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「アイドルタイムプリパラ」でどうにもパックに味方したくなった関連

 プリティーシリーズのアニメを一気に観た話の第四弾です。

 

 「アイドルタイムプリパラ」の終盤の展開は、ガァララという少女を巡る物語になります。

 ガァララはファララと対を成す存在としてプリパラの世界にいる少女です。ファララが昼間起きている間はガァララが寝てしまうというのがこの世界のルールなのです。しかしながら、プリパラの世界には、昼間は外から沢山の人が来てくれますが、夜には誰もいません。なぜなら、プリパラの外からやってくる人たちは、夜には自分の家に帰ってしまうからです。しかし、プリパラの中だけに実態があるファララやガァララは違います。プリパラの外に出ることができません。

 だからガァララは孤独です。皆が家に帰り、誰もいない夜のプリパラの中で、相棒のマスコットであるパックと2人だけの生活をすることになります。それはとても寂しいことでした。

 

 しかし、その状況を打破する方法がありました。つまり、昼間にもファララが寝てしまえばいいのです。ファララが寝てしまえば、ガァララが起きることができます。そして、ファララが起きるために必要なのはプリパラのライブの力です。だから、誰もプリパラをやりたいと思わなければファララは目覚めることはありません。舞台に立ち、皆の注目を集め、歌って踊るライブをしたいと思うこと、見たいと思うこと、それは憧れです。夢です。だから、「人々が夢を持たなければいい」ということになります。人々が夢を持ちさえしなければ、ガァララは孤独ではなくなるのです。

 だからパックは、ガァララのために人々の夢を食べ始めました。夜中に家に忍び込み、こっそりと人々の心から夢を奪ったのです。そして、誰もが夢を持たなくなったその街ではプリパラは衰退し、そして、ずっと起きていられるようになったガァララはついに自由を手に入れました。多くの人が起きている時間に、自分も起きていられるようになったのです。

 

 アイドルタイムプリパラの物語は、そんな経緯でプリパラの無くなった街、パパラ宿に、ふたたびプリパラを作るところから始まります。

 

 ガァララの自由は、他人から夢を奪うこととセットです。ただ、人から夢を奪うことはとても残酷なことです。ですが、ガァララはそんなに悪いでしょうか?いや、やっていることが悪いのは間違いないでしょう。悪くないわけがありません。ですが、彼女が夢を奪うということにするのは、そうでなければ自分が孤独に暮らすしかないという事情があるからです。

 彼女が夢を奪わないようにするということは、また孤独に暮らすことを強いられることと同じです。みんなの夢のためにガァララが孤独を強いられることは受け入れてもいいことなのでしょうか?みんなの幸せのために誰かが虐げられることは肯定してもいいことなのでしょうか?そんなはずがないのではないでしょうか?

 ならば、本当に悪いのは、この世界の仕組みの方でしょう。ファララとガァララがどちらか一方だけしか起きることができないことが悪いのです。それを規定しているプリパラの世界の仕組みが変われば全ての問題は解決されるはずです。

 だから、アイドルタイムプリパラはガァララを罰するのではなく、システムの作りを変えることに希望を見いだす物語になりました。

 

 しかしながら、この物語のさらに最後に待ち受けていたのは、システムを対象にした共通の課題を解決するということだけではどうにもならないものでした。

 

 それがパックの心です。

 

 ガァララはついにシステムの制約から解放され、ファララへの恨みからも解放され、らぁらちゃん(この物語の主人公のひとり)を中心に、沢山の友達ができることになりました。ついにガァララは孤独ではなくなりました。ただその状況に、ただひとり不満を抱く存在がパックなのでした。

 なぜなら、パックには、そのことが、自分のたったひとりの友達であったガァララを、見知らぬ誰かたちに奪われたように感じられたからです。長い間、ガァララと自分の1対1の関係だったものが、自分がガァララにとっては沢山の友達の中の1人になってしまうと感じたからです。

 みんなはパックもこの友達の輪の中に入ろうと言います。でも、パックはそんなこと望んでいません。たくさんの友達が欲しかったわけではありません。ガァララがいればよかったのです。そして、そのガァララが自分から少し遠くなろうとしているのです。だから、パックは、それを受け入れることができませんでした。

 

 この状況は、システムが問題だったときよりも一段階難しい問題になっています。なぜならば、ガァララが新しい友達の輪の中に入ればパックが傷つき、ガァララがパックのために新しい友達の輪の中に入らないことはガァララが傷つくからです。どちらかが我慢をしなければなりません。両方が満たされる解が存在しないのです。

 

 でも、ここで考えなければならないと思うのは、果たしてそれは本当に単純な2択なのか?ということです。2つの異なる立場があるとき、どちらか一方の要望だけが通って終わるのかではなく、両方が納得できる落としどころを探すということだってできるはずです。そしてまた、自分の要望が通ったところで、その先に本当に自分が望んだ状態が訪れるとも限りません。

 人と人との関係性というのは、だいたいいつもそうなのではないでしょうか?異なる人格を持った人が一緒にいるためには、双方の歩み寄りと、どのような状態ならば一緒にいても大丈夫なのか?という模索が必要なはずです。もし、自分はそういうことをこれまで考えたことがないというのなら、代わりに別の誰かが黙って我慢しているのかもしれないという想像を持つ必要があるのではないかと思います。

 

 さて、ガァララとパックの要望の対立は、どう見てもパックが間違っています。ガァララは、新しい友達を受け入れないことを望むパックに、「自分のことばかりで、パックの気持ちを考えてなくてごめんなさい」という、パックがどう思い、どうしたいのか?ということを考えた上での言葉を投げかけました。しかし、パックの方は、自分の要望さえ通ればいいということを主張してしまいます。

 自分のためにガァララは別の友達を作らないでほしいという要望です。人間と人間が平等であるならば、誰しもが平等な権利を持つはずです。だから、どちらか一方の要望だけが通るということはおかしいはずです。

 ガァララは最初から良い落としどころになる場所を探ろうとしていますが、パックはそれを受け入れません。パックは自分のことばかりです。だからパックは間違っているわけです。その態度はガァララとの歩み寄りを拒否し、傷つけるものだからです。

 

 でも一方で、それだけパックが辛いと感じていることも想像できます。パックにだって正しいことが何なのかは分かっていたのかもしれません。何が正しいかはとっくに決まっていて、それは自分を抜きで勝手に決まっていて、それに合わせるのが大人の対応で、でも、それを受け入れると自分が損をしてしまうと思ったときでも、受け入れるしかないということは、悲しいことなのではないでしょうか?だって、それはこれまでガァララを苦しめてきたことと同じではないですか。

 みんなのために自分が我慢するのが一番いいんだということが、これまで自分の一番大切な人を苦しめてきたのに、それでも我慢することが一番いいんだという考えを肯定できるでしょうか?それを肯定できないことは本当に悪いだけのことでしょうか?

 

 その結果、「新しい友達なんていらない、あの楽しかった2人だけの毎日があればそれでよかった」と言って暴れるパックと、それ以外の全員という戦いが始まってしまいます。

 

 らぁらちゃんは「みんなトモダチ」という言葉とともにこれまでやってきた女の子です。だから当然、今回も友達になることの方が正しいと思っているはずです。らぁらちゃんはきっとパックとも友達になれるはずだと思っていますし、そうなるための行動をとります。それが正しいと思っているから当然です。

 しかし、そのせいでらぁらちゃんは塔と融合して巨大になったパックの中に閉じ込められてしまいました。そして、パックはそのまま自分の体を凍らせて、自分とらぁらちゃんに流れる時間を止めてしまいます。

 誰の声も聴きたくないということです。コミュニケーションの拒絶です。

 

 らぁらちゃんには沢山の友達がいます。止まった時間を動かそうとして、様々な仲間たちがやってきてライブをし、ファララの時間を動かしたように、パックの時間も動かそうとします。それは友情が生んだとても素晴らしい光景で、そして同時に、とても残酷な光景でもあるように思えました。

 誰とでも友達になるらぁらちゃんのために皆が必死で友情を発揮し、友達がいないパックを間違っていると証明しようとしているからです。

 

 その場にいる人間の誰一人として、パックの気持ちを考えようとしている人はいません。パックは間違っていて、そして間違っていることは誰の目にも明白で、観ている僕の目にも明白で、そして、だからこそ誰からも共感されることがありません。

 僕はそれを見て、パックはなんて可哀想なんだろうと思いました。

 

 誰もパックのことを考えてなんてくれないんだなということです。

 

