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自分の頭で考える関連

 皆さんは自分の頭で何かを考えていますか?

 

 僕自身は本当に自分が自分の頭で物を考えているのか疑問があります。というのも、「自分が考えたこと」と、「自分以外の誰かが言ったことに納得して内面化したこと」の区別が、考えるほどに自分の中で曖昧だからです。

 

 例えば、面白いことが好きなので、昔から面白いこととは何か?ということを考えているのですが、僕の自己認識では自分が考えた面白いと思うことには常に元ネタがあります。つまり、外部からインストールされたオモシロ回路によって出力したことを喋っているので、それは本当に自分が考えた面白だろうか?誰かの面白のパロディに過ぎないんじゃないだろうか?という疑問があるのです。

 なぜ、そのオモシロ回路を自分の中に導入したかというと、僕がそれを見たり聞いたりして笑った経験があるからです。自分が笑ったからには面白いものだろうという確信があり、その面白いものを自分で再生産すれば、きっとまた面白いに違いないということを信じてそうしているのだろうなと思います。

 

 つまり、パクリです。そのものズバリをパクっているわけではありませんが、何を面白いと考えるかという価値観と方法論をパクっています。パクる基準は自分が笑ったかどうかです。そして、僕が元ネタにしている人たちも、もしかするとまた、別の何かからパクっているのかもしれません。だとすれば、真のオモシロ回路のオリジンは誰なのか?もし誰もがパクリだとした場合、オモシロ回路は新しく生まれて広がることはないのだろうか?という謎がそこに残ります。

 多くの再生産とともに少しのオリジナルの歴史的な積み重ねと思えばいいんでしょか?

 

 ちなみに僕が面白の価値観として強く影響を受けているのは、ドラゴンクエスト4コママンガ劇場や、そこから派生した初期のガンガンの漫画です。さらに具体的に言うなら、南国少年パプワくん魔法陣グルグルがとりわけです。他には芸人の深夜ラジオをずっと聞き続けているので、深夜ラジオの投稿はがき群(無数)にも影響を受けています。他には、吉田戦車の漫画にも強く影響を受けていますし、古屋実の漫画にも強く影響を受けています。そして、田丸浩史平野耕太すがわらくにゆきG=ヒコロウの漫画にも影響を受けています。他にも沢山あると思います。

 僕の抱える面白には様々な元ネタがあり、それらの元ネタから必要な価値観を必要に応じて引っ張ってきて、再構成したものを喋っているので、自分にはオリジナリティがないなと常々思います。

 

 さて、自分の頭で考えていないということについては、科学的なことについても思い当たります。

 

 なぜなら、科学には人間がこれまで積み上げてきた歴史があり、僕はその巨人の肩の上に立っているに過ぎないからです。その状況において、今まで僕が学んできた科学を、僕自身がその全てについて検証実験をしたことはなく、最初からそれを正しいこととして学び、受け入れてきたという経緯があります。

 つまり僕の頭の中にある科学は僕自身が考えたことではなく、これは正しいことだということを外からまずインストールして受け入れるところから始めました。それはやっぱり自分の頭では考えていないのだと思います。しかしながら、このような自分の頭で考えないことはある程度仕方ないことでもあるのではないでしょうか?

 

 というか、自分の頭で考えた科学が、これまでの歴史の中での科学の積み上げよりも信じられるってことあります??

 

 そもそも、これまでの人が積み上げてきた科学の全てを自分自身の考えとするために、それぞれ最初から検証していくことは、それを行うだけで人生の全てを使っても足りない量のことです。確かに、科学とは検証可能なもので、再現可能なものであることが原則です。それでも、それができる可能性を維持したとしても、読んだ論文の全てを自分で検証することまではできません。

 人間一人の認知や時間には限界があるため、全ての科学的なものを自分が科学的に納得がいく形で検証できないということになってしまいます。だから、それらを検証するための枠組みが世の中にはあります。とはいえ、その枠組みだってどんな正しさを持っているかどうかを実際に確認しているでしょうか?

 

 世の中の教育の多くは、教科書に書いていることはそのまま信じてしまえばいいじゃないかというやり方で動いています。でも、もし科学的検証に耐えないようトンデモな内容のものが、教科書然として存在していたとしたらどうでしょうか?教科書の内容をそのまま受け入れるように、そういった科学的でないものもそのまま受け入れるということは危険ではないでしょうか?

