漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

「パラサイト半地下の家族」と見えないようにすること関連

 韓国映画の「パラサイト半地下の家族」が、ネット配信にあったのでちょっと前にレンタルして見ました。

 すごく面白かったです。なんか色んな社会風刺的なメタファがありそうだなあと思いながら観ましたが、韓国の社会情勢について詳しくないので、どこまで自分が受け取れているのかは分かりません。色々とり逃しているものもありそうですが、それでも読み取ったと思った部分だけでも十分面白かったです。

 

 パラサイト半地下の家族は、半地下に住むの家族の話です。都会に住む貧困層は家賃の安い、建物の半地下に住んでいて、この物語では、そんな感じの貧乏家族と、ある金持ちの家族(高いところに住んでいる)との対比が描かれます。

 降ってわいたようなきっかけから、身分を偽ることで、金持ち家族の娘の家庭教師になることができたこの貧乏家族の息子は、その後、他の家族の身分も偽らせながら、金持ち家族の生活に、美術の家庭教師みたいなやつや、運転手、家政婦として入り込ませていきます。

 

 この物語では、どうしようもないものの象徴として水が描かれていて、水は高いところから低いところに流れるものです。金持ちは高いところに逃げれば、そんな水から逃れることができますが、半地下に住んでいる貧乏人は逃げることができません。半地下にどんどん流れ込んでくる水に溺れている貧乏人のことを、高いところに住んでいる金持ちは気づきもしません。

 

 この物語では、「気づかない」ということの暴力性が描かれているのだなと思いました。

 

 金持ちが気づかないということにも悪気はありません。そして、悪気なくそれができる構造がとてつもなく悪いのだと思います。それはつまり、金持ちと貧乏人の間が、どうしようもなく分断されているということだと思うからです。

 

 貧乏家族が金持ち家族から仕事を得る方法は、身分を偽る単純な詐欺で、繋がりを悪用したものです。その背後には、信頼できる人から紹介されたのだから、信頼できるのだろうという理屈があります。これは実際よくあることで、広く一般的に人を募集するよりも、信頼できる人に紹介してもらった方がマッチングが上手くいくことは多いです。

 だから、大学推薦の就職枠などが日本にもあります。過去に取引の実績のある企業としか、基本的にやりとりしない企業もあります。紹介制でしか入れないお店もあります。これは世の中によくあることです。

 

 そして、そんな繋がりを最初から持たない人は、そこに入れてもらう糸口すらありません。

 

 この物語では、幸か不幸かわずかな手がかりとしての繋がりを貧乏家族が得てしまったことが全ての切っ掛けになっています。自然のままであれば、決して交わることがなかったものが交わってしまったなら、そこには何らかの現象が起こるでしょう。熱いお湯と冷たい水が混ぜられたなら、それぞれは元の温度のままでいることはできないように。

 

 この物語は、金持ち側の視点では最後まで何が起こったのか理解できない作りになっています。なぜなら、この物語の中で直接争い続けるのは、貧乏人と貧乏人だからです。金持ちは繋がりを持たないために、恨まれることすらありません。なぜなら、強く分断されているために、金持ちが貧乏人に直接何か悪いことをしてくることがないからです。

 それゆえに、金持ちはある意味善良です。幸せに暮らしているだけです。貧乏を排除して生きることができる生活は、きらびやかなものだけで占められています。そして、その下に溜まっているものには気づくことがありません。

 

 この物語において、貧乏人から金持ちに対して行われた一刺しは、主人公である貧乏家族の手によるものです。なぜそれができたかと言えば、そこには繋がりがあったからでしょう。この貧乏家族だけが、金持ち家族に対する直接的な恨みを抱くことができました。

 これはとても悲しい話です。

 

 気づくことがないという暴力性は、きっと、気づくことでしか解消することができません。でも、自分たちがその暴力を抱えていることにはなかなか気づくことができませんし、気づきたくもないかもしれません。

 

 「世の中の富は一部の人間に集中していて、それを得られない人々の不幸は、その富を再分配をすることでしか解消できない」という話があったとき、うなずく人は多いのではないでしょうか?でも、それを実行しますとなったとき、日本人の多くは、きっと富を奪われる側であるはずです。なぜなら、世界にはそれ以上の金銭的貧困が沢山存在しているからです。

 でも、いざ、自分たちの富が奪われ、再分配されるとなったときに、その必要はないと思ってしまう人は多いのではないでしょうか?自分たちはそんなに恵まれてはいない、もっと恵まれている人たちがいるはずだ、だからそいつらから取ればいいと思ってしまったりしないでしょうか?そして、それは思われている側の人たちも、さらに自分たちよりも恵まれていると思っている人たちに対して、同じことを思っているかもしれません。

 どこで線を引くのかは、線を引く人の都合で決まります。

 

 人は自分が構造的に恵まれているという事実をできるだけ無臭にしようとしてしまいます。だから、それをなかったことにしようとしてしまいます。自分が得ているものは当たり前のもので、それすら得られない人のことを見ないようにしてしまいます。自分を恵まれない側に置いて、恵まれている奴はズルいと思ってしまいます。自分が実は恵まれている側なのではないかという事実に気づかなければ、世界はとても具合がよくなるからです。

 人と人が分断されている構造は、そうする上で、とても都合が良いことです。

 

 パラサイト半地下の家族を見て、観ている自分たちには程度の差はあれ、金持ち側の要素があるのではないか?と思うか思わないかという話があると思います。場合によっては、自分は作中の金持ち側ではないと思うほどに、作中の金持ち側の意識に近づいていくのかもしれません。

 

 それは自分がやったわけではない、自分は直接的な悪いことをしていない、自分は特に恵まれているわけではない、構造の話なんか知らない、自分の責任じゃない、自分はむしろ恵まれていない方だという意識が、いや、それを意識することすらなくするための分断の構造が、この物語の中で描かれているものの背後にはある気がしています。

 そして、それは社会のいたるところによくある考え方ではないでしょうか?