 それがつまり友達がいないことの悲しみなのかもしれません。らぁらちゃんを想う皆のライブの力で、止まった時計はじりじりと動き出し、ついに氷が破壊される寸前にまで到達します。しかしそこで、パックの抵抗は時計を一気に巻き戻します。そのときの僕の心情はかなりパックの味方でした。なんで自分のことを考えてもくれない人たちのために、お前が望みを捨てなければならないんだよ、なあ?パック?ということです。負けるにしても、せめて必死で最後まで抵抗してやれよという気持ちになっていました(僕の歪んだ感情かもしれません)。

 

 皆の笑顔のために自分が我慢することが正しいとされる世の中ならば、そんなもの受け入れなくてもいいだろうよという歪んだ感情です。

 

 ここで僕が観ながら思っていたのは、このパックに届く言葉を発することができるとするならば、ガァララちゃんの言葉だけだろうなということです。だって、ガァララちゃんだけが苦しむパックの心を考えてやることができていたのだから。

 

 ここでガァララちゃんの発した言葉は、思い出の話です。かつて、自分が昼間眠らせられないために皆の夢を奪っていた時期のこと、沢山の人から奪った夢の結晶を飾りつけながら、夢というものはなんて綺麗なんだろうと2人で言ったじゃないかという思い出の話です。つまり、パックはとっくに知っていたということです。夢というものがとても綺麗だ価値のあるものであるということを。そして、それを人々から奪ってきたことは、とてつもなく残酷なことであったということを。

 

 僕が経験的に思うには、人は他人の言葉で変わることはありません。他人の説得に応じたとしても、それは表面上そう応じることが一番ましだと思っただけで、心の中ではやっぱり別のことを考えているんじゃないかと思います。人が変わるとしたら、自分で変わるしかないのではないかと思います。だからやっぱり、変わるきっかけは自分自身が心から発した言葉からでなければならないのではないでしょうか?

 夢は綺麗で価値があります。それをパックはとっくに知っていました。ただそれを忘れていただけで、とっくに知っていたわけじゃないですか。そして、その夢は他人だけでなく自分にもあるはずです。

 パックが自覚したパック自身の夢は「ガァララが笑っていること」でした。そうあって欲しいという願いでした。全ては、ひとりぼっちで悲しんでいたガァルルのために起こしたことです。だから、そんなことはとっくに分かっていたかもしれません。それでも、それと反発するような様々な欲求とぶつかって、まっすぐにその道を歩くことができなくなってしまっていたのではないでしょうか?

 自分のことばかりだったパックは、ガァララちゃんが自分にそうしてくれたように、自分にとってのたった一人の友達がどう感じるかを考える答えを出しました。

 

 世の中は必ずしも2つの対立する価値観が戦い、どちらかが勝利することが最良の結末とは限りません。対立する価値観は2つどころか、実際は方向性の違う価値観が無数にあり、それはひとりの人間の中ですらぶつかって、全てを満たすことは不可能なのかもしれません。

 

 だからきっと、誰もが望み、誰もが我慢をしています。この物語の結末も結局パックの少なくない我慢で成り立っているのかもしれません。結末はパックにとって最良ではなく、妥協した最善でしかないのかもしれません。

 皆は笑顔でパックの友達になりたいと言ってくれましたが、それは別にパックにとって救いではないようにも思えました。だって、パックは皆と友達になれなくて苦しんでいたのではないと思うからです。

 

 でも、パックの望みだけが全て叶うことは、他の誰かの望みを傷つけることでもあります。だから、パックの望みだけが通るというような道理はないわけです。多くの人が集まる場所では、そういったことは必ず起こってしまいます。皆の望みの全てが叶うことがありえないのは悲しいことかもしれません。

 そう、人の世は悲しいわけです。自分の抱える100の望みが、他の誰かの犠牲なしに100全て叶うことはありません。例えば、自分が働かずに暮らしたいと思っても、他の誰かには働いていて欲しいと思うわけでしょう?

 

 パックの選択は、そんな世の中で生きていくことを選択したということではないかと思いました。それは少し悲しいことで、そして少し希望があることだと思います。それが希望でないなら、人はひとりで生きていくしかないからです。

 

 「みんなトモダチ」であるということ、それはこのプリパラの物語の最初から最後にまで存在しています。そして、プリパラの物語が持つ誠実さは、パックのように、ただそれだけでは救いきれない存在がいることも描いたことではないでしょうか?

 疑いようなく最初から「正しい」と与えられているものなら、それだけで救われない存在は、最初から存在しないことになります。存在しないものとして扱われるということは、その気持ちをもし持ちえた人がいたとしても、表明する機会を与えられないということです。でも、気持ちはあるじゃないですか。ありますよ。ないわけがない。

 

 だから、それが「ある」という上で、それでも、みんなトモダチということを描いたということは、目を背けない誠実なことだなと思って、そして、この世の中はやっぱり少し悲しいなと思ったのでした。

「KING OF PRISM -Shiny Seven Stars-」に見つける王のモチーフ関連

 これは、プリティーシリーズを一気に観たぞ話の第三弾です。

 

 「KING OF PRISM -Shiny Seven Stars-」は、主にエーデルローズというアイドル養成学校に所属する、新世代のアイドルの卵たちを主軸にした物語です。この物語の流れは、ライバルであるシュワルツローズとのPRISM1という対抗戦に向かって、エーデルローズに所属する7人それぞれの背景と成長が描かれるというものです。そのため、各話では各登場人物にフォーカスが当てられ、最後にそれぞれがショーを行うことが基本構成となっています。

 

 僕はそれぞれのショーを観ながら、あ、これってもしかして「KING OF PRISM」だけにそれぞれのショーの中に「王」を意味するモチーフが組み込まれているのではないかな?と思いました。その話をTwitterでしていたら、「そんなこと言っている人初めて見た」とか「このこじつけがすごい」などの様々なご意見を頂き、いやあごもっともだなあと思ったのですが、僕がわずかな手がかりから、何かの法則性を見出し、そこに無理矢理道を舗装していくようなことを喜んでしてしまうことを、このブログを読んでいる人はご存知だと思うので、今回は僕がそう考えるようになった過程を説明したいと思います。

 

 最初のきっかけは、第6話の鷹梁ミナトくんのショーでした。ミナトくんは太平洋側の海のそばで育った大家族の長男で、エーデルローズの寮での食事も彼が作っています。ミナトくんのショーは、港と意味を舞台に、様々な料理を生み出していくという内容でした。ここで、注目すべきは、自分の身長ほどにもある大きなフォークを携えているところです。海を股にかける男が三叉の長物を持つということ、これは三叉の矛であるトライデントを携えた海王ポセイドンをモチーフにしているのだと思いました。

 え?「海王」?「王」?ということで、もしかしたら、これらのショーにはそれぞれ王を意味するモチーフが組み込まれているのではないか?という発想に至りました。そこで最初からどのようなショーが行われてきたのかを振り返る必要があるなと思ったのです。

 

 まずは第2話の太刀花ユキノジョウくんのショーを思い出します。このショーのモチーフは歌舞伎の連獅子です。「獅子」?つまり「百獣の王」ではないですか。王が見つかったぞとはしゃいでしまいましたが、この時点では第3話の香賀美タイガくんのねぶた祭をモチーフにしたショーや、第4話の十王院カケルくんのマダガスカルのフラミンゴをモチーフにしたショーの説明がつきません。

 でも、少し考えてフラミンゴという選択がまず不思議だなと思いました。なぜなら、マダガスカルがフラミンゴで有名だということを今まで聞いたことがなかったからです。わざわざここにフラミンゴを持ってくることには、何か意味があるのではないか?

 そこでやっと気づきました。フラミンゴ打法です。一本足打法の別名です。一本足打法王貞治の使った野球の打法です。

 

 「王貞治」!「王」!つながった!!!!!!!!!

