漫画皇国

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特定の誰かに好かれたいとき人はどうするのか関連

 僕は今までの人生の中で、あんまりこの人に好かれたいと強く思ったことがありません。記憶している限り、幼稚園入る前ぐらいの時点で、既にそういうことを思っても仕方がないなという感覚があったように思います。そこには自分の生育環境が関係しているのかもしれませんが、よく分かりません。

 ただ、他人に対して「この人、好きだな」と思うことはよくあります。でも、相手の好きが自分に向いてくれることについては、別にそうじゃなくてもいいと思ってしまうんですよね。確かに相手の好意が自分に向いてくれたら嬉しくは感じますが、だって、そうじゃなくても自分が相手のことを好きなことは自分の中で確定していて、それで十分に満たされるなと思ってしまいます。

 

 誰かに好かれたいと思うことがあまりないので、誰かに好かれる努力をした覚えもなく、それゆえに自分は友達が少ないのではないかと思います。ただ、そうであることにも特に不都合は感じていないのですが。

 ただ、今いる友達に好かれようと努力して友達になったわけではないので、なぜ友達になれたかの理由は分からず、再現性がないので、もし自分の人生がもう一度あったら、同じ人と仲良くなれないかもしれないなと想像して怖くなることがあります。

 

 「僕の心のヤバいやつ」を読んでいて面白く思った部分は、第1巻の終わりのあたりの、市川くんが山田さんのことを好きだと自覚する場面です。この物語は、天然ボケではあるものの目立つ美人で雑誌モデルもやっている山田さんを、陰キャ中二病で主人公の市川くんが殺す妄想を抱えているというところから始まるものなのですが、第1巻の終わりのあたりでは山田さんに対する市川くんの気持ちが、実は「殺意」ではなく「好意」であることを自覚する過程が描かれます。

 それは体育中の事故で、山田さんが怪我をしてしまい、決まっていたモデルの仕事を休まなければならなくなってしまったことで、泣いている様子を市川くんが見てしまったからです。自分の不注意で、周囲の期待に応えられなくなった悔しさと悲しさを抱える山田さんの様子を見て、我がことのように悲しくなってしまう自分に戸惑い、市川くんはこれが好意であることを自覚するのです。

 そりゃそうですよ。誰かの願いが叶って欲しいと願う行為が、好意でなくてなんなのでしょうか?

 

 しかしながら、世間一般の好意には、また別のニュアンスもあると思います。それはつまり、「だから相手に、自分のことを好きになって欲しい」と願うことでしょう。中学生男子なら、こちらのタイプの好意の抱き方の方が一般的かもしれません。

 「相手があるがままでいて欲しい」と願うことと、「相手に自分のことを好きになって欲しい」と願うことは、矛盾はしない解ももちろんありますが、「相手が変わらないで欲しい」ということと「相手に変わって欲しい」ということという、真逆の気持ちの発露であって、それが同じ「好意」という言葉に回収されているのが面白いと僕は感じています。

 

 市川くんにはもちろん山田さんに自分を好きになって欲しいという気持ちもあるでしょうが、それ以上に、山田さんが山田さんらしくあって欲しいと願う気持ちがあるように思えて、だから、自分が山田さんにより好かれ、自分のために変わって欲しいと願う気持ちを押し込めてしまっているのではないか?と思いながら僕はこの漫画を読んでいます。

 その結果、現在3巻まで出ているこの漫画は、市川くんに好意を抱くようになったと思える山田さんが、どうにかして市川くんの好意を自分に向けさせようとする展開になっています。それは実はとっくにそうなのですが、市川くんはその気持ちをあまり直接的に表に出さないので、匂わせはすれど伝わってはいなさそうです。この漫画、市川くんのモノローグが読める読者からすると自明のことが、山田さんにはその情報が解禁されてないので、ホントはっきりしない匂わせばかりの態度な市川くんの存在があり、めちゃくちゃもどかしいだろうなと思います。

 ただ、市川くんがそのように自然と押し込めてしまう「相手に自分を好きになって欲しい」と願う気持ちを、山田さん側は押し込めないのだなと思って、それが2人の対比となっていて面白いなと思っています。

 