 

 なので、社会風刺だなあと思いながら見ました。それでいて、コメディとしてめちゃくちゃ面白かったので、すごいよかったです。

「イムリ」が完結した関連

 三宅乱丈の「イムリ」が14年の連載を経てついに完結しました。

 これから、全巻読み直そうと思うのですが、とりあえず今の気持ちの記録のためにこの文を書きます。

 

 イムリはルーンとマージという2つの星で、イムリとイコルとカーマという3つの種族を巡る物語です。イムリとカーマの大規模な戦争があってから4千年が経過し、カーマの中枢部を除いてはその記憶も記録も薄れている時代です。

 戦争の結果、ルーンは氷に包まれ、カーマはマージで文明を発展させました。長い時間の果てに、ルーンはようやく雪解けを迎え、また自然豊かな星に戻りつつあります。その間に、カーマの文明は、イコルを奴隷として使うようになっていました。そして、再びルーンに降り立ち、イムリを密かに奴隷化しようとし始めていたのです。

 

 この物語は、カーマの中で育ったデュルクという少年が、実は自分がイムリであることを知り、カーマの文明から逃げ出して、イムリの文化を知る物語です。そして、その中で再び巻き起こるカーマとイムリの戦争が、終結するまでの物語です。

 

 この物語が描いていたもののひとつは、「支配」という概念だと思います。

 

 誰かの自由意志を束縛することで、世界は「言うことを聞かせる側」と「言うことを聞かせられる側」に分断されます。自分の本当の心に従った行動ではなく、誰かに強要された不自由な人生を送ることは不幸なのではないでしょうか?この物語の世界は、そんな不幸に満ち溢れています。そして、そんな抑圧の中で、人が自由な心を持ち得ていく過程が描かれます。

 

 この物語には彩輪という概念が登場します。彩輪は、全てのものが持つ光彩というエネルギーの中でも生物が持ちえるものを特にそう呼びます。この彩輪を使うことで、人と人の精神を共鳴させる技術が「侵犯術」です。例えば「促迫」という侵犯術は、他人を思い通りに動かすことができます。そして、促迫を三度使われると、精神が完全に奴隷化し、自分の意志を失ってしまいます。

 この侵犯術がカーマによる支配体制の根幹にあります。これは恐ろしい技術です。促迫を前にすれば、いかなる暴力を持ち得ても、いかなる強靭な精神力を持ち得ても、無力だからです。しかしながら、侵犯術による支配の背後にあるのは、カーマのどうしようもない臆病さのように思えました。

 

 カーマは弱い種族です。彩輪の強さで言えば、イムリにもイコルにも劣ります

 4千年前の戦争時には、カーマはイコルの支配下にあったと伝えられます。そんなカーマがいかにして戦争に勝利したのかは詳しく語られません。いや、勝ったというよりはカーマはルーンを犠牲にしてマージに逃げたという解釈もあります。

 そこには覚醒者の存在があったことが伝えられていました。カーマを指導した覚醒者は後に賢者として、代々カーマの最高権力者の座につくことになります。そして、その正体はイムリだったのです。

 覚醒者となったイムリが何を考え、カーマの味方になったのかは分かりません。カーマの味方をしたのではなく、その強い彩輪によってカーマを従えていたという推測もあります。でも、本当のところは分かりません。ただ、最終回まで読み終わったあとで思うのは、覚醒者となったイムリは、カーマが弱き者であるからこそ、その味方をしたのかもしれないと思いました。

 

 その後、カーマは暴力的で卑怯な、支配の仕組みを作り上げました。それはイコルやイムリの人権を蹂躙するものです。そして、カーマ自身もはその仕組みを維持することに囚われてしまいます。

 

 だから、これはとても悲しい話なわけですよ。カーマは侵犯術の力に囚われてしまい、それを社会の根幹に据え付けてしまいます。それはきっと弱さなんだと思います。侵犯術は弱きカーマにとっての唯一の武器だったはずです。まともに戦えば負けてしまうイムリやイコルに対して、侵犯術ならばカーマにも勝ち目があります。

 種族としての強さと弱さがどうしようもなく存在する場合、平等ということはきっと不平等です。同じルールで戦っていれば、弱い種族が必ず負けてしまうからです。だからこそ、カーマは侵犯術を手にしてしまいました。そして、それをシステムとして行使し続けることしか、イムリやイコルに対する恐怖を拭い去ることができなくなってしまったのです。そして、それはカーマの中でも同じです。促迫を使い、相手の本音を喋らせることでしか、相手を信じることができないことは弱さでしょう。

 

 保証が欲しい、確証が欲しい、どうしても相手を信じられないからこそ、本音を無理矢理喋らせるという暴力でしか、相手を信頼することができません。だから、カーマの中では、欺瞞と本心がまぜこぜになっていきます。本当は欺瞞でしかないことを自分の本心であると心から思い込まなければ、それを暴かれてしまうかもしれないからです。だからきっとカーマは狂ってしまいました。

 

 侵犯術をもって、イコルを奴隷化し、イムリを蹂躙しようとしたカーマこそがその実、他の種族よりもずっと心を侵犯術に支配されており、それは自らの意志であると思い込んで自発的に行われているからこそ、誰よりも強固に支配され続けます。

 

 カーマは悪いことをしてきました。カーマには罰せられるべきであると思われる人たちだって沢山います。ただそれでも、戦うべきはカーマそのものではなく、カーマをその行為に走らせた支配の構造であって、それはきっと人が弱さから蹂躙されることを取り除くことでしか達成されることがないのだろうと思いました。