 

 と思った時点で、かなり面白くなってしまい(ご存知の通り、世の中は見いだせた繋がりがむちゃくちゃであればあるほど面白い)、これはどうしても他のショーから王のモチーフを探すしかないという使命感を得てしまいました。だって、カケルくんの曲名は「オレンジフラミンゴ」なんですよ?オレンジは王貞治の所属した読売ジャイアンツのカラーじゃないですか。もうこれはそう考えるしかない。とにかくそうであってほしいという祈りにも似た感情が芽生えてしまいました。

 

 でも、どうしてもタイガくんのショーから王のモチーフを探すことができず、ねぶた祭の由来や党所する山車の由来などを色々調べていたのですが、これはのちに発想が悪かったのではないかと思い出されます。映像の中にヒントがあると思い過ぎていて、歌の歌詞を聞くことを忘れていました。

 タイガくんの歌「Fly in the sky」の歌詞の関連する部分を抜粋します。

自由に(Oh) 羽ばたけ(Oh)
大切な(Oh) 想いを(Oh)
大切な(Oh) 絆が(Oh)
煌めきを(Oh) 届けたい(Oh)

 そう、「Oh」なんです。「王」なんです!!!!また、歌詞には記載されていませんがイントロの部分からOhという声が入っているんですよね~。

 この辺でもう勝利を確信していったので、残りの話からどんな卑怯な手を使ってでも王のモチーフを見出す断固たる決意というものが生まれてしまいました。

 

 残りは、第7話の西園寺レオくん、第8話の涼野ユウくん、そして第11話の一条シンくんです。

 レオくんについては、ショーが始まる前にレオという名前はライオンのレオからとったと出てきたので、もうこの時点で「百獣の王」だなと既に勝利をしていたのですが、実際のショーはハートをモチーフにしたもので、とてもよかったです。このショーが終わったあと、ダメ押し気味に「ライオンハート」という言葉が出たので、もう完全に「百獣の王」で「王」だなと思っていたのですが、前述のようにユキノジョウくんも百獣の王なので被ってしまいますね。

 でも、大丈夫、ユキノジョウくんとレオくんは仲良しなので、モチーフが一緒でも仲良しの象徴だなと思うことができます。

 

 続くユウくんはゼウスをモチーフにしたショーを行います。その時点でゼウスは「天の王」であり「神々の王」なので、問題なく通過です。

 

 最後のシンくんの場合は、単独では解けない難しい問題だったんですよね。シンくんのショーのモチーフは「愛」です。それも、美しい愛というよりは禍々しい愛です。舞台は血を思わせる色をした流動的な雰囲気に占められています。これだけから王のモチーフを見出すのはとても難しいとこです。

 しかし、考えてみてください。ここまでポセイドンとゼウスをモチーフにしたショーが出てきました。となれば、ハデスが登場しなければおかしいとは思いませんか?

 ギリシャ神話において、ティターン族との戦いに勝利したゼウスとポセイドンとハデスの兄弟は、それぞれ天と海と冥界を司ることになります。そう、つまりシンくんのショーの場所は冥界を意味しているのではないでしょうか?となれば、「冥王ハデス」!つまり「王」ということになります。

 

 そもそもギリシャ神話はひとつ上の世代のアイドルであるオーバーザレインボーが、ギリシャ神話モチーフのショーをしていましたし、プリティーシリーズはギリシャ神話をモチーフにした聖闘士星矢と共通点が沢山ある(衣装に力があるなど)ので、これはもう共通点がありまくるなと思っています。

 

 なので、全てが綺麗に繋がったと思うのは僕だけでしょうか?僕だけかもしれません。なら、皆さんも是非ともこのように思ってくださいね。

「プリティーリズムディアマイフューチャー」と未来は明るいと考える関連

 さて、ここ3週間ちょっとぐらいでプリティーシリーズを350話以上観た話の第二弾です(51+51+51+38+51+51+51+12=356)。

 

 プリティーリズムディアマイフューチャーは、プリティーリズムオーロラドリームの続編で、前作の主人公であるあいら、りずむ、みおんのMARSの3人の下の世代として、PRIZMMY☆とPURETTYの2つのグループを中心に描かれる物語です。

 

 プリティーリズムシリーズは同名のゲーム筐体を元にしたアニメで、プレイヤーは女の子の衣装を着せ変えながらプリズムショーという、フィギュアスケートと歌とダンスを融合したショーであり競技でもあるゲームを遊ぶ内容です。ちなみに僕は遊んだことがないので、細かいことは知りません。

 

 アニメの中でも、このプリズムショーによるアイドルグループの切磋琢磨が描かれるのですが、プリズムショーの特異な部分としてプリズムジャンプがあります。プリズムジャンプとは、フィギュアスケートようなジャンプを行ったあとに発生する特定の演出で、それは飛んだ人の心の写し鏡のようなものです。

 「プリズムジャンプは心の飛躍」と作中では呼ばれますが、ここに演者の心の要素があることで、物語では登場人物の心の成長とプリズムジャンプをリンクさせ、肉体的なものだけではなく精神的な領域まで広がった戦いが描かれるのです。

 プリズムジャンプについてのもうひとつの重要な要素は、これが物理現象でもあるということでしょう。プリズムジャンプを行っている空間では、通常の物理法則を無視した現象が発生します。無から沢山の果物が生まれたり、空から沢山の流星が降ってきたり、人間が巨大になって地球を抱きしめたりします。これらは非現実的な要素ですが、一方で、物理的に発生しているということも描かれるのです。

 例えば、プリズムジャンプによって発生した果物が普通に食べられている様子が描かれます。

 

 プリティーリズムシリーズは、プリズムショーの中でなら、人間の心が生み出すものが物理法則という窮屈なものに囚われず、何でもできてしまう可能性があるものであることが、全編を通してのあらゆるものから制約を受けない可能性として描かれていると思います。

 オーロラドリームでは、オーロラライジングというプリズムジャンプを巡るドラマが描かれ、終盤では当初、プリズムショーの会場だけにとどまっていたように思えたその現象が、建物の外まで広がり、遠くに存在する人までその空間に取り込む様子が描かれました。プリズムショーの力は留まることなく広がり、人々の生き方に影響を与えます。

 そして、ディアマイフューチャーでは、プリズムジャンプの先であるプリズムアクトを中心に描かれる物語となります。プリズムアクトも元はゲームの要素から来たものですが、それは演劇的な演出を取り込んだより物語性の強いものであり、この物語は最後グレイトフルシンフォニアという大規模なプリズムアクトを行うことに向かって進みます。

 

 ディアマイフューチャーは開始時点から要素の多い物語で、それはアニメの外で、実在のアイドルとしてのPRIZMMY☆とPURETTYが関連していることや、ゲーム筐体とのリンクなどの沢山の達成すべき要素が存在していることが序盤のお話からは認められました。それらの沢山の要素が、物語の終盤のグレイトフルシンフォニアの一点に「あたしが一番」というみあの言葉と「ディアマイフューチャー」というタイトルとともに収束していくということが、このディアマイフューチャーの感動的なところでもあります。

 

 さて、この物語に黒幕として存在するのが阿世知欽太郎という男です。

 阿世知欽太郎はプリズムアクトを考案した人物です。また、彼の娘は、元プリズムスタァであり、現MARSやPRIZMMIY☆が所属する事務所プリティートップの社長でもある阿世知今日子です。そして、過去、ミョンジャ(PURETTYのチェギョンの母)と恋人関係にあり、ケイ(今日子の母)と結婚していました。つまり、PRIZMMY☆とPURETTYの両方にゆかりのある人物であり、プリズムアクト・グレイトフルシンフォニアの根幹にいる人物なのです。

 この物語は、そんな阿世知欽太郎の抱える妄執と、PRIZMMIY☆のみあ、PURETTYのヘインという2人がグレイトフルシンフォニアの中で戦うということで決着がつくのです。

 

 では、阿世知欽太郎の妄執とは何だったのでしょうか?

 

 それは「美しい思い出」です。つまり、若くして最高のものに出会ってしまったがゆえの、それがいずれ失われてしまうことへの恐怖です。しかしながら、世の中には変わらないものはありません。だから、阿世知欽太郎は時を止めてしまいたかった。そのために用意した舞台がグレイトフルシンフォニアなのでした。

 

 世界中の空にオーロラとともに中継されたグレイトフルシンフォニアは、世界中の人々の心を繋ぎます。そして、現世代のプリズムスタァたちは、その中で阿世知欽太郎を打ち倒し、グレイトフルシンフォニアを我がものとして、世界中の人々にメッセージを届けました。

 そのメッセージとは「未来は明るい」ということです。阿世知欽太郎の今のままで時を止めたいという考えを真っ向から否定するメッセージです。

 

 ここに多少の説教臭さを感じないでもなかったですが、でも、こんな世の中ですよ。世の中を悲観的に論じる方が、「現実を見ている」と言われるような風潮があるじゃないですか(ないですか?)。将来に対する夢を感じず、もうおしまいだとか、衰退しているんだとか大人が言っている世の中が良いとは僕は思えないんですよね。特に子供たちに向けて。

 だから、「未来は明るい」と言い切って、その明るい未来に少しでも近づくようにできるのがいいじゃんよという気持ちが僕にはあって、その気持ちにこの物語がめちゃくちゃ響いたなと思いました。

 

