と相手の価値観があって、その相互作用を読み取って、場所をいい感じの雰囲気にしておくことが求められているんじゃないかと思います。

 そのために必要なのは、自分がおもしろい人であるということをアピールすることではなく、目の前にいる相手を笑わせようと思うことなんじゃないかと思っていて、そういう気持ちでいる人が集まると楽しい場所ができる感じがしています。

 

 だから、僕は大阪に住んでて、気の合う友達と一緒にいる時間はめちゃくちゃ楽しかったです。

 

 面白奉行への対抗策として、存在しているのは「スベりフリー」という概念です。おもしろいおもしろくないのジャッジはどうしても完全には無くせないと思いますが、それが無くせる特殊な時間と空間がスベりフリーです。それは、今からスベるという概念は消失しましたと宣言することで、誰がどれだけおもんないことを言っても、それを一切否定しないという時空間をあえて作ることで、皆が好き勝手ものを言うようになるんですよね。常にそれだとアレかもしれませんが、これがたまにやるとめちゃくちゃ楽しいんですよ。

 自分の中で、これはおもんないなと思って外に出さなかったようなことを、うっかりスベりフリーに乗じて出してみると意外とウケてしまったりして、自分自身のジャッジは当てにならねえ!と思ってしまったり、友達が思ってたけど言わなかった新しい側面を出してきたりして、まあとにかく楽しくなります。

 なので、スベりフリーはすごくオススメです。

 

 おもしろの話をしてきましたが、これっておもしろに限らない話だとも思います。例えば、漫画や映画、ゲームに対しても、何かをおもんないと世の中に向かって発言する人が、「自分はその作者よりもおもしろの本質に近い」と思っていることがあると思います。それはきっと、その人の個人としての頭の中に閉じていればそうなのだと思います。しかし、何をおもしろいとするかの絶対的な基準が世間的にその人であることはありません。

 

 ある種の批評家が嫌われるのも、そのような理屈だと思っていて、つまり「自分がその分野で秀でているという自己アピールのために、他人が作った何かをおもしろくないと言っている」という態度が、どれだけ出ているか?(より正確には、出ていると思われているか?)という話ではないかと思います。

 ただし、そのような気持ち自体は誰しもの心から完全には分離できないとも思います。だから、自分で振り返る気持ちがあるかないかという感じもしていて、自分も振り返った方がいいなと思ったりするんですよね。

 

 誰の心にも少なからず面白奉行はいると思います。でも、面白奉行だけに囚われてしまうと、場がめちゃくちゃ楽しくなくなっていく感じがしていて、僕はそういう場所にいるのが嫌だなと思ってしまいます。

 ただ、どうしても面白奉行は完全には分離できないわけじゃないですか。だから、付き合っていくしかないんですけど、たまにスベりフリーをやると、そこから一時解放されたりして楽になったりしますよという話でした。

「タイムパラドクスゴーストライター」をおもしろく読んでた関連

 タイムパラドクスゴーストライターは、ジャンプで連載されていて、この前完結した漫画で、終わる直前は特にかなりおもしろく読んでいたので、短く終わってしまって残念でした。

 

 おそらく打ち切りで終わっており、もっと長く続くなら回収されるはずだったと思われる要素のいくつかも宙ぶらりんの状態でしたが、短く終わったために結果的にテーマ性のようなものはむき出しになったように思ったので、そこが分かりやすくなっていったのが終盤おもしろく感じていた理由のひとつではないかと思います。

 

 この物語は、連載をどうしても勝ち取れず、編集者に強めにダメ出しばかりをされていた漫画家の卵の佐々木くんの家に、ひょんなことから未来のジャンプが家に届くようになり、そこに載っていたとてもおもしろい漫画「ホワイトナイト」を、うっかり無自覚に盗作してしまうところから始まります。

 僕が序盤で感じていたことは、佐々木君がやってしまう盗作という事実の悪さと、人間としての善良さのバランスの合わなさであり、また、佐々木くんが抱えている美学がイマイチよく分からない感じだったりしたことがあったための困惑でした。

 

 主人公なのに、どういう考えのもとに何を正しいと考えているのかがよく分からないという、作中の倫理観や美学の基準が全然分からなくて、これはいったいなんなんだ?というのが当初読みながら思っていたことです。

 僕が思うに「漫画を描く」ということもある種のコミュニケーションの形態のひとつで、だから「誰かに何かを伝える」ということが重要ではないかと思うのですが、佐々木くんは漫画を読んでほしいのは特定のどういった人ではなく、漠然とみんなだと言いますし、内容としてもそこに対して自分の中にある誰かに伝えたいものがあるわけでもありません。

 それは悪いことではなく、ただ平凡なだけだと思います。いや、特別な何かになりたいのに、平凡でしかないということは、限られた人しか立てない場所に立とうとする上では不利なことなのかもしれませんが。

 

 なので、最初の方ではよく分からない漫画だなと思っていました。

 