 それは一時の力で、何かを打ち倒すことでは達成できず、その状態を継続するという地道な日々の連なりでしか保てないことです。

 

 この物語の白眉は、イムリでありながらカーマの最高指導者になった男、タムニャドです。彼は、デュガロというカーマの権謀術数の中心にいた人物に育てられた男です。デュガロは誰よりも人を支配するということに長けた男です。デュルクの双子の片割れであるミューバも、デュガロの支配によって人生を狂わされた人物です。

 ミューバはデュガロの策略により、もはや取り戻すことができないような数多くの罪を犯しました。それは侵犯術を使われたからではありません。ミューバはそれを自分の意志だと思っていました。そこに選択肢などなかったのに。

 

 しかしながら、そんな恐ろしいデュガロに育てられたタムニャドはとても高潔な男です。デュガロは悪人であるものの、それでもその望みはタムニャドが賢者として自由に、心のままに生きることでした。それはきっと、デュガロ自身が支配されて生きてきたことの裏返しです。デュガロは賢者の血を受け継ぎながらも、権力闘争の種にならぬように、子供の時点で子を作れないように断種されていました。そして、デュガロはそんな自分を受け入れ、肯定し、その判断をしたそのときの賢者を敬って生きてきたのです。デュガロにはそれしか選択肢がなかったからです。

 デュガロがタムニャドに残した最後の教えは、「自分の教えを疑うこと」でした。そして、タムニャドを逃し、イムリたちもろとも死を選ぼうとしていたデュガロのもとに、タムニャドは帰ってきます。デュガロの教えに従い、デュガロを疑って、和平をもってこの戦争を終結させるために。

 

 ここでのタムニャドの立ち振る舞いは、本当にただただ素晴らしくて、連載時に毎号泣きながら読んでいました。誰にも支配されない、自由な心をもった男がそこにいました。そんな男が、誰よりも心を支配され続け、他人を支配し続けたデュガロの下から生まれたことは、矛盾ではなく必然であるように思えました。

 

 賢者タムニャドの口から語られる不都合な真実は、カーマの根底を揺るがすものでした。だから、呪師の権力者は、その隠蔽のためにタムニャドの殺害を命令します。しかしながら、命じられた軍人はタムニャドではなく、その呪師の方を撃ち殺します。なぜならば、軍人はタムニャドの言葉を聞いてしまったから。人間には、誰かに支配され、命じられたままに奴隷のように生きるのではなく、本当の心があるということを知ってしまったから。

 

 「嫌だと思ってしまったのです」

 

 そのひとりの軍人は言いました。そんなことすら認められていなかったのです。誰かの命令に嫌だと思うことを認めることすら、ましてや、その命令に逆らうことも、なにもかも認められていなかったのです。それがカーマの社会、つまり、支配の力だったわけです。

 

 ただし、この物語はタムニャドの登場をもって、単純に支配から解放されていくわけではありません。世の中はひとりの高潔な人物がいただけで何かが変わるほど単純ではないからです。

 タムニャドの和平を望む声に反対をする人々はいます。それはカーマの権力の中枢であった呪師たちだけでなく、カーマの中でも下層とされた人々の中でも巻き起こります。自分たちがカーマ社会で虐げられているのに、なぜ、これまで奴隷だったイコルだけが平等に取り扱われるようになるのか?という不満です。

 それはきっと間違った考えですが、でも、そう思ってしまうことは、悪さではなく弱さ、あるいは人が世の中で平等に扱われないことの悲しさでしょう。

 

 そこには無数の細かないさかいは残り、無理解や争いは決して完全に消えることはないのかもしれません。新たな戦争の種だって残っています。しかし、それでも、人が人を支配しないことを良しとする人々がいて、そのために何かをしようとしているという希望をもとに、この物語は描かれているのだと思います。

 

 次の4千年後の新たな戦いではなく、4千年後も続いていく和平の中で、誰かが誰かを支配することに囚われないようにするために。

 

 いやー、とにかく14年間、連載を読んできて本当によかったなと思っています。めちゃくちゃいい漫画ですよ。皆も読むとよい。

透明な傑作という概念について

 ジャンプで連載中の「タイムパラドクスゴーストライター」に、この前「透明な傑作」という概念が登場しました。タイムパラドクスゴーストライターは、何故か10年未来のジャンプが自宅に届く環境を手に入れた漫画家志望の主人公が、そこに掲載されていた漫画をパクることで連載を獲得するお話で、作中に登場する倫理観が特殊で、奇妙な漫画だなと思いながら読んでいます。

 

 「透明な傑作」というものは、「全人類が誰でも楽しめる漫画」のことです。これは主人公が目指すものであり、作中でパクられた傑作「ホワイトナイト」の作者が目指すものでもあります。

 

 主人公の佐々木くんは、まだ連載を獲得できなかった頃、編集者からのダメ出しに「僕はただ沢山の人を楽しませられればそれで」と答えます。そして編集者からの返答は「沢山の人って誰だよ」や「一部の読者層釣った方がいくらか読む価値ある漫画になる」でした。それでも、佐々木くんの目指すものは、「みんなが楽しめるような漫画」です。

 強い作家性があればあるほど、その偏りのせいで、楽しめる人が減るのではないかという考えがそこにあります。例えば、絵柄が独特だから読まないという話も聞きますし、作者の持つ思想性が受け付けないとか、作中の背後に流れる価値観が受け入れがたいので読みたくないというような話もあると思います。まさに本作自体が、作中における良い悪いの価値観が受け入れ難く、あまり読みたくないと言っている人もいました。