 未来と言うのは不確定ということで、そして、今とは違うということだと思います。思い返せば、この物語は変化することを描いてきたように思いました。

 プリティーリズムディアマイフューチャーが特殊だなと思ったのは、アイドルという在り方がいつまでも続けられないものであるということを明確に描いていたことです。これはオーロラドリームの続編であったということも関係していて、前のシリーズの主人公たちはだんだんと一線を退いていきます。前作の時点で阿世知今日子が芸能事務所の社長になったように、MARSの3人もいつまでもアイドルで居続けることはできないということが示唆されていました。

 象徴的なのは、りずむちゃんがアイドルを続けながらも結婚していたことです。アイドルコンテンツは、その性質上、恋愛感情が去勢されてしまいがちなイメージがありますが、ことプリティーリズムにおいては、それが明確にあるものとして描かれてきています。それは、このアニメがアイドルコンテンツというよりは、少女漫画的な文脈を持っているものであることも関係しているかもしれません。

 人には恋愛感情があるし、未来を考える上で、その部分が出てこないことの方が不自然です。グレイトフルシンフォニアの中では彼女たちの未来のビジョンが出てくるのですが、りずむちゃんは母親としての姿、みあちゃんは指導者としての立場、あいらちゃんにはそもそもアイドルの前になりたかったデザイナーとしての姿が描かれていました。

 そのように、MARSのメンバーたちにはプリズムスタァというアイドル以外の未来があります。アイドルはいつまでも続けられないからです。でも、それは果たして不幸なことでしょうか?その先にも人生は当たり前のように続くし、続くということは変わっていきます。この物語の中で、変わっていくことは何も不幸なことではないということが明確なメッセージ性をもって描かれていたことが希望だなと思いました。

 永遠に止まったときの中でアイドルのままで居続けるということは、それこそ、阿世知欽太郎が望んだ世界だからです。いや、この物言いは他のアニメに当たる可能性がありますね。僕が言いたいのは、それが悪いということではないんですよ。ただ、そうでないことが決して不幸ではなく、希望あることだと描かれていることが良いと思ったということなのです。

 

 ショウくんはあいらちゃんと付き合わないということで、自分の美しい感情を維持しようとしていましたが、自分も相手も変わってしまうということを乗り越えて受け入れて、あいらちゃんを必要とします。みあちゃんは、韓国に帰ってしまうヘインちゃんとの別れを嫌がりますが、ついにはそれを受け入れます。時間が流れていく以上、様々なことが変わっていくということは止めることができません。

 この物語の誠実なところは、その変化がやっぱり辛いことでもあるということを描いているということでしょう。変わることは悪いことではありません。未来のビジョンは、日本と韓国でそれぞれ成長したPRIZMMY☆とPURETTYが再び出会う姿を見せてくれました。

 それでも、やはり毎日のように一緒にいた相手が目の前からいなくなってしまうということが辛くないわけがありません。彼女たちがそれを受け入れながらも、別れのときには悲しくて泣いてしまうという姿に、ああ、そうだよなと思いました。

 

 もうひとつ「一番」という言葉をキャッチコピーとしてきたみあちゃんですが、グレイトフルシンフォニアの中で、その「一番」の意味は「先端という一番」であるという解釈に至ります。つまり、それぞれ方向性が違っていても、その最先端にいるということは一番であって、その最先端は無数にあるということが、大きな樹のメタファで描かれます。だから、グレイトフルシンフォニアのセンターに選ばれなかった他のアイドルたちであっても、それぞれがそれぞれの先端にいれば一番なのです。一番を選ぶということは、他を全員敗者にしてしまうということを意味しません。

 これは未来にも繋がっていく話です。なぜなら、今いる場所の今の意味での一番ではなくなったとしても、未来にはそこでの別な意味の一番になっているかもしれないからです。時間というのは結局のところ今の連続です。未来への讃歌ということはその連続する今への讃歌でもあります。

 今の自分の状態を良いと思えること。そして、それが未来に続いていく連続の中で良いと思い続けていくということ。そうであってこそ、未来が明るく見えるのではないかなと思っています。

 

 プリティーリズムディアマイフューチャーは、世界中の人々に「未来は明るいぞ」ということを言っていくというアニメだと思っていて、スケールがデカくて偉いぞ!!という風に僕は感じちゃったんですよね。

 未来をやっていうということは今をやっていくということだと僕は思っています。それは未来に暗いビジョンを持ってしまったり、変わるということへの恐怖ばかりを持ってしまうと、難しくなるんじゃないかなと思います。だって、「こんなことやっても、どうせ未来は暗いのだから意味がない」とか、「どうせ良い時期はいつまでも続かない」と思っていたら、今をやっていくことの意味が失われますし全て停滞してしまうじゃないですか。それで結局今が楽しくなく、未来も楽しくなると思えないなら、結局自分が想像した暗い未来を自分の力で生み出してしまうのではないかとも思っちゃうんですよね。

 そういうこともあって、それが事実とかそうでないとかどうでもよくて、とにかく「未来は明るい」と思ってやっていくことがいいじゃんという気持ちが僕にはあって、その気持ちをこのアニメからも感じることができた気がして、めちゃくちゃよかったなと思いました。

 

 ただ、こういう僕のおじさんとしての妄執には応えてくれたように思いましたが、このアニメのターゲットであったであろう子供の世代は、これを観て一体何を思ったんだろうな?ということは分かりません。だから、それがめちゃくちゃ気になっています。

歌が物語の感情的要約として機能する関連

 基本的に在宅勤務の生活になってから、家にいるということを利用してアニメを見ています。

 何を見ているかというと「プリティーリズム」と「プリパラ」というアイドルのアニメを見ていて、これがめちゃくちゃ良いので、既に300話ぐらい見ていますし、遠からずシリーズ全部見終えることができそうです。

 

 プリパラの中に出てくる曲で「ぷりっとぱ~ふぇくと」というものがあって、これを聞いているとめちゃくちゃ泣けるなあと思っているのですが、歌詞の一部を抜粋すると以下のようなものです。

ぷぷぷ プリプリぷり 夢を磨くぷり

歌詞は全部この調子なのですが、聞いていてめちゃくちゃ泣けるなあと思っています。でも、この歌詞だけ初見で見ても泣けるとは誰も思わないよなあとも思います。なら、なぜこの曲が僕の涙腺を刺激するかというと、この歌が物語の中でどのように歌われたかという文脈があるからです。

 

 この歌を歌う、みれぃちゃんはSoLaMi SMILEというアイドルユニットの一人で、語尾にとにかく「ぷり」という言葉をつける女の子です。初登場時、アニメの中なので、こういう人も存在するのかな、でも、意外と現実的な部分もあるし、この子は学校でいじめられていないだろうか…?という心配をしていたのですが、それは杞憂でした。

 なぜならこの「ぷり」は自分がアイドルとして活動するために一生懸命考えたキャラ付けだったからです。普段のみれぃちゃんは優等生の委員長で語尾も普通なのでした。

 

 プリパラの第二期では、2つの派閥に分かれてのアイドル同士の戦いが描かれます。その2つの派閥とは「才能」と「努力」。プリパラはゲーム筐体を元にしたアニメなので、そのゲームを遊ぶ全員がアイドルです。プリパラは「み~んなトモダチ、み~んなアイドル」という言葉をキーワードにお話が進行しますが、作中のひびきさんはそれを欺瞞だと主張します。アイドルとは選ばれた才能のある人間がやるべきもので、一部のアイドルと、沢山のファンがいるという構図の方が正しいと主張するのです。

 そして、みれぃちゃんは努力側の人間です。真面目で一生懸命なみれぃちゃんは、ウケるアイドルとは何かを一生懸命研究し、普段学校に通っているときの自分とは全く別のアイドルみれぃを生み出しました。

 一方、SoLaMi SMILEにはみれぃちゃんと本作の主人公のらぁらちゃんの他に、天才のそふぃちゃんがいます。そふぃちゃんは天才であるために、何の努力もなしに最高のパフォーマンスができてしまいます。その代わり、体力がなく、精神もある種のスイッチがなければアイドルとして切り替えられないという事情も抱えていますが、そのそふぃちゃんがひびきさんの考える才能派のアイドル側にスカウトされてしまうのです。

 

 そこから先にみれぃちゃんが見せられるものは残酷なものでした。他の才能に囲まれることになったそふぃちゃんの才能は今まで以上の羽ばたきを見せ、今のみれぃちゃんには決してできないレベルの最高のショーをやってのけるのです。みれぃちゃんはどれだけ努力をしても、恵まれた才能を持つ相手がさらに高みを目指すのには敵わないということに打ちひしがれ、アイドルであることを諦めてしまうのでした。