 ただし、「透明な傑作」という概念の説明が登場してから、そこはがらりと変わります。透明な傑作とは、後にホワイトナイトを描くはずだったアイノイツキちゃんが抱えていた概念です。それは、作家がどうしても持ってしまう個性としてのクセを極限まで排し、全人類の誰が読んでも気兼ねなく楽しむことができる究極の漫画のことです。実際、日本で一番売れている漫画でも単巻では数百万部が限界です。

 日本人口から言うと、95%以上の人たちは単行本は買わないということを選択した漫画と考えることができます。それを100%にすることは現実的に可能でしょうか?不可能だと思います。

 でも、そんな不可能な場所を目指してしまう人間がここにいたと考えれば、全て辻褄が合うと思いました。そこで今まで分からなかったことに対する理解を得たと思ったわけです。

 

ここでもうちょっと詳しく書いてます。

mgkkk.hatenablog.com

 

 囲碁漫画の「ヒカルの碁」で、塔矢名人とどうしても打ちたいと言った幽霊の佐為に対して、ヒカルは佐為の存在がバレてしまわないように、15目差で大勝することを目標とさせるハンデをつけるなら…という条件付きで打たせるという展開がありました。同等の条件でも勝てるかどうかが分からない相手に、大差で勝とうと思えば、それは一見むちゃくちゃな碁になってしまいます。ただし、名人に対してそんな勝ち方をしようとする人がいるなんて思えないため、その真意に気づける人は普通はいません(塔矢名人は気づきましたが)。

 タイムパラドクスゴーストライターもこれと同じじゃないかと思っていて、そんなむちゃくちゃな場所を目指しているのならば、これまでのはちゃめちゃな展開をその解釈で読むことができるということに気づくわけです。そのスケールのデカさを目指しているならば、正攻法な面白い漫画を作ろうとしている編集者との意見が合うわけがありません。

 

 佐々木くんとアイノイツキちゃんの漫画を盗作してしまいましたが、その一方で、この物語の中で、他の誰にも理解できない同じ場所を目指している数少ない同志だということになります。そして、未来のジャンプが届かなかった場合の別の未来では、むしろ佐々木くんの描いた漫画がアイノイツキちゃんに影響を与えていたという事実も告げられます。

 

 このように、ありえないような理想の場所に向かって突き進む無謀な人たちであったということが分かったことで、この物語に対する理解が僕の中に生まれました。また「透明な傑作」は現実的にはあり得ない漫画であったとしても、漫画の中ならば存在することができると思います。

 それがどのように生まれるのか、生まれないのか?もし否定されるなら、どのように否定されるのか?彼らが目指すべきところはどこなのか?そして、そこに辿り着くことはできるのか?ということにとても興味が湧いてきました。

 

 例えば、そんな「透明な傑作」は、ひとりの力ではできなかったとしても、時空をゆがめてそれぞれの人が時代時代に積み重ねたものを継承し続けた果てには、もしかすると生まれ得るかもしれません。もしかすると、それがタイムパラドクスゴーストライター、時空の歪みの中で誰が生み出したのかも曖昧なままで生まれる究極のクリエイティブなのでは?などと想像したりしました(なお、この想像は全く外れています)。

 

 現代の漫画表現も、過去の様々な漫画家たちが生み出したものの上にある最先端です。ひとりの人間だけでは生み出せなかったものを、これまで読んできた沢山のものを取り込んで前に進んでいることに自覚的な漫画も沢山あります。例えば、ジャンプではチェンソーマンがそうですし、他には忍者と極道もそんな漫画だと思います。影響を受けたものを隠すことなく取り込み、推進力として、ひとりの人間のクリエイティブだけでは突破できない先に行こうとしている漫画です。

 

 この物語は、最終的にアイノイツキちゃんを救うことを目的とした物語だということが分かりますが、その過程の無数の試行錯誤があり、どうしても助けられない誰かを助けようとする無限の試行錯誤の中で、遂にはその透明な傑作が生まれたりするのではないのか?そして、それはいったいどういうものなんだろうか?ということを期待したりしていたんですが、実際、最後まで読んでみるとそういう感じにはならず、割と落ち着きそうなところに落ち着く話になってしまったように思いました。

 

 まだ完結巻も出ていないので、ここでは終わり方はぼやかしておきますが。収まりのいい話としては落ち着いたように思います。

 

 ただ、個人的にはどうせなら突き抜けて欲しかったような期待を勝手に抱いてしまっていたんですよね。爆走する車が上手い具合に駐車場に止まるよりも、なぜだかさらに加速して空を飛び、大気圏の外に飛び出してしまうような感じに。

 

 話を綺麗に収めてしまったのは、短く終わらせることになったからということも関係しているように思うので、もしもっと連載が続いていたら、どのような展開や終わり方をしていたのか?というところは気になります。

 

 僕は漫画をテーマ性みたいなもので読みがちなところがあって、僕が言うテーマ性とはつまり価値観のことです。何を良いと考えて何を悪いと考えるか。物語が何に寄り添っているのかという価値観が持つ個性に興味が湧いて読んでいることが多いです。