 だからこそ、全人類が楽しめる、つまり、楽しめない人がひとりも存在しない漫画が存在するならば、そのような強い作家性は、読者層を狭めてしまうために不利になるという考え方が本作には存在します。そういえば、昔、あるゲーム会社の人に、子供向けを意識したりして作ってるんですか?と聞いたところ、その人からは「できるだけ幅広い人に遊んでもらうために、結果的に子供が遊べるものになっている」という回答がありました。理屈は通っている思います。

 

 だから、作者側からわざわざ読者層を絞り込むことでは、それを楽しめない人を無視していると考えることもできますし、そのために強いクセのある作家性は不要、限りなく透明なものこそが正解という理屈は、そういう考え方は全然あるよなと思いました。

 例えばゲームだって、幅広い人が遊べるように推奨年齢のレーティングを下げるための表現の変更が発生したりしています。決して特異な発想ではありません。ポリティカルコレクトネスだってその一種だと思います。自分たちの表現を「誰が楽しむことができないか?」について自覚的になることは、現代の世の中では既にすごく求められることで、その上で、その表現をするかしないかを考えることが求められます。

 

 ならばきっと、「透明な傑作」というものは、「誰かがそれを楽しめない可能性を、完全に排したもの」としてのみ存在するだろうことができるのでしょう。

 

 さて、ここで思い出されるのは冒頭の編集者による「沢山の人って誰だよ」という問いです。

 僕の認識では、読書体験とは、「作者と読者の共同作業によって発生するもの」です。「何の漫画を読むか」と同等かそれ以上に、「それを誰が読むか」ということが読書体験には関わってきます。そして、世の中には本当に多様な人がいるわけです。
自分が絶対いいに決まっていると思ったものでも、その人の感性からすれば全く良くないと思ってしまうかもしれません。世の中には、炊き立てのほかほかご飯が嫌いな人だっているわけです。外国で、現地の人が喜んで食べる孵化寸前の鶏の卵を、多くの日本人は気持ち悪く感じて食べられないかもしれません。外国ではタコを食べる日本の文化を、気持ち悪いと感じることもあるようです。

 多様な人がいれば、多様な受け取り方があります。読書体験はその多様性の数だけ存在します。全く逆の感性を持つ人がいたとして、それぞれのどちらかが正しいのではなく、等しく価値があり、ただ真逆なだけです。だから、「全人類が楽しめる漫画」というのは、基本的には「ない」のだと僕は思います。その多様性の中には、互いに打ち消し合うようなものも含まれるからです。

 

 事実、日本で一番売れている漫画にだって、それを楽しめない人は当然います。「全ての読者に好かれたい」というのは、意地悪な言い方をすれば、「その中の一人一人の個性には目を向けるつもりがない」とも言えます。だとすれば、結局最初の編集者の言葉が正しかったということになってしまいますね。

 

 とはいえ、これは漫画の中に登場した概念なので、作中には存在してもいいはずです。他の作品でも、例えば「響-小説家になる方法-」に登場する「御伽の庭」という小説は、どれだけそれを書いた響を嫌っている人でも、読んでしまったからには響の存在を認めざるを得なくなってしまったり、普段は読書をしないヤンキーでも、読んだらすごいことが分かるというような、まさに誰もがその面白さを認めざるを得ない透明な傑作です(ただし作者のクセは強い)。響を認めたくない場合でも、読んだら負けてしまうので、勝ちたければ読まないで済ますしかありません。

 「将太の寿司」において将太くんを憎んでいた笹寿司の笹木も、最後の最後になるまで将太くんの寿司を食べずに来たからこそ敵でいられたのかもしれません。「おさまづま」で、妻の描く漫画を最後まで読まなかった夫は、最後まで妻の存在を認めない人でした。「BECK」のコユキの声を聴いたら、皆はあんぐりと口を開けて、その存在を認めざるを得ないわけです。

 

 物語の中であれば、そんな透明な何かしらが存在する余地があります。100人いたら、100人がそれを面白いと心から言えるものは人類の見果てぬ夢のようなところがあるのでしょう。全ての人間が心から面白いと思えるものが本当に存在するなら、その漫画で世界征服だってできてしまうかもしれません。あらゆる人の価値観の多様性を全て引き受けることができるか、あるいは、そのさらに奥にある根源に到達できているということだからです。

 これは冗談ですが、世界の人口をひとりまで減らせば全人類が楽しめる漫画は達成できますね。人類の多様性の方を減らすという最悪のアプローチもありますね。

 

 現実で考えた場合、100人いたら100人が楽しめるということはさすがに不可能に思えても、90人が楽しめることを考えることはできるかもしれません。一方で残りの10人はなぜ楽しめないのかについても、考えておくことはきっと必要でしょう。なぜなら、その90人の楽しさは、残りの10人を傷つけることによって成り立っているかもしれないからです。

 僕の価値観では10人を傷つけて90人を楽しませるものだってあっていいと思いますが、その時は、「10人を傷つける可能性は認識していたが、それでもその表現をしたかった」と認識することが誠実さだと思っていて、決して「傷つけるつもりはなかった」とは言わないでほしいなと思ってしまいます。

 そして、僕自身は100人いたら1人しか楽しめないようなものでも、全然あっていいと思っていて、だってその1人が自分かもしれないじゃないですか。他の99人に無視されたり、不快な思いをさせたとしても、ただ1人の自分のような人間のために作られたと感じられるものがあったとしたら、それは少なくともその1人のとっては救いになります。それを奪われたくないなとは思うわけですよ。どうしても。

 

 これは偏見ですが、「漫画が好きだ」という気持ちが強い人ほど、自分がその1人になっているということに何かしら救われてきた自覚があるんじゃないかなと思います。なぜそう思うかというと、僕がそうだと思ってるからです。

 だからこそ、その1作で100人全員が楽しめることって本当に必要?という疑念もあって、こういうことを色々考えてしまうんじゃなかなと思いました。例えばその理想に従って、99人が楽しめるところにまで到達できたとしても、残りの1人が自分だったらどうしようとか思うんですよね。

 その全人類というくくりに、本当に自分は含まれているのかな?と。

 

 どうですか?僕は人類ですか?

