漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

平成という時代の個人的な振り返り関連

 平成が終わって令和になった。何かが変わったかというと変わってない。この3月に免許を更新し、次回の更新は5年後なので、免許には平成36年まで有効と記載されている。そのときまで僕は平成とまだ微妙に関係がある生活をする。

 

 昭和が終わったのはまだ僕の記憶も曖昧な時期で、当時の天皇陛下が亡くなったということ、好きなテレビ番組が休止となったこと、どうやら平成というものが始まるらしいということなどが、断片的に思い出される。特に感慨はなく、というか、よく意味も分かっていなかった。それを言ったら、今回だって特に感慨はない。一時代が終わったとも思わないし、何か新しいものが始まったとも思わない。ああ、そうなのかと思っただけだ。

 

 でも、人の死をきっかけに元号が変わるわけではなかった今回は、おぼろげに憶えているあの昭和から平成に変わった時期の沈んだ雰囲気と比べれば、なんだか楽しい雰囲気がある感じがしていて、それは良いことなんじゃないかと何となく思う。

 

 個人的に、平成はなかなか良い時代だった。テクノロジーが進歩して、どんどん色んなことが便利になっていったし、社会もどんどん良くなった部分もあって、辛いことを我慢しないで表立って言っていいことになっていった。何より、僕の人生がどんどん良くなっていった。小さい頃は辛いことが多かったと思う。あと、将来に対する漠然とした不安ばかりがあった。今も辛いことがないわけじゃないし、将来が希望だけで満ち溢れているわけでもない。でも、小さい頃のようにそれに対して何にもできないわけじゃなく、まあ、自分は何とかやっていけるだろうという、気楽な気持ちがある。

 それは自分が中年になって、かつての鋭敏な感覚をもう持っていないからかもしれない。鈍麻した感覚は、自分から色んなものを失わせているかもしれないけれど、昔はこだわっていたことがどうでもよくなって気楽になったし、辛く悲しいことに対しても鈍くなってしまい、色んなことが平気になった。

 

 でも、理由はそれだけでもないと思う。今まで色んなことをやって生きてきて、その経験が自分を太くしているという気持ちもある。周囲からの強風に煽られながら、おっかなびっくり立って歩いているようなかつての自分から、少々の風では身じろぎもしないように歩くことができるような自分になったと思う。風の中に通り道をなんとか見つけるのではなく、自分の歩きたい道を風に逆らってでも歩くことが今はできている。

 

 子供の頃の自分が想像したような大人に、今の自分はなっていない。

 結婚もしていないし、子供もいない。子供の頃に想像していた、大人とはこういうものだという像と今の自分は随分違う。何かとてつもなくすごいものにはなったりはしていない。良くも悪くも子供の頃の自分と地続きの今だ。ただ、地続きだとは言っても、そこそこ長い道のりがあった。あの頃いた場所に、今僕はいないし、ここまで歩いて来られたことを振り返って、なかなか良い道を歩いてきたなと思っている。

 そもそも子供の頃に想像した将来の自分像なんて、結局そのとき抱えていた偏見でしかないんじゃないだろうか?「大人とはこういうものだ」という先入観が、それを裏付けする体験もろくにないのにただ存在していて、それはつまり、周囲が示しているものであったり、社会が要請しているものであったりするんじゃないかと思う。つまり、他人の話だ。

 そんなふうに他人の話を聞いて、他人の思う通りの自分にならなければならないと感じていたことが、僕の子供の頃の不幸だったところで、だけど今は違う。別にそうじゃなくてもいいと思ったこと、そして、それを周囲の人間関係が許容してくれていることが、僕が感じている今の生活の良さの裏側にはあるのだと思う。

 ただ、社会を維持していくためには子供が必要だろうし、自分がそこに貢献していないことにはスマンな…という気持ちが多少ある。でも、自分がその状態であることを問題なく許容してくれる世の中になっているということが良いところだと感じていて、一方で、そうであることが社会に影響を与えてしまう困った側面が少子化なのかもしれない。昔の感覚が維持されていれば、僕はとっくに結婚して子供がいただろうし、その関係性の中で辛い思いをしていたかもしれない(してないかもしれない)。

 

 ちょっと前に「孤独な中年は元気やでっ」って言ったらちょっとウケた。これは昔のジャンプでやってた漫画の台詞のもじりなんだけど、気持ちは本当で、僕は世間的に見れば孤独な人間なのかもしれないけれど、その状態が全然嫌じゃない。

