漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

自分の頭で考える関連

 皆さんは自分の頭で何かを考えていますか?

 

 僕自身は本当に自分が自分の頭で物を考えているのか疑問があります。というのも、「自分が考えたこと」と、「自分以外の誰かが言ったことに納得して内面化したこと」の区別が、考えるほどに自分の中で曖昧だからです。

 

 例えば、面白いことが好きなので、昔から面白いこととは何か?ということを考えているのですが、僕の自己認識では自分が考えた面白いと思うことには常に元ネタがあります。つまり、外部からインストールされたオモシロ回路によって出力したことを喋っているので、それは本当に自分が考えた面白だろうか?誰かの面白のパロディに過ぎないんじゃないだろうか?という疑問があるのです。

 なぜ、そのオモシロ回路を自分の中に導入したかというと、僕がそれを見たり聞いたりして笑った経験があるからです。自分が笑ったからには面白いものだろうという確信があり、その面白いものを自分で再生産すれば、きっとまた面白いに違いないということを信じてそうしているのだろうなと思います。

 

 つまり、パクリです。そのものズバリをパクっているわけではありませんが、何を面白いと考えるかという価値観と方法論をパクっています。パクる基準は自分が笑ったかどうかです。そして、僕が元ネタにしている人たちも、もしかするとまた、別の何かからパクっているのかもしれません。だとすれば、真のオモシロ回路のオリジンは誰なのか?もし誰もがパクリだとした場合、オモシロ回路は新しく生まれて広がることはないのだろうか?という謎がそこに残ります。

 多くの再生産とともに少しのオリジナルの歴史的な積み重ねと思えばいいんでしょか?

 

 ちなみに僕が面白の価値観として強く影響を受けているのは、ドラゴンクエスト4コママンガ劇場や、そこから派生した初期のガンガンの漫画です。さらに具体的に言うなら、南国少年パプワくん魔法陣グルグルがとりわけです。他には芸人の深夜ラジオをずっと聞き続けているので、深夜ラジオの投稿はがき群(無数)にも影響を受けています。他には、吉田戦車の漫画にも強く影響を受けていますし、古屋実の漫画にも強く影響を受けています。そして、田丸浩史平野耕太すがわらくにゆきG=ヒコロウの漫画にも影響を受けています。他にも沢山あると思います。

 僕の抱える面白には様々な元ネタがあり、それらの元ネタから必要な価値観を必要に応じて引っ張ってきて、再構成したものを喋っているので、自分にはオリジナリティがないなと常々思います。

 

 さて、自分の頭で考えていないということについては、科学的なことについても思い当たります。

 

 なぜなら、科学には人間がこれまで積み上げてきた歴史があり、僕はその巨人の肩の上に立っているに過ぎないからです。その状況において、今まで僕が学んできた科学を、僕自身がその全てについて検証実験をしたことはなく、最初からそれを正しいこととして学び、受け入れてきたという経緯があります。

 つまり僕の頭の中にある科学は僕自身が考えたことではなく、これは正しいことだということを外からまずインストールして受け入れるところから始めました。それはやっぱり自分の頭では考えていないのだと思います。しかしながら、このような自分の頭で考えないことはある程度仕方ないことでもあるのではないでしょうか?

 

 というか、自分の頭で考えた科学が、これまでの歴史の中での科学の積み上げよりも信じられるってことあります??

 

 そもそも、これまでの人が積み上げてきた科学の全てを自分自身の考えとするために、それぞれ最初から検証していくことは、それを行うだけで人生の全てを使っても足りない量のことです。確かに、科学とは検証可能なもので、再現可能なものであることが原則です。それでも、それができる可能性を維持したとしても、読んだ論文の全てを自分で検証することまではできません。

 人間一人の認知や時間には限界があるため、全ての科学的なものを自分が科学的に納得がいく形で検証できないということになってしまいます。だから、それらを検証するための枠組みが世の中にはあります。とはいえ、その枠組みだってどんな正しさを持っているかどうかを実際に確認しているでしょうか?

 

 世の中の教育の多くは、教科書に書いていることはそのまま信じてしまえばいいじゃないかというやり方で動いています。でも、もし科学的検証に耐えないようトンデモな内容のものが、教科書然として存在していたとしたらどうでしょうか?教科書の内容をそのまま受け入れるように、そういった科学的でないものもそのまま受け入れるということは危険ではないでしょうか?

 でも、信頼できる教科書と、信頼できない教科書はどのように見分ければいいのでしょうか?これは結構難しい話だと思うんですよ。信頼できる教科書は、多くの専門家の検証を乗り越えて存在しています。でも、専門知識がない人が、それらの専門家たちが信頼に足るかをどのように判断すればいいかが分かりません。

 

 こんな何も分からない世の中で使われている代表的な方法は、ある程度の検証ができそうな人を見つけて、その人間を信じることで、自分自身が検証する手間を省くというものです。

 例えば、その筋の専門家であるだとか、大学の先生だとかの肩書を見たり、その人がこれまでどのようなことを言ってきたかとか、その人が他からどのように言われているかとかを手掛かりにして判断したりします。僕も専門分野以外ではそんな感じです。

 

 でも、それってやっぱり科学ではないですよね?その人を信じていいかを疑うことはできても、科学的な部分そのものを批判的に検証ができていないからです。だから、この人は正しいぞと言われていると、そうかもしれない…と思い、この人は嘘つきだぞと言われていると、そうかもしれない…と思います。再現可能で検証可能でないものを、ろくな根拠もなく肩書や世の中の評判を手がかりに信じるか信じないかを決めているだけということです。

 その対象の本質的なところについては自分の頭で一切考えていないのに、そんな状況で、何かの専門的なことを分かったような顔をしてしまうというのが、悲しいことに世の中の基本なんだと思っています。

 

 実際にちゃんと検証できるのは、自分自身が専門的に取り扱っているごく狭い領域だけです。となれば、自分の頭で考えていると堂々と言えるのはそこでだけなのではないでしょうか?残りの部分では自分の頭では考えていないんじゃないでしょうか?

 

 ただ、科学を科学として捉えるのではなく、科学に詳しそうな人を信じることを選ぶという楽な方法で、生活における割とほとんどのことは特に問題ないのだと思いますが、でも、その信じた相手が間違っていたときに同時に自分も間違っちゃったりするのは怖いですよね?もし、その人が詐欺師だったらどうしますか?