「女の園の星」と理解し難い女子高生関連

 和山やまの「女の園の星」の単行本がちょっと前に出ましたね。めちゃくちゃ面白いんですけど、これは女子高の先生である星先生をとりまくお話です。

 

 この漫画のどこを面白いと僕が感じているかというと、人の思考の流れや飛躍を追っていくのが、めちゃくちゃ心地よいんですよね。そこに、周囲の人々との、どうにも上手く取れていないコミュニケーションが加わることで、思考が変化したりさらに飛躍したりが激しくなってめちゃくちゃ面白くなってきます。

 

 このお話に出てくる人たち同士は、上手くコミュニケーションがとれていません。いや、そもそも人間は基本的に上手くコミュニケーションがとれないものだと思うので、そこがリアルに詳細に描かれていることにおかしみを感じてしまいます。

 でも人が自分は上手く取れていると思ってしまうのは、人間は主観でしか物事を見ることができないからです。他人の内心が分からないので、自分の中で勝手に想像で辻褄を合わせて納得してしまいます。

 

 それを色んな人を客観的に内心まで見ることができることが面白いというか、勘違いが面白いというのもありますけど、確かに、これしか知らなければこう考えても仕方ないなという面白さもあって、人間のやり取りって面白いんだなとおもっちゃうんですよね。人間が面白いということです。他人が面白いということです。

 

 さて、この漫画が他の漫画と違うように思うことは、女子高生という存在の取り扱い方かなと思ったりします。連載している雑誌が女性向けであり、なおかつ主人公が男性であるということもあると思うのですが、星先生にとって自分の教え子である女子高生たちは、理解が難しい外部者として描かれてるように見えるんですよね。

 なので、それぞれ個性的な存在でありながら、そこはかとないモブ感というか、味方で主役級の個性を発揮するというよりは、こんなに個性的なのに、脇役感がすごくて、このお話は星先生側に主観が置かれている漫画なんだなと思ってしまいます。

 

 漫画で女子高生というと、誘因材料として使われがちというか、女子高生が主役だからこそ、おっさんが主役だったら読まれにくいような漫画が成り立つというようなことがあると思っていて、でも、この漫画の場合は真逆です。

 読んでいて、こいつら理解不能だな、いや、理解はできても、その枠の外に自分の立場があるんだなと思ったりしてしまいます。

 

 それは例えば、彼女たちの中でつけられている先生のあだ名の容赦なさとかから読み取れるものです(「ポロシャツアンバサダー」という言葉がめちゃくちゃツボにハマって、そのページにしおりを挟んでしまいました)。

 先生たちと女子高生は仲間ではないですが、でも、先生たちは先生だから、そこのコミュニケーションから逃げることができません。その、先生と生徒という関係性から生まれる異文化コミュニケーションが、双方の物の考えにめちゃくちゃ影響し合っていて、そこがめちゃくちゃ面白いなと思っています。

 

 例えば、第五話はこっそりと星先生の観察日記をつけている生徒が出てくるのですが、星先生とその生徒の間の直接的なコミュニケーションって、宿題のノートと間違って提出してしまった観察日記ノートのやりとりだけなんですよね。それ以外は、星先生とその生徒の頭の中だけで起きたことです。双方が頭の中で相手をどのように理解したかの発散の仕方が面白くて、完全にすれ違っているんですが、でも、当人の中では辻褄が合っているわけです。

 

 ここで読者でよかったと思ってしまいます。読者である僕は全てを見通すことができるから。

 

 最後に、星先生と同僚の小林先生の関係性がめちゃくちゃ好きなんですよね。星先生は寡黙な人で、対人関係は半歩引いてやりとりするようなタイプなんですが(親近感がある)、一方で小林先生は、他人に平気で半歩踏み込んでくるような性格です。

 個人的な経験からも思うんですが、半歩引いている人ってそのままだとあんまりドラマがないというか、一人で自分の中だけでも十分なので、頭の中だけで色んなことが完結しちゃうんですが、そこにずけずけと入り込んでくる人がいると、行動に繋がったりします。半歩引いて生きている人は、他人に踏み込まれたことで「やれやれしかたがない」と動く性質があると思うんですよ。なぜなら僕がそうなので。

 

 その入り方が深すぎると引いてしまいますし、浅いとか入って来られないと何も起こらないので、半歩引いている人と半歩踏み込んでくる人が、ちょうどいいコンビで存在することで色んなことが起こります。とにかくそれが心地よくて、あー、居心地が良い!ここにずっと住みたいと思える世界が広がっていて、めちゃくちゃいいなと思います。

 

 この世界に住むときの方法ですが、別にどこかのキャラクターになりたいわけではなく、全体を見通せる神の視点でいたい感じなので、じゃあ読者じゃん。もう達成されてるじゃんと思って、完全に勝利してしまいました。

 

 皆さんも勝利するために、未読の人は読みましょう。フィールヤングで連載中の「女の園の星」。

生の映画を観ているようなモンだよ関連

 皆さんは「こづかい万歳」を読んでいますか?こづかい万歳は、おこづかい制で生活をしている作者の吉本浩二先生をとりまく、おこづかい制で生活する人々の節約生活を追ったドキュメンタリー的な漫画です。その中に、作者の子供の頃からの友人である村田さんという人が、駅の邪魔にならないところに立って、行き交う人を見ながらお酒を飲むという「ステーションバー」という概念が登場する回があります。

 

「生の映画を観ているようなモンだよ…」

 

 これはそんな村田さんの言葉です。駅を行き交う人々の様々な様子に個々人の人生を、想像しながら眺め、感動して涙ぐむのです。

 これはとても面白かったエピソードなんですが、これ以後、僕が人と話すときに、何か感動するような場面が話に出てくるたびに「生の映画を観ているようなモンだよ」と言っており、めちゃくちゃ影響を受けているんですが、でも、「生の映画」ってなんでしょうね?そんな言葉があるんでしょうか?

