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男性の生きづらさを描いた漫画関連

 「女性の生きづらさに関する漫画は近年数あれど、男性の生きづらさに関する漫画はあまりないように思う」という話を目にしました。

 

 そもそも「生きづらい」というのはどういうことか?という話があるのですが、僕の認識では「自分が周囲から求められている姿と、自然な姿の自分にギャップがある状態」のことだと思っています。だから、そのギャップを表面上無くすために、日々無理矢理合わせて頑張っていることに息切れをしてしまうのでしょう。だから辛い。

 

 このように考えたとき、「生きづらい」ということには2種類あるのではないかと思います。それは、「求められる姿に合わせることはできるが辛い」のか、「求められる姿に合わせることすらできなくて辛い」のかということです。後者は、場にある価値観において自分が劣っている立場にあることも含まれます。

 「金を稼ぐ男は偉いが、自分には金を稼げない」とか、「モテる男は偉いが、自分はモテない」とか、「強い男は偉いが、自分は弱い」とか、そういった生きづらさを描いた漫画は沢山あるでしょう。しかしながら、それらが即、「生きづらさを描いた漫画」に分類できるかというと、そうではないと思います。つまり、そのギャップを「金を稼ぐこと」や「モテること」、「強くなること」のような直接的なやり方で克服してしまうと、抱えていたその苦しみは解消できたとしても、結局自分を苦しめた価値観自体にむしろ依存してしまうことになるからです。

 

 いわゆる「生きづらさの解消」とは、「自分を苦しめる価値観そのものとの付き合い方を変える」ということだと僕は思っています。

 そこで、この認識において、男性の生きづらさを描いた漫画とは何かということを例示してみます。

 

 「最強伝説黒沢」は、男性の生きづらさを描いた漫画だと思います。主人公の黒沢は、人望や出世、家庭を持つことなどの、世の中によくある男性がステータスとして評価される項目を何一つ満たしていない男です。だから、自分が他者と比較して劣っているということに傷つけられています。そして、そのギャップを減らすための行動を何もせぬままに歳だけをとり、もはや手遅れで、自分が思い描く理想の自分像には決して届かないのではないかということに絶望しています。

 黒沢は、物語の中でそのギャップに苦しみ、その解消のためにあがきますが、そのためにとる行動はいちいち的外れで、決して望んだ自分に到達することができません。そんなみっともない姿の黒沢から出るのが「俺を尊敬しろ」という言葉です。でも、そんな言葉を発しても当然誰も尊敬してくれません。尊敬してもらおうと行動しても、決して尊敬してもらえるような存在になれず、あげく「尊敬しろ」と悲鳴のように他人に命令してしまうような人間を、誰が尊敬するというのでしょうか?自分が望み、そこに手を伸ばす行動が、何よりもそれを失わせるような結果に繋がるということは、人間の悲しみの中でも大きなものだと思います。求めれば求めるほど、求めたものが遠ざかるのですから。

 黒沢は、様々な状況に遭遇し、とんちんかんな行動を見せながらも、想定とは異なる方法で徐々に人の信頼を勝ち得ていきます。なぜなら世間的な尺度では立派な人ではないけれど、根っこのところで黒沢はいいやつだからです。得られた人望は、黒沢が最初に望んだ種類のものではないかもしれません。仕事場での出世なんて望むこともできず、結婚相手も見つからず、家庭を得ることもできません。

 それでも黒沢の生き方は、最終的に彼の中に大きく欠けていたものを埋め、温かさの中で眠りにつくことで最終回を迎えます。

 だから、これは男性の生きづらさと、その中で生きることを描いた漫画と言っていいのではないでしょうか?

 

 「hなhとA子の呪い」もまた別の種類の生きづらさを扱った漫画だと思います。その生きづらさの理由とは「性欲」、男性として自分に備わっている性欲が、異性を傷つける種類のものであることを自覚しながらも、決して手放すことができず、目を背けてもそこにあることを自覚せざるを得ないという苦しみがそこにあります。

 自分が心から慈しむ存在を、他方で淫らな妄想で汚してしまう自分自身に対する嫌悪感との付き合い方を、主人公の針辻くんは模索します。

 この物語でも、針辻くんはあれだけ嫌悪した自分の性欲を捨てることはできません。だって、腹が減るのが嫌いだからといって、腹を減らさないようにすることはできないし、眠ることが嫌いだからといって、眠らないように生きることもできないからです。それを外に出すかどうかはコントロールできるかもしれません。でも、性欲は他の欲と同様にそこにあるものです。針辻くんは物語の中で、自分の性欲を抱えたまま、それから目を背けることなく生きる方法を獲得していきます。

 針辻くんは自分が一番好きな相手からの好意を獲得することに成功しますが、それは針辻くんを苦しめたものを解消する手段ではありませんでした。誰かの性欲によって傷つけられた人を、心配することと同時に、彼女を傷つけたものと同じ性欲が自分の中にも確固と存在していることにも気づいてしまうからです。それを手放すことはできず、あることを認識しながらも、それでもそれで生きていくしかありません。

 これも、男性という性に内在する暴力性を自覚することと、それを決して発露してはいけないという狭間で苦しんだ生きづらい男が、生き方を獲得していく真面目で悲しく、希望ある物語です。

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 男性という存在は、傾向として女性よりも体が大きく力が強い存在です。そして、その強いということがむしろ自分自身を傷つけることがあります。なぜならば、その強い力があっても、それを外に出すことは社会的に咎められるケースが多いからです。生来強い者が強いことで何かを得ることが不平等だということ、それは当たり前のことだとは思いますが、その当たり前を実現することが人に負荷を与えないわけではありません。

 

