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「好き」と「嫌い」は等価な裏表かどうか問題

 何かが好きという感情を僕が大事にしていて、同時に何かが嫌いという感情も大事にしています。自分には好きなものとか嫌いなものとかあるわけですが、嫌いなのに好きと言わないといけないとか、好きなのに嫌いと言わないといけないことが多いとストレスがあるので、それをできるだけしないようにしたいと思っています。

 

 これはハンターハンターにおける念能力の系統のようなもので、自分の特性とは異なる系統の能力を身に着けようとすると、自分の容量を無駄遣いしてしまい、そのように居続けるだけで手一杯となってしまい、疲弊してしまうのではないかと思っているのです。なので、自分が対外的に発揮する能力は、できるだけ自分の特性と一致させておきたい気がしています。

 つまり、好きなものを嫌いと言ったり、嫌いなものを好きといったりしたくないわけです。

 

 それは別にそれでいい話じゃないですか。好きなものを好きと言い、嫌いなものを嫌いと言うだけのことです。しかしながら、そこに他人が関わってくると厄介なことが起きる可能性があります。なぜなら、自分の好きと他人の好き、自分の嫌いと他人の嫌いが一致する保証はないからです。

 

 自分の嫌いが他人の好きの否定ととられてしまったり、自分の好きが他人の嫌いの否定ととられてしまったりするとそこに摩擦が生じます。人は別に他人と一緒である必要はないので、それぞれの人が別々の何かを好きだったり何かを嫌いだったりすることはしょうがないじゃないですか。でも、そこで摩擦が生じてしまうことは実際には多々あって、お互いに相手に「わたしの感性をあなたは否定するのか?」と言ってしまったりすることもあります。

 

 自分の好きなものを嫌いな人と一緒にいたり、自分の嫌いなものを好きな人と一緒にいることが苦痛と感じてしまうなら、一緒にいること自体が苦痛になってしまいます。そういうとき、相手に自分が好きなものを好きになり、自分が嫌いなものを嫌いになってほしいと思ってしまうことは、悪とまでは言い切れないでしょう。でも、それが結果的に相手に、自分の本心とは異なる態度を強いるのであれば、それは何かしら暴力として捉えられるのではないでしょうか?なぜなら、その行為は、自分の感性を曲げたくないからという理由で生じ、相手の感性を曲げさせるという行為となるからです。

 つまり、相手と自分が対等ではありません。自分が主であり、相手は従であるという考え方です。

 

 このように考えたとき、ひとつ気づくことがあります。自分の中で「好き」と「嫌い」は等価な概念でしょうか?何かを好きということと何かを嫌いということが同等ではない場合、他人の「好き」と「嫌い」との接し方にも歪さが生まれてしまうのではないかと危惧します。

 例えば「好き」が100万パワーで「嫌い」も100万パワーだとすれば、相手の「好き」と自分の「嫌い」は相殺されるものですが、「好き」が1200万パワー(両手に好き、2倍のジャンプ、3倍の回転)で「嫌い」が100万パワーだったとしたら、相手の嫌いが自分の好きの12倍の熱量でない限りは、自分の「好き」で相手の「嫌い」を塗りつぶしてしまうでしょう。

 

 こういうことを具体例を挙げて考えてみると、自分の中の「好き」と「嫌い」が等価の概念ではなさそうだということに気づきます。

 

 自分が何かを「好き」と表明したときに他人に「えー、俺はそれ嫌い」と言われたら、すごく嫌な人だなって思ってしまいませんか?少なくとも僕は思ってしまうんですけど、一方、他人が何かを「嫌い」って表明したときに「えー、僕はそれ好きだけど…」って言ってしまうことがあります。でも、これ、「好き」と「嫌い」を等価な概念だとしたら、同じ行為じゃないですか?でも、片方は嫌だと思って、もう片方がやってしまうのだとしたら、つまりきっと自分の中では「好き」と「嫌い」は等価じゃないんだなって思うんですよね。

 

 このように自分の感覚として、「好き」の方が「嫌い」より強い概念だとすると、これを利用したハラスメントを意識せずにしてしまうかもしれません。自分がそういうことをしていることに気づかないと、反省するきっかけがありませんから、歯止めが効かず、やり過ぎてしまったりするじゃないですか。

 

 前述のようなシチュエーションでは、他人の「嫌い」に対して「好き」で反論をしているわけですが、こういうときの意図としては、自分が好きなものについて、嫌いという話題で場が盛り上がったりする状況にいるのが耐えられないという気持ちがあるからです。そのために釘をさしてしまうような行動をとっているわけですが、じゃあ、逆に何かが好きで盛り上がっているときに、それが嫌いでたまらない人もまた耐えられないんじゃないかと思うわけですよ。

 何だか嫌だなと思う行為も、自分の感覚を逆転させて考えてみたらその人も辛いのかもなあと思ってしまうわけです。

 

 好きと嫌いがそれぞれ人にとってどれぐらいの重みを持ってるかとか分からないじゃないですか。自分の感覚を正解にしてしまうと、無意識に他人にそれを強いてしまうというおそれがあるわけですよ。もちろん、自分が他人に強いられるのも嫌です。

 

 でも、じゃあ、そのときの正解ってなんなんでしょうね?自分の感性と異なる話題で盛り上がっていたら、水を差すのも無粋だとその場を立ち去ればいいのかもしれませんが、実際そういう感じのことも多いんですけど、それは仕方なくそうしているだけであって、満場一致で選べる正解じゃないような気がするんですよね。

 

 こういうことを考えながら、僕はだんだんとオタク集団のようなものから遠ざかるようになり(何故なら他のオタクと感性が完全に一致するということはないから)、一人で好きな漫画読んで一人で好きなように漫画の話をネットに書いたりしてりゃいいやという気持ちになって暮らしています…。

 どうですか?これは正解ですか?全然正解じゃないと思うんですけど、これが一番ましだと思ってそういう感じになっています。