 

 僕が思うに、生というのは「加工されていない」ってことだと思うんですよね。基本的に僕らが普段目にする映画は加工されているじゃないですか。制作者の意図があって、観た人にどんな気持ちにさせたいかという気持ちがそこに込められていることが多いと思うんですよね。

 でも、生の映画は、その意図が最初からないんだと思います。なぜならそこに、監督も脚本家も撮影者もいないからです。加工しているとするならば、観ている人自身がやっていることだと思います。自分が目にする世界を自分で切り取って編集し、理解した内容で自分で感動しているんですよね。これはかなり高度な行動だと思いませんか?

 

 目の前で繰り広げられる他人の行動はどうしても断片でしかありません。足りないピースは自分の想像力で補って、感動できる感情回路やストーリーを見出してひとりで勝手に感動しているということなんですよ。物語の自給自足じゃないですか。

 

 でも、よく考えたら僕たちもこのような種類のことを普通にやっていますよね?例えば、野球を筋書きのないドラマだと表現した人がいました。例えば、身内の子供の成長を見たりして感動したりします。

 映画はそんな誰かの経験を生の映画として抜き出して加工し、固定化させている装置と捉えることができるかもしれません。つまり映画の感動は、元を辿れば誰かの個人的にしか分からない経験を、もっと誰にでも分かるように置き換えて編集し、パッケージングしたものです。世の中に沢山ある映画の、元の元にはその制作者が感じた生の映画があったりもするんじゃないでしょうか?

 

 そんな行為を、駅で行き交う人を見るだけで出来てしまうステーションバーの村田さんはすごいなと思いました。僕にはとてもできない。

 

 でもなんか、こういうのができるかできないかって、スポーツとかを楽しむうえで重要なスキルなんじゃないかと思うんですよね。何かを見て自分の中で感動を呼び起こす行為です。僕はこれが上手くできないので、スポーツ観戦とかで熱狂するのが難しいんだと思っています。

 そういうのが上手くできない人は結構いるように思います。なぜなら、例えば、スポーツの大会を見て興奮しても、頑張って何かを成し遂げているのは、他人であって自分ではないとか思ってしまうためです。

 ちなみに「最強伝説黒沢」と「ブルーピリオド」では、このようなスポーツへの熱狂から、これは自分の物語ではないと覚めてしまうという物語の始まり方をしていました。それも全然分かりますけど、でもまあ、それはそれとして、他人の人生に勝手に感動したりしてもいいじゃないですか。

 

 だって、そんなことを言い始めたら、漫画を読んで感動したりするのなんか、自分の人生でもなければ、そのように作られているって話ですよ。感動するように仕組まれた作り事を見てまんまと感動してしまうだって虚しくなってしまいませんか?でも、感動はするわけですよ。僕は現にしています。

 むしろ、僕のように共感性が乏しい人間にも分かるように作られているから、作者によってパッケージ化された物語に感動をしやすくなっているのかもしれません。。

 

 きっと世の中の多くの人が、程度の差はあれステーションバーなんですよ。自分の外側にあるものを見て、足りない部分は想像力で補って、その様子に一喜一憂したりするわけじゃないですか。

 人間社会は、どこもかしこも少なからず駅ですよ。人が行き交い、出会い、別れ、そこにドラマがあります。自分がその行き交う人になることもあれば、それを観ているステーションバーの人にもなるわけです。

 

 なんか上手いこと言おうとしてミスった気がしますが、こづかい万歳には色々詰まっているので、読んで色んなことを思いましょう。

Netflixの「呪怨:呪いの家」を観た関連

 Netflixで「呪怨:呪いの家」を観たのですが、面白かったです。

 

 呪怨のシリーズは、最初のビデオ版と映画版を何作か観た覚えがあり、ただ、怖い映画は怖くて苦手なので、あんまり直視せずに見ていたような記憶があるので、どれほどこれまでのことを分かっているかというと微妙なのですが。

 

 「呪怨:呪いの家」は、呪怨のシリーズにはモデルとなった実在事件があるという語り出しから始まる物語です。このお話の中では、呪怨の元ネタとなったとされる様々な事件が描かれます。これらの事件は、本当に実在した事件をモチーフとして構成されており、フィクションである呪怨の元ネタである実在事件という、フィクションの実在事件化という内容でありながら、実際には実在事件のフィクション化という逆方向のことが行われているのがなんか面白いなと思いました。

 呪怨といえば、家に憑りついた伽耶子の霊が巻き起こす霊障がその中心にある内容でしたが、本作はその立て付けからして、伽耶子は存在しませんし、伽耶子のモデルとなったのであろう霊についても、あまり直接的には人に何かの危害を与えることがありません。

 

 僕の印象では、霊は歪みのように思えました。その家に存在する歪みを象徴するような存在です。

 

 この物語の中で起こる惨劇の多くは、霊ではなく人間が巻き起こしたものです。しかしながら、それらの人間たちが、本当に正気であったのかどうかというところに疑問が残ります。つまり、そこにあった惨劇は、人間が家の持つ歪みに影響を受けて起こしてしまった出来事のように思えたということです。

 

