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面白奉行とスベりフリー関連

 僕が「面白奉行」って読んでいる行為があります。それは人が集まっている場において、他人の言動について、何がおもしろいとか何がおもしろくないとかをジャッジする行為なのですが、これがあんまりよくない使われ方をされているのを昔よく見ました。

 おもしろをジャッジするとは、例えば、他人の話について「オチは?」と聞いてきたり、「スベった」と認定してきたりすることです。

 

 大阪に住んでいたときには、「おもしろい人である」ということが、他の土地よりもより意味を持っていたと感じていて、特に若い男なんかは、おもしろい人間であると思われたいと思いがちであったように思います。そのためにおもしろいことを積極的に言おうとすることは、僕は基本的に良いことだと思っていて、なぜなら、周りの人が笑うようなことをお互いに言い合うような場所は楽しいからです。

 

 ただし、ここで注意しないといけないことは、おもしろいことについての絶対的な尺度はないということです。100人いたら100人が笑うおもしろいことということはなく、それぞれの人には何をおもしろいと感じるかという感性があります。また、人間の性質として、100人いたら5人ぐらいしか笑わないことの、その5人に自分がなったときに強烈におもしろくなったりもします。

 だから、おもしろいことを言うということは、きっと目の前の人が何をおもしろいと感じるかに寄り添うということでもあって、そこには他者とのコミュニケーションの問題がある気がするんですよね。

 

 だから、ある場所でウケている人が、他の場所に行くと全然ウケないことも普通にあります。人が何で笑うかには様々な下地が必要だからです。何かしらの共通認識が下地となったおもしろは、それがない場所では伝わりません。そう思うと、お笑い芸人が、舞台の上やテレビの中で、自分が笑わせようとしている相手が誰かを明確に認識することなくお笑いをやることの難しさについても考えることになるわけです。

 個人的な経験としても、インターネットで、この人は面白いなと思う人が自分と同年代であることが分かることが多くあります。それはきっと、世代的な共通の下地を持っていることが多いからではないかと思います。そう考えれば、自分より世代が上だったり下だったりする人たちが、もし自分が分からないことで笑っていても、それは、そこにそれぞれ独自の下地があるからで、決してつまらないことで笑っているわけではないという理解ができます。

 

 さて、話がめちゃくちゃずれたので面白奉行の話に戻しますが、面白奉行とは、他人のおもしろをジャッジする行為であるとともに、「自分、お笑いのレベル高いですよ?」とアピールする行為となることがあります。

 この使い方は危ない行為だと思っていて、おもしろい人はすごいという価値観に寄り添う上で、「他人をおもしろがらせる」というやり方ではなく、「他人におもんないと言いまくることで、相対的に自分がおもしろい人であるということを示せる」と思い込んでいるということです。

 ただ実際、それが効果が出ることもあって、特に年長者や立場的に強い人が面白奉行行為をしてしまうと、立場の弱い人たちは、自分の言うことがおもしろいと判断されるのか?ということに委縮してしまい、口数が少なくなってしまったりします。というか、大阪に住んでたときに、こういうことがちょいちょいあったんですよね。

 場におけるおもしろいおもしろくないを立場の強い人が面白奉行として一手に握っていていることはあって、でもよくよく考えたら、その面白奉行、他人を全然笑わせてなかったりもするわけです。結果として起こるのは、その「別に他人を笑わせることができない人」が、自分はおもしろのレベルが高いとアピールするために、場からおもしろをどんどん減らしていくということになります。辛い。

 

 前述のように、おもしろの尺度は多様です。全世界の誰も笑っていなくても、ひとりの人が自分自身で心から爆笑できていれば、それはきっとおもしろであるはずです。ただ、その人からすれば、世界の残りの全てはおもんないかもしれません。

 それは、その人の中で閉じているなら全然いいんだと思います。そして、より多くの人がおもしろいと感じるからこそより意味があるとも限りません。100人が100人おもしろいと思うものと、100人のうち1人しかおもしろいと思わないものの間に根本的な優劣はないわけです。あるとしたら、「より多くの人を笑わせた方が勝ち」というような、別の価値観を流し込んだ場合でしょう。それだって、100人がどの100人かによって結果が全然変わってきてしまうことです。