 様々な動物たちが人間のように暮らす世界を描いた「BEASTARS」は、力が強い者の苦しさや悲しみも描いていることが特徴的な物語です。

 大型肉食獣の熊は、その強い力を抑えるために薬物の摂取が義務付けられています。その膂力は容易に他人を傷つけることができるために、事故の防止のためにも強制的に封じられる必要があるからです。作中で大きな事件を起こしたある熊もそんな存在でした。彼は、強く生まれてしまったがゆえに、薬物を投与されるという大きなストレスを強制され、自分があるがままに生きることも許されず、ついには凶行を起こしてしまいます。

 大型草食獣では、象もまた同じような悩み苦しみを抱えていました。自分が生来強いがゆえに、平等な世界では、その強さが忌避されます。世の中の平等に合わせるためには、常に我慢を強いられるということが精神を蝕んでいくわけです。

 弱き者が、その弱さゆえに強者に怯えてあるがままにいられない苦しみの対極に、強き者が、その強さゆえに弱者に配慮してあるがままにいられない苦しみが描かれています。

 これらは、男女の関係としても読み取ることもできますが、他の様々なものになぞらえることができる関係性です。不平等な生来の特性を持つ者たちが集まった社会において「平等である」ということは、そこに参加する人々のたゆまぬ努力のもとに達成される状態であって、それは、そこに関わる様々な立場の人たちがある程度の生きづらさを与えてしまうものなのかもしれません。

 現在の「BEASTARS」では、そのどちらにも属し、どちらにも属せない社会の隙間の存在の悲哀が描かれています。それは男性の生きづらさでもあり、女性の生きづらさでもあると捉えることができるかもしれません。あるいは、それとは全く別の分類に置き換えても理解できる問題です。性による隔てに限らず、人が同じ社会を営むということは、様々な側面で生きづらさを生み出してしまうものなのかもしれません。

mgkkk.hatenablog.com

 

 例をあげればまだまだ見つかるかもしれませんが、男性の生きづらさに寄り添った漫画もあると思います。しかしながら、それ以上に、その生きづらさの解消を、その価値観との付き合い方を変えるのではなく、自分を生きづらくした世界のルールをそのままにして、その中の立場転換によって解消しようとする漫画の方が目にしやすいのかもしれません。

 つまり、弱い男が弱いままで生きる道を探るより、強くなることで克服する物語の方が多いということです。それだって解消方法としては間違っているとは言えないでしょう。何にせよ生きることの辛さをなくして生きることができればよいと僕は思うからです。ただ、それしか方法がないと思い込んでしまうのが、男性的な生きづらさの根源にあるのかもしれませんが。

 そういうある価値観の中で強者になることができないときに、そこに寄り添ってくれる漫画もあります。これからさらに増えていくのかもしれません。

 

 何かの物差しを採用して優れているとか優れていないとかの話をすれば、優れている人の数だけ、その他方に置かれた優れていない人が生まれてしまいます。つまりそれは、100人いて100人が幸福になれる方法ではないわけです。様々な特性を持った人々がひとつの社会を維持する上では、少なからず、その人々が自分の生来の特性とは異なる何かしらに合わせて生きなければならないかもしれません。そこから完全に自由になることは一生あり得ないのかもしれません。

 それでも、自分が何に合わせて生きているのかを自覚し、そこに何のためにどれだけ合わせるべきなのかを上手く調整することが、生きづらさを解消するための道なのかもしれませんね。そういう物語が生まれているということは、それを求めている読者がいるということだと思います。

 書いててよく分からなくなってきたので唐突におしまいです。

感想を書きにくい漫画がある関連

 面白い漫画なのに感想が書きにくいっていうことあると思っています。例えば、1話完結のオムニバス漫画の感想などはそれがどれだけ面白くても書きにくいです。なぜならば、ひとつひとつのお話が短いので、仮にその中のひとつの感想を書いたとしても、単行本や連載全体を言い表したことにならず、その漫画が持つ100の魅力のうちの1しか書いていないような気持ちになったりするからです。

 書き終わった感想文が、足りないものであるという気持ちになります。あんな魅力もこんな魅力も、この漫画は持っているのに、自分はその大半について書いていないということが疑問として残ってしまいます。

 

 僕がこう思ってしまうことには謎の前提があると思っていて、つまり、感想は、その1回の感想によってその漫画全体の魅力のできるだけ多くを語らなければいけないと思い込んでいるということです。別に100分の1だけでもいいじゃないですか。それを100回書いてもいいはずです。

 

 漫画に限らず、映画やテレビドラマや小説の話をするとき、ついついストーリーの話をしてしまうことがあります。なぜそうなってしまうかというと、その物語が何であるかということについて、できるだけ簡潔に多くの要素を語れる手段がストーリーについて語ることだからではないでしょうか?もしくは、それはテーマでもいいかもしれません。その物語全体の裏側に流れる共通する要素をテーマとするならば、テーマについて語れば、その物語の全てを語ったことと同じと考えることもできるからです。

 

 しかしながら、ストーリーやテーマなどは、漫画が完結しなければ完全に語ることが難しいエリアでもあります。「寄生獣」を序盤だけ読んで、「この物語のテーマは愚かな人間に対する警鐘だ!」と語ってみたとしても、その後を読み進めれば、違う意見となってしまうかもしれません。となれば、漫画の感想は完結するまでは十分には語ることができないことになってしまうじゃないですか。

 でも、本当はそんなことはないですよね?

 

 「あるページのあるコマに出てきた一言や、人間の表情なんかがめちゃくちゃ好き」だって立派な感想だと思うわけですよ。それがその漫画の持つ魅力のうち、0.01%しか語っていないとしても、それはきっと立派な感想です。あるキャラが好きとか、特定のギャグが好きとか、自分が読んでそう思ったのなら、そうだけをそう書けばいい話で、でも、いざ感想文という形でかしこまってしまうと、それだけのことを書きづらかったりもします。

 

 「ジョジョの奇妙な冒険」の魅力について語っている人が、「ジョジョ立ち面白いよね!ジョジョ立ち!!」とか作中に登場する特異なポーズのみを語っていたとしたら、君はジョジョの持つ沢山の魅力について、全然わかっていない!!なんて言ってしまいたい気持ちが湧いたりもするんじゃないでしょうか?