 漫画を誰のために描いていて、そこで何を描こうとしているかというのは、僕自身が漫画の同人誌を作るようになって考えることがある話で、だから分かる話だと思うんですよね。

 

 そういえば、僕自身の感覚はそれをそのまま漫画にしてみるかなと思って描いたやつがあります。

誰ガ為ノ草枕www.pixiv.net

 ここで描いたものは、同人誌でもあるし、結局自分は自分が読みたいものを描くしかないなと思って、それを同じく面白く思ってくれる感覚の人が他にもいるということを祈るという姿勢でした。それが自分にはしっくりきたんですけど、まあ狭い話だなとは思っていて、そういうところにも、なんかもっとでっかい何かに対する期待があったのかもしれません。

 

 タイムパラドクスゴーストライターは、せめてあと1巻分多く続いたら、もう少し駆け足でなく色々描けることもあっただろうになと残念な気持ちになりましたが、世の中は色々仕方ないので、仕方ないなと思います。

 何か僕が思いもよらなかった概念や、読んだ後、自分の考えられる範囲が広がるのではという可能性があっただけで十分面白く読みましたし、それが描かれるぐらいに連載が続いていればもっと良かっただろうなと思います。残念。

「ダンガンロンパ」と希望と絶望関連

 「ダンガンロンパ」、前からやろうかなと思いながらずっとやってなかったのですが、スマホ版が半額セールをやっているのを聞きつけてついに遊び、クリアしました。

 

 ダンガンロンパに対する事前情報をほとんど持っておらず、色々勘違いしていたところがあって、なんとなくのイメージとして普通の学園生活の中で何かの事件が起こって、学級裁判の中で解決する話なのかなと思っていたのですが、全然違っていて、デスゲームだったのか…と思ったのが遊び始めて最初の驚きです。

 

 ダンガンロンパは、日本全国から超高校級の才能を持った人たちが入学する高校に、たまたま入学できる運が良い人(超高校級に運が良い人)として主人公が入学するところから始まる物語です。学園に入ってすぐに意識を失ってしまい、次に目が覚めたときには学園の様子は変貌していました。全ての窓は金属でしっかり固定され、外の様子は分からず、外への扉も閉じていて、出ていくこともできません。

 そこに現れたのは謎の人形モノクマです。彼はそのとき学園にいた15人を集め、誰かを殺した人間だけが外に出ることができるということを教えるのでした。しかし、ただ殺すだけではダメです。人の死が確認されたあとに開催される学級裁判の中で、自分が犯人であることを暴かれないということが条件です。

 主人公たちは、次々に死んでいく同級生と、その犯人がこの中にいるという状況の中で、生き残りをかけた推理バトルを行います。

 

 ダンガンロンパの学級裁判における推理バトルの特徴的なところは、そこに時間制限とアクション性があるということでしょう。そして、裁判の沢山の参加者が次々に発言する中で、事前に調査して獲得した証拠、あるいは、他の人から採取した発言を弾丸として、流れてくる別の発言に撃ち込んでいきます。

 ダンガンロンパで巻き起こる事件は、割と親切に証拠が提示されるので、裁判開始前に真相の7~8割は分かっている状態になっています。

 ただ、この大体分かっていると思っている状態で挑んでいるはずなのに、時間制限やアクション性と組み合わさるとゲームの難度が結構変わるのが面白かったです。なぜかというと、落ち着かない状態にさせられると僕自身の思考能力が低下するからです。自分の頭の中にある真相を、目の前の他の人たちの会話の中で、どのように提示すれば上手くプレゼンできるかを判断しないといけませんが、手元の操作に気をとられて、思考が上手くできなかったり、タイミングよく指摘できなかったりして、実生活で喋っているときにもこういうことはよくあるなと思いました。

 

 ただし、これはゲームなので、同じ会話が何度もループしてくれます。あと、ゲージを消費しながら会話の流れを遅くするボタンがあったのですが、スマホのインターフェースだと、画面をタップ操作に気をとられて、僕が終盤までその機能を使っていなかったのが、勝手にゲームの難度を上げてしまっていました。

 

 そして、相手を追い詰めるときには何故かリズムゲームとなり、最後の真相当ては、事件を描いた漫画の抜けている部分に、手持ちのコマを当てはめて、分かっているかどうかを確かめられます。

 

 推理が様々な形でゲーム化されていますが、その背後にあるのは、ゲーム側からプレイヤーへの「お前、ホンマに分かっとるんやろな?」という問いかけだと思います。推理のゲームとはつまり、与えられた材料からプレイヤーが自分の頭の中で真相を想像するということ、そして、ゲームのインターフェースを通じて、自分が真相を分かっているということをどうすればゲームに伝えられるかというコミュニケーションです。

 ダンガンロンパは、「はっはっは、おれは真相分かったで!」と自分が思ってから、その事実をゲームに分からせるという部分で大変な気持ちになったりします(僕がゲームが下手だから)。そして、真相に至るための情報は十分に与えられますが、そもそもの謎の構造として、学級裁判の中で初めて与えられる情報で明らかになることもあります。