 

 以前、声優の野沢雅子さんの偽物ツイッターアカウントができたとき、どう考えても偽物だと思ったのですが、「野沢雅子【公式】」という名前に反応して、沢山の人がフォローしているのを目にしました。「公式」と書いていると、「公式なんだ…」と思って信じてしまう人が大量にいたのが面白いなと思ったのですが、僕自身もスーパーで「おいしい牛乳」と書いてあるのを見ると「おいしいんだ…」と思って買ったりしています。

 人は何を見て何を信じているのかということの根拠を探っていくと、ホント信頼性のない情報に行き当たったりします。「AはBらしい」と思っていた根拠を自分の中で掘っていくと、「AはBらしい」とネットのどこかに誰かが書いてあった以外に根拠が見つからないこともあったりします。え!?そんなことだけを根拠に人は何かを信じるに足ると思ってしまうんだな…と思ったりするのは、わが身を振り返っても実際あるので、びっくりしてしまいますね。

 

 前出のツイッターアカウントの真贋見極めで言えば、そのアカウントを最初にフォローした人やその存在を広めた人が信頼できる人なのか、あるいは公式サイトからリンクが貼っているかなどの情報経路や周辺情報が自分の中で信頼できる水準にあるかどうかを元に信頼度が一定以上あるかで判断します。また、それを信じてしまって実は間違っていたときに、どれぐらいの問題があるのか?例えば取り返しのつかないようなことが起こる要素があるかなどを考えての判断になります。

 そういうことをして、何が信頼に足るのかという検証をしていますが、それでも騙されるときは騙されるでしょう。

 

 嘘を嘘と見抜くなんて、本当にできますかね?騙されるときは騙されるんじゃないですかね?だって、何かを信じるとき、結構雑な根拠から信じちゃったりするわけじゃないですか。

 自分の頭で考えているから大丈夫なんて本当に思えますか?本当に自分の頭で考えていることに自信がありますか?その考えを分解していくと、めちゃくちゃ雑な根拠しか出て来なかったりしませんか?誰かから手に入れた考え方に、誰かから手に入れたデータを当てはめたら自動的に出てきた答えを、自分の考えだなんて思い込んではいませんか?その区別はちゃんとついていますか?

 

 僕はもう、自分のそういうところを疑い続けています。そして、自分って何なんだろうって思ったりしています。自分の大部分ってひょっとして自分じゃなくないですか?誰か別の人の考え方を再生する装置のようでもあったりしませんか?

 そう考えると、僕はなにかとっても怖いなあと思いました。

「忍者と極道」と敬意・感謝・絆関連

 コミックDAYSで連載中の「忍者と極道」を皆さんは読んでいますか?

 

 この漫画は、江戸時代からの因縁のある忍者と極道の戦いの、現代に至る最先端の物語です。この漫画における忍者は、常人離れした強い肉体を持ち悪を討つために戦う存在です。そして極道は、手段を択ばず悪を成す存在です。そして現代では、忍者(しのは)くんと極道(きわみ)さんを中心としてその戦いが繰り広げられます。

 

 この漫画の基本構成は、山田風太郎の小説「甲賀忍法帖」を意識していると思われます。

 甲賀忍法帖は、能力バトルもののチーム戦という現代の少年漫画にも引き継がれ続けている構図の源流にあたるようなお話です。戦うのは甲賀と伊賀、そして甲賀の当主となる弦之介率いる卍谷衆、と伊賀の当主となる朧の率いる鍔隠れ衆です。甲賀と伊賀は、徳川の世継ぎを決めるための代理戦争として戦うことになります。ここで悲しいのは、弦之介と朧は恋仲であったということです。甲賀ロミオと伊賀ジュリエットというという章題にもあるとおり、惹かれ合う2人が、対立する組織の中で苦しむことになります。

 忍者くんと極道さんの2人の男も、戦いが始まる前に偶然出会います。彼らは同じアニメが好きであるということから意気投合し、忍者くんにとっては初めての友達、極道さんからすると、事故で失われたはずの感情を刺激する特別な存在として惹かれ合います。

 しかしながら、彼らはそれぞれが自分たちそれぞれの仇である忍者と極道であることをまだ知りません。いつか発覚するその爆弾を抱えながら、忍者と極道の戦いは激化していきます。

 

 この漫画の特徴的なところは、戦うにあたっての忍者と極道のそれぞれの特性のバランスだと思います。

 少数精鋭ながら圧倒的な肉体的な強さを誇る忍者と、数では勝れども常人でしかない極道では、単純には戦いになりません。しかし、そこにそのバランスを破壊するアイテムが生まれました。ヘルズクーポン、これは紙型のドラッグで、使用者の肉体を刃物や銃弾、爆発に耐えうるほどに強化してくれます。それでもまだ忍者が優勢だと思われるところに、忍者のどうしようもない弱点が存在しています。

 

 それが「情」です。

 

 強さでは圧倒的であったはずの忍者が、かつて極道たちに大敗北を喫したのは、忍者たちの情による判断間違いがあったからです。そしてそれは現代にも生きています。この物語は、忍者側に主人公視点、極道側に敵視点を置きながら、敬意・感謝・絆の力を積極的に使うのは、むしろ極道側です(もちろん忍者側にもありますが)。

 多くの物語で基本的に主人公側に割り振られる、友情の力を弱者である極道たちが発揮することで、忍者たちを追い詰める構図が存在します。

 

 ただ、極道たちの言っていることはおかしいんですよね。自分たちが人々を傷つけ、奪い、殺した罪を最大限軽く表現しながら、自分たちが忍者によって受けた痛みだけを強調しています。自分たちがいかに被害者であるかという認識をして怒りを燃やし、仲間内でだけ敬意・感謝・絆で結束を固めます。

 

 極道たちの行動原理は理解できる部分があり、理解できない部分があります。ここにひとつ補助線を引くならば、彼らは極道とそれ以外の人間を等価だとは思っていないのでしょう。だから他人を傷つけることと、自分たちが傷つけられることも等価ではありません。仲間のことを想い、厚く信頼関係を信仰しながらも、仲間ではない人々をゴミのように扱います。

