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他人の創作物を批判する自由関連

 公開された創作物を批判する自由はあるか?という問いに対しては、そりゃあるでしょうと思います。誰にも他人の感じ方をコントロールする権利などないでしょうし、口をふさぐ権利もないと思うからです。法に触れない範囲ならば。

 

 ただし、それを発言した場合には何かしらの反動もあるものだと思います。批判というものがその創作物とは異なる価値観の提示でとどまっていればいいですが、相手の価値観を変えることに踏み込まれるということは、相手の口をふさぐということにもなりかねないからです。

 自由であるということは時折、そうであることが他の自由を侵害することがあります。そのとき、どちらの自由が優先されるべきか?という問いがそこに発生します。

 

 何かを良いとか悪いとか判断するとき、そこには価値観や目的があります。身長は高いか方が良いか悪いかという話をするときに、高いところにあるものをとるという目的があればとりやすくて良いとも考えられますし、天井の低い部屋で過ごすという目的があるなら動きにくくて悪いとも考えられます。物事には良い面と悪い面があり、それが明らかになるのは、何を目的として考えるかという価値観とセットです。

 つまり、世の中には価値観が異なる人がいるという当然の前提に立てば、ある創作物は良いということと悪いということは同時に成り立つことです。

 

 仮に100人のうちの99人が悪いと評価したとしても、良いと評価した人が1人でもいれば、その1人にとっては良い創作であったと言えるでしょう。その1人のために作りたいと思った人がいるならば、仮に99人に悪いと批判されたとしても、それらの批判は別に無視してもいいことなのではないでしょうか?

 もし、99人の方にウケる方が正しいと思うのであれば、それは自分が99人の中にいるということを当たり前に感じ過ぎて、自分がいるある種の偏りのある価値観がこの世界の全てだと思い込んでいるというだけだと思います。

 

 みんな違ってみんないい。価値観同士がぶつからないように孤独に暮らせば、あるいは同じ価値観を共有できる人だけで暮らすならばそれで問題がないわけです。批判に対しては「あなたの価値観ではそうなんですね」と思って、その人から離れればそれで終わりです。

 

 一方で、多様な人たちが同じ空間を共有せざるを得ない場合では、実際的にはその取扱いは難しくなります。

 万人に共有できる価値観が存在しないのに、同じ空間は共有しなければならないとき、そこに存在する価値観とは何でしょうか?理想論ではなく現実にある話では、その場で強い力を持つ人の価値観が優先されることも多いです。その人とは異なる価値観を持つ人は、力が弱いために自分が好まない価値観にさらされながらその空間を利用するはめになります。

 もう少し民主的ならば、できるだけ多くの人が理不尽な思いをしなくてもいい価値観が選ばれるかもしれませんし、さらには少数の人にも配慮できる価値観を選び取って貰えることもあるでしょう。

 

 そんな共有地で発生する批判もあるわけです。場で共有されている価値観があるならば、それに基づく批判は、異なる価値観を変えさせたり、排除するために機能してしまいます。

 

 創作物への批判というものが最低限持っているものは価値観の相違の表明だと思います。自分の抱えている価値観が創作物の内包する価値観と異なるという表明です。しかしながら、ある種の条件が整うと、批判は異なる価値観を変えさせようとするある種の暴力性も持ちえます。そして、その暴力性を期待し、何かを変えようと思って批判をする人も珍しくはありません。むしろ、積極的に批判をする人はそれを目的としているのかもしれません。

 

 正しい価値観と正しくない価値観というのも世の中にはもちろんあるでしょう。例えば、人の尊厳を傷つける価値観もあるでしょうし、それが批判されるのは当然のように思います。ただし、そんなに正誤が明確に共有できない、多様な広がりのある領域もあると思うわけです。その領域では、批判が正当性を持ちえるのは、批判者の心の中だけで、批判対象の創作物は別の人の心に寄り添っているだけかもしれません。だから、批判によって変わるということは、寄り添っていたことを止めるということでもあり、そうすることが正しいとは僕にはとても思えないわけです。

 