 つまり、事件の真相を究明する中で、どうしても事実関係がイマイチぼんやりした部分があり、ぼんやりしたままで推理バトルが始まってしまいますが、途中で明らかになる事実を自分の頭の中で組み立て直し、完全な真相を理解し、そしてそれをゲームを通じて表現していくことが求められるわけです。

 これ、結構難しいと思うんですよね。なので、僕は楽しく遊んだものの、自分の親(ゲームをテトリスぐらいしかしない)に遊んでみてよと薦めるか?というと、難しくて上手く遊べないのでは?と思ったりもしてしまいました。ただ、これは自分がギリギリプレイできる人間だと思っているということで、難度設定が適切なんだろうなと思います。人間は、目の前の課題が簡単すぎると退屈しますし、難しすぎると最初から諦めてしまうので、自分がギリギリクリアできるぐらいの課題を好むと思うためです。

 

 さて、ダンガンロンパの魅力の大きな部分は、物語の意地悪さや、その中で生き、そして死ぬことも多いキャラクターの強さではないかと思います。

 基本的にひとつのエピソードで誰かが殺され、その犯人もまた生徒の中にいます。そして、それぞれの生徒とはサブイベントとして個別に交流を深めることができます。仲間の誰かが死ぬことは嫌ですし、その犯人が仲間の誰かであるということが本当に嫌なんですよね。このゲーム、プレイしなければ誰も死なずに済むのでは??とまで思ってしまいます。犯人を見つけることは必要なプロセスですが、見つけられた犯人は、モノクマによってとても残酷に、悪ふざけのように処刑されてしまいます。

 

 死んだと思った人が生き返ることもありません。人の死はゆるぎなく、ただの死です。それが起こる中で、閉鎖環境の学園生活を送るということの奇妙さを体験することになります。

 

 好きになったキャラクターが次に殺されるかもしれません。好きになったキャラクターが次に殺人犯になるかもしれません。その中では、誰かを好きになることそのものに虚無性を感じてしまうかもしれません。それはひょっとしたら絶望かもしれません。何かをすることに虚無性を感じてしまったとき、もう何もしないことを選んでしまうかもしれないからです。

 この物語は、絶望と戦う物語だと思います。このような極限状態でなくとも、この世には多くの絶望の種があります。そんな世の中で誰しも生きているはずです。

 

 この物語は、絶望が病のように蔓延する学園から脱出する物語です。その脱出はつまり希望のはずです。では希望とは何でしょうか?それは、外の世界に約束された幸福が広がっていることでしょうか?おそらくは違うはずです。幸福が約束されていることが希望なら、どうしようもない世の中には希望なんて一欠片も存在しないことになってしまうからです。

 僕の考えでは、希望とは扉の外に出ていく意志のことです。歩みを止めないことが希望です。扉の先に待っていたのが地獄であったとしても、その外に出て行こうとした人の意志こそが希望です。寄生獣の泉新一くんも言っていました。

 

「なんだ…ほとんど可能性ゼロに近いじゃないか!…でもやらなけりゃ…確実なゼロだ」

 

 これがきっと希望なんじゃないかと思います。ここでやる方に決められる気持ちが人間の希望です。そして、どうせ可能性はゼロに近いからやらないことが絶望です。そんなに大した違いじゃないのかもしれません。気持ちを時間で微分した加速度が上向きか下向きかということが希望と絶望なんじゃないかと思っていて、その先にあるかもしれない幸福や破滅は、その瞬間瞬間を積分した結果みたいに思うんですよね。なんかゲームの話とは違ってきましたが。

 

 世の中は結構ダルくて、やったことが徒労になったり、よくなる将来が思い浮かべられなかったりすることがあります。瞬間瞬間は希望を感じても、それ以上の絶望的な気分に押しつぶされそうになることもあります。その嫌な感じが、ダンガンロンパを遊ぶ中にもあって、どうせ死ぬんだから仲良くならなくていいじゃんとか、どうせならシナリオ的になかなか死なない相手と仲良くなればよかったとか、思っちゃえるような気もするんですけど、個人的にはそれはなくて、人はいつか死ぬし、大切な人が豹変するかもしれないけれど、瞬間瞬間希望的な気持ちになれることが重要じゃんとか思うところがあったりします。

 だから、この人と仲良くなるかと思った人には話しかけてプレゼントをあげまくり、その人が死んでは、うぎゃーとショックを受けたりしながら遊びました。

 

 その希望の扉の先、一瞬の後に仮に絶望的な死が待ち受けていたとしても、その扉をくぐるときには、生きる気持ちで生きるということ、そういうのがいいじゃんと思うところがあって、ダンガンロンパをクリアしたときに、そんな感じのことを思いました。

 そういうのがどうしようもない絶望を強いられたときに打ち勝つ力なのかな?と思う感じなのですが、これがこのゲームをプレイして思うべきことなのかどうかは分かりません。

 

