漫画皇国

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透明な傑作という概念について

 ジャンプで連載中の「タイムパラドクスゴーストライター」に、この前「透明な傑作」という概念が登場しました。タイムパラドクスゴーストライターは、何故か10年未来のジャンプが自宅に届く環境を手に入れた漫画家志望の主人公が、そこに掲載されていた漫画をパクることで連載を獲得するお話で、作中に登場する倫理観が特殊で、奇妙な漫画だなと思いながら読んでいます。

 

 「透明な傑作」というものは、「全人類が誰でも楽しめる漫画」のことです。これは主人公が目指すものであり、作中でパクられた傑作「ホワイトナイト」の作者が目指すものでもあります。

 

 主人公の佐々木くんは、まだ連載を獲得できなかった頃、編集者からのダメ出しに「僕はただ沢山の人を楽しませられればそれで」と答えます。そして編集者からの返答は「沢山の人って誰だよ」や「一部の読者層釣った方がいくらか読む価値ある漫画になる」でした。それでも、佐々木くんの目指すものは、「みんなが楽しめるような漫画」です。

 強い作家性があればあるほど、その偏りのせいで、楽しめる人が減るのではないかという考えがそこにあります。例えば、絵柄が独特だから読まないという話も聞きますし、作者の持つ思想性が受け付けないとか、作中の背後に流れる価値観が受け入れがたいので読みたくないというような話もあると思います。まさに本作自体が、作中における良い悪いの価値観が受け入れ難く、あまり読みたくないと言っている人もいました。

 だからこそ、全人類が楽しめる、つまり、楽しめない人がひとりも存在しない漫画が存在するならば、そのような強い作家性は、読者層を狭めてしまうために不利になるという考え方が本作には存在します。そういえば、昔、あるゲーム会社の人に、子供向けを意識したりして作ってるんですか?と聞いたところ、その人からは「できるだけ幅広い人に遊んでもらうために、結果的に子供が遊べるものになっている」という回答がありました。理屈は通っている思います。

 

 だから、作者側からわざわざ読者層を絞り込むことでは、それを楽しめない人を無視していると考えることもできますし、そのために強いクセのある作家性は不要、限りなく透明なものこそが正解という理屈は、そういう考え方は全然あるよなと思いました。

 例えばゲームだって、幅広い人が遊べるように推奨年齢のレーティングを下げるための表現の変更が発生したりしています。決して特異な発想ではありません。ポリティカルコレクトネスだってその一種だと思います。自分たちの表現を「誰が楽しむことができないか?」について自覚的になることは、現代の世の中では既にすごく求められることで、その上で、その表現をするかしないかを考えることが求められます。

 

 ならばきっと、「透明な傑作」というものは、「誰かがそれを楽しめない可能性を、完全に排したもの」としてのみ存在するだろうことができるのでしょう。

 

 さて、ここで思い出されるのは冒頭の編集者による「沢山の人って誰だよ」という問いです。

 僕の認識では、読書体験とは、「作者と読者の共同作業によって発生するもの」です。「何の漫画を読むか」と同等かそれ以上に、「それを誰が読むか」ということが読書体験には関わってきます。そして、世の中には本当に多様な人がいるわけです。
自分が絶対いいに決まっていると思ったものでも、その人の感性からすれば全く良くないと思ってしまうかもしれません。世の中には、炊き立てのほかほかご飯が嫌いな人だっているわけです。外国で、現地の人が喜んで食べる孵化寸前の鶏の卵を、多くの日本人は気持ち悪く感じて食べられないかもしれません。外国ではタコを食べる日本の文化を、気持ち悪いと感じることもあるようです。

 多様な人がいれば、多様な受け取り方があります。読書体験はその多様性の数だけ存在します。全く逆の感性を持つ人がいたとして、それぞれのどちらかが正しいのではなく、等しく価値があり、ただ真逆なだけです。だから、「全人類が楽しめる漫画」というのは、基本的には「ない」のだと僕は思います。その多様性の中には、互いに打ち消し合うようなものも含まれるからです。

 

 事実、日本で一番売れている漫画にだって、それを楽しめない人は当然います。「全ての読者に好かれたい」というのは、意地悪な言い方をすれば、「その中の一人一人の個性には目を向けるつもりがない」とも言えます。だとすれば、結局最初の編集者の言葉が正しかったということになってしまいますね。

 

 とはいえ、これは漫画の中に登場した概念なので、作中には存在してもいいはずです。他の作品でも、例えば「響-小説家になる方法-」に登場する「御伽の庭」という小説は、どれだけそれを書いた響を嫌っている人でも、読んでしまったからには響の存在を認めざるを得なくなってしまったり、普段は読書をしないヤンキーでも、読んだらすごいことが分かるというような、まさに誰もがその面白さを認めざるを得ない透明な傑作です(ただし作者のクセは強い)。響を認めたくない場合でも、読んだら負けてしまうので、勝ちたければ読まないで済ますしかありません。

 「将太の寿司」において将太くんを憎んでいた笹寿司の笹木も、最後の最後になるまで将太くんの寿司を食べずに来たからこそ敵でいられたのかもしれません。「おさまづま」で、妻の描く漫画を最後まで読まなかった夫は、最後まで妻の存在を認めない人でした。「BECK」のコユキの声を聴いたら、皆はあんぐりと口を開けて、その存在を認めざるを得ないわけです。

 

 物語の中であれば、そんな透明な何かしらが存在する余地があります。100人いたら、100人がそれを面白いと心から言えるものは人類の見果てぬ夢のようなところがあるのでしょう。全ての人間が心から面白いと思えるものが本当に存在するなら、その漫画で世界征服だってできてしまうかもしれません。あらゆる人の価値観の多様性を全て引き受けることができるか、あるいは、そのさらに奥にある根源に到達できているということだからです。

 これは冗談ですが、世界の人口をひとりまで減らせば全人類が楽しめる漫画は達成できますね。人類の多様性の方を減らすという最悪のアプローチもありますね。

 

 現実で考えた場合、100人いたら100人が楽しめるということはさすがに不可能に思えても、90人が楽しめることを考えることはできるかもしれません。一方で残りの10人はなぜ楽しめないのかについても、考えておくことはきっと必要でしょう。なぜなら、その90人の楽しさは、残りの10人を傷つけることによって成り立っているかもしれないからです。

 僕の価値観では10人を傷つけて90人を楽しませるものだってあっていいと思いますが、その時は、「10人を傷つける可能性は認識していたが、それでもその表現をしたかった」と認識することが誠実さだと思っていて、決して「傷つけるつもりはなかった」とは言わないでほしいなと思ってしまいます。

 そして、僕自身は100人いたら1人しか楽しめないようなものでも、全然あっていいと思っていて、だってその1人が自分かもしれないじゃないですか。他の99人に無視されたり、不快な思いをさせたとしても、ただ1人の自分のような人間のために作られたと感じられるものがあったとしたら、それは少なくともその1人のとっては救いになります。それを奪われたくないなとは思うわけですよ。どうしても。

 

 これは偏見ですが、「漫画が好きだ」という気持ちが強い人ほど、自分がその1人になっているということに何かしら救われてきた自覚があるんじゃないかなと思います。なぜそう思うかというと、僕がそうだと思ってるからです。

 だからこそ、その1作で100人全員が楽しめることって本当に必要?という疑念もあって、こういうことを色々考えてしまうんじゃなかなと思いました。例えばその理想に従って、99人が楽しめるところにまで到達できたとしても、残りの1人が自分だったらどうしようとか思うんですよね。

 その全人類というくくりに、本当に自分は含まれているのかな?と。

 

 どうですか?僕は人類ですか?