 彼らは自分たちを孤独であると言います。社会に居場所がないと言います。だとすれば極道たちにとっての認識は逆なのかもしれません。極道でない人々たちは極道を仲間に入れてくれませんでした。仲間に入れて貰えないのであれば同じ人間ではないのです。

 

 これは例えば、「HUNTER×HUNTER」に登場したジャイロという男の行動原理を考えればより理解しやすいですね。自分は人間の枠組みに入れられていないと気づいた瞬間から、彼は人間たちへの暴力に目覚めました。

 

 世の中から居場所を奪われたはぐれ者たちが、力を手に入れて起こした大反逆という意味では、極道たちは自分たちを物語の主人公だと思っているのかもしれません。そして、その彼らの主人公性は読者にも分かる部分があるはずです。彼らはあんなにも間違っているのに。

 

 極道は忍者に恨みを抱えています。忍者も極道に恨みを抱えています。極道たちは悪いのに自分たちを主人公とする物語の中にいます。一方で、忍者たちだって本当に曇りのない正義でしょうか?彼らが正義のために行った殺しに、罪はないと言い切ることができるのでしょうか?これは憎しみの連鎖の物語です。互いに多かれ少なかれの視野狭窄であり、互いに自分たちを正義の主人公だと捉える2つの派閥の戦いです。

 

 だからこそ、「忍者と極道」は正義と悪の戦いであると同時に、悪と正義の戦いであり、悪と悪の、そして正義と正義の戦いであることが同時に重ね合わされた物語のように思えます。そこに矛盾があるからこそ、それはあるいは葛藤という形で感情の流れが入り組んで複雑になり、強いエネルギーが生み出しているのではないでしょうか?

 そして、その象徴たる忍者くんと極道さんの間には既に奇妙な友情があり、全てが発覚するときにその愛と憎しみの矛盾の前に立たされることだけが示唆されています。

 

 また、このお話には、他の沢山の漫画やアニメからの引用が存在します。忍者くんと極道さんを結び付けたものは「プリキュア」をモデルにしたアニメですし、極道たちは「特攻の拓」の台詞を引用します。特に説明なく登場する極道たち個々人が身につけた戦闘特性、極道技巧(ゴクドウスキル)にも他作品の影響が見て取れます。

 能力ものチームバトルの源流である甲賀忍法帖を下敷きとしながらも、その上には現代に至るまでの数々の漫画やアニメなどの物語の構成要素がてんこ盛りにされており、まるで人間の胎児が進化の過程をなぞるような形態変化を見せるように、一作の中に歴史が詰め込まれているようにも思えます。

 

 つまり、あの漫画で、あのアニメで、あの物語の中で、主人公たちをエンパワメントしたような要素が、多くの物語では主人公たち側だけに使うことが認められていたような要素が、忍者と極道のそれぞれに区別なく惜しみなく分け与えられ、彼らの精神に感動的に力を与えることができるのです。

 それが彼らをとにかく苛烈な戦いに駆り立てます。

 

 いやー、本当に毎週面白いですね。来週2巻が出ますが、今後もほんと楽しみですね。皆も読もう「忍者と極道」。

 

 あとこれは、最近描いたファンアートです。

「三才山先輩は生きづらい」と自意識2周目関連

 中野でいちの「三才山先輩は生きづらい」の単行本がでました(電子版のみなので電子書籍のストアで探そう)。

 

 この漫画は、自意識過剰な三才山先輩が、色んなことを過剰に気にしては「悩乱しちゃう」と騒ぐ漫画です。悩乱というのは、例えば「ズボンのことをパンツと呼ぶのが恥ずかしい」というような、自分の行動が他人にどのように思われるのか?の意識に囚われた状態のことです。

 

 ズボンのことは昔から呼んできたようにズボンと言えばいいのに、ファッション誌などではパンツと呼ばれているのを参考に言い方を変えたら、「あ、コイツ、ファッション誌なんかを参考に言い方を変えてきたな」と周囲に理解されてしまい、その意識の変化が理解されてしまう想像に気恥ずかしさを覚えてしまうというような感じです。

 宇宙的に広い視野を持てば、別に気にせんでもええやろ…と思うようなことをどうしても気にしてしまい、そうしたいのにそうできないというような、あるいは、そうせざるを得ないのにそうしたくないというような、自分の行動に様々な制約を勝手につけてしまい、不自由で、あー!!!!ってなってしまうのです。

 

 三才山先輩は、その悩乱を鬼怒川くんに話しては、鬼怒川くんがめんどくさそうに諭してくれるというのがこの漫画の基本的な構成です。

 

 それぞれの話は一言で言えば「気にしすぎ」で終わる話ですが、それは分かっていてもその一言で終わらず、どうしても気にしてしまうのが人間の辛い話で、そして、そんな悩乱しちゃう三才山先輩を可愛いなと思って読むことになります。

 

 僕がこう思えるのは、自意識過剰ね…生まれたときから感じてたぜ!って感じなので、自意識についてはもうとっくに2周目に入っていると思うからだと思います。なので三才山先輩に対しては、おいおい、お前、自意識初めてか?って思うので、初心者を優しく見守るポジション取りができるわけです。

 とはいえ、今の自分がそういうのを全く感じなくなったか?というと、ずっと同じように感じてはいて、自分ひとりの中に三才山先輩だけでなく、鬼怒川くんもいることでコントロールしているのではないかと思うわけですが。

 

 こういう自意識過剰さは人間に昔からあるのだと思いますが、僕の感覚では今30歳前後ぐらいの人が、自意識のハンドリングについて手慣れた手つきを見せることが多いように思います。これも適当なことを言っているんですが、その辺の世代は物心ついたときからネットが割とそばにある生活だったんだと思うんですよね。

 

 自意識過剰というのは、つまり、他人からの目線を内面化してしまい、直接言われたわけではなかったとしても、自分の行動に影響を与えてしまう状態だと思います。そこにはまず内面化させるための他人の目線のインストールが必要なわけじゃないですか。インターネットには、他人の動向の細かい部分についてコメントする人がたくさんいるので、様々な種類の他人の目線をめちゃくちゃ収集できる環境だと思うわけです。

 

 そこにどっぷりいると、こういうことをしたら他人がどういうコメントをするだろうか?という想像は、すぐにつくようになると思います。僕もその想像を内面化しているので、ネットに出す文章は、出す前にそういう引っかかりを減らすためのやすりがけをすることも多いです。でも、そのコメント予想にも、様々な角度のものがあって、お互いに打ち消し合うような方向性のものもあります。