 ただ面白かった。好きなキャラは腐川です。

「少年ハリウッド」とアイドルは神か生贄か関連

 少年ハリウッドのアニメ1期、2期を観終わったあと、最終回の完全版を観て、その後、小説少年ハリウッド完全版を読みました。

 でも、まだこの少年ハリウッドというものがどんなものだったのか自分の中で測りかねています。ので、文章を書きながら自分の中で整理をしていこうと思います。

 

 少年ハリウッドは、原宿にあるハリウッド東京という劇場を拠点として毎日のようにライブをする少年ハリウッドという男性アイドルグループを主人公とする物語です。厳密には彼らは2代目で、かつて存在した少年ハリウッド(なお、小説少年ハリウッドはこちらの話)の名前を引き継いだ新生少年ハリウッドです。このアニメの物語では、ざっくり言えば何でもなかった少年たちがアイドルになっていくという過程を描いており、その結実が最終回のクリスマスライブとなります。

 

 僕が今ひとつ納得のいく受け止め方に至っていないのは、最終回を迎えた少年ハリウッドのメンバーたちが、本当にこれでよかったのか?ということに疑問が残るからです。いや、最終回とその完全版を観て、よかったなあと思うのですが、その自分がよかったなあと思ったことがよかったのかどうかという疑問があります。

 

 それは作中でも、「アイドルは神か生贄か」という語られ方をしていたことからも、意図的なのではないかと思っています。僕はアイドルとなった彼らの姿を観ながらも、同時に彼らが生贄としての役割も果たしているということについて自分の中で上手く捉えられないのではないかと思いました。

 

 客席のファンに向けて彼らが見せる姿は、彼らの実態とは異なります。彼らはアイドルでいるときに、アイドルという役割を果たしているからです。彼らのお決まりの自己紹介のパフォーマンスも、自分自身で考えたものではありません。彼らはその珍奇とも思える自己紹介に最初困惑し、そして、後に自分の言葉のように堂々とやって見せるようになりました。そして、舞台の裏側で、ファンたちが自分たちを見る目線が、素の自分以外の何か別物を見ているように思えることへの困惑も描かれたりします。

 

 ここで、僕が思い出すのは大森靖子の「マジックミラー」という曲です。

あたしのゆめは
君が蹴散らしたブサイクでボロボロのLIFEを
掻き集めて大きな鏡を作ること
君が作った美しい世界を
みせてあげる

  この歌は、お客さんのいる舞台に立つ人の覚悟を歌ったものだと思っています。つまり、客席の人たちが舞台に立つ人に向ける目線は、実は客席の人たち自身の心の中にある世界の写し鏡であって、舞台に立つ人そのものではないということ、そこに自覚的な話なんだと思います。それはあたかもマジックミラーのように、舞台から客席は見えても、客席からは客席にいるそれぞれひとりひとりに合わせた鏡しか見えないということです。

 そして、舞台に立つ人は、自分がそんなマジックミラーであることを自覚して、そのためにこそ舞台に立つということが歌われているんだと思います。

 

 少年ハリウッドのメンバーたちもこの心情に近いのではないかと思っていて、その覚悟というか、そうすることが彼らの理解するアイドルという役割であって、そのようなアイドルになってゆくという様子に観ていて、実際僕の心は動きます。

 ただ、こういうことを考えるのがいいのかは分かりませんが、彼らがまだ子供という歳であることが自分の中でひっかかっていて、子供に大人を含めたファンたちがそんなことを背負わせる?という疑問と、しかしながら、アイドルはその子供から大人になる一時期にだけ期間限定で続けることができるものであったりするという構造的などうしようもなさも感じたりします。

 

 つまり、このようなアイドルという概念は、ファンは喜んだとしても、アイドルをやる人々にとっても果たして素晴らしいことなのかということに疑問を持ってしまいました。それはたとえ本人たちがそれを肯定的に捉えていたとしても、もしかすると、搾取でしかないのかもしれないと思うということです。僕にはそれがよく分からなくなってしまったんですよね。

 現実にいるアイドルでも、続けることや辞めることの周りで巻き起こるゴタゴタが目に入るわけじゃないですか。

 

 そして、少年ハリウッドは、その部分をごまかさずに描くということをすることが特徴的な物語であるように思いました。普通の人間でしかなかった人たちがアイドルをやるということについて、表に見えることと、背後に隠れていることがあり、その両方を描くということです。

 

 最終回にあるライブでは、それまで表に出ている部分しか見ることができなかった客席のファンたちと違い、自分は、彼らのこれまでをずっと見てきたんだぞという、客席の後方で保護者面しながら腕組みをしている人間となっていました。そして、この物語はドキュメンタリーのようなものであったのだなという理解があったのです。

 

 アニメの中には、一話丸ごとテレビ番組を模した構成のものがあったり、最終回の完全版は、完全にライブそのものを再現する構成なので、感覚としては、少年ハリウッドのみんなの晴れ舞台を見ている気持ちなんですよね。様々な困難があった中で、彼らがアイドルになっていったこと、そして、この先に繋がっていくであろうことを信じて送り出すような物語でした。