 僕は日頃はあまり批判的なことを書かないようにしていますけれど、それは特に他人の価値観を変えたいとは思えないということが理由です。というか、他人を変えようとしてしまうことの相手からの反動を受けたくなかったり、変えてしまったあとのその責任をとりたくないのかもしれません。一方で、今書いていることはそこそこの批判性を持っていて、それは自分がこういう価値観であるということを他の価値観を持つ人に対しての表明になっていると思います。

 

 創作物が公表されたものである以上、それに対する批判は起こり得るものですし、それを止めることは他人の権利の制限ですから良いことだとは思えません。一方で、批判する行為が、創作物の持つ価値観を変えようとしてしまうことは、またある種の他人の権利の制限として捉えることもできるわけです。

 そこで、お互いが「あなたの価値観はそうなんですね」と思って距離をとることもできますが、同じ集団に属するなど、距離をとりづらい状況になってしまったら、自分の価値観が正しいか相手の価値観が正しいかの戦争になってしまいます。ここで言う戦争とは、互いに相手を自分の価値観を受け入れるまで攻撃し続けるという意味です。

 

 もうほんと嫌なんですよね。そういうの。ここまでで僕の価値観の表明は終わったので、以下はただの攻撃的な文章です。

 

 批判するという行為を、相手を自分のフィールドに引きずり込んで、自分の価値観こそが優越であると証明することとして使うことを好む人は、それはあなたがたまたま抱えているだけの価値観でしょう?というようなことを世の中の全てであるかのようにして、ヒヨコの雄雌鑑定のようにあらゆる創作物を自分の価値観に合うか合わないかの話をしたりします。でも、そんなのどうでもいいですよ。だってその人に興味がないことが大半なのだから。その人の抱える価値観が何であったとしてもどうでもいいです。

 

 創作物を批判をするという行為が、このように自分の価値観を根拠とした示威行為あるいは自慰行為となってしまうことが、僕がオタク界隈にいて非常にしんどかったところで、オタクの集団に属することの苦手意識の根源でもあります。

 何かの創作物を批判することは、その創作物が内包する価値観よりも、それを見る自分の価値観の方が優越しているという表明で、つまり、作っている人よりもそれを否定している自分の方がすごいというアピールになります。そして、同じように自分こそがすごいとアピールしたい人たちが、そのやり方に群がって、何かを批判することで自分たちはすごい価値観を持っているぞとアピールする動きに繋がっているように思うことがあります。

 

 最初に書いたように、そんな理由だったとしても批判するということは自由だと思います。でも僕は、あまり批判的な話は聞きたくないと思ってしまうことが多々あります。だって、その話を聞いたところで得られるものが「自分はすごいぞ」という話者のアピールでしかないことがあるのですから。そんなのどうでもいいですよ。

 

 自分の持っている価値観が、他の創作物よりも優越していると思うのなら、それを元に創作をすることだってできます。それが本当により多くの人たちに共有されるべきものなのだとしたら、より多くの人がほめたたえてくれるでしょう。

 そういう意味で、創作者が他の創作者を批判するということは、ある種のフェアさがあると思っていて、自分の価値観とはこういう形をしていると創作物で表明してくれているのだから、批判対象の抱える価値観とどのように違うかを比べやすくなります。

 

 例えば、僕から見てめちゃくちゃおもんない話をしている人が、別の僕から見ておもろい人をおもんないと批判していたとして、そりゃ、そのおもんないやつがその人の中ではおもろいという価値観なのだから、別のおもろいやつをおもんないと批判することに疑問はありません。そのことに何の反論もなく納得できるでしょう。そのおもんない価値観で褒められる方が傷つく可能性だってあります。

 

 当然、僕だって色んな人におもんないと思われていることは多々あるでしょうし、それも価値観です。それをおもろいと思わせるように変えたいとは特に思いません。世の中には多様な価値観があった方がいいと思うからです。

 そのような感じに、僕も批判的な話は苦手とか言いながら他人の批判は全然しますが、だからといって別にそれによって他人の価値観が変わって欲しいとは思わないというスタンスを持っているということの表明とさせて頂きます。