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岩泉舞の「ふろん」と自分を縁取る他人について

 岩泉舞の「七つの海」の最初に収録されている物語、「ふろん」が好きで、小学生の時から何度も読み返しています。

 この物語の主人公は、ある日、自分の名前がこの世から消えてしまった少年です。そして、それに伴ってどんどん存在が希薄になってしまうのです。

 

 学校の先生が、友達が、親が、自分の名前を思い出せなくなっていることに気づきます。どこを探しても、自分の記録がないことにも気づきます。そして、名前という手がかりがなくなってしまうことで、目の前に確かに存在しているはずの自分のことを、誰もが思い出せなくなって行きます。あなたは誰?と問われても、自分でもそれに答えることができません。かつてあったはずの名前は、他人の中からも、自分の中からも、なくなってしまいました。学校の机の上には、まるで亡くなったかのように花が置かれてしまいました。少年には生きている証拠がないのだから。少年の居場所はなくなり、ついには人に認識すらされなくなります。

 誰も自分を認識できなくなった場所で、同じく誰にも認識されない少女とともに、少年は社会から姿を消すのです。

 

 少女は少年のことを「ふろん」と呼びました。それは英語で蛙という意味のフロッグを元にした呼び名です。頭を失った蛙が、それでも脊髄の反射だけで泳ぎ続ける。少年はまるでそんな蛙のようだというのです。

 

 この説明の意味が、最初に読んだ小学生の頃の僕には上手く掴めていなかったように思います。でも、今では分かるように思います。つまり、ある人がある人であるということの根拠は、多くの場合、その人自身ではなく、その人を取り巻く人々によって規定されるということです。

 自分と言う人間を自己紹介するとき、皆さんは何を言うでしょうか?どこの生まれで、どんな家族がいて、どんな学校に通っていて、どんな会社に勤めていて、どんな映画や音楽や漫画が好き。今出した例は、全て自分以外のものの紹介です。自分を語る上で出てくるものが、自分以外のものであるならば、自分とはなんでしょうか?自分以外の他人や物によって縁取られた中心の空白こそが自分なのでしょうか?だとすれば、それは「ふろん」でしょう。脳がなくとも反射で泳げるように、自分がなくとも、周囲からの反射で存在を規定され、生きることができます。

 裏返せば、そんな「ふろん」は、周囲との関係性を失ってしまえば、自分を形作ることができなくなります。「ふろん」の少年は、少女とともにどこかへ消えていきました。ならば自分とは何なのか?確かに存在している自分という存在が、なぜ他人を用いなければ説明できないのか?もし、自分が他人から切り離されたら、そこにいるのは誰なのか?そんな問いかけがこの物語にはあるような気がします。

 

 あるときそう思ってから、自分と言う人間が、自分という存在だけではどうにも虚ろであるというということについて考えることが増えました。しかし、結局のところ、虚ろであること自体は間違いのないことで、そして、それは特に悪いことでもないのだろうなというのが最近の感覚です。

 

 ただし、絵を描いたり、文章を書いたり、漫画を描いたりをやっていると、それはもしかすると自分自身なのかもしれないなと思うこともあります。ならば、それは自分が虚ろかもしれないということに対する抵抗なのかもしれません。だって、自分が作ったものは、自分が作ったものであって、他人じゃないじゃないですか。だから、何らかの作品を残すことは、縁取られた空白ではなく、その場所に何かを埋める行為だとも思えるわけです。人が何かを作るのは、自分が自分であることを、自分だけで証明したいからなのかもしれません。

 そうすれば今度は、自分が他人を縁取る何かになれるかもしれません。自分が他人の存在を規定する根拠になることで、自分という存在は、自分という縁取りの内側だけでなく、外にも進出していくはずです。それは作品のようなものだけに限られたものでなく、役割や関係性なものでもあって、誰かの友人であることや、誰かの家族であること、何らかの集団の一員であることのように、自分と他人を相互に規定しあう枠組みが社会なんじゃないかと思っています。人が何者かになりたいのは、でなければ、自分が曖昧になってしまうから、それが怖いからかもしれません。

 でもやっぱり、これも別にきっと悪いことじゃないと思うんですよ。自分だけでは自分の形を保てないことも、だから人が集まるということも。そういうものなんだと思います。

 

 ただ、そんな社会で生活しているからこそ、自分が他人を形作る一片になれているのか?とか、自分を形作る他人の一片がどうあるべきかとかに囚われすぎてしまうみたいなこともあると思っていて、それが、場合によっては生活のしんどさを生み出したりもするんじゃないでしょうか?

 あと、自分が作り出した何かであったとしても、よくよく分解してみれば、それまでの自分を縁取ってきたものの分解と再構成で作られていて、それはやっぱり自分自身だけではなく、その中には多くの他人を発見できるものかもしれません。結局のところ、自分とは他人で作られた玉ねぎのようなもので、剥いていけば何一つ残らないようなものかも。ただ、他人をそのまま使うのではなく、そこに咀嚼の工程が挟まれているということは、自分という人間の縁取りをより精緻に見定める行為ではあるかもしれません。自分がどのような形をしているかをより詳しく知るために、何かを作っているのかもしれません。ちょうど僕が今、この文章を書いているように。

 

 何が嫌いかよりも、何が好きかで自分を語れというような話もありますが、好きでも嫌いでも、自分ではないもので自分を語っているという意味では同じじゃないですか。あるいは、自分が何をしてもらえるかよりも、自分が何をしてあげられるかで語ったとしても、それでも結局必要なのは他者です。その関係性の中に自分自身を見いだしているのが普通の人でしょう。それで悪いことはないですよね。

 何もないところにたったひとりでいて、それでも自分自身を見誤ることなくいられるなら、それはおそらく稀有な超人の類でしょうから。

 

 「ふろん」は岩泉舞の初投稿作で初受賞作です。Wikipediaの記載を参考にするなら、十代の頃に描かれた漫画です。

 僕が思うに十代というのは、自分という人間に、他人と分かつ明確なエッジを立てたくて、でも、皮肉なことにそのために沢山の他人を引用してしまうような時期じゃないですか。それはある種の人間にとっては苦しい時間です。自分をはっきりさせようとすればするほどに、自分を他人で縁取る必要があり、それがいっそう中心にある自分を虚ろに変えてしまうからです。

 

 僕がこういうことを思うようになったのは、二十歳もとうに過ぎてからなので、なんだ、そもそも答えはここにとっくにあったんじゃないかと思ったりもしました。子供のときに読んだ本には、きっと人生の全てが描かれていますよ。それに気づくのに一生かかるというだけで。

 この文章は、自分の至った考えを他人の作品によって縁取る行為だと思います。そういう断片を色々なところから集めては、組み上げて、僕は自分という人間を規定しているのだなと思い、だから自分もまた「ふろん」なのだろうなと思ったりするわけです。だからきっと、人の中にしか居場所がない。