 つまり、他人の目線は、結局その人たち個人個人の偏りであって、絶対的に正しい何かではないという価値観の相対化です。その相対化が進むのも結構早いわけです。ネットから大量に摂取していれば。

 

 そういう経験から、自意識過剰さを抱えていても、ああ、自分は今自意識過剰になってしまっているなと冷静に見ている自分もいるというのが自分にとってのリアルです。三才山先輩は生きづらいで描かれているのは、その部分をなかったことにせず追いかけていくことだなと思いました。自分の中の鬼怒川くんに打ち消されて、自分の表面には出てこなかったとしても、自分の中には三才山先輩が確実にいて、いないわけじゃない、ちゃんとまだいるじゃないかと自覚することがとても愛おしくなるわけです。

 

 自意識過剰さ、実際、他人の目線の網目をかいくぐるようにして生きなければいけないのなら、それは本当に生きづらいと思います。でも、自分がすることについて、他人が何を考えているかを想像するということは、他人と上手くやっていく上では役立つ能力でもあるんだろうなとも思います。

 その察しが正確でなければ誤解でトラブルも起きますし、察し過ぎて一歩も動けなくなってしまうと辛いですが、でも、自分がこうしたとき、相手がどう思うんだろうって考えるのは、優しさの一種でもあるなと思っていて、その過敏さを意図的に鈍麻させるテクニックを身につけながら、社会の中で上手く流れていく方法を得ていくのは、僕自身がやっていることでもあると思っているので、そう悪いことじゃないなと思っています。

 

 ということで、三才山先輩に対しては自意識の先輩として、先輩面して見ているわけですが、今の自分も何年後かの自分からすると、まだまだ自意識過剰で、それにあまり気づいてないから助かっているだけかもしれないし、自意識はいったい何周目までやればいいのかは分かりません。

 皆さんは今自意識何周目な感じですか?

 

 あと、前作の「hなhとA子の呪い」についての感想も前に書いてるので、よかったら読んでください。

mgkkk.hatenablog.com

「ディザインズ」に出てくる楽譜と音楽の喩え関連

 ディザインズはHA(ヒューマナイズドアニマル)という、その名の通り人間化された動物を巡る物語です。HAたちは体の一部が人間のようであったり、あるいは体の一部だけが動物のようであったりする見た目をしていますが、遺伝子上は紛れもなく人間ではなく別の動物です。つまり、蛙のHAなら、見た目がどれだけ人間に似ていたとしても、遺伝子的にはただの蛙なのです。

 

comic-days.com

 

 彼らを産みだした男、オクダは、動物の遺伝子から人間に似た存在を生み出すその行為を音楽に喩えました。遺伝子は楽譜、生命は音楽です。遺伝子にはその生命の設計図が描いてありますが、楽譜は音楽そのものではないように、その記載をどのように解釈して奏でるかによって無数の可能性を持ったものだと言うのです。そして、オクダはその楽譜を音楽としてとても上手に奏でることができるのでした。

 

 オクダは「病」が好きだと言いました。ある種の病は、生命の形を本来想定されているものとは異なるものにしてしまいます。普通の人間なら忌避すべきその病を、オクダは生命の持つ可能性だと表現しました。遺伝子の中には何にでもなれる可能性が眠っています。そしてそんな様々な可能性の中から、必要なもの以外を閉ざすことで、生命は今の形に収められています。

 そのような「病」が発現してしまうことは一個体としてみれば不幸なことでしょう。ただそれは見方を変えれば、今この場所ではなく、いつかのどこか別の場所に適応できる可能性の示唆かもしれません。生命は世代を重ねながら様々な環境に適応した者が生き残っていく力強い存在であることの示唆です。そして、やはり、その「病」は一個体としてはおぞましくも映ります。なぜなら、今この場所は、自分が適応できる場所ではないことが表現されてしまうからです。

 

 さて、遺伝子は楽譜、生命は音楽という捉え方は、ディザインズという漫画そのもののようだと僕は思いました。

 

 例えば、楽譜をストーリー、音楽を漫画をのものに置き換えてみます。この漫画がどのような漫画であったかをストーリーで語ることはできますが、その語りからは抜け落ちてしまう無数のものがあるでしょう。そのように情報が抜け落ちてしまうため、ディザインズのストーリーとして出来事を要約したものを元に、別の人が漫画を描いたとしたら、きっとそれは全く違う漫画になってしまうはずです。

 

 例えば、谷口ジロー版の「餓狼伝」と、板垣恵介版の「餓狼伝」は同じ小説を原作にしておきながら、読めば異なる漫画だと思うはずです(板垣恵介版はストーリーやキャラクターにも手が加わっているので、そもそも別だろという話もありますが)。他には、林信康の「毒狼」では、最後の2回分は原作者の猿渡哲也自らが作画も担当しているバージョンがあります。つまり、そこからストーリーは共通でも作画における演出の違いによって異なる体験が存在することなどを見て取ることができます。

 同じ場面の人の顔の絵でも、描いた人が異なれば、その絵から想像する描かれた人の内面は異なるかもしれません。同じセリフであっても、どのような間で、どのような動きで、どのように言うかで、印象は全く異なってしまうのではないでしょうか?

 

 ある漫画がどのようなものであるかについて語られるとき、どうしてもストーリーが出てくる頻度が多いと思っています。例えば、桃太郎がどのような話かを表現するときには、桃から生まれた子供が犬猿雉をお伴に鬼退治に行く話、などと言われがちなのではないでしょうか?

