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「hなhとA子の呪い」と自分に内在する暴力性との付き合い方関連

 中野でいちの「hなhとA子の呪い」は、性欲を巡る物語です。主人公の針辻くんは、ブライダル企業の若社長でありながら、性というものに嫌悪感を表明する男です。なぜならば、人間の3大欲求の中で性欲のみが、唯一、他者に向けられるものだからです。

 だから、その欲望の発露は他人を傷つけるかもしれません。人を傷つけるものは悪いことでしょう?その相手が自分にとって大切な人ならばなおのことです。ならば、その欲望は素直に発露してはいけないものかもしれません。欲望を抱えながらも、その発露が許されないのは辛いことです。ならば、そんな欲望なんてなくなってしまえばいい。持たないで済ませたい。だから、性欲を否定することでしか、人と人とは上手くやっていけないのではないかという妄執に囚われてしまっています。

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 「あなたの抱える欲求は、人が本来誰でも持ち合わせるものなのだから、だから、それは悪いことではないんだよ」というような許しの言葉は甘美でしょう。誰しも罪悪感を抱えながら生きることは辛いわけでしょう?だから、それを肯定してもらえばきっと助かるはずです。

 性欲の罪を感じる人が日々辛い毎日を過ごす一方で、それを罪と考えず、よしんば他人を傷つけたとしても気にせず生きられる人が自由に生きられるのだとすれば、それはいいことなのでしょうか?だとすれば、他人に優しくあろうとする人ばかりが辛いじゃないですか。だから、「そんなに自分を責めなくたっていいんだ…」という言葉は、その辛さを抱える人にとっては優しいかもしれません。

 でも、結局のところそれでは最初に危惧した、自分の性欲が他人を傷つけるかもしれないということは何にも解決はしないわけです。だから針辻くんはそんな言葉は受け入れません。

 

 自分たちの欲求を肯定するためにあなたは我慢をしろと言われた人たちは、その通りに我慢するか、それに反発するしかありません。そして、その反発はことによると別の他人に我慢を強いるものであったりもします。そうすれば出てくるのは反発への反発でしょう。そのように、様々な人々の自分は我慢をしたくないという、個人のレベルでは正当なはずの欲求が矛盾しあい、互いを傷つけてしまったりするわけです。

 「こんなに苦しいなら愛などいらぬ」と言った「北斗の拳」の聖帝サウザーのように、性欲の存在が無くなることこそが、それを根本的に解決することではないかと思ってしまう道筋がそこにあるわけですよ。

 

 だから、自分の性欲を許してはいけないという話になります。だから苦しいという話になります。なぜなら、どれだけ否定したとしても、自分の中には性欲が確実に存在しているということに気づいてしまうからです。性欲を排除した「真実の愛」、それがいつまでも続く「永遠の愛」を謳ったとしても、その言葉を発する口とは裏腹に、その目は、目の前の異性に対する淫らな欲望を衝動的になぞってしまっているかもしれません。

 それは知られてはならないわけですよ。それを知られるということ自体が相手を傷つけてしまうかもしれないからです。だからこそ、それをひた隠すわけですよ。でも、それは相手に嘘をついていることでもあります。だから、こんなにも他人のことを思いやっているはずなのに、罪の意識ばかりが積み重なってしまいます。いや、他人を思いやっているのではなく、自分のそんな部分を知られたくないだけかもしれません。自分の欲望を誤魔化すのは得意なのですから。そう思ってしまうからこそ、罪の意識はなおさら積み重なってしまうのです。

 

 それは仮に相手に受け入れられ、それでいいんだよと言われても、根本的には解決しないこともある厄介なものです。なぜなら、それは相手にそう言わざるを得ない状況が強いているのかもしれないのだから。そして、その状態が永遠に続く保証もないのだから。

 

 針辻くんは、自分の中にある性欲という名の暴力性を認めて肯定することもできず、かといってそんなものは持ち合わせていないと否定することもできず、そのどちらにも行けない狭間で、無数の問いかけを常に突き付け続けられているかのように重圧を抱え続け、どんどん追い込まれてしまいます。

 自分を肯定する言葉を前にしても、それを否定する言葉を探し当てて無効化していきます。好きな女の子のことを大切に思う気持ちと、それを淫らに傷つけるような性欲の妄想の、相反するものを抱え続けた先にあるものは、どちらも選べない選択の放棄であって、それは自死に繋がる道でもあります。

 でも、死にたかったわけじゃないでしょう?上手く生きたかったはずなのに、上手く生きられないからこそ、その先を歩くのが辛くなってしまったんでしょう。自分が理想とする歩むべき美しい愛の道を、汚い性欲の足が踏み外すわけですよ。そんなことはないと、強い言葉でそれを否定しようとしても、どうしても踏み外している足元に気づいてしまうわけじゃないですか。

 

 この物語は誤魔化しができない人の物語だと思います。自分を正当化してくれる言葉も、ひょっとして、その下にある欲望を肯定するために後付けて選び取っている誤魔化しなんじゃないかと気づいてしまう真面目で厄介な人の物語です。

 だから自分が口にする愛は、性欲の誤魔化しじゃないのか?とどうしても気づいてしまいます。そして、それは愛と性欲は完全に不可分になるとは限りませんし、そもそも性欲を伴わない愛こそが、伴うものよりも価値が高いと思ってしまうこと自体に罠があるでしょう?そう思ってしまう時点でかなり詰んでしまうわけですよ。

 

 そして、目の前には誰かの性欲によって既に傷ついてしまった異性がいるわけです。その人たちを傷つけたものは、自分が持ち合わせているのと同じものです。同じものを持ち合わせていながら、想像の中では同じようなことをしてしまいながら、自分はあいつらとは違うとどう思うことができるのでしょうか?

 それは、弾の込められた拳銃の引き金に指をかけながら、それを死ぬまで引かないことでのみ許されるような話じゃないですか。その拳銃を捨てることはできない苦しみの中で生きるお話じゃないですか。

 

 針辻くんは生きる道を選び取ることができます。でも、それは彼が抱えていた悩み苦しみが解決したわけではないでしょう。それでも生きることを選択したというだけの話ですよ。それまでの自分が何を誤魔化して見ないようにしていたのかに気づかされ、それを直視してしまうことで、消え去りたいような気持になりながらも、それでも生きていくことを選んだというお話だと思います。

 

 性欲の持つ暴力性は、それを向けられる異性だけでなく、それを抱える自分自身をも傷つけてしまう可能性があります。社会のルールと肉体のルールが矛盾してしまう狭間では、それを誤魔化さずに直視するならば、どちらかの意味で自己否定が生まれてしまうからです。

 そういう誤魔化さない視点に対して、真面目過ぎる!!と思ってしまいもしますが、その真面目さは美徳であってほしいなという気持ちもあって、そのままで上手く生きられりゃいいのになとということを思いました。