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自分が無意識にやっていることを意識する関連

 何年か前に、シャーペンで文字を書いているとき、自分が無意識にペンを回していることに気づきました。ここでいう「回している」というのは、いわゆるペン回しではなく、芯を軸に見立てる方向の回転なのですが(伝わってください)、この動作に何の意味があるかというと、シャーペンの芯は紙に斜めに当たっているため、そのすり減り方も斜めになっていることに由来します。つまり書いていると断面が斜めに大きくなり線が太くなるんですね。だから、それを回転させることで、今度はとがった先が手前になりますから、よりシャープな線を書くことができるようになります。

 

 この動作自体は理にかなっているなと思うのですが、これの面白いとこは、僕は自分がそういう動作を常日頃からしていることを、気づいたときまで全く意識していなかったということです。なので、自分がシャーペンを回したのを見て、え?なんで今シャーペンを回したの?と思ってびっくりしました。そこで、人間は自分が何をしているかを意識していないことも多々あるんじゃないかと思うようになりました。

 

 こういった種類の経験は、僕が自分自身の行動の全てを自分で把握できているわけじゃないぞと気づき、自分という現象を観測する必要性を感じるきっかけになりました。なので、自分が日々当たり前にやっていることをゆっくりと確認しながらやってみては細かい要素に分解し、自分がなぜどのようなことをしているのか?ということを意識したりするようになったのです。

 

 一方、意識するということは結構厄介な側面もあって、なぜなら、意識した瞬間にそれが上手くできなくなることもあるからです。例えば楽器を弾くときに、なんとなくやっているときには詰まらずに弾けるのに、いざ、指の動きなどを強く意識してみると、途中で手が止まってしまうことがあります。

 それは動作に至る前に一旦意識するという工程が入ってしまうことで、限られた時間の中で動作を完了するということができなくなったんじゃないかと思っていて、だから、自分がやっていることを意識しつつも、なおかつ、それを意識の外に出して実行するという感覚も必要になりました。

 

 何かの物事を工程に分割してみるとき、意識している単位で分割してみると、比較的少ない工程で作業を記述することができます。しかし、その作業手順を、他人に渡して実行してもらうとき、無意識の部分が共有できていないことで問題が起こったりします。

 自分にとっては意識しなくともできることが、他人にとってはそうではないため、手順書の中身は実際はボロボロと歯の抜けた作りになってしまったりするのです。そのせいで他人が実行することができなかったり、他人が自分の判断で穴を埋めたことで問題が発生するということが生じました。

 

 人に対して何かを教えるということは、そういう失敗の繰り返しだなと思います。自分が伝えた通りに他人ができないとき、伝える情報が実は不十分だったのではないかということに目を向けるようになり、やり方を改善していくようになるからです。

 

 何かのやり方を「目で盗め」というのは、そのやり方の完全さを保証する責任を、教わる側に持ってくるやり方なんじゃないかと思います。それはある種の教える側の無責任ですが、ただ、その明示されていない無意識にやっていることを、他人に再現させるということが必ずしも正しくはない場合があり、そこが難しいところだと思います。なぜならば、自分と他人は、肉体と言うハードウェアに目に見えて差異があり、精神というソフトウェアにもきっと差異があると思うからです。

 自分にとって適切なタイミングや動かし方が、他人にとっても適切に合うものであるかどうかは保証ができません。

 

 なので、必要最小限の考え方だけを伝えて、あとは、自分に合うやり方を模索してもらいながら習得してもらうというのは、ある種の正しさも効率性もある教え方なんじゃないかと思ったりもしています。

 

 「魚を与えるのではなく、魚の採り方を教えるべき」みたいな話を聞くと、そこで教える魚の採り方は、いつまで正しい方法なんだろうかな?と考えます。もしそのうち、採り方を変えないといけない環境変化が生じたとき、その人は新しい採り方に辿り着くことができるのでしょうか?あるいは、また誰かに教えて貰わないといけないのでしょうか?

 新しい環境に適合したやり方を、自分で日々アップデートしてくということは、僕は仕事ではやっていますが、この方法も上手く言語化できていません。だからそのやり方を他人に教えるということも、まだ上手くできていない領域の話です。

 

 仕事でチームのリーダーとかをやるようになって(僕のようなコミュニケーション能力駄目太郎がリーダーをやっているの、完全に最悪の采配だなと思い続けています)、人を育てるということの難しさみたいなのに直面することが増えてきました。

 ただ、他人に気軽に質問したり頼ったりが上手くできないために、ひとりで黙々と考え続けてなんとかやってきた僕の人間的特性を、上手く生かせる部分もあるんじゃないかとも思っています。その、自分で獲得してきたやり方を他人に上手く説明できればいいんじゃないかとか、孤独に頑張ってしまうことの悪い部分もすごく分かっているので、自分以外にもそういうことになっている人がいたときに、上手くフォローしてやれるのは自分なんじゃないかなと思ったりもするからです。

 

 人間関係とか、ほんと上手くできないんですよ。平均的な人が当たり前にやっていることを意識しなければできなかったりします。それは、息を吸って吐いてを意識しないとできないようなもので、これを意識してやりつつ、そこから無意識にでも出来るようにできないとしんどいですね。なので、最近はそういうことに取り組んでいます。

 世の中には、色んな上手く人に伝えられる形式になっていないものが沢山あって、でも、それを認知できないからといって、無いものとしてうっかり取り扱うことは、大きな失敗に繋がる懸念があります。だから、そういうのをできるだけ解き明かして、自分が上手くやっていけるといいですし、それを他人に上手く伝えることで、他人とも上手くやっていけるといいよなと思っている最近です。