 ストーリーが選ばれる理由は、物語の構成要素の中でも言語化しやすい領域であるということが関係していると思っています。また、物語が持つ全体の情報量の中でも、ストーリーを語ることが抜け落ちる情報量が比較的少なくて済むという判断もあるかもしれません。つまり、ある映画のWikipediaに描かれたネタバレのあらすじを読めば、その映画を観たフリがしやすいというような話です。

 

 でも、実際は漫画のような物語の構成要素はストーリーだけではないわけです。特に五十嵐大介の漫画は、ストーリーという言語化しやすいものだけでは語れない領域が大きいことが多いと感じています。例えば、デビュー連載である「はなしっぱなし」は、そのタイトルの通り、前振りや謎の解明や明確なオチがあるとも限らない、不思議な場面を描いた、感覚的表現そのもののような漫画でしたし、少し前にアニメ映画化された「海獣の子供」も言葉では表せない体験そのものを映像として表現しようとしたものでした。

 起承転結のような明確な何かが起こって、それがどうなって、どう変わって、どう終わるかという枠組みでは解釈することが難しく、それをわざわざ言葉に置き換えて表現するならば全て冗長になり、そのものを読んだ方がよほど簡潔になるような描かれ方がそこにあるわけです。

 

 このように言葉にしにくい領域では、言語化自体を最初から避けるという方法もあります。例えば、ある印象的な場面を挙げて「ここが良かった」と、しおりを挟むように共有する方法です。それだって立派な感想だと思います。ただし、それができるのは、複数の人がその場面を簡単に共有できるという前提で、それでなければ、上手く伝わらないかもしれません。

 つまり、テレビで放送しているものを同じ時間に見ているとか、ネットの配信とか、Web漫画の公開時間に一斉に読み始めるというような、対象そのものを共有できている状況が必要ということです。

 

 このように言語化が容易ではない領域では、とにかくそのものを共有することで伝えるということが、一旦自分の中で言語に置き換えて再配信するよりも早くて正確で伝わりやすいという認識があるのではないでしょうか?それが、最近のインターネットで求められている速度なのかもしれないなと思っているところがあります。

 Twitterなんかでは、作者が漫画そのものを貼っていったり、前提の共有が不要なぐらいに一コマで分かる印象的な面白い画像が広がっていったりするということについては、そういう解釈ができると思います。情報を反復する人々が、一旦自分の言葉に置き換えることをやめることによって、より効率よく広まっていくということです。

 

 さて、話を戻しますが、僕は自分が漫画を描くときにも前述の楽譜と音楽のようなことを考えています。どういう話を作ろうと最初に考えているとき、自分の中にあるのはまだ楽譜だなと思うからです。例えばプロットを作ったときに、それはまだ楽譜なので、最終的にお話として出力したいものとしての完成度は5%ぐらいなのではないかという印象があります(この割合は人によるでしょうが)。

 なので、こういう話を描こうというプロットができたという進捗だと、実質ほとんど何もできてないんですよね。ここからお話が出来上がっていくまでの距離がめちゃくちゃ遠くて、とにかくどうすればその間が埋まるのかで悩んでいるみたいな感じです。そして、出来上がったものは、そのプロットとは大体ことなるものになってしまいます。楽譜を無視して、その場その場で楽しく演奏した方が作ってて楽しいからでしょう。

 その楽譜と音楽の間を埋めるプロセスに創作の秘密があるような気がしているのですが、僕には今のところそこがどうなっているのかよく分かりません。同人誌を作っているときに、なぜそこが埋まって完成できるのかが本当によく分かっていません。ただ、一旦描いてみて、それを読者として読んでみたときに自分がどう思うかということだけが手がかりなので、とりあえず描いてみたあと、やすり掛けのように自分で何度もなぞりながら調整するということが有効なんだろうなと思っています。それを延々繰り返しているとそのプロセスを言語化できていませんが、経験的には出来上がることが知られています。

 

 ディザインズの物語では、その姿は人に似ていても、人とは決定的に異なる感覚器を持つ動物が、世界をどのように感じるかを想像することで、この世界の捉えなおしをする様子が描かれています。その裏側には作者が世界をどのように感じているかを描いているということがあると思っていて、作中のオクダがHAの感覚器を移植することで、新たな感じ方を得ていくように、読者の僕も、この漫画で描かれる世界の捉え方を取り込むことで、自分が感じていることを捉えなおすことができるように思いました。

 それが例えば、上記のようなことです。

 

 遺伝子と生命の関係性を楽譜と音楽のように捉えなおしたように、漫画の作り方も実は音楽的に捉えることができるのではないかと思うと、自分の中で曖昧になっていたことの少し理解が進んだように思いました。そういえば「魔女」に収録されている「うたぬすびと」という一作の中でも、音楽のように感じられる絵の話が出てきていましたね。

 

 読んだあとに、世界の見え方が少し変わるような漫画が好きです。そしてディザインズはそのような漫画のひとつだなと僕は感じています。

何かを選択することにストレスがあるの分かります関連

 インターネットを見てたら、「最近の若者は何かを選ぶこと自体がストレスなので、選ばないで済む方法を提供した方がいい」という話題を目にしました。

 これは別に最近の若者に限った話ではなく、時代や年齢に関わらずずっと言われている話だとも思うのですが、特に最近は無料やサブスクで無数の漫画やアニメやゲームや映画などなどに接する機会があり、その大量の中から選ぶという機会に遭遇しがちなので、意識することが増えているのかもしれません。

 

 僕自身、選ぶことのストレスを感じることはあります。それは、自分が馴染みのない分野で何かを選ばないといけないときです。例えば電動ドリルが必要なときにホームセンターに買いに行ったとして、そこに100種類の電動ドリルあったとしたら、どれを選んだらいいのか分かりません。そういうときには、そこから選ぶのが辛いし、自分がやりたいことに一番最適なものをひとつだけ向こうが提示してくれよと思ったりもするでしょう。

 一方で、漫画を選ぶことについては個人的にはあまりそれがありません。どれだけ無数の漫画があったとしても、僕は自分が読める量の中でどれを読むかを明確に選択していますし、そこに苦痛もありません。電動ドリルとの違いは、自分が欲しいものを見つけるためのだいたいの方法論が既にあるということだと思います。

 そしてもうひとつは、何かの漫画を読むことを選ぶということにあまり大きな意味を見出していないからでしょう。

 

 選ぶことの困難さは、基本的に、何を手掛かりに選んだらいいかが分からないということだと思います。つまり、優先順位がつけられないということです。例えば、一番大事なのが値段だとしたら迷う要素がありません。選ぶ必要がなく、一番安いものを選べばいいからです。そして、同じ値段で一番安いものが複数あったときに、また、どれを選んだらいいか分からなくなります。

 そういえば、僕はここ半年ぐらいゲーミングPCが欲しいなと思っていたのですが、色んな販売サイトで構成を変えて値段を眺めては、そのまま閉じるということを繰り返していました。これも選択できなかったから先延ばししていた事例です。

