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「BEASTARS」に感じる共同体の抱える矛盾の話

 チャンピオンで連載中の「BEASTARS」を毎号楽しみに読んでいます。

 この物語は様々な動物が人のような社会を構築した世界のお話です。主人公はハイイロオオカミのレゴシくん。物静かで言葉少ない少年で、肉食獣の大きな体を猫背にまるめて、多種多様な動物の子供が集まった学園で生活をしています。僕はこのレゴシくんのことをすぐ好きになったのですが、きっかけになったのが「悲劇が好きなんだ」とポツリと友達に語った場面です。レゴシくんは悲劇的な物語を読みながら、それに同調して心が沈んでいく感じを体感することが好きであると語ります。そして、僕もそうなのです。悲しい物語を読んで悲しい気持ちになったりします。それが好きというのもどうだろう?と思うのですが、自分が山ほどそういう物語を読んでいることを鑑みて、どう考えてもそれが好きなんだろうと思ってしまったりしています。

 

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 人間は、目の前の人と同じ感情になるということがあるんじゃないかと体感的に思っていて、違う温度の水を混ぜ合わせると同じ温度の水になってしまうように、人と接することで、自分の持っているものと相手の持っているものを混ぜ合わせて同じ温度、つまり同じ感情になったりするんじゃないかと思います。もちろん相手との間に心理的なついたてを立てることで、それを拒否することもできるでしょうが。

 僕は本で読む多くの物語に対してそういうことをしていると思っていて、楽しい物語を読んで楽しい気持ちになったり、悲しい物語を読んで悲しい気持ちになったりします。その行為には自分ひとりでは生まれてこない何かを、外部から取り入れるという意味もあるでしょうし、相手の持つものの中に、自分と同じ温度の部分を発見することで、同じ温度ならば変わらずそのままでよいと思えたりします。自分より高い温度や低い温度のものと接するならば、自分自身の温度を少なからず変えなければなりません。でも、相手も温度ならば自分は変わらなくて済むわけです。それは刺激的ではないかもしれませんが安心します。

 

 レゴシくんの「悲劇が好きなんだ」という言葉について感じたのは、悲劇の物語という違う温度のものと接することに対する感情と、それが好きだという同じ温度のものに接することに対する感情の両方なのです。

 

 さて、BEASTARSには様々な動物が登場します。大別すると肉食獣と草食獣で、彼らは同じ共同体の中で生活をしています。この手の物語で気になるのは彼らが何を食べているかでしょう。かつて、喰って喰われるという関係性が生態系のシステムであった肉食と草食は、十分な文明と(少なくとも表面上は)わけ隔てのない社会を獲得した後でも、焼きゴテで押し当てられたようにくびきとして残っています。

 似た環境を取り扱ったディズニー映画の「ZOOTOPIA」では、その本能が肉体にあることと、それを克服できる社会が存在すること、それによって誰もその本能があるということだけで差別的に扱われないという希望が描かれます。

 一方、BEATSTARSでは、その本能を持つがゆえに苦悩が描かれます。社会的に許されない肉食を求めてしまうことは、自分の意志だけではどうにもならないという苦悩です。同様のテーマについては、「レベルE」にも取り扱ったエピソードがありました。ある異星人の少年にはある本能があります。それは過酷な母星の環境の中で獲得したもので、生き延びる体力のあるオスがメスを喰うことで体内で受精をするという生殖形態です。その本能のせいで、彼は好きになった女性を食べてしまうのです。好きなのに、好きであるからこそ、殺して食べてしまうのです。地球にやってきて、地球人に擬態し、もはやその過酷な環境とは決別したはずなのに、そして、地球人を食べたところで子供を残せやしないのに、彼は本能に抗えず食べてしまうのです。結局その物語の中では、彼の苦悩が描かれはすれど、救済はされません。

 果たして、BEASTARSでは今後どのような過程と結末を迎えるのでしょうか?