 「場所の呪い」というのはあると思っていて、それは物理的な場所のこともありますし、立場のこともあります。その場所にいる人が同じようなことをしてしまうということは世の中にはよくあって、その場所にいさえしなければやらなかったことをやってしまったりします。

 例えば、ある会社の経営者の人が、会長職に退いてから、それまでとは人格が変わったかのような穏やかな物腰になったことがあり、その代わりに社長になった人が、それまでは言わなかったような厳しい物言いをするようになるようなことを目にしたことがあります。

 

 このように、場所には歪みがあります。それが人間に対して、認知に干渉したり、要請をする形で、人の行動を縛ってしまいます。これは身近にもある話です。人は様々なものに影響を受けて自分の行動を制御しており、さほど自由ではありません。

 

 この呪いの家の周辺にいる人たちは、家にある歪みに捻じ曲げられているように思えました。

 これが本作の嫌なところで、狂ってしまったそれぞれの人は、それぞれある程度の正気を保ち、それぞれある程度狂っています。その歪まされた結果だけが見えて、その奥にある何にどのように歪まされているのかは上手く見ることができません。二次創作だけを見せられて、元の作品を想像させらえているような状態です。だから、分かりそうで分からず、分からなそうで分かるという状態になってしまいます。

 

 これは、これまでの呪怨シリーズと本作の関係性と似ているとも考えることができます。これまでのシリーズを見ていた人からすると、今まで観てきたものの元ネタという建てつけの事件から、類似する部分を認識することができるということです。なので、知らないのに知っている事件を見ているという不思議な感覚がありました。

 

 僕は、人間は分かりそうで分からないものを恐怖し、分からなそうで分かるものを面白く思ってしまうのではないかと思っていて、断片的な情報と錯綜する時系列によって、分からなさそうで分かるものが、本作の中には充満しており、そして最後の方に家の歪みが思いもよらない方法で繋がってある種の理解に至ります。でも、それをもってしても最後の描写が意味するものには、想像する余地が残されているだけです。

 理解はできたようでいて、そうでない可能性もあり、もやもやとした不安は残ってしまうのでした。

 

 シーズン1と表記されているので、これはクリフハンガーで次のシーズンに続くのかもしれませんし、これで終わりというなら、終わりで納得することもできて、その辺は人気次第なのかなとも思いますが、不思議な感覚でした。

 

 本作は、シリーズのアイコンと化していた伽耶子や俊雄から脱却した話なのかなと思っていて、なぜなら、伽耶子や俊雄は既に分かっているものになってしまっていますから、分からない怖いものから、分かる面白いものに変化してしまっているきらいがあります。

 

 ある場所によって人が知らずに歪んでしまうということ、その原因が誰かの人格というよりは、自然現象のようにどうしようもないものとして描かれている恐ろしさのようなものを感じたところがあって、だからどうしようもなく、そこに近づかないようにするしかないというある種の穢れのようなものを感じました。

 

 なので、これで終わりなのが怖さの源泉なのかもなと思い、これで終わった方がホラーとしてはいいのかなと思ったりします。でも、それはそれとして、続きがあるならあるで観たいなあと思いました。

特定の誰かに好かれたいとき人はどうするのか関連

 僕は今までの人生の中で、あんまりこの人に好かれたいと強く思ったことがありません。記憶している限り、幼稚園入る前ぐらいの時点で、既にそういうことを思っても仕方がないなという感覚があったように思います。そこには自分の生育環境が関係しているのかもしれませんが、よく分かりません。

 ただ、他人に対して「この人、好きだな」と思うことはよくあります。でも、相手の好きが自分に向いてくれることについては、別にそうじゃなくてもいいと思ってしまうんですよね。確かに相手の好意が自分に向いてくれたら嬉しくは感じますが、だって、そうじゃなくても自分が相手のことを好きなことは自分の中で確定していて、それで十分に満たされるなと思ってしまいます。

 

 誰かに好かれたいと思うことがあまりないので、誰かに好かれる努力をした覚えもなく、それゆえに自分は友達が少ないのではないかと思います。ただ、そうであることにも特に不都合は感じていないのですが。

 ただ、今いる友達に好かれようと努力して友達になったわけではないので、なぜ友達になれたかの理由は分からず、再現性がないので、もし自分の人生がもう一度あったら、同じ人と仲良くなれないかもしれないなと想像して怖くなることがあります。

 

 「僕の心のヤバいやつ」を読んでいて面白く思った部分は、第1巻の終わりのあたりの、市川くんが山田さんのことを好きだと自覚する場面です。この物語は、天然ボケではあるものの目立つ美人で雑誌モデルもやっている山田さんを、陰キャ中二病で主人公の市川くんが殺す妄想を抱えているというところから始まるものなのですが、第1巻の終わりのあたりでは山田さんに対する市川くんの気持ちが、実は「殺意」ではなく「好意」であることを自覚する過程が描かれます。

 それは体育中の事故で、山田さんが怪我をしてしまい、決まっていたモデルの仕事を休まなければならなくなってしまったことで、泣いている様子を市川くんが見てしまったからです。自分の不注意で、周囲の期待に応えられなくなった悔しさと悲しさを抱える山田さんの様子を見て、我がことのように悲しくなってしまう自分に戸惑い、市川くんはこれが好意であることを自覚するのです。

 そりゃそうですよ。誰かの願いが叶って欲しいと願う行為が、好意でなくてなんなのでしょうか?