 それはつまり、どういうスペックのゲーミングPCが自分にとっていいのかが分からなかったということです。そこには、何か特定のゲームが欲しくて、それを遊ぶためのゲーミングPCが欲しかったわけではなく、なんとなくゲーミングPCがあれば欲しいゲームができたときにすぐに遊べて便利かも?と思っただけだったことが関係しているでしょう。

 そしてもうひとつの問題は、ゲーミングPCが高くてデカくて捨てにくいということです。つまり一回選択をしたら、取り返しがつきにくいということが関係しています。何かを選ぶ基準があいまいなのに、失敗したと思っても、家にその失敗したものがあり続けるということは厳しい気持ちになるので、一回の選択をするということに責任を感じてしまいます。

 なので、その責任を引き受けれるぐらいの気持ちになれるかという問題と、その気持ちになれるほどに何かを選ぶための基準が自分の中で明確に定まることが必要なのではないかと思います。

 

 で、結局この前注文したのですが、にもかかわらずそれは上記のことが定まったわけではありません。ちなみに注文したのは「GPD WIN Max」という独立したGPUも積んでいない小さなゲーミングノートPCです。

 

 結局、選ぶ基準は決まってないわけです。そして、選択の責任をとる覚悟ができたわけでもありません。ただ、「GPD WIN Max」は比較的安く、小さく、捨てなくてもそんなに邪魔にならないという、選択の責任が小さいものだったので頼むことができました。とりあえず買ってみて、それで動くゲームを遊んでみて、それで動かないゲームがやりたければ、改めてゴツいゲーミングPCを買えばいいかなと思ったわけです。

 つまり、失敗してもいいと思える範囲で一旦買ってみることで、自分の中に選択の基準を作ることから始めようと思ったのでした。

 

 言いたいこととしては、選ぶことが困難な場合、「最適解を提示してもらうことで選ばないで済ます」という解決方法の他に、「選ぶことの意味を軽くすることで、とりあえず選んでみることができる」という解決方法もあるということです。

 つまり、漫画であればとりあえず読んでみるということが気楽であれば、読んでみてから考えればいいと思うという話です。でも、それが簡単じゃないから困るという話なんでしょうね。

 

 そこには、何を手掛かりにして絞り込んだらいいのか分からないという話もあるでしょうが、僕が思うに、そこでは「選択する」ということには意味が見いだされ過ぎているのではないでしょうか?

 何かを選ぶということは、別の何かを選ばなかったということを意味するかもしれませんし、何かを選んだということは、それを意志をもって選んだのだろう?と逆引きされて何かを背負わされる可能性があります。

 例えば「自業自得」という言葉が世の中では便利に使われ過ぎている気がしていて、自分で選んだことについては、救済が不要という理屈が引き出されることも多々あるじゃないですか。例えば、詐欺にあったとしても、そこにお金を出すと選択したのは自分なのだから、貴方にも責任の一端はあるという論法が使われたりします。

 

 何かを自分の意志で選んだ人と、選ぶことがなかった人が同じ不幸に遭遇したとして、選んだ人が救済されにくい風潮があるのであれば、選ぶということそのものを拒否した方が得ということになります。世間的に、なんかぼんやりとそういう風潮があって、それが色んなところに反映されているのかもしれないなという気もしていますが、めちゃくちゃ雑な話だな。これは。

 

 いや、言いたかったのは、「選択をすることにストレスがある」ということは分かると思っていて、誰にでもあることだと思っていて、それは現時点で選択するための手がかりが足りないということと、選択をしたことによる責任が重くてできればしたくないという気持ちがあるんじゃないかと思うということです。

 そこを解消するための方法は、「ストレスがあるのだから選択をしなくて済むという方法を提供する」ことだけではなくて、「選択するために必要な価値観を得られる環境を提供する」とか、「選択そのものを気楽にさせる」という方法もあるよなと思っているということです。

 

 自分が好きなものに自分で辿り着けたときというのは、すごくいい気持ちになると僕は思っていて、その選択するということそのものを最初から拒否してしまうのは、なんか悲しいなあと思うんですよね。

 だから今はストレスがあっても、上手いこと選べる手段を提供できるようなのがあると方がストレスそのものを単純に切り離すより、結果的に良いんじゃないかなと思っているんですけど、それは自分が好きな分野だからそう思うだけであって、一般的に言うとしたらそうでもないのかもしれない…。

「螺旋じかけの海」の「烏を屠る旅」について

 「螺旋じかけの海」は当たり前が壊れてしまう世界の物語だと思う。

 世の中には沢山の当たり前とされていることがある。当たり前のことというのは、そのまま受け入れていいことで、疑わなくてもいいことだ。それがなぜそうなのかを考えなくていいし、ただ受け入れればいい。でも、ふと我に立ち返ったとき、それはなぜそうなんだろうか?ということが引っかかることがある。

 

 1+1は2であるということを疑うことがあるだろうか?なぜそうなのだ?と問われたときに、疑うことは難しい。だって1+1は2だからだ。それを数学的に証明しようとする人は数学者だけだろうし、大半の人はただそうなんだろうと思うだけだ。そうなんだと思って特に問題がないのだから疑う必要がない。かくして、世の中には当たり前のことが沢山ある。信じるだけでいいことが沢山ある。

 でも、ときおり、それはなぜそうなんだろう?と考えてしまうことがある。それがなぜそうなのかも考えずに、自分がそれを受け入れてしまっているのはなぜだろうと考えてしまう。

 

 螺旋じかけの海の物語は、異種化ウィルスによって、生物同士の遺伝子が混じり合う世界を舞台にしている。だから、人が人以外の生物の遺伝子と混じり合い、体の一部に他の生物のような形質が発現することがあり得る。人が人であるという証拠はどこにあるだろうか?それが遺伝子にあるとしたなら、他の生物の遺伝子が混じり合った存在はもはや人ではないのだろうか?

 

 この世界では、一定の割合で人以外の遺伝子が混じった人間は、もはや法的に人ではないとされる。人でなければ人権もない。世の中には人が平等であるということを証明するために戦ってきた歴史がある。しかし、人が平等であったとしても、人でなかったとしたらどうだろう?そこに人権はあるのだろうか?そこに同じ人間んだいう仲間意識があるのだろうか?一体、どこからが人でどこからが人ではないのだろうか?