 

 適当にまとめたような書き方をしましたが、全然自分の中ではまとまってないなと思ったのでまだ続きを書きます。

 

 少年ハリウッドが面白く感じたのは、アイドルの物語なのに、最初のシーズンの13話ではそれを見るファンの姿があまりなかったことです。僕の理解では、アイドルという概念には、それを見るファンの存在が必要不可欠で、ファン⇒アイドルの目線と、アイドル⇒ファンの目線がぐるぐる循環してこそアイドルなのでは??みたいな気持ちがあるんですが、前半はそれ以前の物語であるように思ったんですよね。

 

 まだアイドルでない少年ハリウッドのメンバーには、答えるべき他者からの視線がまだありません。だから、13話までの彼らの姿はある意味滑稽にも見えます。伝える先の見えない言葉を発しているからです。そして、それは視聴者にとってもそうだと感じました。

 アイドルとファンの関係性はある意味、内輪の話だと思います。そして、視聴者は最初、その外にいるわけです。だから、彼らの内輪に向けた言葉が、それが届かない相手に向けて発せられているときに、それを見ている僕が恥ずかしくなってしまうこともありました。

 

 アイドルになるための歌やダンスや自己紹介の練習をしながらも、そのときの彼らにはまだ、それを誰のためにやることなのかが分かりません。しかし、物語の後半の13話からは、ファンとの距離感が描かれ始めます。例えば第16話の「本物の握手」では、劇場に来れば握手ができるアイドルという立場とファンの距離感について描かれたお話で、アイドルとファンは、対等な人と人としてではなく、あちらとこちらとして隔てるものとして存在することが意味があるという示唆があります。

 「カッコいい男の子と、ひょっとしたら対等な恋愛関係になれるかもしれないと思って劇場に通う」ということは、実はアイドルを普通の人間として捉えているということで、つまり、アイドルからアイドル性を剥ぎ取ることだということです。目の前のアイドルがどんどん多くの人にとってのアイドルに成長していき、今日この時、握手のためにアイドルの時間を少しだけもらったことが、将来、もう手の届かない、どんどん価値のあるものになっていくという想像こそがアイドルのアイドル性には存在するのではないかという示唆です。

 

 新生少年ハリウッドの前には、初代少年ハリウッドがいます。彼らは解散後のそれぞれの人生があることも描かれます。芸能界に残る人もいれば、他の仕事を見つけている人もいます。彼らはアイドルでありましたが、もうアイドルではありません。アイドルは人生のある一時期にしかできません。しかし、アイドルという物語は、その役割が人から人へと受け継がれていきます。

 新生少年ハリウッドもきっといつか終わりが来る物語です。

 

 アイドルの起源をずっと辿れば、それは例えば巫女のようなものなのかもしれません。太古の昔から今でいうアイドル的な存在はあったのかもしれないということです。つまり、そのようなアイドル的な存在は人間社会で何かしら必要とされてきたのではないでしょうか?

 巫女は自分の言葉ではなく、何かしら超自然的なものの媒介となる存在です。だから、人であって人ではないことに意味が見出されます。ネパールにはクマリという役割があって、初潮前の女の子が生きた神さまとして信仰の対象となったりしています。
そして、クマリは人権侵害であるという議論があります。

 

 アイドルは神であり、生贄でもあるのかもしれません。でも、それは全て、そのアイドルを見るファンたちに対しての奉仕者という意味で共通しているように思います。それは尊いことかもしれませんが、バランスを崩すと酷い話にもなり得ます。

 

 僕の考えでは、人間には接する相手によって多面性があります。誰かと接するときには、その人用にカスタマイズした人間性があるということです。他人に対して冷徹な人が、身内に対して愛情あふれるとき、どちらかが本物なのではなく、人は接する相手によって別の自分を持っているという理解を僕はしています。

 ネットで暴言を吐いている人が、実際会ったら良い人だったという話も聞いたりしますが、どちらかが本当ではなく、ネットで接している相手と、直接接する相手では別の人格が出来上がるものだと思うので、不思議ではありません。

 だからこそ、自分が誰と接しているときにどのような人間性なのか?ということに自覚的になります。誰かが好きと思うとき、その人が好きという話だけではなく、その人といるときの自分が好きということがあると思うわけです。これは昔から感じていたことですが、最近、女優の蒼井優さんも同じことを言っていたという記事を読んだので、おい!僕だけの考えじゃないぞ!あの有名女優も言っとるぞ!!という感じになりました。

 

 なんでこういう話をしているかというと、つまり、「アイドルを見ているときの自分が好き」ということがあると思うわけです。そして、アイドルは、そんなファンとしてなりたい自分にならせてくれる特別な存在なのではないでしょうか?