 

 ただし、何らかの場においては、この辺に考える余地があると思います。おもしろに優劣も貴賤もありませんが、その場が全体として結果的に楽しくなるかならないかという差はあり、僕はあまり楽しくない場所にはいたくないので、この手の面白奉行行為をされると非常に嫌です。

 誰かをおもしろくないと言うことで自分をおもしろい人間であると言えるのであれば、周りの全員をおもしろくないと思う人が一番おもしろいことになります。さらに、他人を笑わせることから一番縁遠い人がおもしろいということになっている場所だったりするとき、その場所ってめちゃくちゃ居心地が悪くないですか?

 

 だから、僕はそういう場所からはスッと逃げるか、面白奉行を完全に無視するかみたいな感じになってしまったりするんですよね。

 

 今ここで出した面白奉行行為についてはとても極端な例示です。誰しも心の中に、ある程度の面白奉行は飼っているでしょうし、他人のおもしろについてジャッジしてしまうのは、ある程度は仕方ないとも思います。その上で、皆がいる場所で、どの程度のことをやっていくかが、まさにコミュニケーションなんだと思うんですよね。

 場にいる人がどのような人でも、絶対に勝てるやり方はありません。そこには自分の価値観と相手の価値観があって、その相互作用を読み取って、場所をいい感じの雰囲気にしておくことが求められているんじゃないかと思います。

 そのために必要なのは、自分がおもしろい人であるということをアピールすることではなく、目の前にいる相手を笑わせようと思うことなんじゃないかと思っていて、そういう気持ちでいる人が集まると楽しい場所ができる感じがしています。

 

 だから、僕は大阪に住んでて、気の合う友達と一緒にいる時間はめちゃくちゃ楽しかったです。

 

 面白奉行への対抗策として、存在しているのは「スベりフリー」という概念です。おもしろいおもしろくないのジャッジはどうしても完全には無くせないと思いますが、それが無くせる特殊な時間と空間がスベりフリーです。それは、今からスベるという概念は消失しましたと宣言することで、誰がどれだけおもんないことを言っても、それを一切否定しないという時空間をあえて作ることで、皆が好き勝手ものを言うようになるんですよね。常にそれだとアレかもしれませんが、これがたまにやるとめちゃくちゃ楽しいんですよ。

 自分の中で、これはおもんないなと思って外に出さなかったようなことを、うっかりスベりフリーに乗じて出してみると意外とウケてしまったりして、自分自身のジャッジは当てにならねえ!と思ってしまったり、友達が思ってたけど言わなかった新しい側面を出してきたりして、まあとにかく楽しくなります。

 なので、スベりフリーはすごくオススメです。

 

 おもしろの話をしてきましたが、これっておもしろに限らない話だとも思います。例えば、漫画や映画、ゲームに対しても、何かをおもんないと世の中に向かって発言する人が、「自分はその作者よりもおもしろの本質に近い」と思っていることがあると思います。それはきっと、その人の個人としての頭の中に閉じていればそうなのだと思います。しかし、何をおもしろいとするかの絶対的な基準が世間的にその人であることはありません。

 

 ある種の批評家が嫌われるのも、そのような理屈だと思っていて、つまり「自分がその分野で秀でているという自己アピールのために、他人が作った何かをおもしろくないと言っている」という態度が、どれだけ出ているか?(より正確には、出ていると思われているか?)という話ではないかと思います。

 ただし、そのような気持ち自体は誰しもの心から完全には分離できないとも思います。だから、自分で振り返る気持ちがあるかないかという感じもしていて、自分も振り返った方がいいなと思ったりするんですよね。

 

 誰の心にも少なからず面白奉行はいると思います。でも、面白奉行だけに囚われてしまうと、場がめちゃくちゃ楽しくなくなっていく感じがしていて、僕はそういう場所にいるのが嫌だなと思ってしまいます。

 ただ、どうしても面白奉行は完全には分離できないわけじゃないですか。だから、付き合っていくしかないんですけど、たまにスベりフリーをやると、そこから一時解放されたりして楽になったりしますよという話でした。