 

 レゴシくんは、その控えめな性格とは裏腹に、肉体が持つ強い暴力の才能と、そして時折どうしようもなくなる狩猟の本能に苛まれてしまいます。温厚な彼が怒りの表情を見せるのは、他の肉食動物が、肉食に対する肯定的、容認的な感情を吐露したときです。自分が必死で抑え込んでいるものを、表に出してしまうということに対する行為に許しがたいものを感じるのでしょう。

 この物語の中には聖域がなく、全てが語られる可能性があるものとして描かれていると思います。草を食べるだけでは生きられない肉食の動物が、一体何を食べているのか?という疑問、そして、都会の闇の中に存在する、肉を売る裏市の存在、同じ社会を構築する上で生まれてしまう矛盾が、社会の中でどのように解消され、辻褄が合わされているかが語られます。

 しかしながら、それは必ずしも暗くて陰惨な話ばかりではありません。例えば、ニワトリの女の子が、自分の生んだ無精卵を学校の購買に売るというアルバイトをする話は、とてもよい話でした。肉食獣に対する貴重なタンパク源を供給する役割を持つ、自分たちにしかできない仕事をしているということに誇りをもって従事している姿は、とても微笑ましく美しく感じるものでした(それでいて、本当にそうだろうか?というしこりも残りますが)。

 

 彼ら動物たちはは、生まれつき温度の異なった水でしょう。それも強く温度の異なった水です。しかしながら、共同体を形成するためには、同じ温度であることが求められます。その基準となるべき温度がどこにあるかによって、苦悩の幅は異なるでしょう。より高い温度のものが、低い温度になるには苦痛が伴うかもしれません。より低い温度のものが、高い温度になるには強い努力が求められるかもしれません。そして、社会的共同体は、それらの多くの人々の苦痛の我慢や強い努力があることで達成されているものです。そして社会では、それが表面上達成されたかのように見せかけられるだけのこともしばしばです。

 何を表に出して何を表にださないか。自分の中の高い温度の部分はついたてで囲って温存しておき、出せる部分のみを混ぜ合わせて共同体に参画する、それは多くの場所で行われていることです。僕自身がそうです。自分自身の抱えているものの中で、自分が属する共同体の前で見せるのは、そこに合わせても問題ないものだけで、おいそれと表には出さないものもあります。あたりさわりのないもので具体的に言えば、オタク趣味を仕事場で公言しないというような感じの話です。ただ、同じ趣味の人が相手であれば温度差が少ないので、表に出すことに躊躇がないかもしれません。

 

 何かしらの社会的な共同体に参画するということは難しく、その共同体で求められる温度に合わせられなければ糾弾されてしまうことがあります。であるがゆえに、その合わない共同体を離れたり、自分と温度差のない共同体を探したり、自分の中の部分部分を切り出して、かろうじて共同体に合わせられる部分だけを合わせたりを、皆がしているのではないでしょうか?

 それは大変なことですが、だとしても、共同体を育むということにそれ以上の意味があるからしているのでしょう。しかし、そこにあぶれてしまった共同体の理念に矛盾する何かしらを抱えてしまった場合に、人はどうすればいいのでしょうか?

 

 BEASTARSは、そこに対して曖昧な部分を残さないような物語となっているところがとても格好良く感じ、そして、それはもうどうしようもないんじゃないかという問題に対して、どのような態度がとられていくのかということが気になっています。

 「ヒメアノ~ル」という漫画では、連続殺人鬼となった森田という男が、彼がやってしまったえげつない行為と、自分がそれをしてしまう他人とは決定的に違う存在であると気づいてしまうという悲しみが描かれました。「コオリオニ」という漫画ではヤクザと元刑事が、反社会的な行為に身を落としつつ、自分たちが他人とは決定的に異なる感性を持った異常者であって、その感性の通りに行動することが社会では決して認められるものではないという苦境が描かれます。

 反社会的な欲望は、反社会的であるがゆえに社会の中で居場所がありません。そして、社会に受け入れられないということはとても悲しく感じてしまうことです。果たして自分がそのような立場となったとき、その矛盾するものにどのような答えがあるのだろうか?と、悲しい物語を読んで、悲しい気持ちになってしまったりするのです。

 

 果たしてレゴシくんにの前には今後どんな困難が待ち受けていて、いかなる結末に辿り着くのでしょうか?それは悲しい諦めであるのか、夢ある希望であるのか、はたまた、そのどれとも異なるのか。僕は漫画を読んでレゴシくんと同じ気持ちになりながら、なってしまうからこそ、その先が気になってしまってたまらないのです。