 とはいえ、友達が全くいないわけじゃないし、ネットでもたまに人と交流もしている。でも、休日にカバンに何冊かの本を入れて、ぽかぽかする河川敷でひとりで本を読んでいる時間も好きだし落ち着く。思い返せば、中学生や高校生の頃の自分もそうだった。休日はひとりで自転車に乗って色んなところに行った。そして、ブックオフで立ち読みなんかをして、それだけで家に帰ってきた。

 あの頃と今はそんなに変わらない。しんどいことが山ほどあったときにそうしていたということは、そうしている時間が好きだったんだろう。それが好きなのは今でも同じだ。

 

 結局のところ、僕が苦手だったのは人間関係だったんだろうなと思う。自分で十分なお金を稼げなかった頃には、今よりもずっと沢山の人間関係があった。それは人間関係が自分にとってお金を得る手段のひとつだったからだろう。お金ほしさに、色んな人と一緒にいた(色んなところに失礼なので、ごめんなさいという気持ちもある)。相手との人間関係を維持することが重要だったので、その場にとどまるために色んなことを我慢した。

 今はそれはしていない。他人との繋がりを維持するために、嫌いな状態の自分になる必要はない。嫌になればどこにでも行ける。ひとりでいることが苦でないことは、自分の便利な特性だなと思う。

 

 平成はいい時代だった。それは僕がなりたい自分になるための時間だったから。そんなの僕の個人的な話で、他の人にしてみれば全然いい時代ではないかもしれない。でも、それだって各々の個人的な話じゃないのかなと思う。普遍的な時代性なんてあるのだろうか?どのレンズを通してみてもそれなりに歪んでいるんじゃないだろうか?

 

 最近は、生きることに問題がなくなってきたので、仕事以外にも何かを作ったりをしている。漫画を描き始めたのもそのひとつで、こういうことに取り組むのが面白いのは、自分が日々成長できていることを実感できるからだ。昨日の自分よりも、今日の自分の方が上達していることが確認できれば、数学的帰納法で遠い未来のすごく成長した自分を想像することができる。

 でも、将来の想像なんて、幻なんじゃないかとも思う。30年前に想像した30年後の自分の姿は、今と同じだろうか?そんなわきゃないよな。悲観的な未来も、楽観的な未来も、今まだ起きていないという意味では同じだし、どれだけ一生懸命想像したところで、それが本当にそうなる確証もない。僕が今良い感じの気持ちでいるのはたまたまだ。たまたま想像した楽観的な状態に、たまたまなっている。つまり、ただの運の問題だ。

 

 去年一回病気ですごい痛いことになったんだけど、痛みが始まってたった何時間かで人生に対する絶望が発生した。

 それ以外の全てのことに満足していても、終わらない痛みが少々の時間続くだけで、全てが幻のように消え去ってしまう。今は完治して痛みがなくなっているので、そんなこともあったなと思い出すだけだけど、一寸先は闇だ。ひょっとしたら明日にはまた世界に絶望しているかもしれない。

 

 まあでも、それでもいいよ。何も問題のない今現在を楽しくやっていこうと思う。

 僕が絶対になりたくないのは、小学生頃にあった宿題をしない夏休みの繰り返しだ。宿題をしなければと思うぐらいの真面目さは抱えているのに、宿題に手を付けるほどの行動力は持たずに、ただ毎日漫然と過ごしている夏休みのような状態が怖い。

 やらなければならないことをやっていないという漠然とした不安が、終了の期日が近づいてくるにつれてどんどん大きくなる。しまいにはその不安で身動きがとれなくなって、宿題はいっそうできないし、他の何にもできなくなっていく。ただ時間だけが過ぎ、抱える不安だけが大きくなる。

 一回や二回の失敗した夏休みならまだいいけど、自分の人生自体がそんな風になってしまうのはまっぴらごめんだ。

 

 そのための結論は地味で、ただ毎日をやっていくことだと思う。遠い将来のことなんてたまに考えるぐらいでもう十分で、昨日の自分に申し送りされたことを今日やって、明日の自分に引き継いでいく。それだけを淡々とやっていくのがいいと思ってそうしている。

 それが平成も終盤にさしかかって自分が辿り着いたところで、令和の初めもそれでやっていくんだろうなと思っている。令和の終わりまで生きていたら、どうなっているだろうかな?今の想像とは全く違うかもれしれない。でも、そこから振り返ってみたら、今と同じようにそこそこ納得感のある生き方をしているんじゃないかと思う。根拠はありません。ただ、今そう思ったから。

 

 この文章は、昨日なんとなく書こうと思って今日書いた。明日はまた別のことを考えているかもしれない。それもいいよ。こんなふうに、一日一日を具合よく調整しながらやっていくのがいいと僕は思っているから。