 もし、アイドルが一人の人間として目の前にいた場合、それはやはり一人の人間なので、上手く行かないこともあると思います。でも、アイドルがアイドルとして目の前にいるとき、それは、前述の自分の写し鏡として、自分が心地よい状態をしてくれる存在となってくれるのかもしれません。

 アイドルのファンである自分が好きであるということがアイドルの現場によって保証されているならば、アイドルは必要な存在です。だから、アイドル的な存在が世の中には存在しているのではないかと思ったということです。

 

 新生少年ハリウッドを作り上げた社長は、初代少年ハリウッドのメンバーでした。それはつまり、社長はアイドルとファンの関係性を維持する場所を保とうとしたということだと思います。社長もまた、アイドルという奉仕者として生きてきた人で、そして、その場所に意味があることを理解していたのではないかと思います。

 

 アイドルという場所は、時代時代にその象徴となり得る若者を喰らいながら維持されているように思いました。なぜなら、それを必要としている人がいるのだから。

 

 この新生少年ハリウッドという人生の一時期が、将来の彼らにとって良い時間になるかどうかは分かりません。この先、少年ハリウッドに青春の重要な時間を投入したことを後悔する人も出てくるかもしれません。その可能性もあることが描かれていたと思います。それでも、彼らはアイドルとして自分たちの意思で舞台に立ち、ファンとアイドルという輪を維持することを選びました。

 

 それは、良し悪しではないわけです。おそらくそういう話ではないわけです。ただ、そんな場所がここにあったという話なのではないかと思いました。アイドルとファンによる輪が存在しているという話で、そして、視聴者である自分自身も、その場所を構成する要素のひとつです。

 初めは外から眺めていたはずの物語を、気づけば内輪の中から見るようになっていました。見ているだけで気恥ずかしかった自己紹介のパフォーマンスも、今ではやってくれると嬉しく感じます。新生少年ハリウッドのメンバーがアイドルとして変化したように、視聴者である僕にも変化があったことを感じることができます。

 なので、僕自身にとっては良かったなと思いました。そして、そんな自分にしてもらえる少年ハリウッドはいいアニメだなと思いました。

「メダリスト」の第3話をめっちゃ良く感じた関連

 「メダリスト」はちょっと前からアフタヌーンで始まった漫画で、フィギュアスケートの漫画です。

 主人公の一人は司くんという、選手を引退し、アイスショーのオーディションに落ち続け、コーチに転向する誘いを受けている青年です。そして、もう一人の主人公はいのりちゃん、スケート場の人の厚意で、一人でスケートの練習をしていた小学生の女の子です。早く始めた方がいいと言われているフィギュアスケートの世界で、指導を受け、本格的にスケートを始めるには、小学5年生のいのりちゃんは年齢的に遅いと言われています。

 実は、司くんもかつてそんな始まりが遅かった一人でした。自分がもっと早くからスケートを始めていれば、今の自分とは違っていたのではないか?ということを考えています。

 

 この物語は、いのりちゃんがスケートを始めたいと口に出すことから始まる物語です。世界一になりたいと口に出すことから始まる物語です。そして、その姿を前にして、司くんがコーチの道を歩み始める物語です。

 

 この話が描いているもののひとつは、「抑圧のある中で生きていくこと」なのではないかと僕は思っています。いのりちゃんがスケートを始めるまでにあたっては、様々な抑圧があります。それは例えば自分の親であったり、他人の親であったりします。成功できるのは一握りの狭き門に、小さい頃から人生を賭けている子供が沢山います。例えば、誰かがコーチに贔屓にされているということは、別の子供の親からすると批判の対象になります。だから、いのりちゃんを褒めてかかりきりになる司くんの姿は批判の対象にもなります。

 それは嫌な話だなとも思いますが、視点を変えれば、割とどうしようもなくあるものです。人はそういうことを思ってしまいます。口に出さない方が平和的ですが、口に出されてしまうこともあります。自分が出してしまうこともあります。

 自分以外の誰かの都合に基づいた抑圧を避けた先にあるのは、その誰かの都合によって舗装された道でしょう。それは、自分の歩きたい道とは違う可能性が高いです。

 

 いのりちゃんの前にはそんな道があります。そこを歩いていたら、スケートには到達しません。だから、その抑圧に舗装された道路を踏み外さなければなりません。そこに必要なのは、いのりちゃん自身の意志と、踏み外した先に、別の道を舗装してくれる大人の存在です。それを司くんが担ってくれるのがこの物語なんだと思います。

 

 で、3話がすごく良かった話をしたいんですけど、いのりちゃんが大会に出るにあたって、練習の方向性が2つある状況になります。司くんはそれに対して「どっちを選びたい?」と問いかけます。そして、つかさちゃんは不安げに司くんを見返し、司くんがどう思うかを確認しようとしてしまいます。

 「俺の意思を読もうとしちゃだめだ」、司くんはそんないのりちゃんにこんな言葉を返しました。なぜならば、いのりちゃんに自分で「選択」をするということに慣れて欲しかったからです。