 

 イルカやクジラが高度な知能を持っていたとしても、人ではないのだから保護の対象となるのはあり得ないという考えを受け入れている人も多いだろう。でも、もし、そのイルカやクジラが人のような顔をしていたらどうだろうか?そこにはやはり、何かしらの違う考えが生まれるのではないだろうか?もし、そのイルカやクジラが人のような心を持っていたらどうだろうか?果たして、人はどこまでそれを人間と同じ存在として扱えるのだろうか?

 

 家畜を育てては殺し、その肉を食べて生きている。それをしないと決めている人たちもいる。それをしない人たちを、おかしな人たちだと揶揄する人もいる。でも、その違いは本当にそこまで明確だろうか?それは当たり前なんだろうか?現実の世の中には遺伝子という明確な違いを見出せるものがある。だから、その認識は強固で安心できるかもしれない。

 

 しかしながら、螺旋じかけの海の世界ではそこが曖昧になる。

 

 他の生物の遺伝子が入り混じった人間は、果たして同じ人間だろうか?人は何をもってして何かの存在を同じ人間だと思うようになるのだろうか?それは、明確な線引きができない物語の中だからこそ、より意味を持つ強い問いかけとなる。

 

 螺旋じかけの海は、月刊アフタヌーンに掲載されていた漫画だが、この度、作者の永田礼路氏による個人出版という形で続刊が発売された。そこに収録されている新作が「烏を屠る旅」である。

 

 まずは買って読んでほしい(3巻の電子版も遠からず配信されるはず)。

ecs.toranoana.jp

 

 「烏を屠る旅」は、主人公の音喜多の相棒である雪晴の過去を描く物語だ。

 ここで描かれていることは、家族という存在は何によって家族となるのか?という問いかけではないかと思う。父と母がいて、子供がいる。子供は双子で同じ遺伝子を持っている。だから家族である。でも、ここにあるのは家族ではない。

 少なくとも雪晴にとってそこは帰れる家ではなかった。

 

 父が求めているのは自分の後継者という役割であって、個別の人格ではない。母が求めているのは、自分の存在や価値の証明であって、子への愛は自分への愛にかけられたベールだ。その違いは曖昧かもしれないが、子はそう気づいている。胎児の時点でカラスの遺伝子が混じり、ほどなく法的に人ではないものとなった兄の晴臣は、弟の雪晴の人間のままの姿に自分にはなかった可能性を見てしまう。

 この家族は家族のていをなしている。父と母がいて、その間に生まれた子供がいる。だが、それを繋ぎとめているのは、愛情ではなく、役割と体面と執着だ。だからそこは雪晴にとっては帰れる家ではない。兄の体はカラスになったが、弟の心もまたカラスだ。帰れる家を探している。

 

 どこにも帰れる場所がなく、死という形でそこから逃げ出すことしか考えられなくなった雪晴を助けてくれた人物がいる。彼女と雪晴の繋がりはか細いものだ。それでも彼女は雪晴を家族だと言う。それはわずかでも彼女の遺伝子が雪晴に受け継がれているからだろうか?確かに、それはきっかけであったかもしれない。彼女はそこに自分という物語の辻褄を求め、それを埋めるように行動した。

 だが、雪晴にとってそれが家族となり得たのは、その遺伝子の繋がりがあったからではないだろう。なぜなら、それでいいのであれば、父とも母とも兄とも家族になれたはずなのだから。

 

 彼女は雪晴に、別の誰かを助けることを求める。そしてその助けられた誰かが、また別の誰かを助けることを願う。それは彼女が雪晴にしてあげたことそのものだ。その助けが受け継がれ、連なれば、それは繋がりになる。その繋がりは遺伝子に少し似ているかもしれない。

 

 家族は遺伝的な家族の条件が満たされていれば家族になるのだろうか?そうであったのなら、そんな単純な話であれば、そこに苦しみが生まれることはなかったのではないだろうか?これは螺旋じかけの海という物語全体が抱えるものの一部であると考えられる。家族を家族たらしめるものが、もし遺伝子でなかったのなら、それはいったい何なのだろうか?

 人を家族たらしめる繋がりを雪晴は受け取り、そして、それを同じ人物から別の形で受け取っていたのが音喜多である。だから、音喜多と雪晴は家族になる。同じ人間から繋がった先にいるからだ。血は繋がっていなくとも、法律の裏付けがなくとも、彼らが家族となったということ。雪晴がついに帰れる家を見つけることができたということ。それが、この何もかも曖昧にしてしまう物語の中だからこそ、むしろくっきりと浮かび上がった信じられるものだろう。

「プリパラ」における「み~んなトモダチ、み~んなアイドル」という言葉について

 プリティーシリーズを一気に観た話の第五弾。月5本書くことにしてるブログを、今月は全部プリティーシリーズの内容にしようと思ってやってたので目標達成です。

 

 「プリパラ」はゲーム筐体をベースにしたアニメです。

 アニメだけの視聴者にしてみると、プリパラのアイドルたちはライブを外から見ている存在ですが、ゲームでは、プレイヤー自身がアイドルになり、プリパラのライブを自分でやることになります。だからプリパラにおけるアイドルとは、「見て応援する存在」であると同時に、「見られて応援される存在」でもあるわけです。

 

 それを象徴する言葉が、主人公のらぁらちゃんの言う「み~んなトモダチ、み~んなアイドル」です。

 

 このことは物語の中で何度も語られています。第一期の最後では、ファルルの心に歌を届けるために、主人公のらぁらちゃんたち6人はライブを行います。ファルルはプリパラの内部にのみ実態を持つボーカルドールですが、トモダチを求めるという例外行動をとってしまったために、機能停止をしてしまっていました。しかし、6人の懸命のライブでも、それだけではファルルを起こすには力不足なのでした。

 ファルルの心に届いたのは、舞台上のアイドルたちだけではないライブ会場にいた皆の歌です。会場にいる皆は、それぞれ観衆であると同時にそれぞれが舞台に立つプリパラのアイドルでもあることを思い出させてくれます。

 

 僕はここで歌われる主題歌の「make it」という歌がめちゃくちゃ好きなんですが、歌い出しの「オシャレなあの子 マネするより 自分らしさが一番でしょ」というところからも分かる通り、自分自身が誰とも違う唯一無二のアイドルになるということの讃歌です。