 でも、ジョジョ立ちが好きとかって別に全然悪くないわけですよ。それが沢山あるうちのたったひとつだったとしても、それを読んだ人が、それを面白いと感じ、それが良かったと表明することに対して、他人が言えることなんて、きっと何もないでしょう?

 

 そういう「感想たるもの、こうあるべし」、みたいな謎の規範意識が自分の中にもあり、それを守ろうとしてしまうことが結果的に筆を止めてしまったりします。この漫画は何の漫画だったのか?とか大上段に構えた立派な感想文だけが良いということもなくて、なんかよく分からないが自分はとてもよく感じたという事実だけを記録したっていいですし、それは十分意味があることだとも思うわけです。

 

 この前、「海獣の子供」の映画を観ましたが、五十嵐大介の絵をそのまま動かそうという試みの時点で、僕はもう観に行ってすごくよかったなという気持ちになりました。でも、ストーリーについて語ろうと思うと上手く語ることができません。そもそも原作漫画自体が、言葉では語り得ぬものを描こうとする試みであるからです。

 「星の、星々の、海は産み親、人は乳房、天は遊び場」、海獣の子供で描かれているストーリーは、作中で語られる言葉で言い表せられるこれだけのことだと思います。この言葉だけでストーリーは語り切っていると言ってもいいかもしれません。だから、他の多くの漫画のように、ストーリーを基軸として、何があって何があってどうなったということを語ること自体に特に大きな意味がないと僕は思っています。

 そして、ストーリーを上記の言葉で語り切ったとしても、語られていない残りの無数があるわけでしょう?ストーリーではなく、言葉で語ることも難しい領域がそこにはあって、だから、それを他人に伝えることも難しいですけど、それに価値があることは読んだり観たりした自分には確証があるわけです。

 

 バレエ漫画の「昴」において、主人公の昴と、作中バレエ界の頂点にいるプリシラロバーツが、同じボレロという演目で同じ時期に舞台立ち、対決するという下りがあります。

 プリシラロバーツのボレロは、人間の動きの中に音の要素を取り込むことで、徐々にオーケストラの音が小さくなっても、人の耳には音が認識されるという内容でした。そのボレロは当初上手く行かず、帰宅後の人々の脳の中で、延々と聞こえていないはずの音楽を流し始めます。

 この実験とも言える体験を批評家が否定的と賞賛を入り混じるように語った内容が評判となり、プリシラロバーツの舞台は連日超満員となりました。

 一方、昴の舞台は違います。それは自身が踊る中で到達するゾーンの精神性に、観客全員を引き込むというような内容です。才能あふれるトップダンサーが、ようやく到達できるゾーンに、ただ見ているだけの観客を引き上げ到達させることができるのです。ある観客は、その体験を麻薬に喩えました。

 昴の舞台にも沢山のお客さんが入ります。しかし、舞台自体は世間でそれほど話題にはなりません。席を埋めるのはリピーターです。彼ら彼女らは、その体験を他人に十分に語ることができず、その必要性も感じておらず、ただ、再び体験したいと思って何度も足を運びました。

 

 この2つの舞台は、両方とも特異な魅力を持つものですが、前者は語れるがゆえに多くの他人を巻き込むことができ、後者は語りにくいがゆえにリピーターは増えても広がりは狭くなってしまいます。どちらに優劣があるという話ではありませんが、商売としての切り口で考えるなら、前者の方が儲かるものになりやすいかもしれません。

 

 昨今のSNS等で目にする何かの作品を語る方法では、後者のような「感想を体系立てて語りにくいもの」に対して「良いものであるという体験的な確信」だけを得た人が言及するものを目にすることが増えてきたように思います。それはある程度定型的な文言だったりもしますが、上手く語れない確信だけの話をする上でのジレンマを乗り越えるための方法としては、意味がある行動のように思います。

 だって、語れないのだからと沈黙していては、そのような作品が続かないかもしれないじゃないですか。

 

 もうひとつ、そのような定型句による褒めが発生する要因としては、少しでもネタバレをしてしまうとその体験を棄損してしまう可能性があるので何も言うことはできないが、とにかく見てくれという気持ちだけを伝えたいというものもあるかもしれません。

 

 オタクは自分が良いと思ったものをとにかく他人に伝えたいという気持ちを持ちがちじゃないかと思うわけですが、その中でも上手く伝えやすいものと、上手く伝えにくいものがあると思います。だからと言って、上手く伝えやすい内容の作品ばかりが知られ、そうでないものが知られないということは悲しいし、それゆえに、知られるものだけに世の中が特化してしまうのも悲しく感じてしまいます。

 とりわけ漫画は、複数人で同時に読むということが基本的にできないメディアですし、言葉以外の共時的な体験で他人と繋がるのが、難しい前提があるようにも思います。その中で、どのように伝えればいいのかということを、たぶん沢山のオタクたちが模索しているのではないかと思っていて、その結果、受容のされ方や広まり方はこれからも変わっていくのではないかと期待していたりもします。

ちばてつや賞ヤング部門で佳作を受賞しました報告

 皆さんにご報告です!僕の漫画がちばてつや賞のヤング部門で佳作を受賞だそうですよ!!

yanmaga.jp

 以下で読めるので、まあ読んでください。ただ、これはコミティアに出してた漫画なので、読んでいる皆さんもいるかもしれない。

comic-days.com

 

 経緯ですが、2月のコミティアにいつものように出ては、ぼんやりと本を売っていたら、編集さんに声をかけてもらい、漫画を買って読んだんですけど連絡していいですか?というやりとりがあって、その後、この同人誌をそのままでいいのでちばてつや賞に出してみませんか?という提案をして頂いたので、原稿を送りました。