 世界一になりたいという夢を持ついのりちゃんがその道を歩み続けるなら、その先には、きっと無数の選択肢が現れます。そんなとき、いのりちゃんの前には、色んな意見を持った大人が現れるはずです。その中の誰かが教えてくれる「正解」を選べば、目指す先に繋がるでしょうか?自分で選択することを放棄して、誰かが本当の正解を教えてくれるなら楽な話です。でも、人は神さまではありませんから、誰かが真に正しい正解を知っていることはありません。

 だから自分で選ばなければなりません。自分の進む先を自分で決めることなしに、自分が願う先に繋がること、そして、もし繋がらなかったときにそれを自分で受け止めることはできないと思うからです。

 

 かといって、子供にその選択をさせることは重たいことです。だからこそ大人がいるのでしょう。どちらの選択をしたところで、大人がそれを尊重し、サポートしてくれる環境があることが、選択するということから恐怖を取り除いてくれます。そして、司くんはそういう大人なんですよね。

 

 今この場での選択は全てを決めるものではないかもしれません。でも、これから先も様々な選択は続いていくはずです。だからこそ、そこから逃げない心を作ることが大切であると描かれていることが、僕はとても良く感じました。この物語の中に、そうすることが良しとされている価値観があるということが良いと感じたということです。

 

 それを良く思うということは、そうあってほしいのに、世の中があんまりそうじゃねえなあって思っている僕の個人的な感覚の裏返しかもしれません。誰かに選択を求められるとき、そのどちらかが正解かの圧力を感じる時があります。間違いの方は、形式的に提示はされても選べないことも多いわけです。

 そして、そんなやり取りを大人から繰り返されてきた人は、間違いを選んでしまうことのペナルティに怯える学習をしてしまったりします。そのせいで、相手が正解を持っているということを勝手に前提としてしまい、それを探るようなコミュニケーションに特化してしまったりすることがあるように見ています。

 

 実際、大学の先生とかと若者の話をしてるときに、若者が先生が正解を知っていると思って、それを探るような喋り方をするという話を聞きました。僕自身も仕事で若手と接するときに、立場の違いからこちらの意見が強くなってしまい、平場で話せなくなることを危惧しています。自分が言うことがその人にとってのそのままの正解になってしまうことは良くないと感じているからです。

 なぜなら、誰かが正解を示してくれるから、それに従っていればいいんだという考え方は、それが正しいかどうかを追究する姿勢であったり、その正しさを検証するプロセスであったり、それを正解にするために邁進する姿勢に繋がる道を閉ざしてしまうと思うからです。

 

 「魚を与えるのではなく、釣り方を教えるべき」という話がありますが、その、釣り方を教えることも不足しているのではないかと思っています。つまりそこにはまだ、どうすれば魚が釣れるかを考えることや、なぜ魚が必要であるかを考えること足りていないのではないでしょうか?

 それがなければ、誰かが敷き詰めてくれた道の上しか歩けません。そして、その道が、未来永劫最善の道であることは誰にも保証できないのです。

 

 なんかそういうことをもやもや思っていて、指導するということが、指導される側からどんどん考える力を奪っているような実例も見ていたりして、そのやり方は良くないんじゃないかと近年よく思っています。

 指導される側に、指導する側が想定している正解以外を選ばせないでいると、そうやって人を抑圧するのに長けた人の考えを反復するだけの集団になってしまうんじゃないかなと思います。その場合、せっかくたくさんの人がいるのに、結局そこにあるのは一人の考えだけじゃん…みたいに思ったりするんですよね。

 

 と、僕自身の愚痴が混ざり込んできましたが、メダリストで描かれているのはスケートの話で、でも、背後にはこういった人が他人からの様々な抑圧を受ける中で、どうやって自分の道を歩んでいくかが描かれているように思いました。ならば、それはきっと普遍的な話ですよね?

 だからきっと、ここにある精神性は誰にでも分かる話だと思うんですよ。

 

 世の中で、コスパなんていう話が出てくるとき、つまりは、「最初から正解を教えてくれ」という話だったりします。世の中には分かりやすい正解があるものばかりではありませんが、それがあると思っている人はいるわけです。

 ネットで炎上するなんて話でも、よくよく見てみれば、それはただの立場や価値観やそれによる意見の相違であって、どちらが悪いという話ではない場合もあると思います。そこでは、「アナタはこちらの考える正解に則していないから批判されているんだ」というようなことになっていたりするんじゃないでしょうか?

 場の主導権を握って、数が多い方が正解を規定し、それに合っていないからこそ批判をされているという話です。村の掟ですよ。沢山の人から批判をされたくなければ、その「正解」以外のことを口にしてはならないというような空気が作られてしまうのも、なんか気に食わないですよね。ですよねっていうか、僕が個人的に気に食わないんですが。

 それは立場が弱い者から選択するという力をどんどん奪っていくものだと思うからです。

 

 そういうことを日々感じながら、そういう中でやっていかなくちゃならねえみたいな気持ちがあって、その気持ちの中で読んだメダリストの第3話は、すげえ良かったなと思いました。

 9月に第1巻が出るそうです。チェケラ。