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「若おかみは小学生!(映画版)」と獅子咆哮弾について

 昨日、「若おかみは小学生」の映画を観て来ました。近所のショッピングモールの映画館だと朝しかやっていなかったので、朝にバイクでブリブリと行ってみたら、朝イチだとショッピングモール全体がまだちゃんと開いてなくて、限られた入口からしか映画館に行けないんですね…(知らなかった)。上映時刻に間に合わないかと思って、中年男性が入口まで走ってしまいました。若おかみは小学生を観たさに中年男性が走るわけです。でも映画は良かったのでオッケーです。

 

 原作も読んでないですし、テレビアニメ版も観てないので、これがどの程度映画向けに作られたお話なのかは分かっていないのですが、児童文学にしてはとてもしんどい状況を描いていて、子供がしんどい状況になることに、すごく胸が痛む気持ちになってしまいハラハラしながら観ました。

 

 免責:以下、ネタバレが含まれます。

 

 主人公のおっこちゃんは交通事故で両親を亡くし、旅館を営むおばあちゃんに引き取られます。また、その旅館にはおばあちゃんの幼馴染の少年の幽霊がいて、ずっとおばあちゃんのことを見守ってきたわけですよ。そして少年の霊は、後継ぎのいない旅館と働き続けるおばあちゃんを見て、おっこちゃんに若おかみとなることを勧めるのです。そこで、おっこちゃんは、うっかり小学生ながらに旅館の若おかみになります。

 おっこちゃんからすれば成り行きで、別段強い意志があったわけでもなくなった若おかみです。でも、物置に封じられていた小鬼を解放してしまったため、引き寄せられる様々なお客さんのおもてなしをする中で、徐々に立派に若おかみの仕事をしていくようになります。

 おっこちゃんは、どんな人であろうとも拒むことなく癒す温泉、花の湯で、お客さんに満足して帰ってもらいたいという気持ちから、小学生ながらに若おかみとしての自分を獲得していくわけです。

 

 さて、映画のクライマックスでは、おっこちゃんはお客さんとしてやってきた家族をもてなすわけですが、そのお客さんこそが、なんと自分と両親が遭遇した事故における対向車側の当事者であることが分かってしまいます。それに気づいたおばあちゃんも、その事実を知らずに偶然お客さんとしてやってきたそのお父さんも、加害者と被害者という立場の人間が、若おかみとお客さんという立場で接することの重圧に耐えきれず、別の旅館に移るという判断をします。でも、おっこちゃんは「自分は若おかみだから」と、それを慰留し、まだおそらくは自分の中で解決していないだろう私情を乗り越えて、仕事人として振る舞うわけです。

 これは見方によれば残酷ともいっていい状況でしょう。この場面でも、僕の感情は溢れてしまったわけですが、それは良いと感じることも悪いと感じることも、ごった煮にした量の感情が、自分の平静でいられる許容量を超えてしまうからこそなってしまう状態で、色々整理がつかないことなわけです。

 

 僕が気になったのは、果たして、このときのおっこちゃんは、「若おかみである」という自分で「事故の被害者である」という自分を上書きして飲み込んだのかどうかということです。若おかみであるということが、その私情を塗りつぶしてしまうものならば、若おかみであるということは、果たしておっこちゃんにとって良いことなのでしょうか?

 

 思い返せば、おっこちゃんは仲の良い家族の幸せな生活を奪われてしまったにもかかわらず、それをおくびにも出さず、普通に暮らしてきました。その普通でいることが普通じゃないと思います。でも、そういうことについては僕自身も経験があるので分かる気がします。そういうとき、普通に振る舞ってしまうわけですよ。だって、周りが悲しむ様子を見てしまうからです。

 でも、やっぱり平気なんかじゃなかったということを、物語の中で少しずつ見て取ることができます。その様子を周囲の大人たちも優しく見守ってくれます。でも、自分の中で失われてしまった大切なもののことを、素直に心から悲しみ、乗り越え、その先へと進んでいくことは、やっぱりしんどいことですよ。誰しもどこかで経験することなのかもしれませんが、それが人生の早い目の頃に来てしまうのはとてもしんどい。

 

 嫌な言い方をしますが、不幸にも親が亡くなってしまった子供という状況は、対人関係において強いカードです。なぜなら、それを出されてしまうと、相手は何も言えなくなってしまうからです。少なくとも良識のある人間ならば。可哀想な子供には優しくしてあげないといけない。可哀想な子供なのだから言うことを聞いてあげなくてはいけない、こんなに可哀想な子供でも頑張っているのに、そこまででもない自分はそうでもいいんだろうか?などと思ってしまうんじゃないでしょうか?

 可哀想な経験をしている子供であるということは、可哀想でなかった場合に比べて、様々な事柄で優先されてしまう場合があります。それを当事者が望むかは別として。

 

 おっこちゃんが若おかみになってすぐの頃、宿にお母さんを亡くしたばかりの父子が来ました。男の子は、優しかったお母さんを失ったことにまだ整理がつかず、ワガママを言っては周囲の人を困らせます。そこで、おっこちゃんはそのカードを切ってしまいました。自分も両親ともに亡くなっているというカードです。それは、「あなたの気持ちが分かる」という共感から出てきたものかもしれません。でも、言われる側からすれば、「両親とも亡くなったより不幸な自分でさえ、こんなに頑張っているのに、まだ片方親が残っているお前は何だ?」と読み取ることだってできるでしょう?