 

 しかしながら、世間一般の好意には、また別のニュアンスもあると思います。それはつまり、「だから相手に、自分のことを好きになって欲しい」と願うことでしょう。中学生男子なら、こちらのタイプの好意の抱き方の方が一般的かもしれません。

 「相手があるがままでいて欲しい」と願うことと、「相手に自分のことを好きになって欲しい」と願うことは、矛盾はしない解ももちろんありますが、「相手が変わらないで欲しい」ということと「相手に変わって欲しい」ということという、真逆の気持ちの発露であって、それが同じ「好意」という言葉に回収されているのが面白いと僕は感じています。

 

 市川くんにはもちろん山田さんに自分を好きになって欲しいという気持ちもあるでしょうが、それ以上に、山田さんが山田さんらしくあって欲しいと願う気持ちがあるように思えて、だから、自分が山田さんにより好かれ、自分のために変わって欲しいと願う気持ちを押し込めてしまっているのではないか?と思いながら僕はこの漫画を読んでいます。

 その結果、現在3巻まで出ているこの漫画は、市川くんに好意を抱くようになったと思える山田さんが、どうにかして市川くんの好意を自分に向けさせようとする展開になっています。それは実はとっくにそうなのですが、市川くんはその気持ちをあまり直接的に表に出さないので、匂わせはすれど伝わってはいなさそうです。この漫画、市川くんのモノローグが読める読者からすると自明のことが、山田さんにはその情報が解禁されてないので、ホントはっきりしない匂わせばかりの態度な市川くんの存在があり、めちゃくちゃもどかしいだろうなと思います。

 ただ、市川くんがそのように自然と押し込めてしまう「相手に自分を好きになって欲しい」と願う気持ちを、山田さん側は押し込めないのだなと思って、それが2人の対比となっていて面白いなと思っています。

 

 このような、好意を抱いている他人に自分を好きになって欲しいと願うかどうかは、別に願う人と願わない人のどちらが正しいということはなく、そうしてしまう人と、そうしない人が世の中にはいるよなと僕は思っているのです。

 

 ただ一方で思うのは、誰かに好かれたいと願うことはリスクもあることです。なぜならば、いくら相手に自分のことを好きになって欲しいと願っても、相手が思った通りに自分を好きになってくれるとは限らないからです(好きになって貰えないことの方が多いんじゃないでしょうか?)。その願いを持ってしまったことが罪だとすれば、拒絶と言う形の罰で自分が傷ついてしまうかもしれません。僕ヤバの市川くんには、それが怖くて踏み出せないところもあるように思います。そして、一方の山田さんは自分に自信があるので、自分が傷つく可能性、つまり市川くんに好かれずに終わってしまうことをあまり考えていないのかもしれません。

 

 でも、実際の話、自分がこの人に好かれたいと強く願ったのに好かれない結果になった場合、人はどういうことを思うのでしょうか?相手の自由意志なのだから仕方ないと思うでしょうか?そう思えるなら、そもそも相手に自分を好きになって欲しいなんて思わないかもしれません。自分には価値がない人間だと思って落ち込むでしょうか?それは仕方ないかもしれません。いつか立ち直ってまた別の好きな人ができたらいいですよね。

 ただ、自分を好きにならない相手が「悪い」と思ってしまったとしたら、それは怖い話になります。相手が自分を好きにならないことが悪いことであるから罰さなければならないと思ってしまう人は実際にいて、それが怖いことになったケースが身近でもいくつかあります。

 

 そのような、自分の思い通りにならないことに対する不満の矛先は、好きな相手自体に向かわない場合もあります。例えば、相手に他に好きな人がいる場合に、その相手が好きな人に対して不満が向かってしまう場合があります。この場合、相手のことが好きで大切であるという気持ちを維持したままで、自分の不満のぶつけ先を見つけることができるので、良かれと思ったままで悪い行為がエスカレートしてしまったりします。実際にあったことはあまり具体的には書くことはできないのですが。

 

 人間にはそれぞれに意志があり、自分と相手が対等な人間だと思うなら、自分の思った通りに相手がならないのは当たり前のことです。それを強制していい理由なんてないだろうという諦めのようなものがあり、僕が抱えている好かれたいとは特に思わないという気持ちの根っこも、実はそういうもなのかもしれません。

 

 誰かと仲が良くなることって、そんなにコントロールできないんじゃないかなと感じています。それは分かりやすい、何かしら秀でた特技があるだとか、お金持ちだとか、有名であるだとかということとはそんなに関係がなかったりすると思うからです。

 僕が誰かを好きだなと思うようになるのには、大体1年から3年ぐらいの時間がかかることが多くて、その間にその人が何に対してどのように反応したかとか、何を思ったとかを話してくれたとかの沢山の情報の積み重ねが段々と好意に変換されていくような感じがしています。

 

 だから、100億円持った人が「我は100億円持っておるぞ!好きになれ!」と言ってきたとして、いや、100億円が欲しくて「好きです!」と心にもないことを言ってしまうのかもしれないですけど、実際に好きにはなれないだろうなと思います。

 

 その立場が逆だったらどうですか?自分が誰かに好かれるように振る舞うのってどうですか?どうすればいいですか?もう分かんないですよね。そうしないといけないと思ったとしても、どうやればそうなるのか分からなくて、ただ苦しんでしまうのではないだろうかとネガティブな想像してしまいます。

 

 だから、好かれようなんて期待しない方がいいんじゃないですか?って思うんですけど、でも、そういうのって自分の意志で簡単にどうこうなる問題でもなく、どうしようもなく思ってしまう人は思ってしまうからしんどいんだろうなと思うので、それは辛いだろうなと思います。

 人間の苦しみは、基本的に自分以外のものが自分の思った通りにならないという枠組みに入ってしまうと思うので、これも同じですよ。辛い。好かれる好かれないとは関係なくともこの枠組みの中の苦しみは絶対どこかにあると思います。辛いなー。でも、辛い人生をやっていくしかない。

 一切皆苦。辛い人生をやっていきましょう。