漫画皇国

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「かんかん橋をわたって」と社会の摩擦の解消方法関連

 「社会」とは何か?ということを以前から考えているんですが、僕の今のところの考えでは「同じルールを共有している集団」のことです。一対一の友人関係や家族、地域社会や会社、そして国家など、数の大小はあったとしても、そこには少なくとも1つ以上の共有するルールがあるはずです。ひとりひとり違う人格をもった人間たちが、共通のルールを守ることで、同じ利害を共有する営みが社会なのではないでしょうか?

 

 つまり、異なるルールを共有する集団同士では社会を作ることができません。異なるルール持った社会と社会の間には摩擦が起きるはずです。またひとつの社会の中でも、同じルールを共有できなくなったときに複数に分裂することもあります。

 異なるルールを持つ社会がぶつかるとき、その解消方法は3つしかありません。

 つまり、

  1. 片方の社会のルールをもう片方が受け入れる
  2. ルール同士がぶつからないように距離をとる
  3. 双方の社会が受け入れられる新しいルールを制定する

 です。

 これは社会の構成員の大小に関わらず共通して起こることです。

 対象が家庭であれ国家であれ、異なるルールを持つもの同士が接する必要が生じたとき、上記3つのいずれかの手段を使ってその解消を行います。

 

 さて、「かんかん橋をわたって」という漫画(全10巻)を読みました。Twitterの僕のタイムラインでスクリーンショットとともに情報があり、心惹かれたので読み始めたのですが、これがすげえ面白かったです。どんな漫画かと言えば嫁姑ものです。そしてそれが、だんだんと地域を巻き込んだ嫁姑ものになって行きます。

 読み進めるにつれて、どんどん漫画の種類が変わっていくような新鮮な体験でしたが、その背後に存在するものは前述の意味での社会の問題であるように思っていて、それは上記の3つで説明できるものではないかと思いました。

 

 物語の冒頭は1つの家族という社会が登場します。川南という地域から、かんかん橋を渡って川東という地域に嫁いできた主人公の萌は、姑の不二子との同居のなかでそんな社会の洗礼を受けてしまいます。同じ家族という社会の中で同じルールを共有して生きてきた家族の中で、萌は異分子です。そして、その家のルールを握っているのは不二子で、家に居続けるためには不二子の意地悪(おこんじょう)に耐えて、ルールを受け入れ続けなければならないという苦悩を抱えてしまいます。

 その苦悩を方法は上述のようにまだ2つあります。離婚や別居によりその家を出ることも、不二子との間に新しいルールを制定することも選択肢です。しかし、不二子という姑は強烈な人間性を持っており、萌にはおいそれとかなう存在ではありません。そして、そこから逃げ出すこともしない萌の姿が描かれるのでした。

 

 この時点で不二子という強いキャラクターによって既に面白い漫画なんですが、ここから強烈に面白くなる部分があります。これが僕がスクリーンショットで見て心惹かれた部分でもあるのですが、萌の元に謎の女が現れ「あなた今4位よ」と告げるのです。

 何の4位か?それは「嫁姑番付」です。この地域に存在する嫁姑の関係性で、いびられ度によってひそかに番付が行われており、不二子にいびられる萌はその4位であるというのです。それを告げた謎の女の正体は嫁姑番付5位の女、自分より不幸な女を見ることで癒されるという、悲しくも人間らしい存在です。

 

 「順位」、人間はその概念に惹かれてしまうのではないでしょうか?アイドルの人気投票では、結果に人が一喜一憂します。僕が大好きな漫画エアマスターでも、深道ランキング(ストリートファイトの強さランキング)において自分が何位であるかということの名乗りや、その入れ替えが起こることでぶち上がることがありました。あと、ごっつええ感じであったコントの、世界一位の人もめちゃくちゃ良かったですね。

 「かんかん橋をわたって」に登場する嫁たちが、自分の名乗りを嫁姑番付何位の○○と言い出すところがめちゃくちゃよく、まだ見ぬ順位の女にもワクワクしてしまいます。そしてこれもまた社会だなと思いました。