 

 「ぷりっとぱ~ふぇくと」は、そんな努力派のみれぃちゃんが、もう一度努力でアイドルを続ける決意をした後の歌です。その過程には様々なドラマがあり、特にガァルルちゃんという「自分はアイドルにはなれない」という沢山の女の子たちの挫折の気持ちから生まれたボーカルドール(プリパラの外に人間としての実体を持たないアイドル)が、初めてのショーをする話がめちゃくちゃいいのですが、それは別の機会に書くとして、とにかくそういう色んな過程を経て生まれた歌なのです。

 

 一生懸命考えた後天的なキャラ付けの語尾を、他人に否定されても、特殊な語尾を使わない他のアイドルたちが自分の頭の上を軽々と越えて行っていたとしても、それでも、その語尾を増し増しにして歌詞に乗せ、この上なく明るく前向きな姿を見せ、これからも進んでいくという意志をこの歌から感じ取ることができます。

 その結果、なんていい歌なんだ!と思って僕はすごく感激してしまうわけですが、これはつまり、物語から受け取った感情が頭の中にストックされていて、歌を鍵として開放しているということだと思うんですよね。

 

 物語で体験した気持ちが、歌の歌詞の一言一言で解放されていくコンボのように機能します。これは逆説的には、物語を体験していない人にとっては理解のできない感情かもしれません。

 

 そんな感じに、プリティーリズムの曲もプリパラの曲もサブスクで聞き放題なので聞いているんですが、ひとつひとつの歌が、それが歌われたシチュエーションと関連付けて記憶が呼び起こされるので、めちゃくちゃ感激しながら音楽を聴いてしまったりしているわけです。

 

 さて、こういう現象は他にもあるので、いくつか例示したいと思いますが、最近では「からくりサーカス」の主題歌であった「月虹」です。

僕の正しさなんか僕だけのもの どんな歩き方だって会いに行くよ

の一節は、作中のフェイスレスという男を思わせる歌詞です。彼はこの物語の悪役ですが、全ての中心にいる人物でもあります。彼は自分が追い求めたものをそれが手に入らないと分かっても諦めず、どれだけ歪な方法であったとしても、ただひたすらに求め続けた悲しい男です。この歌詞はフェイスレスのどす黒い太陽のような気持ちを連想させ、そして、それが誰にでもあるような挫折を諦められなかった果ての果てにあったものであることに深い悲しみを感じます。

 また、聞き続けることで、これはフェイスレスだけのことではないとも思えるようになりました。例えば、主人公のひとりである鳴海もまた、歪な歩みを続けた男であるからです。この歌詞にピッタリの足を引きずるように進む鳴海の絵もあるのですが、彼の人生は、彼が背負う死んでいく人の想いを背負ったために、どんどん自分のものではなくなっていきます。

 彼のその辛い道のりや、背負った想いへの気持ちが、全てこのフレーズで解放されていくように思えて、物語の極端な要約として機能するのではないかと思って平静で聴くことができません。

 

 これらは、物語の要約と考えるには、極端に削り込み過ぎているので、情報が抜け落ち過ぎていて、ここから元の全体像を再現することはできません。しかしながら、物語の持つ感情の要約としては十分に機能していると思っています。つまり、元の物語を読んだことがある人は、ああ、この歌を聴いて感じることは、あの物語を読んだときの気持ちと同じだと思えるのではないかということです。

 

 また、これは僕の感覚ですが、100の量の感情があって、それを100の時間で体験するのであれば平静でいられるのですが、同じ100の量の感情を1の時間だけで体験することになるとき、自分の処理できる感情の許容量を超えてしまって、暴走してしまうという実感があります。つまり、長大な物語の持つ感情をひとつの歌で表現するということは、その条件に合致する部分があって、だからめちゃくちゃ良く感じてしまうのかもしれないですね。

 

 他にも実例は沢山あるのですが、ひとつ特殊な例だけ紹介して終わろうと思います。

 欅坂46の「キミガイナイ」という曲に、以下のような歌詞があります。

本当の孤独は誰もいないことじゃなく

誰かがいるはずなのに一人にされてるこの状況

これは別に何かの作品のタイアップの曲というわけではないのですが、「HUNTER×HUNTER」の念能力にこの曲名から名前をとった「二人セゾン(キミガイナイ)」というものがあります。この能力は、カチョウという女の子の能力で、妹のフウゲツと自分のどちらかが死んだとき、守護念獣がその姿となり、もう一方が死ぬまで側で護るというものです。

 作中では、フウゲツを護って死んだと思ったカチョウが生きていた…と見せかけて、実はこの能力が発動したということが分かりました。つまり、フウゲツはまだカチョウが生きていると思い込んだままで二人での王位継承戦の戦いに舞い戻ることになるのです。

 

 この状況は、歌詞そのままではないでしょうか?フウゲツはカチョウがまだ生きていると思い込んでいますが、実際はカチョウは既に死んでいて、側にいるのは同じ姿をした念獣です。フウゲツが置かれているのは、自分たちは2人だと思っているのに実際は1人です。つまり、これが本当の孤独です。

 フウゲツはいつか、それがカチョウではないと気づくのだろう、そして、実は自分がとっくに孤独になってしまっていたという事実に気づくのだろうと思います。

 

 そうであることを、僕は漫画を先に読んだ後で初めてこの曲を聴いたとき、その歌詞を聞いた瞬間に読み取ってしまい、道を歩きながらめちゃくちゃ泣いてしまいました。鍵となるものは、何も専用に用立てたものでなくともいいということが分かります。この例では、漫画側から合わせたと言えますが、それはそうと人は連想で頭の中で色んなものを繋げることで、記憶の中の体験のフタを開けることができるんだなあと思いました。

 

 僕は、同人誌の漫画で、好きな曲のタイトルを漫画のタイトルに使ったものをいくつも作っているのですが、それらの物語自体は別に歌詞の内容を漫画に起こしたものではないオリジナルなものです。ただ、その漫画を読んだときの感覚は、その歌を聴いているときの自分の感覚と同じ心理的BPMにできないかなと思っていたりはします。

 当初はそういうことを特に意識してはいなかったのですが、今はそうすることで、自分の描いた漫画を使って、好きな曲をより好きになるみたいなことを試してみているのかもしれないな?ということを思っています。

ここ一ヶ月の在宅仕事雑感

 悪い予想というものはしておくもので、予想通りの悪いことに直面したときに、それを受け入れやすくなります。2月頃から念のため仕事場のほぼ全員が在宅勤務になる想定をしていて、そのためのリモートワーク環境の整備などを進めていました。3月からはローテで在宅勤務を試し、世間の情勢を見て、4月頭からは僕の働いているチームは全員在宅環境で仕事をしています。

 

 それで仕事が上手く回っているのか?というと、今のところそれで上手く回せることだけをしているという感じで、どうしても在宅ではできない仕事は後回しにして、在宅で出来る仕事だけをやっているような感じです。ただ、世の中全体が感染症のための自粛ムードになったおかげで、どうしても在宅ではできない仕事の方は延期や中止になったものも多く、なんとか破綻はしていませんが、この先もずっとこのままというわけにはいかないだろうなとも思ったりしています。

 

 さて、僕個人の生活は、不幸中の幸いでとても健康的になっていて、仕事量に押しつぶされそうになってキリキリしていた精神も落ち着き、忙しさから来る過食で過去最高を記録しつつあった体重も、反転して減りつつあります。

 つまりどういう変化が起きたかというと、これまで僕個人の能力で賄える仕事量に対して、やらなければならない仕事量が多かったということでしょう。いくつかの大き目の仕事が中止になったことで、自分の能力に対して適切な量の仕事量になってしまいました。すると、生活に余裕が生まれてきました。

 

 仕事で家にずっといるので、部屋が散らかっているのが気になり始め、片付けを始めました。とりあえずおさまっていればいいと思って、本棚に雑然と詰め込まれていた漫画を順番に並べなおしたりもしました。本棚を新しく注文して組み立て、ウォークインクローゼットに積んでいた本もしまい始めましたし、今まで掃除をさぼっていたところなんかも掃除を始めました。

 これまで忙しさにかまけて、澱のように積み重なっていたものに目を向けられる余裕ができました。

 

 食事は基本的に自炊で生活をしています。痩せようと思って、カロリー計算をして料理を作っています。4月の頭からだと日による変動はありますが少なくとも既に3kgは体重が落ちています。睡眠時間もきっちりとれていて、また、家で座っているばかりではよくないと、主に夜に1~2時間程度、近所を散歩しています。

