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オタクと吸血鬼の共通点関連

 オタクというものは、と一般化をしていいものなのかは分かりませんが、僕はオタクなので、これから書くことは少なくともひとりのオタクである僕自身に対してはそうだという話です。また、オタクの友達と話すと近いことを感じている人もいるようなので、僕やその人たちというある種のオタクが抱えている性質について思っていることを書こうと思います。

 

 僕は他人にはほんのり嫌われているという前提で人と接しています。それはマジで嫌われているのを検知したというよりは、自分が相手に好かれている前提で人と接してしまったときに失敗するのがすごく怖いからです。なので、うっすら嫌われてるんだろうなと思いながら人と接することで、そういった事故が起こる可能性をできるだけ減らしたいと思っています。しかし、そんな調子で人と接しても友達ができるわけがありません。

 

 学生の頃を思い返してみると、友達はちゃんとできましたが、できるまでに最低1年はかかっていたように思います。もちろん話すことができる人ならいるんですけど、この人のことを友達と思ってもいいのかな?好きなことを喋りかけたり、遊びに誘ったりしても大丈夫だろうか?という不安が解消されるぐらいになるのに少なくとも1年以上は同じ空間で過ごした実績が必要で、それは当時からなんでかなあ?なんですぐに人と仲良くなれないのかなあ?と思っていたところでもあります。

 

 今思うのは、その人がどのような人であるかということの理解に至ることができるまでの情報を得るのに、1年ぐらいかかっていたのかなということです。その人がどんなことを喋り、何かに対してどんな反応をし、どういう行動をとるのかを、自分との関係性を含めて1年ぐらい見続けるとその人に対する理解が深まり、警戒心を解くことができたのではないかということです。

 まあ、心の問題だと思うわけですよ。知らない誰かを簡単に信じることができないという僕の心の問題です。

 

 毎日のように直接的に接することができる環境でも1年かかるのですから、そうでない環境ではなかなか理解に至れることがありません。そのせいもあって、就職で上京してからは大阪に住んでたときの友達以外に新しく友達ができることもなく、おっ、これはこのままでは一生これ以上友達は増えないなと思っていました(ただ、別にそれが問題だとも思いませんでしたが)(そもそも人間力がなさすぎて維持できる人間関係の量が少ないので)。

 

 さて、にもかかわらず近年は意外と知り合いがぼちぼち増えるようになりました。きっかけは同人誌即売会などに参加するようになり、人がいる場所に出てくるようになったことですが、でも、会場で人と知り合うことはあまりなくて、原因はほぼTwitterです。

 前述のようにその人がどんな人であるかということが分からない限りは常に警戒心を持ってしまうようなところがあるので、それを解くためには、その人について知る必要があります。つまり、Twitterでどのような発言をしているのかを何年も見続ける必要があります。僕は人とあまりリプライによるやりとりをすることがないので、一方的に見ているだけですし、実際一回もやりとりをしたことのない相手の方が多いですが、まあでもずっと見ているわけです。

 そうしていると、どこかでこの人は面白いなと思うことがあり、それによって警戒心が解けていき、今度は好奇心が生まれてきます。

 

 この段階までいくと、僕はこの人のことが好きだなと思うようになるわけですが、それでも自分の側が相手からほんのり嫌われている可能性は捨てきれていませんから、相手からこちらがどう思われているかを確認する必要があります。

 

 ここでこの文章のタイトルに繋がるわけなんですけど、吸血鬼の性質として語られるもののひとつに「相手から招かれなければ、その家に侵入できない」というものがあります。そしてそれは、僕もそうなんですよ。

 この人面白くて好きだなと思う相手がいても、相手側からの何らかの招きがなければなかなか近づいていくことができません。例えばTwitterなら、相手からお気に入りされるとか言及されるとかをしてもらったりすると、それまで張っていた「ほんのり嫌われているのでは??」というバリアが解けてしまうので、それでやっと相手に声をかけやすくなります。同様に同人誌即売会に来てもらったりしてもそうです。向こうからこちらへの好意的な目線を貰えることでようやくコミュニケーションを開始できるみたいなところがあり、何かそういうのがオタクっぽく、吸血鬼っぽいよなあと思っています。

 

 そういうのがなくても相手にぐいぐい行けるのがコミュニケーション強者なんだろうなと思うんですけど、僕は自分が好意を持っている相手にズカズカ近づいたことで嫌われたらと思うとめちゃくちゃ怖いのでなかなかそれができないわけなんですよ。

 

 そういうこともあって、インターネット経由で人とやりとりするようになるまで、僕は最短でも3年ぐらいは直接的なやりとりをせずに互いに見ているだけみたいな時間を過ごしたりするんですが、それは別に無意味な時間じゃなくて、その間に実は色んな情報のやりとりが行われているように思うのです。

 つまり、向こう側からしても多かれ少なかれ僕と同じような部分があるんじゃないかなと思っていて、自分が相手にどう思われているかとか、自分が相手をどう思っているかとかがある程度分かっていて、互いに警戒心を抱かなくてもいいような状態になるまでの情報交換がなんとなく行われているということです。

 そのタイミングは人によっても異なりますし、僕が必要としている時間が長い方だと思うんですけど、でも、十分時間をかけて、その人に対する互いの好感度を確認してからやりとりしたりするので、今のところそれによって嫌な思いをあまりせずに済んでいます。

 

 そういうことを思うと、人間関係は、相手から自分に何らかの形で興味を持ってもらうことと、自分は相手に興味を持っていると何らかの形で伝えることの両輪がそろったときに安定的に発生するんだなと思ったりしていて、それが成立するのは実際は割と稀有なことなのではないかと思えてきます。

 それが今の自分にいくつかあるというだけで、なかなか恵まれてるやんけと思えるところがあり、相変わらず日々孤独な中年として生活をしてはいますが、人間関係は閉じずに割と開いた感じになっていて助かっています。

 

 これが例えばmixiとかのときはいきなり近い人間関係をする必要があって、互いの関係性が微妙なままでも近くにおらねばならず、すぐに辛くなってしまったのですが、Twitterはやりとりせずに十年過ぎても平気なので、いやー、本当にTwitterがあって助かったなあと思っています。

 

 この文は吸血鬼との類似をなんとなくひねり出そうと思って書き始めたのに、結局最初に連想したひとつだけだったので、あんまりいいタイトルではないということが分かりました。