 ライブにおけるメイキングドラマでは、サイリウムのように光り輝く沢山の帆船の上に、らぁらちゃんたちと一緒に沢山のアイドルたちが乗って、夜明けの海に向かって進むという光景を作り出します。そして、それぞれの船はプリチケの連なりによって繋がれていました。

 これは、人と人がアイドルとして互いに繋がる「み~んなトモダチ、み~んなアイドル」であるということが大きな力を持つということが印象付けられる場面でした。

 

 この段落は僕の脳内だけで起こったイカレた話なんで別に読まなくていいんですが、僕はこれを観たときに三国志演義赤壁の戦いを思い出していて、赤壁の戦いについて説明すると、曹操軍の船に対して、劉備軍と孫権軍が手を組んで火を放つんですね。そして、その前段階として龐統という男が連環の計を使います。赤壁の戦いにおける連環の計とは、船と船を鎖でつなぐことで、船酔い対策とするという嘘の情報を教えることなのですが、これに引っかかって簡単に離れることが難しくなった船団は一気に炎に包まれてしまいます。

 これがめちゃくちゃプリパラのこの絵面に似ているなと思ったのですが、曹操からすると最悪の状況が、「ドキドキするとき無敵でしょ」という歌詞とともに、こんなにも無敵感のある光景として類似して浮かび上がってくるのが、最悪と最高がひっくり返るようでめちゃくちゃおめでたく、あれだな!赤壁の戦いでいくら船が燃やされたとしても、曹操がもしあの船の上で「ドキドキするとき無敵でしょ」と「make it」を歌いながら踊っていたら、そこでどれだけ被害が出ていたとしても赤壁の戦い曹操の勝ちだっただろうな!!!と思いました。

 

 さて話を戻して、プリパラにおけるアイドルというものが何なのか?なのですが、僕はこれを「憧れの対象」なのではないかと思っていて、舞台上でライブをするアイドルを見て憧れるということが、応援をする側にも応援をされる側にも力を与えるものだと思っています。

 作中に登場する多くの曲の中でも憧れの気持ちということが象徴的に歌われているように、あんな風になりたいという憧れの気持ちの流れこそが、プリパラにおけるアイドルという存在に力がある根拠になっているのではないでしょうか。ボーカルドールのファルルは、そのような気持ちそのものが集まって実体化した存在でした。

 そして、この誰かに憧れを抱く気持ちを抱くこと、そして、その憧れの気持ちがもし相互になったとき、それはもしかすると、トモダチでもあるのではないでしょうか?

 

 もしかすると「み~んなトモダチ」と「み~んなアイドル」は同じ意味なのではないかということです。

 

 つまり、みんなが自分にとってアイドルであるということを認めることが、みんなとトモダチになっていくということ全く同じことです。だからこそ、トモダチができるということ、そしてトモダチの輪が広がっていくということが、プリパラにおけるアイドルという存在に一番の大きな力を与えます。

 第三期における最後、神アイドルになるための挑戦の最後の関門が女神との勝負でした。2人の女神は、全ての少女の憧れの気持ちの讃歌のような「Girl's Fantasy」という曲を歌います。それに対して、らぁらちゃん、みれぃちゃん、そふぃちゃんのSoLaMi SMILEの3人が歌う新曲「I Friend You」は、そこに対抗する曲ではなくその続きとなるような歌です。

 対立ではなく融和、敵ではなくトモダチということです。そして、歌には2人の女神も加わり、組曲へと変化していきます。

 

 試練を経て神アイドルとなったSoLaMi SIMLEの3人に対して、ガァルルちゃんが「ガァルルもいつかなるガル!」と声援を送ります。ガァルルちゃんはファルルちゃんとは真逆、自分はアイドルにはなれないという挫折の気持ちから生まれたボーカルドールです。憧れの真逆の気持ちから生まれたガァルルちゃんが、憧れを抱くということ。ひとりで孤独だったガァルルちゃんが、この物語の中で、憧れを抱き、アイドルを目指し、トモダチになっていくという変化が見て取れる場面でした。

 

 プリパラの物語は、全編通して、この誰もがトモダチ(=アイドル)となることの持つ力の強さが描かれていると思います。

 第二期の最後ではひびきさんがトモダチを拒絶し、ボーカルドールに転生しようとする一幕があります。その結果、プリパラのシステムが壊れ、トモダチという概念が消え去ってしまった世界が生じてしまいます。

 そこにはアイドルは存在していても、元のプリパラのようなエネルギーは存在していません。なぜなら、人と人との繋がりが存在していないからです。誰にも憧れを抱いていないアイドルからはあの湧き出るようなパワーがないという世界を目の当たりにしてしまいます。

 他の人の憧れを受けてアイドルになる道が開けていたそふぃちゃんはアイドルになれてすらいません。

 

 プリパラの物語は、みれぃちゃんがらぁらちゃんをプリパラのライブに誘うことから始まりました。それは最初は人数合わせのことでしかありませんでしたが、それでも、求められることで始まったのがこの物語です。しかし、このトモダチが消失したプリパラでは、それが存在しなかったことになってしまいます。

 トモダチが消失した世界で、今度はらぁらちゃんがみれぃちゃんをプリパラに誘いました。かつて求められた自分が今度は求め返すという双方向性が生まれます。このひとつの繋がりが、ひとつひとつの繋がりがどんどん増殖して広がっていったのがプリパラの物語です。

 

 プリパラ第三期の最後では、第一期の最初でみれぃちゃんがらぁらちゃんに確認し、第二期の最後でらぁらちゃんがみれぃちゃん確認した言葉が、今度はその場にいる全員に対して確認されます。

 

 「プリパラは好きぷり?」

 

 その答えがイエスなら「なら、大丈夫」なのです。かつてはひとりとひとりの関係性であったこの言葉が、双方向になり、その外にどんどん広がり、ついにはとてつもなく大きな力のうねりとなる様子が生まれる物語へとなりました。

 これはアイドルの話であり、トモダチの話でもあります。その2つは同一の力を示しています。その力の大きさの巻き起こす軌跡と奇跡を描いた物語であり、友情と憧れの気持ちを等しく讃歌となる物語だと思いました。

 

 だから、プリパラは「み~んなトモダチ、み~んなアイドル」の物語なんだなと思ったのでした。