 結果的には漫画はそのまんまではなく、気が付いたところをちょこちょこ修正をしています。僕はいつもネームもなくいきなりペン入れをしているでの、自分で見ても明らかに雑過ぎるところがあったからです。台詞もちょっとだけ修正して、投稿規定に1ページ超過していたので、それも圧縮してみました。

 

 それが佳作を受賞をしたそうなんですよ。

 

 さて、僕は人間をなかなか信じないタイプの人なので、編集さんに声をかけてもらったときも、確かにロゴが入っている名刺だが偽造だったらどうする?とか、でも出版社のドメインからメールが来ているので、それは信じてもいいのかな…送信元偽装もなさそうだし…などと、めちゃくちゃ失礼な疑いをしており、受賞したと聞いても、本当に本当のそうなのか?騙されているのでは?と思ってあんまり現実感が持てなかったのですが、先週の日曜の夜にコンビニでヤンマガを手に取ったら、自分の名前があったので、マジだったのか…と驚いて、仕方ねえからはしゃぐぞ!!と思ってはしゃぎました。

 インターネットではしゃぐと、インターネットのお友達が応援してくれるので、結構色んなところに広がって沢山読んでもらったみたいです。感想も色々頂いていてありがてえなと思っています。僕は漫画を読むのは好きで、漫画の感想をよく書いているおかげで繋がりのある漫画家さんたちが、今回我がことのように喜んでくれたりして、なんかそれがまず嬉しかったなと思いました。

 だって、自分のことで他人が喜んでくれるの、めちゃくちゃ嬉しいじゃないですか。

 

 この本は、11月のコミティアでは新刊で出したときには28冊売れ(僕基準ではかなり売れたな!と思っています)、2月と5月のコミティアでも、10冊ぐらいちょっとずつ売れてたので(あと友達にもあげた)、この前の日曜の時点まであの本を読んでた人は全世界で50人ぐらいでした。その中のひとりが今やりとりをしている編集さんだったおかげで、この色んな人に沢山読んでもらえる流れになったので、なんか不思議なことだなあと思いました。

 ちなみに11月のコミティアに出るときの告知はこれです。

mgkkk.hatenablog.com

 

 僕が漫画を描き始めたのは、30代も半ばにさしかかってからで、大学のときには漫研にいたものの、そこは漫画を描く活動をろくにしない漫研で(でもすごくいいところだった)、しかも僕にやる気がなくてちゃんとお話を描き上げられたことがなく、自分には漫画を描き上げるとかできないなと思っていました。

 でも、おっさんになってから、やっとなんとなく描き始めて、なんとなく続けて、なんとなく褒められる感じになってきたので、なんかそういう変化が嬉しいなとも思っています。

 

 また、僕は結構忙しくしている仕事もあるし、年齢が年齢だけに、商業誌に漫画を載せるのを目指すことはないなと思って同人誌を作っていたんですけど、いざ、こういうチャンスが巡ってくると、あ、なんか描けるなら描きたいなという気持ちになっていて、なので、今後デビューできるように動いてみようかなと思っているんですよ。ただ、思っているだけで具体的な何かに繋がるところまではいけないかもしれませんが…。

 

 とにかく、多少、欲が芽生えてしまったので、その欲をなんとか形にしたいなと思っています。それは自分に起きた割と大きめの変化で、その変化もなんか人生が面白く変わる感じで嬉しいなと思っているんですよ。

 人生が面白くてよかった。

「ロッタレイン」を読んで気づく自分の中の気持ち悪さ関連

 松本剛の「ロッタレイン」ですが、雑誌での連載が完結した後に、毎月1冊ずつ単行本が出て、最終3巻まで出おわりました。なぜこういうタイミングでの単行本化になったのかはよく分からないですが、連載が続いても単行本が出ずに終わるんじゃないかと少しハラハラしてしまいましたが、出てよかったですね(その間、掲載誌のIKKIが休刊し、後継のヒバナに移籍し、そしてそのヒバナも休刊しました)。

 

 さて、この漫画は、メンタル的なトラブルから事故を起こして、しばらく働けなくなった男性(三十歳)が、自分と母親を捨てて他の女のところに行った父親の元に身を寄せることになり、そちらの家庭の連れ子である少女(十三歳)と恋仲になってゆくというような物語です。倫理的な側面からすれば、三十歳の男性が十三歳の少女に恋愛感情を抱くということは、社会通念上よくないことであると思います。ただし、人間の感情は規範とは別の論理で動くものだと思うので、そのような感情を持つこと自体はどうしようもなく、止められないのではないかとも思います。しかしながら、そうであったとしても、それを表出させたり、行動に移すことは許されておらず、咎められるのが、現代の社会規範ではないでしょうか?

 

 この漫画のすごいと思うところと怖いと思うところは、その十三歳の少女をこれでもかと魅力的に、あるいは蠱惑的と言っていいほどに描くことで、戸惑いながらもその境界を一歩向こうに踏み越えてしまおうとする男性の心理状態を追体験させられるところではないかと思いました。

 

(以下、ネタバレが含まれます)

 

 ロッタレインとはlotta rain、つまりたくさんの雨のことでしょう。物語の中で象徴的に描かれるのは、少女がある日見た、晴れと雨の境界線で、今立っているこちらの場所には雨が降っていないのに、目の前のあの境界の先には大雨が降っているという不思議な情景です。そして少女は雨の中に足を踏み入れその中を歩いてしまうのでした。

 

 それはつまり、規範という境界の向こう側ということではないかと思いました。そちらに足を踏み入れ歩き始めた少女が、夜になっても家に帰ってこないことで、男性は車で追いかけ、見つけることができます。その後、帰りの道すがら、少女のワガママで寄った夜の海で、少女は波の先にざぶざぶと足を踏み入れ、男性にもこちらにくるように誘うのでした。果たして、砂浜から先の海へ、足を踏み入れるべきでしょうか?踏み入れるべきではないでしょうか?