 自分が嫁姑番付の何位であるかということが、それまで面識のなかった嫁たちの中に、序列による優劣や、仲間意識を芽生えさせます。それによって、個別の家庭事情でしかなかった、各家庭の嫁姑の事情が、番付を意識する人たちの中で共有される問題と化していくのです。

 

 そしてこの物語は、クライマックスに向かってより大きな嫁姑関係へと発展していきます。それは地域を牛耳る姑、ご新造さまの存在です。ご新造さまは嫁姑番付1位の姑側であると同時にもっと大きなものでもあります。地域の男児の名付け親に無理矢理なることで、彼らを産んだ嫁たちの姑となってしまうのです。川東という地域の全てのルールを牛耳る姑こそがご新造さまで、川東で暮らす人々はご新造さまのルールを受け入れる以外の選択肢がありません。

 

 ここが、この「かんかん橋をわたって」という漫画の凄みではないかと思っています。ここで起こっていることは、どれだけ奇異に見え、漫画の種類が変わったように見えても、あくまで語られていることは嫁姑問題であり、問題とされていることの根っこは全て同じことなのです。

 つまり、嫁となってしまった人々は、その姑の強いるルールを受け入れるしかないのだろうか?ということです。この問題は、漫画の中の様々な場所で繰り返され、既に場にあるルールに無理矢理従わざるを得なくなることによって、人の心に亀裂が入ったり、不幸な事故が起こったりします。

 

 ならば、去ることも選択肢のひとつです。かんかん橋をわたって、川東という地域を去ってしまえば、その支配力は弱まります。でも、第三の選択肢はないのか?という話ですよ。姑に強制されるものではなく、地域の人々が共有できる新しいルールを制定することができないのか?という話です。

 

 不二子のおこんじょうによって鍛えられた萌は、徐々に、不二子に似た部分を獲得していきます。人の心を操り、自分の思った通りに動かすような行動を始めます。それは不二子のルールを受け入れてしまったことの影響かもしれません。例えば、ある嫁姑の間のいさかいを、萌はむしろ増幅させ爆発したところに、共通の敵としての嫁の旦那を設定することで和解に持ち込んだりしました。

 そして、この物語は、ご新造さまという共通の敵を、不二子と萌の嫁姑が共通の敵と認識し、共闘することでクライマックスに向かっていきます。

 

 かんかん橋は封鎖され、そこから去るという選択肢を奪われた中で、川東の最後の戦いが始まるのです。

 

 ご新造さまは川東を支配するほどの影響力を持った姑ですが、彼女もまた嫁であった時期がありました。それはこの地域の経済に絶大な影響力を持った女傑の元に嫁いできた嫁です。女傑は、嫁に一切何も強いることがありませんでした。ありのままに自分の幸せを追求することを認めたのです。それは、嫁姑番付の中で苦しめられる人々とは真逆の姿でした。ともすれば素晴らしい試みであるとも思えるかもしれません。しかし、皮肉なことにその果てに生まれたものが稀代の嫁であり、なおかつ絶対的な姑であるご新造さまです。

 自分がルールを強いることと、相手のルールを無条件で受け入れることは、同じ選択肢の裏表でしかないのかもしれません。女傑は自分が生み出したご新造さまによって、哀れな末路を迎えました。

 それ自体が、川東にとっての呪いとして機能しているのです。嫁をあるがままにしていれば、姑は哀れに捨てられる。その恐怖が川東の嫁姑のいさかいの根底に存在しているのです。

 

 支配し、支配されるという関係性のどちらに嫁姑がなるかという権力闘争、それが一見何の変哲もない田舎で巻き起こっていた闘争です。それを根本から解消できる存在とは誰なのか?

