韓国映画の「パラサイト半地下の家族」が、ネット配信にあったのでちょっと前にレンタルして見ました。
すごく面白かったです。なんか色んな社会風刺的なメタファがありそうだなあと思いながら観ましたが、韓国の社会情勢について詳しくないので、どこまで自分が受け取れているのかは分かりません。色々とり逃しているものもありそうですが、それでも読み取ったと思った部分だけでも十分面白かったです。
パラサイト半地下の家族は、半地下に住むの家族の話です。都会に住む貧困層は家賃の安い、建物の半地下に住んでいて、この物語では、そんな感じの貧乏家族と、ある金持ちの家族(高いところに住んでいる)との対比が描かれます。
降ってわいたようなきっかけから、身分を偽ることで、金持ち家族の娘の家庭教師になることができたこの貧乏家族の息子は、その後、他の家族の身分も偽らせながら、金持ち家族の生活に、美術の家庭教師みたいなやつや、運転手、家政婦として入り込ませていきます。
この物語では、どうしようもないものの象徴として水が描かれていて、水は高いところから低いところに流れるものです。金持ちは高いところに逃げれば、そんな水から逃れることができますが、半地下に住んでいる貧乏人は逃げることができません。半地下にどんどん流れ込んでくる水に溺れている貧乏人のことを、高いところに住んでいる金持ちは気づきもしません。
この物語では、「気づかない」ということの暴力性が描かれているのだなと思いました。
金持ちが気づかないということにも悪気はありません。そして、悪気なくそれができる構造がとてつもなく悪いのだと思います。それはつまり、金持ちと貧乏人の間が、どうしようもなく分断されているということだと思うからです。
貧乏家族が金持ち家族から仕事を得る方法は、身分を偽る単純な詐欺で、繋がりを悪用したものです。その背後には、信頼できる人から紹介されたのだから、信頼できるのだろうという理屈があります。これは実際よくあることで、広く一般的に人を募集するよりも、信頼できる人に紹介してもらった方がマッチングが上手くいくことは多いです。
だから、大学推薦の就職枠などが日本にもあります。過去に取引の実績のある企業としか、基本的にやりとりしない企業もあります。紹介制でしか入れないお店もあります。これは世の中によくあることです。
そして、そんな繋がりを最初から持たない人は、そこに入れてもらう糸口すらありません。
この物語では、幸か不幸かわずかな手がかりとしての繋がりを貧乏家族が得てしまったことが全ての切っ掛けになっています。自然のままであれば、決して交わることがなかったものが交わってしまったなら、そこには何らかの現象が起こるでしょう。熱いお湯と冷たい水が混ぜられたなら、それぞれは元の温度のままでいることはできないように。
この物語は、金持ち側の視点では最後まで何が起こったのか理解できない作りになっています。なぜなら、この物語の中で直接争い続けるのは、貧乏人と貧乏人だからです。金持ちは繋がりを持たないために、恨まれることすらありません。なぜなら、強く分断されているために、金持ちが貧乏人に直接何か悪いことをしてくることがないからです。
それゆえに、金持ちはある意味善良です。幸せに暮らしているだけです。貧乏を排除して生きることができる生活は、きらびやかなものだけで占められています。そして、その下に溜まっているものには気づくことがありません。
この物語において、貧乏人から金持ちに対して行われた一刺しは、主人公である貧乏家族の手によるものです。なぜそれができたかと言えば、そこには繋がりがあったからでしょう。この貧乏家族だけが、金持ち家族に対する直接的な恨みを抱くことができました。
これはとても悲しい話です。
気づくことがないという暴力性は、きっと、気づくことでしか解消することができません。でも、自分たちがその暴力を抱えていることにはなかなか気づくことができませんし、気づきたくもないかもしれません。
「世の中の富は一部の人間に集中していて、それを得られない人々の不幸は、その富を再分配をすることでしか解消できない」という話があったとき、うなずく人は多いのではないでしょうか?でも、それを実行しますとなったとき、日本人の多くは、きっと富を奪われる側であるはずです。なぜなら、世界にはそれ以上の金銭的貧困が沢山存在しているからです。
でも、いざ、自分たちの富が奪われ、再分配されるとなったときに、その必要はないと思ってしまう人は多いのではないでしょうか?自分たちはそんなに恵まれてはいない、もっと恵まれている人たちがいるはずだ、だからそいつらから取ればいいと思ってしまったりしないでしょうか?そして、それは思われている側の人たちも、さらに自分たちよりも恵まれていると思っている人たちに対して、同じことを思っているかもしれません。
どこで線を引くのかは、線を引く人の都合で決まります。
人は自分が構造的に恵まれているという事実をできるだけ無臭にしようとしてしまいます。だから、それをなかったことにしようとしてしまいます。自分が得ているものは当たり前のもので、それすら得られない人のことを見ないようにしてしまいます。自分を恵まれない側に置いて、恵まれている奴はズルいと思ってしまいます。自分が実は恵まれている側なのではないかという事実に気づかなければ、世界はとても具合がよくなるからです。
人と人が分断されている構造は、そうする上で、とても都合が良いことです。
パラサイト半地下の家族を見て、観ている自分たちには程度の差はあれ、金持ち側の要素があるのではないか?と思うか思わないかという話があると思います。場合によっては、自分は作中の金持ち側ではないと思うほどに、作中の金持ち側の意識に近づいていくのかもしれません。
それは自分がやったわけではない、自分は直接的な悪いことをしていない、自分は特に恵まれているわけではない、構造の話なんか知らない、自分の責任じゃない、自分はむしろ恵まれていない方だという意識が、いや、それを意識することすらなくするための分断の構造が、この物語の中で描かれているものの背後にはある気がしています。
そして、それは社会のいたるところによくある考え方ではないでしょうか?
なので、社会風刺だなあと思いながら見ました。それでいて、コメディとしてめちゃくちゃ面白かったので、すごいよかったです。