 このような、好意を抱いている他人に自分を好きになって欲しいと願うかどうかは、別に願う人と願わない人のどちらが正しいということはなく、そうしてしまう人と、そうしない人が世の中にはいるよなと僕は思っているのです。

 

 ただ一方で思うのは、誰かに好かれたいと願うことはリスクもあることです。なぜならば、いくら相手に自分のことを好きになって欲しいと願っても、相手が思った通りに自分を好きになってくれるとは限らないからです(好きになって貰えないことの方が多いんじゃないでしょうか?)。その願いを持ってしまったことが罪だとすれば、拒絶と言う形の罰で自分が傷ついてしまうかもしれません。僕ヤバの市川くんには、それが怖くて踏み出せないところもあるように思います。そして、一方の山田さんは自分に自信があるので、自分が傷つく可能性、つまり市川くんに好かれずに終わってしまうことをあまり考えていないのかもしれません。

 

 でも、実際の話、自分がこの人に好かれたいと強く願ったのに好かれない結果になった場合、人はどういうことを思うのでしょうか?相手の自由意志なのだから仕方ないと思うでしょうか?そう思えるなら、そもそも相手に自分を好きになって欲しいなんて思わないかもしれません。自分には価値がない人間だと思って落ち込むでしょうか?それは仕方ないかもしれません。いつか立ち直ってまた別の好きな人ができたらいいですよね。

 ただ、自分を好きにならない相手が「悪い」と思ってしまったとしたら、それは怖い話になります。相手が自分を好きにならないことが悪いことであるから罰さなければならないと思ってしまう人は実際にいて、それが怖いことになったケースが身近でもいくつかあります。

 

 そのような、自分の思い通りにならないことに対する不満の矛先は、好きな相手自体に向かわない場合もあります。例えば、相手に他に好きな人がいる場合に、その相手が好きな人に対して不満が向かってしまう場合があります。この場合、相手のことが好きで大切であるという気持ちを維持したままで、自分の不満のぶつけ先を見つけることができるので、良かれと思ったままで悪い行為がエスカレートしてしまったりします。実際にあったことはあまり具体的には書くことはできないのですが。

 

 人間にはそれぞれに意志があり、自分と相手が対等な人間だと思うなら、自分の思った通りに相手がならないのは当たり前のことです。それを強制していい理由なんてないだろうという諦めのようなものがあり、僕が抱えている好かれたいとは特に思わないという気持ちの根っこも、実はそういうもなのかもしれません。

 

 誰かと仲が良くなることって、そんなにコントロールできないんじゃないかなと感じています。それは分かりやすい、何かしら秀でた特技があるだとか、お金持ちだとか、有名であるだとかということとはそんなに関係がなかったりすると思うからです。

 僕が誰かを好きだなと思うようになるのには、大体1年から3年ぐらいの時間がかかることが多くて、その間にその人が何に対してどのように反応したかとか、何を思ったとかを話してくれたとかの沢山の情報の積み重ねが段々と好意に変換されていくような感じがしています。

 

 だから、100億円持った人が「我は100億円持っておるぞ!好きになれ!」と言ってきたとして、いや、100億円が欲しくて「好きです!」と心にもないことを言ってしまうのかもしれないですけど、実際に好きにはなれないだろうなと思います。

 

 その立場が逆だったらどうですか?自分が誰かに好かれるように振る舞うのってどうですか?どうすればいいですか?もう分かんないですよね。そうしないといけないと思ったとしても、どうやればそうなるのか分からなくて、ただ苦しんでしまうのではないだろうかとネガティブな想像してしまいます。

 

 だから、好かれようなんて期待しない方がいいんじゃないですか?って思うんですけど、でも、そういうのって自分の意志で簡単にどうこうなる問題でもなく、どうしようもなく思ってしまう人は思ってしまうからしんどいんだろうなと思うので、それは辛いだろうなと思います。

 人間の苦しみは、基本的に自分以外のものが自分の思った通りにならないという枠組みに入ってしまうと思うので、これも同じですよ。辛い。好かれる好かれないとは関係なくともこの枠組みの中の苦しみは絶対どこかにあると思います。辛いなー。でも、辛い人生をやっていくしかない。

 一切皆苦。辛い人生をやっていきましょう。