 でも、信頼できる教科書と、信頼できない教科書はどのように見分ければいいのでしょうか?これは結構難しい話だと思うんですよ。信頼できる教科書は、多くの専門家の検証を乗り越えて存在しています。でも、専門知識がない人が、それらの専門家たちが信頼に足るかをどのように判断すればいいかが分かりません。

 

 こんな何も分からない世の中で使われている代表的な方法は、ある程度の検証ができそうな人を見つけて、その人間を信じることで、自分自身が検証する手間を省くというものです。

 例えば、その筋の専門家であるだとか、大学の先生だとかの肩書を見たり、その人がこれまでどのようなことを言ってきたかとか、その人が他からどのように言われているかとかを手掛かりにして判断したりします。僕も専門分野以外ではそんな感じです。

 

 でも、それってやっぱり科学ではないですよね?その人を信じていいかを疑うことはできても、科学的な部分そのものを批判的に検証ができていないからです。だから、この人は正しいぞと言われていると、そうかもしれない…と思い、この人は嘘つきだぞと言われていると、そうかもしれない…と思います。再現可能で検証可能でないものを、ろくな根拠もなく肩書や世の中の評判を手がかりに信じるか信じないかを決めているだけということです。

 その対象の本質的なところについては自分の頭で一切考えていないのに、そんな状況で、何かの専門的なことを分かったような顔をしてしまうというのが、悲しいことに世の中の基本なんだと思っています。

 

 実際にちゃんと検証できるのは、自分自身が専門的に取り扱っているごく狭い領域だけです。となれば、自分の頭で考えていると堂々と言えるのはそこでだけなのではないでしょうか?残りの部分では自分の頭では考えていないんじゃないでしょうか?

 

 ただ、科学を科学として捉えるのではなく、科学に詳しそうな人を信じることを選ぶという楽な方法で、生活における割とほとんどのことは特に問題ないのだと思いますが、でも、その信じた相手が間違っていたときに同時に自分も間違っちゃったりするのは怖いですよね?もし、その人が詐欺師だったらどうしますか?

 

 以前、声優の野沢雅子さんの偽物ツイッターアカウントができたとき、どう考えても偽物だと思ったのですが、「野沢雅子【公式】」という名前に反応して、沢山の人がフォローしているのを目にしました。「公式」と書いていると、「公式なんだ…」と思って信じてしまう人が大量にいたのが面白いなと思ったのですが、僕自身もスーパーで「おいしい牛乳」と書いてあるのを見ると「おいしいんだ…」と思って買ったりしています。

 人は何を見て何を信じているのかということの根拠を探っていくと、ホント信頼性のない情報に行き当たったりします。「AはBらしい」と思っていた根拠を自分の中で掘っていくと、「AはBらしい」とネットのどこかに誰かが書いてあった以外に根拠が見つからないこともあったりします。え!?そんなことだけを根拠に人は何かを信じるに足ると思ってしまうんだな…と思ったりするのは、わが身を振り返っても実際あるので、びっくりしてしまいますね。

 

 前出のツイッターアカウントの真贋見極めで言えば、そのアカウントを最初にフォローした人やその存在を広めた人が信頼できる人なのか、あるいは公式サイトからリンクが貼っているかなどの情報経路や周辺情報が自分の中で信頼できる水準にあるかどうかを元に信頼度が一定以上あるかで判断します。また、それを信じてしまって実は間違っていたときに、どれぐらいの問題があるのか?例えば取り返しのつかないようなことが起こる要素があるかなどを考えての判断になります。

 そういうことをして、何が信頼に足るのかという検証をしていますが、それでも騙されるときは騙されるでしょう。

 

 嘘を嘘と見抜くなんて、本当にできますかね?騙されるときは騙されるんじゃないですかね?だって、何かを信じるとき、結構雑な根拠から信じちゃったりするわけじゃないですか。

 自分の頭で考えているから大丈夫なんて本当に思えますか?本当に自分の頭で考えていることに自信がありますか?その考えを分解していくと、めちゃくちゃ雑な根拠しか出て来なかったりしませんか?誰かから手に入れた考え方に、誰かから手に入れたデータを当てはめたら自動的に出てきた答えを、自分の考えだなんて思い込んではいませんか?その区別はちゃんとついていますか?

 

 僕はもう、自分のそういうところを疑い続けています。そして、自分って何なんだろうって思ったりしています。自分の大部分ってひょっとして自分じゃなくないですか?誰か別の人の考え方を再生する装置のようでもあったりしませんか?

 そう考えると、僕はなにかとっても怖いなあと思いました。