 

 この物語は全編を通して美しい情景が描かれ、そして特別な少女の持つ特別な何かが描かれます。しかし、そこにもうひとつ見出してしまうのは、それを見る人間の気持ち悪さではないかと思いました。つまり、男性が抱いてしまった少女への執着心の気持ち悪さです。そして、その気持ち悪さを自覚しつつも、押しとどめておくことができないというさらなる気持ち悪さです。

 少女からの誘い水を言い訳に、それが漏れ出してしまうということの気持ち悪さが描かれていると思います。その感情は言うなれば、人間の精神の活動において循環する中の汚水にあたるものだと僕は思っていて、それは普通は外には出ないものだと思います。普段目にする水はきれいなものばかりです。それらがどこかで濾過され浄化され、処理されたものだけが目に入るように社会の表面はなっています。たとえそれが、塩素臭い杜撰な浄水であったとしても。

 そんな目に触れないように隠してある自分の精神の汚水が漏れ出してしまうことの自己嫌悪と、それを他人に見られてしまうことの恐怖が描かれていると思いました。しかし、それも間違いなく自分自身でもあるのだと思います。普段はないように振る舞っている、その気持ち悪い汚水の部分が、自分の中には確かにあり、それを確認させられてしまうということが、このロッタレインを読んだことの読後感でした。

 

 人間の他人への執着心、それが大人の男から幼い少女へのものであれば、なおのこと気持ち悪いでしょう。他人と自分とのお話は、どこに主役としてのピントを合わせるかによって、美しくも醜くもなります。そのピントがどちら側にも紙一重で合わさりうる危うさが、この漫画の魅力ではないかと思っています。

 

 さて、主人公の男性には喪失があります。子供の頃に家を出て行った父親の喪失、そして、残った母親も亡くなった喪失。事故を起こしたときには、恋人を失った喪失があり、心の中にがらんどうがあります。そのぽっかりと空いた穴を埋めることの欲と、恐怖があるのではないかと思いました。なぜなら、埋まることは次の喪失を意味するかもしれません。そして、それを埋めようとする自分の執着的な行為自体にも嫌悪感があるかもしれません。

 少女側にも喪失があります。自分の父親は、血がつながった親ではなく、一方、ある日、家にやってきた三十男は、その実の息子です。彼が来ることは、自分が父親と血が繋がっていないことを強く自覚させられることでもあり、そして、物語の半ばで、彼女はその母も病気で失ってしまいます。残った父と弟、ある日やってきた兄たちは血のつながりのある家族ですが、自分だけが違います(とはいえ、弟とはありますが)。彼女の居場所は、家の中で不安定になってしまいます。

 この状況において、血の繋がらない兄が、自分への好意を抱いていることは、その解決方法として都合がいいものでしょう。自分の中で欠けているものを埋め合わせるためにピタリと合わさるパズルのピースのようなものです。しかし、それは非対称です。少女から男性へは、それを拒絶する理由がなく、男性から少女へは、父親を含めた世間の目という躊躇する理由があります。

 

 そこを踏み越えてしまうこと、そして、それが必ずしも良い結果とならないだろうこと、その際に嫌でも直視させられてしまう、自分の中にある気持ちの悪い部分、読者である自分の中にもそれがあるということを自覚させられるところが、読んでいて心をかき乱されるなと感じたものです。

 それは主人公が半ば予期していたこと、それゆえ最初は押しとどめようとしたものであったはずですが、結局押しとどめることができなかったという悲劇であり、分かっていたはずなのに人がそうなってしまったという、ある種の滑稽な喜劇でもあると思いました。

 

 この物語の中には、少女に対する、ある種の性的な目線が何度も出てきます。例えば、少女の学校の担任の先生は、そのしぐさの端々にそれを見てとることができます。それが主人公の男性の目には非常に不快に写ります。それが不快なのはきっと、それを理解できるからでしょう。自分の中にある気持ちの悪い部分と同じものを目の前でまざまざと見せつけられてしまうからです。そして、それはきっと読者である僕が、主人公を見て感じるものと似ているのかもしれません。

 

 僕が思うには、人間には気持ちの悪い部分があるじゃないですか。それはあったとして、多くの場合は、表にはなかなか出てこないわけです。でも、それは「ないもの」ではなくて、「あるもの」であるという自覚はあった方がいいんじゃないかと思っていて、でも、それはおいそれと外に出していいものではないというのが、僕が抱えている社会規範のようなものだなあと思いました。

自分が無意識にやっていることを意識する関連

 何年か前に、シャーペンで文字を書いているとき、自分が無意識にペンを回していることに気づきました。ここでいう「回している」というのは、いわゆるペン回しではなく、芯を軸に見立てる方向の回転なのですが(伝わってください)、この動作に何の意味があるかというと、シャーペンの芯は紙に斜めに当たっているため、そのすり減り方も斜めになっていることに由来します。つまり書いていると断面が斜めに大きくなり線が太くなるんですね。だから、それを回転させることで、今度はとがった先が手前になりますから、よりシャープな線を書くことができるようになります。

 

 この動作自体は理にかなっているなと思うのですが、これの面白いとこは、僕は自分がそういう動作を常日頃からしていることを、気づいたときまで全く意識していなかったということです。なので、自分がシャーペンを回したのを見て、え?なんで今シャーペンを回したの?と思ってびっくりしました。そこで、人間は自分が何をしているかを意識していないことも多々あるんじゃないかと思うようになりました。

 

 こういった種類の経験は、僕が自分自身の行動の全てを自分で把握できているわけじゃないぞと気づき、自分という現象を観測する必要性を感じるきっかけになりました。なので、自分が日々当たり前にやっていることをゆっくりと確認しながらやってみては細かい要素に分解し、自分がなぜどのようなことをしているのか?ということを意識したりするようになったのです。

 

 一方、意識するということは結構厄介な側面もあって、なぜなら、意識した瞬間にそれが上手くできなくなることもあるからです。例えば楽器を弾くときに、なんとなくやっているときには詰まらずに弾けるのに、いざ、指の動きなどを強く意識してみると、途中で手が止まってしまうことがあります。