 ここしばらく、肥満によって内臓に負担がかかっていたという検査結果だったのですが、今の生活でその辺がましになればいいなと思っていますが、この状態でマシにならないとしたらこの先打つ手がないですね…。

 

 ともあれ、様々な不安を先に抱えながらも、この一ヶ月はかなりおだやかな日々でした。僕は仕事を辞めない限り、自分の人生にはおだやかな時間は訪れないんだろうなと思っていましたが、まさかこんな形でそれがやってくるなんて思いもしていなくて、おだやかさが世間的には最悪の状況とともにやってくるのが、まさにままならない自分の人生そのもののようだなと思っています。

 

 仕事があったらあっただけやるみたいな生活が、仕事場を何度か変わってもずっと続いていました。なんで、そんなにたくさんの仕事をやらなければならないのか?という疑問に対しても、それらは全部緊急で必要なものであるという説明がされ、僕に拒否権はなく(他にしわよせがいくのも見えるので)、ただやるしかなかったんですよね。

 このリソースでは全てをやり切るのは無理だという僕の言葉は、「できない理由ばかりを考えるな」という言葉で打ち消され続けていました。それを会社の上に反論しても、あまり意味がないことも分かっていました。それらはお客さん側から来たものだからです。

 ただ、できる方法は考えても、そのために必要だと要求したものがまるで与えられず、それでもやり切れと言われ続ける中で、どうにか苦しくやりくりをしてやっていたのですが、それらの仕事のうちの少なくない部分が、現在不要不急の仕事であったということになり、なくなってしまったので、あれだけ訴えても変えられなかったのにな…と思いました。

 

 しかしながら、僕がその仕事をしなくてよくなったことの先には、様々な関連する仕事をしている人への悪い影響もあるのだろうなとも思います。もちろん僕が働いている場所におけるお金の回りの問題もこの先出てくるかもしれません。

 

 この変化の中で思うのは、世の中には流れがあって、その流れを止めないことが重要視されているんじゃないかなということです。例えば、計画が決まっているのだから、その流れを一旦止めて再調整して変更することを誰もが嫌がり、そのための労力を払いたくなく思い、だから結果として、立場が弱いところにどうにか流れを止めてはならないという圧力が発生したりします。立場の弱い人が無理をしています。

 むちゃくちゃなスケジュールでも、むちゃくちゃな予算や人手でも、必要なときに必要なものがあって当たり前、ないとそれが滞るのだから、滞らせないためには、どれだけむちゃくちゃな労力をかけてでもそれを維持するべきだという考えが蔓延している場所があったりします。

 

 僕は比較的そういうところで働いているので、本当にその流れってそのまま維持し続けないといけないものなのかなあとずっと思っていましたが、実際止まってみると、マジで色んな人が困っており、これを起こさないために頑張っていたのだなあと思いました。そして同時に、それを起こさないために、僕が体を傷めて生活を雑にさせながら働いていたのだなあと思うところもあります。

 社会は流れているもので、その流れを流れたままにすることが効率がよいので、流れを円滑にするための部品として、社会に自分の居場所があるのだなあということを思ったりもします。

 

 流れてこその社会だとは思っていて、今の無理矢理様々を止めている状態は、そう長く続けられるものではないなと思います。一方で流れ続けさせることが、自分がしんどさを抱える要因でもあったことが、止まったことで自覚できたところもあって、皮肉な話だなと思います。

 止まっていることは悪いことですが、今までも流れ続けさせるために、色んな無理をしていたということが本当に止まってしまったことで比較できるようになってしまいました。そうなってくると、今の状態が終息したとして、前と同じようなものを単純に再開しても本当にいいものか?という疑問を抱えることになりました。

 

 とりあえず、自分の手の届く範囲では、これを手掛かりにして、色々変えていった方がいいなと思っていて、既に色々動いていますが、どうなるやら。

ジョジョの一巡前後の世界の共通点から考える運命の奴隷関連

 「ジョジョの奇妙な冒険」は第六部にて一度世界の終焉を迎えます。

 その後に始まった第七部は世界が一巡した別の歴史となりました。ジョジョの奇妙な冒険は名前にジョジョ という言葉が入った血統の人間を各部の主人公とした物語です。第六部の最後、空条徐倫はアイリーンという名前に変わり、ジョジョという名前の呪縛から解放され、ひとつの終焉を迎えたようにも思えました。

 しかしながら、第七部スティールボールランには、やはりジョジョという名前を持った男が登場します。時代は遡り、1890年、彼の名はジョナサン・ジョースター(通称ジョニィ)、第一部の主人公と同じ名前を持った男です。ジョニィは、第一部のジョナサンと顔も違えば性格も違い、生まれた国も違います。これは一巡する前の世界と似た部分はあるものの、全く新しい世界であると言われます。

 

 しかしながら、第一部と第七部には以下のような共通点があります。

  • 主人公の名前がジョナサン・ジョースター
  • 主人公に戦う技術を教えるツェペリという男が登場
  • 敵としてディエゴ・ブランドー(通称ディオ)が登場
  • ツェペリはジョナサン(ジョニィ)に力を託して死亡
  • 最後はジョナサン(ジョニィ)とディオ(ディエゴ)の戦い
  • エンディングでは船に乗って旅立つ

 歴史が変わったように見えて、多くの共通点が残っていることは意図的でしょう。ただし、ジョナサン(ジョニィ)とディオ(ディエゴ)の戦いについては大きな相違点もまたあります。

  • 第一部ではジョナサンが勝利、第七部ではディオが勝利
  • 第一部ではジョナサンは死ぬ、第七部ではディオが死ぬ
  • 第一部ではディオは首だけで生き残る、第七部ではディオの首が消失して死ぬ

 つまり、起こったのは真逆の結末です。

 

 この結果、ジョジョ の第三部にはジョナサンの首から下を奪ったディオが登場しますが、第八部以降にはディオが登場することはできないのではないかと思います。

 このように、一巡した世界では、前の世界との共通点を残しつつも異なる結果が生まれ、蝶の羽ばたきがいつか地球の裏側で竜巻を起こすように、世界が書き換わっていきます。

 

 第八部ジョジョリオンでは、そんな変わってしまった後の世界が描かれます。

 

 ジョジョリオンの主人公、東方定助はジョースターの血統を受け継ぐ痣を持つものの記憶を失った謎の男です。名前も引き取られた先でつけられたものでした。しかし、彼には重大な秘密があることが後にわかります。それは壁の目という特殊な土地の力と、ロカカカという特殊な果実の力によって、2人の人間が体の一部を等価交換することで生まれた人間であったということです。

 その2人とは、空条仗世文と吉良吉影です。

 

 空条仗世文の出自については、謎が残っています。作並カレラが見せた過去の写真には、ジョースター家の血筋を示す星形の痣がありますが、彼がジョースター家とどのような関係にあるのかは分かっていません。彼の名字が空条であることから、一巡前の世界では空条承太郎の父親となった血筋と関係があるのだと思います。

 

 吉良吉影は、第四部のラスボスであった男です。しかし、第八部ではジョースター家の血筋になりました。ジョニィ・ジョースターアメリカで行われたスティールボールランのレースで東方憲助と出会い、その娘の理那と結婚します。ちなみに、理那の名前は第一部でジョナサン・ジョースターと結婚したエリナ・ペンドルトンと共通点があります。

 ジョニィと理那の間には前の歴史と同じように息子のジョージが生まれ、ジョージのジョセフ、ジョセフの子はホリー(ホリィ)・ジョースターです。ここまでは前の歴史と同じですが、ホリーが結婚したのは空条貞夫ではなく、吉良吉輝、その子が吉良吉影です。

 つまり、第三部で空条承太郎がいたポジションにいるのが吉良吉影ということになります。ちなみに吉良吉影には虹村京と名乗る妹がいて、その帽子から空条承太郎の要素を見てとることもできます。かつての歴史の中にいた空条承太郎という男の要素は、変化した歴史の中で拡散し、その要素を受け継ぐ空条仗世文、吉良吉影、虹村京の3人に分散したと考えることもできます。

 

 そして、その中の2人が融合することになったのが東方定助ということになります。

 

 第八部の主人公である東方定助は、第四部の主人公である東方仗助と同じ発音の名前を持ち、吉良吉影を経由することで東方の血とジョースターの血を同じように受け継いでいます。そして、第三部の主人公である空条承太郎と同じ、空条の血も受け継いでいるのです。

 また、仗世文の名前からは第二部の主人公であるジョセフ・ジョースターとの関連を見てとることができます。ただし、ジョセフはジョセフで存在しているので、あくまで名前だけですが。

