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文化的記号としての定型的やりとり関連

 縄文時代の人は、健康な歯を何らかの意図で抜く、風習的抜歯をすることがあったことが、出土した頭蓋骨から分かっています。この抜歯の理由には諸説があるそうですが、その説のひとつとして聞いたことがあるのは、その人の何らかの所属を表すための不可逆な変化として歯を抜いたというものです。

 この説は、確かどこかの博物館の解説に書かれていたのを読んだもので、そこにどれぐらいの裏付けがあるのかは分かりませんが、その効果が分かりやすいので納得感があるなと思いました。

 

 人間は、群れの存在を意識しやすいのではないかと感じています。目の前の人が自分と同じ群れに所属する人間かそうでないかということを常に意識してしまうところがあると思っていて、そのための暗号のようなやりとりをよくしていると感じています。

 挨拶なんかはその典型的なもので、目の前の人に定型的な言葉を投げかけ、それがどのように返ってくるかによって、相手を見極める効果があります。思った通りの返事があれば、相手をコミュニケーション可能と判断したり、全然想定外かつ理解できない返答があれば、コミュニケーション不可能と判断したりします。

 そこで重要なのは、交わす言葉の中身そのものよりも、様式が存在し、それを把握しているかの見極めなのではないかと思います。

 

 このようなやりとりはコンピュータ同士の通信でも、プロトコル(通信の様式)として存在し、情報を伝達する前に、定型的なやりとりが可能かどうかを試すことで、相手が同じプロトコルに対応しているかを判断したりしています。

 

 さて、コミュニケーション対象としての相手を見極めるための定型的なやりとりは、オタク文化の中でもとても多く存在しています。例えば、オタクが元ネタのある発言をよくするのは、それが分かる相手をあぶり出す上でとても効果的です。会話の中にさりげなく元ネタのある発言を入れることで、それを分かる相手を探すことができるからです。

 近年オタクの数は増えているとはいえ、多数派ではありません。そして、オタクはオタク以外とオタクのコミュニケーションをすることは好まない傾向があると思います。であるために、オタクがオタクをあぶり出すための会話をすることがあり、友人関係で聞いた話だと、ママ友が実はオタクなのではないかと、会話の中にさりげなくオタクの定型句を入れるなどして、探るようなことをしてママ友をオタ友として発見することができたという事例もあります。

 

 あるいは、同じ趣味のオタク同士が、決まり切った定型的なやりとりをすることで結束を高めるということもあります。自分たちが同じものが分かる人間同士だということを確認することで、自分の所属を明らかにし、それによって仲間意識を高めているのではないかと思います。

 それは分かりにくければ分かりにくいほど、それが分かる人間同士の結束が高めやすいものであり、そして、それはその外部からは理解ができなくなるので、奇妙に見える部分もあるのではないかと思っています。

 これは例えば「アオいいよね」「いい…」みたいなやりとりなのですが、この例自体も、こち亀のエピソードや、ネットミームとしてのこれを知っている人を確認するための例示となってしまいますね。

 

 さて、そういうことがあるよなあと常々思っている一方で、何かの仲間うちに入るために定型句を使うということもあるのではないかと思いました。オタク同士が定型的なやりとりができる範囲で、緩く仲間意識を紡いでいるならば、そこに入るためには定型的なやりとりをするのが近道であると考えられるためです。

 そこで、オタクならばこういうときにこう言う、というようなお決まりのやりとりをやり始める人がいるのではないかと思っていて、Aという状況があれば必ずBと言うのが、部族の風習として正しいという認識のオタクの人がいるのかなと思っています。

 なので、それは広まっている定型句として採用されているのであって、その内容自体の良し悪しは実はあまり重要ではないのではないかと思うことがあります。

 

 オタクたるもの、こういうときにはこうしなければならない、それがオタクの仲間意識の上で重要というような環境は、今まで僕自身も経験したことがあり、しかしながら、それを窮屈だと感じることもあります。あと、僕はオタクですが、オタクの集団に属することがあまり得意ではないので孤立しています。だからこそ、そういうところがあることを人とのやりとりの中で強く意識してしまうのかもしれません。

 

 それは記号的なやりとりですが、記号的であるからこそ、味方と仲間を見分ける上では簡単な方法で便利なのだと思います。逆をいうと、このような記号による暗号的やりとりができれば、中身がオタク的でない人であっても、オタクの仲間として向かい入れてしまうということもあるかもしれません。

 そのため、例えば有名人がオタクを自称するときに、その人の発言から、真にオタクか実はオタクでないかというような判別がされているのを見ることがあります。

 

 これは、別にそれが良いとか悪いとかではなくて、そういうのがあるなという話です。

 

 ただ、悪いところがあると言えば、記号的なものとしてのやりとりであるという認識であればいいのですが、その中身が不変の経典のようになってしまった場合、敵味方を識別する文化的記号としての役割を温存するために、良くない考えが温存されてしまうというようなこともあると思います。

 それは例えば、なんらか差別性のあるような言葉が定型句として温存されてしまうと、それを言葉として悪しと認識する人からすれば、悪い文化圏だと判断されてしまうでしょう。

 

 ここで具体的に言葉を挙げると、色々アタリがあるのであまりしたくはないのですが、例えば「げんしけん」の「ホモが嫌いな女子なんかいません!」という言葉を、仲間を識別するための記号として使っている場合、その言葉が含む意味が人を傷つけることがあるかもしれませんし、仮に嫌いな人がいても、それを言い出すことができない圧力が発生したりすると思います。

 こういう他の文化圏と衝突する可能性のある文化的記号というものは世の中に沢山あり、それが便利に使えることや、これが共有できる仲間内では面白いこととは別として、自分が記号として使っているのか、その中身に意味を見出しているのかは立ち止まって考えてみた方がいいのかもしれませんね。

 

 僕もオタク仲間がそれほどいないとはいえ、元ネタのある発言を朝から晩までネットでひとりで言っていたりするのですが、それは別に誰にも伝わらなくてもいいと基本的に考えている一方で、「強さと悪さを兼ね備えたものだけがキャッチできる信号」としての役割も期待しているなと思っていて(この例示も幽遊白書の戸愚呂兄の発言からなのですが)、分かりにくい元ネタが分かる人が見つかれば、その人は感性が合う人だなと思って、自分と近しい仲間を識別するために使えているなと思うところがあります。

 人間はそういうことをしてしまうなという実感があり、そういうことをしているなと常々感じています。