 それは動作に至る前に一旦意識するという工程が入ってしまうことで、限られた時間の中で動作を完了するということができなくなったんじゃないかと思っていて、だから、自分がやっていることを意識しつつも、なおかつ、それを意識の外に出して実行するという感覚も必要になりました。

 

 何かの物事を工程に分割してみるとき、意識している単位で分割してみると、比較的少ない工程で作業を記述することができます。しかし、その作業手順を、他人に渡して実行してもらうとき、無意識の部分が共有できていないことで問題が起こったりします。

 自分にとっては意識しなくともできることが、他人にとってはそうではないため、手順書の中身は実際はボロボロと歯の抜けた作りになってしまったりするのです。そのせいで他人が実行することができなかったり、他人が自分の判断で穴を埋めたことで問題が発生するということが生じました。

 

 人に対して何かを教えるということは、そういう失敗の繰り返しだなと思います。自分が伝えた通りに他人ができないとき、伝える情報が実は不十分だったのではないかということに目を向けるようになり、やり方を改善していくようになるからです。

 

 何かのやり方を「目で盗め」というのは、そのやり方の完全さを保証する責任を、教わる側に持ってくるやり方なんじゃないかと思います。それはある種の教える側の無責任ですが、ただ、その明示されていない無意識にやっていることを、他人に再現させるということが必ずしも正しくはない場合があり、そこが難しいところだと思います。なぜならば、自分と他人は、肉体と言うハードウェアに目に見えて差異があり、精神というソフトウェアにもきっと差異があると思うからです。

 自分にとって適切なタイミングや動かし方が、他人にとっても適切に合うものであるかどうかは保証ができません。

 

 なので、必要最小限の考え方だけを伝えて、あとは、自分に合うやり方を模索してもらいながら習得してもらうというのは、ある種の正しさも効率性もある教え方なんじゃないかと思ったりもしています。

 

 「魚を与えるのではなく、魚の採り方を教えるべき」みたいな話を聞くと、そこで教える魚の採り方は、いつまで正しい方法なんだろうかな?と考えます。もしそのうち、採り方を変えないといけない環境変化が生じたとき、その人は新しい採り方に辿り着くことができるのでしょうか?あるいは、また誰かに教えて貰わないといけないのでしょうか?

 新しい環境に適合したやり方を、自分で日々アップデートしてくということは、僕は仕事ではやっていますが、この方法も上手く言語化できていません。だからそのやり方を他人に教えるということも、まだ上手くできていない領域の話です。

 

 仕事でチームのリーダーとかをやるようになって(僕のようなコミュニケーション能力駄目太郎がリーダーをやっているの、完全に最悪の采配だなと思い続けています)、人を育てるということの難しさみたいなのに直面することが増えてきました。

 ただ、他人に気軽に質問したり頼ったりが上手くできないために、ひとりで黙々と考え続けてなんとかやってきた僕の人間的特性を、上手く生かせる部分もあるんじゃないかとも思っています。その、自分で獲得してきたやり方を他人に上手く説明できればいいんじゃないかとか、孤独に頑張ってしまうことの悪い部分もすごく分かっているので、自分以外にもそういうことになっている人がいたときに、上手くフォローしてやれるのは自分なんじゃないかなと思ったりもするからです。

 

 人間関係とか、ほんと上手くできないんですよ。平均的な人が当たり前にやっていることを意識しなければできなかったりします。それは、息を吸って吐いてを意識しないとできないようなもので、これを意識してやりつつ、そこから無意識にでも出来るようにできないとしんどいですね。なので、最近はそういうことに取り組んでいます。

 世の中には、色んな上手く人に伝えられる形式になっていないものが沢山あって、でも、それを認知できないからといって、無いものとしてうっかり取り扱うことは、大きな失敗に繋がる懸念があります。だから、そういうのをできるだけ解き明かして、自分が上手くやっていけるといいですし、それを他人に上手く伝えることで、他人とも上手くやっていけるといいよなと思っている最近です。

平成という時代の個人的な振り返り関連

 平成が終わって令和になった。何かが変わったかというと変わってない。この3月に免許を更新し、次回の更新は5年後なので、免許には平成36年まで有効と記載されている。そのときまで僕は平成とまだ微妙に関係がある生活をする。

 

 昭和が終わったのはまだ僕の記憶も曖昧な時期で、当時の天皇陛下が亡くなったということ、好きなテレビ番組が休止となったこと、どうやら平成というものが始まるらしいということなどが、断片的に思い出される。特に感慨はなく、というか、よく意味も分かっていなかった。それを言ったら、今回だって特に感慨はない。一時代が終わったとも思わないし、何か新しいものが始まったとも思わない。ああ、そうなのかと思っただけだ。

 

 でも、人の死をきっかけに元号が変わるわけではなかった今回は、おぼろげに憶えているあの昭和から平成に変わった時期の沈んだ雰囲気と比べれば、なんだか楽しい雰囲気がある感じがしていて、それは良いことなんじゃないかと何となく思う。

 

 個人的に、平成はなかなか良い時代だった。テクノロジーが進歩して、どんどん色んなことが便利になっていったし、社会もどんどん良くなった部分もあって、辛いことを我慢しないで表立って言っていいことになっていった。何より、僕の人生がどんどん良くなっていった。小さい頃は辛いことが多かったと思う。あと、将来に対する漠然とした不安ばかりがあった。今も辛いことがないわけじゃないし、将来が希望だけで満ち溢れているわけでもない。でも、小さい頃のようにそれに対して何にもできないわけじゃなく、まあ、自分は何とかやっていけるだろうという、気楽な気持ちがある。

 それは自分が中年になって、かつての鋭敏な感覚をもう持っていないからかもしれない。鈍麻した感覚は、自分から色んなものを失わせているかもしれないけれど、昔はこだわっていたことがどうでもよくなって気楽になったし、辛く悲しいことに対しても鈍くなってしまい、色んなことが平気になった。