 第八部における第二部との共通点で言うなら、岩人間の存在でしょう。彼らは体を岩に変える人間とは異なった種族です。これは第二部に登場した柱の男たちに類似しています。第八部のジョセフがどのような人間であったのかは語られていないので不明ですが、前の歴史ではジョセフが担っていた役割を、仗世文を経由して定助が担っていると考えることができます。ここでは「エイジャの赤石(第二部)」と「ロカカカ(第八部)」を巡る戦いという物語構造的な類似もあります。

 エイジャの赤石は石仮面と組み合わせることで、柱の男を究極生命体へと押し上げる力を発揮しました。ロカカカは生命に等価交換をもたらし、何かを修復する代わりに何かを代償として破壊する不思議な果実です。ロカカカと壁の目という物の中身を入れ替えてしまうという不思議な場所との組み合わせは、死にかけていた空条仗世文と吉良吉影を、東方定助として生まれ変わらせました。

 つまり、「エイジャの赤石」と「石仮面」の組み合わせを、「ロカカカ」と「壁の目」の組み合わせに読み替えて理解することもできるかもしれません。第二部ではその組み合わせが究極生命体を生み出すところがラストですが、第八部ではその組み合わせが東方定助を生み出すところが始まりになります。

 

 ここで、2人の人間が1人になるということは、ジョジョの奇妙な冒険シリーズでは既に一回あったことであることにも気づくことができます。つまり、ジョナサンとディオです。

 首だけとなった吸血鬼のディオは、ジョナサンの首からしたを奪い生き延びました。第三部で登場するディオは、ジョナサンとディオが融合した姿なのです。そして、ジョナサンとディオが首を切断線とした横の融合なら、東方定助の融合方法は縦です。よく見れば目や舌、歯の隙間などから、彼が真っ二つに分かれた2人が組みあわされたことが分かります。睾丸は4つあります。

 第七部でのディエゴ(ディオ)は死んでしまい、ジョニィ(ジョナサン)との融合は起こりえませんでしたが、その歪みを埋めるような存在として東方定助が登場していると考えることはできないでしょうか?

 

 このような一巡前の歴史と、一巡後の歴史の整合性を巡る綱引きのような動きは、そこかしこに見つけることができます。ジョニィは第一部の歴史とは異なり生き延びましたが、第八部ではその後のジョニィの死が描かれます。それは妻と子を助けるための自己犠牲であり、首から上を失うことで決着がつきます。第八部におけるジョニィの死に様は、結局のところ第一部のジョナサンと酷似するものとなってしまいました。

 

 もしかするとジョジョの歴史にはホメオスタシス(恒常性)のようなものが存在するのかもしれません。ホメオスタシスは内部を一定に保とうとする力です。これはゴーストスイーパー美神にも登場した考え方ですが、過去を改変し、歴史を変えようとしても、なんらかの力によって歴史が元あったものに復元しようとし、修正するような力です。そう考えると、第七部以降のジョジョ は血統ではなく歴史を巡る物語と考えることもできます。

 

 一巡後の世界は、第一部の歴史を第七部に書き換えました。そして第八部は、第二部から第四部を書き換えたものだと考えられるのではないかと思います。なぜならば、東方定助は第二部から第四部の各主人公が抱えていたものを全て取り込んでいると捉えることができるからです。

 第一部と第七部の共通点を踏まえると、第八部の結末も、第二部から第四部で起こったことに共通点のある結末になるのかもしれません。第二部では究極生命体は宇宙に追放され、第三部では空条承太郎が仇敵ディオを倒し、第四部では杜王町という街が殺人鬼の吉良吉影が倒すという結末でした。

 そう考えると、ジョセフ・ジョースター空条承太郎東方仗助の3人が東方定助に集約されていると同時に、前述のように敵側であった究極生命体とディオと吉良吉影の3人もまた東方定助であると捉えることができるんですよね。つまり、その結末では、東方定助の生と死が同じように重なり合った状態にあるように思えます。何も分かりません。何も分からないということだけが分かります(こんだけ書いておいてその結論はどうなのか…)。

 

 第七部の大統領のスタンド能力であるD4Cは並行世界を渡る能力でした。この能力が存在したことが、第三部のときとは異なる能力を身につけていたディエゴを、第三部と同じザ・ワールドを身につけた並行世界のディエゴと入れ替えて、最後の結末に向かううねりと化していきます。

 つまり、D4Cの能力は単純なひとりの人間の能力ではなく、第七部の世界の存在そのものと密接に関係しているように思えました。

 

 一方、第八部は今終盤だと思うのですが、今定助たちが対峙しているのは「因果応報」の能力です。敵に近づこうとすること、それが物理的な意味でも情報的な意味でも、それを脅かす可能性がある近づく行為に対して、突き放すように応報的な何かがぶつかって来るような能力であると推察されます。ちなみに、これは第四部で吉良吉影が使ったバイツァダストの能力とも似ています。バイツァダストは、吉良吉影について知ろうとする者を爆発させ、時間を巻き戻すという吉良を脅かすことのない、安心を提供する能力でした。

 この能力もまた、この第八部の世界を象徴する能力であるのかもしれません。

 

 因果応報、等価交換、保存則、このようなゼロサム的な考え方が第八部には満ちています。無から有は生まれず。何かを手にするには何かの代償が必要です。

 聖なる遺体の力で不幸を誰かに押し付けようとしたジョニィは、それが別の大切な何かに不幸をもたらすことを理解し、自身がその不幸を受け止めて死にました。ロカカカは何かを治すために、何かの代償を要求します。そういえば、そこには無条件に他人を治すことができる、仗助のクレイジーダイヤモンドの能力との対比も見てとることができるかもしれません。

 これはジョジョの歴史そのものにも適用できるかもしれません。何かを変えようとしても、そこには必ず反動があり、変わらない運命が存在してしまうということです。これは第五部でも眠れる奴隷として描かれた概念です。

 「運命というものが戦うことで変えられてしまう程度のものならば、そんなものは運命と呼べるほどではないものかもしれない」という考え方です。運命は変えられない。自分たちは運命の奴隷かもしれない。それでも、目覚めることで何かを切り拓いていける眠れる奴隷であるということです。

 

 第六部でプッチ神父は、全ての人々に自分たちが運命の奴隷であることを理解させようとしました。運命を受け入れ、それを覚悟するからこそ、人は幸福に生きていけるのだと。この考え方が最初僕はイマイチ分からなかったのですが、それを「物語の再読」として考えれば実感をベースに理解できるという考えに至りました。

 一度読んで面白かった物語を二度目以降読むとき、初読時のドキドキやハラハラはありませんが、安心して読むことができます。面白い場面では、予め面白がる準備をして、全力でそれを面白がることができます。辛い場面では、予め受け止める準備をして、耐えることができるようになります。物語は、おっかなびっくりの初読時の面白さの先に、全力で受け止めにいきやすい再読時の面白さがあります。プッチ神父の考えはこれに近いのだなと思って、実感を伴った受け止め方ができるようになりました(これも再読の結果思ったことです)。

 

 変えようとしたものが変わらない、なぜならば、この世に存在するものには運命があるからです。第八部の物語では、その変えようとする行為そのものに代償が求められたり、反発の力が発生したりしています。作品全体に流れている運命の捉え方からすると、結局のところ今回も大きな流れは変えられないのかもしれません。

 しかし、どのように目覚め切り開くのか?そこにこそ生きる意味が生まれるのではないかと思います。第七部においては、ジョナサンとディオの関係も、大きな流れは変わらなかったかもしれませんが、変わったこともあります。また、ジョジョリオンの最新23巻では、定助はホリーに対して、時代と場所が違っても自分はあなたの息子であると言いました。変わらないことの強さもあるということです。

 

 この物語を繰り返しとして考えるならば、次の第九部、あるいはその次の第十部は、第五部と第六部の時代の語り直しとなるはずです。そしてそれは、プッチ神父の生み出した特異点に再び到達する可能性があるのではないでしょうか?

