文章を書くなり、漫画を描くなり何かしら表現をするときには、そこにそれなりの意図があるものだと思うのですが、その表現は意図した通りに人に読まれるとは限りません。僕はそのような不確定さの部分が、表現における可能性でもあるとも思っていて、読者はときに作者が意図していないものを作品から勝手に読み取って感動したりもするものだと思います。
つまり、それは世の中に存在し、そして存在することに意味があると感じているということです。
人間と人間の口頭のコミュニケーションであれば、上手く伝わっていないなと思えば、その場で訂正できます。しかし、文章や漫画などによるコミュニケーションでは、双方向のやり取りが成立する時間的サイクルが長くなりがちです。また、とりわけ紙に印刷されたものは、それそのものを訂正することが困難です。
なので、修正の難しい媒体において、自分が意図を持ってした表現が、自分の意図とは違った形で読まれてしまっているときに、とても困ったことになってしまうことがあると思います。日々目にするネットの炎上なんかでも、そういった理解のすれ違いから起こるものも多いのではないでしょうか?
意図した部分ではない部分を、そう読まれてしまったときに、そのすれ違いがある中で、最終的にお互いの認識を合わせるところまで行けることはまれだと思います。
具体的なタイトルには言及しませんが(今更取りざたされるのも良くないだろうと思うため)、10年ぐらい前に、ある漫画にある病気が登場するという展開がありました。それは作中の登場人物の行動の動機となるきっかけの出来事で、そこで描かれたのはある種の理不尽は悲劇であり、それによって作中では凶行が起こってしまいます。
その病気の患者は日本全国でもそう多くはなく、そして難病です。当時僕はたまたま、実際その病気の患者である人による、その漫画の感想を読みました。それは、怒りと悲しみの含まれた文章で、今自分が闘病している病気が、物語の中で悲劇を演出するための道具として使われたという嘆きでした。
その病気を抱えていない人にとっては、知らない病気、あるいは自分には関係ない病気で、その病気が物語に登場することには特に意味を感じないないかもしれません。ただ、今その病気に実際に相対している人にとっては、その病名であることは大きな意味を持ちます。だからこそ、その病気を演出上の道具として軽々しく扱われたことに対する辛さがあったのだと理解をしました。
もちろん、その漫画の作者には、その病気の患者を傷つけたいというような意図はなかったと思います。でも、意図せずともそのように機能してしまうことがあるという話です。
そういう出来事を見てから、その病気であることそのものに特段意味がないのであれば、実在する病気を使わない方が、不幸な事故は起こりにくくなるだろうなと思いました。病気の物語上の役割が、悲劇を発生させる装置でしかないのであれば、その実在性は問われないはずだからです。
そして、どうしてもその病気でなければならないのであったならば、その病気にすることによって誰かを傷つける可能性があることを認識し、その覚悟を持って表現するのもひとつの選択だとも思います。
表現が他人に作用する何かしらである以上、意図のあるなしに関わらず、自分のした表現が他人を傷つける可能性はどうしてもあるだろうなと考えています。しかし一方で、そのように「誰も傷つけない表現はない」ということを、「ある表現が誰かを傷つけ得るかを最初から考えない理由」として使うのも良くないように思っています。
これはつまり、自分が投げたボールがどのように他人に受け止められるかの想像は、投げる前にできるだけしておいた方が良いと僕が考えているという話です。
もしそのボールが意図しない部分に当たる可能性に気づいたならば、自分が当てたい部分にだけ当たるように投げ方を変える方がいいだろうなと感じています。なぜなら、そのボールは自分が本来伝えたかった意図があって投げているはずだからです。なので、それが本来意図しない部分に当たったことで反響が大きくあったとしても、そこにはコミュニケーションの失敗があると思ってしまいます。
とはいえ、どれだけ気を遣ったところで、自分の投げた表現のボールが、意図しない当たり方をすることはきっと避けられないでしょう。それはそのボールが多くの人の目に留まる場合ならば、絶対にあることだと思います。でも、そうであったとしても、自分が本来どのような場所に向かってボールを投げているかを自覚し、そうではない部分に不用意にボールが当たらないように気にかけることは重要であるように思っています。
なぜなら、それが意図しない脱線を避け、自分が本来伝えたかったことをより正確に伝えるための道だと思うからです。
自分のした表現がどのように受け取られるかについては、自分にコントロール出来ない領域が多いので、仮に上手く行かなくても気にしすぎないことももちろん重要だなと思います。そして、その一方で、そもそもその表現を通じて何かを伝えたかったのであるなら、予めそれをより伝わりやすい形にしておくことも重要だなと思います。
前述した例のように、自分が伝えたかったところ以外の部分で他人を傷つける表現があったとしたら、その傷ついた人には本来意図したものが伝わらないかもしれません。なので、どういう言い方をすればより多くの人に分かる表現になるか?ということを考えるのが得だろうなと思っています。