 

 でも、理由はそれだけでもないと思う。今まで色んなことをやって生きてきて、その経験が自分を太くしているという気持ちもある。周囲からの強風に煽られながら、おっかなびっくり立って歩いているようなかつての自分から、少々の風では身じろぎもしないように歩くことができるような自分になったと思う。風の中に通り道をなんとか見つけるのではなく、自分の歩きたい道を風に逆らってでも歩くことが今はできている。

 

 子供の頃の自分が想像したような大人に、今の自分はなっていない。

 結婚もしていないし、子供もいない。子供の頃に想像していた、大人とはこういうものだという像と今の自分は随分違う。何かとてつもなくすごいものにはなったりはしていない。良くも悪くも子供の頃の自分と地続きの今だ。ただ、地続きだとは言っても、そこそこ長い道のりがあった。あの頃いた場所に、今僕はいないし、ここまで歩いて来られたことを振り返って、なかなか良い道を歩いてきたなと思っている。

 そもそも子供の頃に想像した将来の自分像なんて、結局そのとき抱えていた偏見でしかないんじゃないだろうか?「大人とはこういうものだ」という先入観が、それを裏付けする体験もろくにないのにただ存在していて、それはつまり、周囲が示しているものであったり、社会が要請しているものであったりするんじゃないかと思う。つまり、他人の話だ。

 そんなふうに他人の話を聞いて、他人の思う通りの自分にならなければならないと感じていたことが、僕の子供の頃の不幸だったところで、だけど今は違う。別にそうじゃなくてもいいと思ったこと、そして、それを周囲の人間関係が許容してくれていることが、僕が感じている今の生活の良さの裏側にはあるのだと思う。

 ただ、社会を維持していくためには子供が必要だろうし、自分がそこに貢献していないことにはスマンな…という気持ちが多少ある。でも、自分がその状態であることを問題なく許容してくれる世の中になっているということが良いところだと感じていて、一方で、そうであることが社会に影響を与えてしまう困った側面が少子化なのかもしれない。昔の感覚が維持されていれば、僕はとっくに結婚して子供がいただろうし、その関係性の中で辛い思いをしていたかもしれない(してないかもしれない)。

 

 ちょっと前に「孤独な中年は元気やでっ」って言ったらちょっとウケた。これは昔のジャンプでやってた漫画の台詞のもじりなんだけど、気持ちは本当で、僕は世間的に見れば孤独な人間なのかもしれないけれど、その状態が全然嫌じゃない。

 とはいえ、友達が全くいないわけじゃないし、ネットでもたまに人と交流もしている。でも、休日にカバンに何冊かの本を入れて、ぽかぽかする河川敷でひとりで本を読んでいる時間も好きだし落ち着く。思い返せば、中学生や高校生の頃の自分もそうだった。休日はひとりで自転車に乗って色んなところに行った。そして、ブックオフで立ち読みなんかをして、それだけで家に帰ってきた。

 あの頃と今はそんなに変わらない。しんどいことが山ほどあったときにそうしていたということは、そうしている時間が好きだったんだろう。それが好きなのは今でも同じだ。

 

 結局のところ、僕が苦手だったのは人間関係だったんだろうなと思う。自分で十分なお金を稼げなかった頃には、今よりもずっと沢山の人間関係があった。それは人間関係が自分にとってお金を得る手段のひとつだったからだろう。お金ほしさに、色んな人と一緒にいた(色んなところに失礼なので、ごめんなさいという気持ちもある)。相手との人間関係を維持することが重要だったので、その場にとどまるために色んなことを我慢した。

 今はそれはしていない。他人との繋がりを維持するために、嫌いな状態の自分になる必要はない。嫌になればどこにでも行ける。ひとりでいることが苦でないことは、自分の便利な特性だなと思う。

 

 平成はいい時代だった。それは僕がなりたい自分になるための時間だったから。そんなの僕の個人的な話で、他の人にしてみれば全然いい時代ではないかもしれない。でも、それだって各々の個人的な話じゃないのかなと思う。普遍的な時代性なんてあるのだろうか?どのレンズを通してみてもそれなりに歪んでいるんじゃないだろうか?

 

 最近は、生きることに問題がなくなってきたので、仕事以外にも何かを作ったりをしている。漫画を描き始めたのもそのひとつで、こういうことに取り組むのが面白いのは、自分が日々成長できていることを実感できるからだ。昨日の自分よりも、今日の自分の方が上達していることが確認できれば、数学的帰納法で遠い未来のすごく成長した自分を想像することができる。

 でも、将来の想像なんて、幻なんじゃないかとも思う。30年前に想像した30年後の自分の姿は、今と同じだろうか?そんなわきゃないよな。悲観的な未来も、楽観的な未来も、今まだ起きていないという意味では同じだし、どれだけ一生懸命想像したところで、それが本当にそうなる確証もない。僕が今良い感じの気持ちでいるのはたまたまだ。たまたま想像した楽観的な状態に、たまたまなっている。つまり、ただの運の問題だ。

 

 去年一回病気ですごい痛いことになったんだけど、痛みが始まってたった何時間かで人生に対する絶望が発生した。

 それ以外の全てのことに満足していても、終わらない痛みが少々の時間続くだけで、全てが幻のように消え去ってしまう。今は完治して痛みがなくなっているので、そんなこともあったなと思い出すだけだけど、一寸先は闇だ。ひょっとしたら明日にはまた世界に絶望しているかもしれない。

 

 まあでも、それでもいいよ。何も問題のない今現在を楽しくやっていこうと思う。

 僕が絶対になりたくないのは、小学生頃にあった宿題をしない夏休みの繰り返しだ。宿題をしなければと思うぐらいの真面目さは抱えているのに、宿題に手を付けるほどの行動力は持たずに、ただ毎日漫然と過ごしている夏休みのような状態が怖い。