 

 第五部の主人公であるジョルノ・ジョバーナはディオの息子でした。ジョナサンの首から下を持ったディオの息子ということは、ジョナサンの息子でもあります。そして、東方定助は吉良吉影と空条仗世文が融合したことで、4つの睾丸を持つ男です。

 となれば、第九部の主人公は一巡後の世界のジョルノで、吉良吉影と空条仗世文の2人を引き継いだ東方定助の子になるのかもしれませんね。そこには空条承太郎の子であり、第六部の主人公である空条徐倫の要素も入ることになります。

 

 ジョジョの奇妙な冒険の根底に流れている「運命」という概念の捉え方について、第六部の最後、そして、一巡後の第七部以降はより物語の中に取り込まれ自覚的に語られるようになっているのではないかと思います。

 我々は既にその結末を知っているのかもしれません。そして、結末は変わらないものなのかもしれません。しかし、我々が眠れる読者であることを祈りましょう。目覚めることで何か意味あるものを読むことができる眠れる読者であることを。

「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」と立ち向かうことの否定関連

 昔、BSアニメ夜話エヴァンゲリオン特集を見ていたら、滝本竜彦氏が出てきていて、他の参加者全員がショーとして番組を成立させようとしている中で、一人だけ抜き身の真剣をちらつかせながら場にいる感じの雰囲気になっていて、周囲は困惑をしているように見えたものの、僕はとても好感を抱きました(マジの人間のマジの言葉は好きなので)。

 そこで滝本竜彦氏が言っていたのは、「シンジくんは最後まで逃げ続けて偉いと思った」という話だったと思います。

 

 人間はヒーローになれるタイミングではヒーローになろうと思ってしまうかもしれません。そうすれば、周囲の人々から賛意をもって迎え入れられますし、自尊心もぐんぐん上がっていくと想像できるからです。そして、ヒーローになれるタイミングなのにヒーローになろうとしないことで、周囲に失望されることを恐れてしまうのかもしれません。

 そうだから、もしかすると、ヒーローになれるタイミングでは、ヒーローにならないという選択をすることの方が難しいのかもしれないなという想像があります。飴と鞭の両方が、ヒーローになることを求めているからです。

 

 しかしながら、ヒーローになろうとすることは本当に良いことばかりでしょうか?ヒーローになろうとすることは危険を伴うかもしれません。あるいは、自分がヒーローになろうとして巻き起こしたことが誰かを傷つけてしまうかもしれません。

 

 旧劇場版の碇シンジくんは、最後まで戦うことを拒否し続けた結末を迎えました。その行動には賛否があるかもしれませんが、周囲に流されず、自分でそうし続けることを決めたという一点において、彼はなかなかできない選択をしたということについては、そうだなと僕も思うわけです。

 

 「逃げちゃだめだ」という言葉はシンジくんを象徴する言葉として登場します。でも、その裏には「逃げたら余計に辛いんだ」という独白が存在します。辛いことから逃げるために、逃げてはダメだという結論に至るという、難しい構造になります。

 「逃げてもいいんだよ」という優しい言葉をかけてくれる人は多いと思います。しかしながら、実際に逃げ出したい状況になるとき、「お前、ここで逃げたらどうなるか分かってるんだよな?」という圧力が存在することも多いです。皆、自分に関係ないときには優しいことを言ってくれますが、関係あるときには、そうはいきません。そりゃそうですよ。誰だって、別の誰かが逃げたことで自分が困ったことになりたくないでしょう?

 そういうとき、もう少し優しい言い方をされることもあります。例えば、「ここで逃げなければあなたはヒーローだよ」というような甘言です。何にせよ存在するのは、とにかく人にそのまま立ち向かってほしいという要望ではないかと思います。

 

 そういう、「逃げること」にも「逃げないこと」にも、自分自身と様々な立場の人たちの利害関係があり、結果、人は逃げたり逃げなかったりします。

 しかしながら、こと物語においては、やるべきことから逃げた先での幸福な結末があることはまれだと思います。

 

 「3月のライオン」に妻子捨て男と揶揄される男が存在しました。彼は家族という辛いことから逃げ続け、妻子を捨てた先で作った別の家族の中でも責任を放棄しようとし、とにかくとことん辛いことから逃げようとした人間です。彼は理解のできない悪い人間として受け取られます。誰も彼に「逃げてもいいんだよ」とは言ってくれません。それはその逃げた先に、残された人々の不幸があるからでしょう?

 逃げたら別の誰かが不幸になるから、人は逃げる選択肢を否定されます。そこにいることで自分がどれだけ辛くても、戦うことを強いられます。戦うことを辞めて逃げ出した人間は、責任を放棄して、他人を不幸に叩き込んだ悪人として理解されます。

 悪人になりたくなければ、辛さを全てのみ込んで、その場に留まって戦い続けることしか認められません。

 

 物語の中で、それまで逃げ続けてばかりだった人間がついに立ち向かうことを選択したとき、人は感動をしてしまうのではないでしょうか?その立ち向かったことがその人に対して不幸をもたらしたとしても、例えば、立ち向かった結果その人が死んだとしても、最後に立ち向かって死んだ人を賛美してしまう気持ちがあったりはしないでしょうか?

 その人には死んだという結果をもたらしたのに、「よく死んだ!!素晴らしい!!」と人はそれを賛美したりします。そして、拍手と歓声の中で新たに死ぬ人たちを求める続けるのかもしれません。だって立ち向かうことは素晴らしいことなのだから。

 

 そして、ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破は、そのような物語であったと理解することができます。それまで逃げ続けていたシンジくんが遂に能動的に戦うことを選択します。「私が死んでも代わりはいるもの」と言う綾波レイに、「違う!綾波は一人しかいない!」と言い、だから助けると、あれだけ逃げ続けたシンジくんはついに戦う男としてヒーローになります。

 この光景に人は感動してしまったのではないでしょうか?ずっと逃げ続けてばかりだった少年が、遂に立ち向かうことを選んだのですから。

 

 そして、Qはその選択を嘲笑うような物語だと思っています。

 

 シンジくんは自分が立ち向かうことを選択したことに対して、その結果引き起こされた惨劇を目の当たりにさせられます。周囲からも、その選択をしたことをひたすらなじられ続けます。

 ヒーローになったのはずなのに。自分のために、そして周囲の期待に応えるために、シンジくんは逃げることを止め、立ち向かうことを選択し、そしてその結果、逃げた方が良かったのでは??というような状況を突き付けられて狼狽してしまいます。

 そしてやり直せるという可能性に拘泥してしまい、さらなる悲劇も引き起こしてしまいます。なんと悲しい。皆の期待に応え、自分の意志も貫き通せたはずが、この結果です。

 

 立ち向かう物語である破の次にやってきたQの物語は、やはり逃げる物語だったということです。より正確に言えば、「逃げずに立ち向かったこと」を否定する物語です。視聴者からすれば、これは怒りに発展するかもしれません。なぜならば、人の多くは感動してしまったと思うからです。破の最後で、立ち向かうことを賞賛してしまったからです。Qの物語はそれら全てに冷や水をぶっかける行為であったからです。自分たちの気持ちは、全て間違いであったと突き付けられる意地悪な行為であったからです。

 

 ただ、破の最後にあった賞賛は、感動は、本当に良いものだったのでしょうか?立ち向かうことが常に良いわけではなく、そこにはリスクだってあることについて、目を背けていただけではないでしょうか?滝本竜彦氏が言ったように、誰の期待にも応えず、逃げ続けることは実はかなり偉いことだったりもしたのではないでしょうか?

 

 僕はQで描かれたそういうところがめちゃくちゃ面白いなと思いました。

 

 立ち向かうことが常に良い結果しか生まないのであれば、そこにはひとつの価値観しかありません。そうすればよいだけです。立ち向かえば良い結果だけがあります。しかしながら一旦、そこにある、立ち向かえば褒め、逃げれば貶すという無言の圧力について目を向けるようになると、それは一気におぞましいものに転換する可能性があります。どれだけその先に辛い可能性があったとしても、立ち向かうことだけを強いられていると考えることができるからです。

 これは意地悪な話ですが、でもこれは、お話として広がりが生まれる新たな可能性のきっかけでもあると思うんですよね。

 

 立ち向かうにせよ、逃げるにせよ、どちらの選択をするにしても、良いことと悪いことがあるのであれば、その選択についてよく考えるということが必要です。立ち向かうことが常に正解なのであれば、ただ立ち向かえばいいですし、逃げることが常に正解なのであれば、ただ逃げればいいだけです。

 でも、どちらにしてもリスクとリターンがそれぞれあるということが明示されることによって、個別の選択により意味が生じるはずです。

 

 残念ながら現在の社会情勢の影響もあり公開が延期してしまいましたが、最終作であるシン・エヴァンゲリオン劇場版では、立ち向かうことが描かれるのか、逃げることが描かれるのか、そのどちらにもリスクがあるということがこれまで描かれてきたことによって、より意味が生まれるのではないかなと思ったりします。あるいは、そのどちらにも分類されない何かが描かれるのかもしれません。

 

 そういう意味で、ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Qはすごく好きな映画です。