 そのとき、より多くの不幸を抱えた方が、強いことになってしまうという悲しい構図が生まれます。より大きな不幸を抱えた自分というカードは、それよりも不幸でない人の行動を制限する力があることを知ってしまいます。幸いなことに男の子は、まだ男の子であるがゆえにそれに反発してくれますが、これが大人なら黙ってしまうかもしれません。彼女ほど不幸でない自分にはそれを言う権利がないと。

 

 でもきっと、そんなのおっこちゃんは嬉しくはないですよね。

 

 自分が不幸であるということが、強い力を持ってしまうということがあります。であるならば、その強さを維持したければ、不幸なままでいるしかありません。それはきっと悲しいことでしょう?少々のルール違反や、他人に対する抑圧も、自分の不幸という体重を乗せればそのまま通ってしまうかもしれません。それに味を占めると、いかに自分が不幸であり続けるかに拘ってしまうかもしれないじゃないですか。

 

 これは「らんま1/2」に登場した獅子咆哮弾という技に似ています。獅子咆哮弾は、気を放出して相手にぶつける技ですが、その威力を高めるには「気が重い」必要があるのです。自分の身に降りかかった不幸によって、より重たい気を作ることができれば、それを相手にぶつけるときに強い力を発揮することができます。でも、獅子咆哮弾の使い手同士の戦いは泥沼です。より不幸な方が強いわけですから、わざと自分を不幸に落とし、不幸自慢をするかのような戦いになります。

 それで勝って、何を得るのでしょうか?強くあるためには不幸でなければいけないなら、その強さを使って得たいものは何でしょうか?

 

 おっこちゃんの手の中にはそんな強い力があります。不幸にもそんな強い力を与えられてしまったわけです。可哀想で可哀想な子供であるということは、周囲の良識的な大人に気を遣わせ、黙らせることもできます。でも、それは本当に嬉しいことでしょうか?自分に対して罪悪感を感じてしまう人たちを目の前にして、彼らに責められるような気持を植え付けてしまうことは、幸福なことなのでしょうか?それはもしかすると、自分から忌避すべき不幸な過去や失われてしまった悲しみに意味を持たせてしまうような、もの悲しいことなんじゃないでしょうか?ならば、そこを抜けることこそが、良い道なのかもしれません。

 

 このお話は、死者の心残りの執着を描いた物語でもあるかもしれません。おばあちゃんの幼馴染の少年は、おばあちゃんを長年見守ってきました。それは心配だからでしょう。もうひとりの幽霊の少女は、頑張り屋の自分の妹を影ながら見守ってきたわけですよ。エンディングの中には、小鬼がまだおっこちゃんがお腹の中にいるお母さんと出会っている絵がありました。それはひょっとすると、旅館や娘のことを頼んでいたのかもしれません。あの世にいくはずの人々が、現世に留まるのには意味があるはずです。

 幽霊たちは皆、残された人たちのことを心配しています。自分たちがいなくなったあとでも、その人たちが問題なく生きていけるのかと。夢の中にしか登場しなかったおっこちゃんの両親も、もしかするとおっこちゃんには見えないだけで周囲にいたのかもしれません。

 死してなお現世に留まった彼ら彼女らが去るということは、その役割がなくなったということだと思います。それは、現世に残した心配事が解消したということじゃないでしょうか?ならそれは良いことなんだと思います。

 なぜなら、悲しみの過去に囚われ続けることを止め、明日を生きることができるということだからです。

 

 起きてしまったことを許さなくてもいいでしょう。強く乗り越えなくてもいいでしょう。でも、ただ、そんな過去に囚われ続けることが、正解ということになってしまうと、悲しい気持ちのままずっと生きていかないければいけないじゃないですか。

 それこそが幽霊たちを、現世に留め続けてしまうような心残りじゃないですか。

 

 このお話の最後、おっこちゃんが滅私な仕事人としての立派な若おかみになったのかどうかは僕には分かりません。でも、少なくとも彼女は、その身に起きた悲しい過去から一歩外に出て、みんなに心配され気を遣われるような人ではなくなったんじゃないかなと思いました。だから、みんなはおっこちゃんの将来を心配しなくていいし。幽霊たちも安心して成仏するわけです。

 過去の悲しいことに囚われ続けること、本人の意志ではどうにもならないかもしれないけど、そこに意味が出てきてしまうと、なおさら囚われ続けてしまうので良くないよなと個人的に思うことがあり、そういう意味ではこれは良い結末だったのではないかと思いました。

 

 まだ、観たあとの気持ちの整理が十分ついているかは分かりませんが、とりあえず今の僕の頭の中ははこんな感じです。

 

 それはそうと別な話、ピンふりの真月ちゃんがすごく良い子ですごくよかった。すごくすごくよかった。