 やらなければならないことをやっていないという漠然とした不安が、終了の期日が近づいてくるにつれてどんどん大きくなる。しまいにはその不安で身動きがとれなくなって、宿題はいっそうできないし、他の何にもできなくなっていく。ただ時間だけが過ぎ、抱える不安だけが大きくなる。

 一回や二回の失敗した夏休みならまだいいけど、自分の人生自体がそんな風になってしまうのはまっぴらごめんだ。

 

 そのための結論は地味で、ただ毎日をやっていくことだと思う。遠い将来のことなんてたまに考えるぐらいでもう十分で、昨日の自分に申し送りされたことを今日やって、明日の自分に引き継いでいく。それだけを淡々とやっていくのがいいと思ってそうしている。

 それが平成も終盤にさしかかって自分が辿り着いたところで、令和の初めもそれでやっていくんだろうなと思っている。令和の終わりまで生きていたら、どうなっているだろうかな?今の想像とは全く違うかもれしれない。でも、そこから振り返ってみたら、今と同じようにそこそこ納得感のある生き方をしているんじゃないかと思う。根拠はありません。ただ、今そう思ったから。

 

 この文章は、昨日なんとなく書こうと思って今日書いた。明日はまた別のことを考えているかもしれない。それもいいよ。こんなふうに、一日一日を具合よく調整しながらやっていくのがいいと僕は思っているから。

コミティア128に出ます情報

 コミティア128に出ます。よかったら来てくだされ~。

 

 ここのところ毎回参加して本を出してますが、なぜそんなことになっているかというとなんとなくです。なんとなく申し込んだら通ったので、じゃあ新しい本を作るかと思って本が出ています。でも、本が出ている理由はiPadのおかげかもしれません。iPadでいつでもどこでも漫画を描けるようになっていないと、自分の生活に漫画を描ける時間がないからです。

 

 技術を向上させるためにはどうしてもどこかで量が必要と思っていて、だから結果的に数をこなすことが近道だと思うんですが、今は描こうと思ったら描くような気持ちになっているので、やる気があるときにはそれを利用してなんかやっとくかなというような感じでいます。

 

 3年ぐらい前に初めて漫画の同人誌を作ったときと比べると、今はだいぶ技術が向上しましたよ。あくまで当社比ですけど、自分が昨日の自分より少しでも向上していると思えることは、毎日を具合よくする上で大切なんじゃないかなあと思います。

 一方、他人と比べたらダメだなと思うというか、怖いと思うところがあって、まあ、拙いわけじゃないですか、中年になってからいきなり漫画を描き始めた人の作るものなんて。もっと前からずっと一生懸命やっていて、すごい技術を持っている人たちが無数にいるわけですよ。だから比較対象は、過去の自分だけということにしています。それでよくなってりゃ自分に100点満点をあげるようにしています。

 

 そうなんですよ。ネットをちょいと検索すれば、誰かが誰かに向けて書いている、漫画を描くことに対する沢山のご意見やアドバイスが見つかるわけですよ。でも、それを、僕は見ないように心掛けているんですよね。だって、それを見ることは描く上で満たすべき条件を増やしてしまう行為だから。そんな色んな条件を満たさなければ描けないとなると、自分には上手い答えが見つからなくなる可能性が高まるわけじゃないですか。

 こういう漫画表現は良いとか悪いとか、こういう人には創作の資格があるとかないとか、誰が誰に言ってるんだか分からない無数の条件を自分に課して、結局至れる結論が「自分には答えが出せず、描けない」なのだとしたら本末転倒ですよ。

 だから、最初に言ったみたいに、技術の向上には量が必要と思っているので、出す結論は「描く」じゃないと損をしてしまいます。だからなんとなく即売会に申し込んでみては、「とりあえず描いてみるか」という結論になれるのが自分が一番得な感じがしていて、そうしています。

 

 今回描いた漫画は「TCPによろしく」というタイトルで、人間と人間のコミュニケーションに対して2人の人間が喋るという内容です。ここのところ作ってた同人誌のページがいつも想定より長くなってしまう問題があって、話を短くまとめる練習をしたいなと思って取り組んでみました。

 これまで描いている漫画は、最終的に2人の人間の会話がクライマックスになると思ったので、じゃあ、今回は最初から2人の会話にしてしまえばいいじゃん!!という非常に論理的な結論を得たのでそうしましたが、結局全く最初に思った通りの内容にはなりませんでした。でも、ここのところより短くまとまっています。31ページです。

 そういえば、ページ数を抑えられると、本の値段を上げなくて済むので助かる面もありますね。

 

 例によって途中までをpixivに上げてみました。

www.pixiv.net

 

 今回の漫画の内容は、僕が人間のコミュニケーションが苦手過ぎて、めちゃくちゃ苦しんでたことをお話にしてみようと思って描いたものです。僕が日銭を稼いでいる仕事はネットワークエンジニアとかリサーチャーとかなのですが(でも、必要なら何でもやるので自分が何屋なのかよくわからない)、機械は自分の伝えたいことが別の機械に正確に伝わるようにすごくしっかりコミュニケーションをしているなあとよく思っていて、僕よりも機械の方がちゃんとしてる!と思って、機械を尊敬しているところがあります。

 これは前に書いた関連の文章です。

mgkkk.hatenablog.com

 

 でも、それはそれとして、単純に機械に倣えばいいんだろうか?という気持ちもあって、だって、人間と人間のコミュニケーションは、「情報を早く正確に確実に伝えること」以外にも沢山種類があるわけじゃないですか。そういうもやもやしたものをお話にできないかなと思ったりして、こんな感じになりました。

 

 中年になると1年が爆速で過ぎていってしまうので、海軍が金曜にカレーを食べるみたいに、3ヶ月ごとぐらいになんかイベントがあり、そこで何か新しい自分が作ったものが発生するの、めちゃよくないですか?みたいな感じで今回もコミティアに参加します。

 よかったら来てくだされ~。