 

 不二子は女傑の右腕と呼ばれるような存在でした。不二子の目的はご新造さまによる支配の体制を破壊することです。不二子はその名の通り、唯一無二の賢さと実行力と精神力を兼ね備えた姑でした。不二子がその気になれば、ご新造さまを失脚させることはできたはずです。でも、彼女は長い間それをすることをしませんでした。何故でしょうか?

 それは、たったひとりの孤高の強者である不二子がご新造さまに勝ったとしても、それは新しいルールの象徴が生まれるということに他ならないからです。頭がすげ代わるだけで、同じことが起こってしまうからです。誰かが与えるルールに、盲従する人々が、支配されてしまう人々が存在し続けます。

 だからこそ、不二子は求めました。第三の選択肢を作ることができる存在をです。それは、姑と戦いながら、地域の嫁たちとの絆を深め、その上の大姑大舅たちも味方につけることができる、孤高ではなく、集団をまとめ、皆で変革を起こすことができる存在です。

 だから、不二子は萌を嫁として鍛え上げることで、ついには自分に匹敵するほどの存在に仕立て上げたのです。

 

 はちゃめちゃに戦線が拡大してく様子が、めちゃくちゃ面白い「かんかん橋をわたって」ですが、その根底にあるのは、この思想ではないかと思いました。世の中には沢山の社会の間に、沢山の摩擦があります。ひとりで生きられれば、誰ともぶつからずそこから逃げられるかもしれませんが、人が効率よく生きるにはどこかの社会に所属しなければならないのもまた事実です。

 そこで生きるためには、その場に存在するルールを無条件で受け入れなければならないのか?人は結構そう思いがちなんじゃないでしょうか?苦しみに耐え、不満を噛み殺すことで、心を殺しながらしがみついてしまうことが苦しいなら、そこを去る以外にも方法はあるはずです。萌のように。

 

 だから、この漫画はすごく真っ当な漫画だと感じて、ストレートに心に響いてしまいました。でも、やっぱり順位が、順位がめっちゃ面白いんですよね。ついに分かる1位の女の謎や、最後まで不明だった9位の女の登場に、まあ興奮するわけじゃないですか。

 

 この物語の最後に至っても、不二子は別にいい人ではありません。嫁をいびっていた目的は分かりますが、それを萌が引き受けなければならない理由はありませんし、その中で取り返しのつかない事態も引き起こしてしまっているからです。

 でも、そんな、相容れない人間同士であったとしても、ご新造さまの支配を川東から取り払うという同じルールを共有している間は社会を作ることができるということが僕は希望だと思っていて、異なる人格を持った人と人とが社会を作る上では、そうであることが良いように思うんですよね。同じものに完全に染まって同化することなしに必要に応じて協力して生きられるということだからです。

 

 とにかくめちゃ良かったので、未読の皆さんも気になったら読んでみてください(めたくそネタバレ書いてしまいましたが…)。

「神クズ☆アイドル」とオタの欲目で見てくれ見てくれ関連

 とにかく顔がいい男なので、ただかっこいいだけでお金を稼げるかも??という理由からアイドルになった仁淀くんが、実際のアイドル活動は面倒くさくてやりたくないところに、うっかりやる気マンマンのアイドルの幽霊、最上アサヒちゃんがやってきて、憑依してアイドルをやったりする漫画、神クズ☆アイドルの2巻がでました。

 

 

 アイドルって、僕は自分から一番縁遠い存在だなと思うところがあって、それは僕が人の注目を集めると、自由に動けない性質の人間だからです。三十何年生きてきていると自分が何が原因でそうなるのかという自己分析はあって、つまり、僕は自分が何かを行動したときにそれが他人の目にどう映るかということを過剰に気にしてしまっているんですよね。だからとりわけ不特定多数の人に見られていると、色んな可能性を想像をしてしまい、一歩も動けなくなってしまいます。

 どのように他人の目に映りたいかをコントロールしたいのに最適解が見当たらず、むしろ何にもできなくなるという状況です。さながら、達人を目の前にして、どう動いても負ける予想しかできず、一歩も動けないままに参りましたと言ってしまう道場破りのようなものです。

 

 なので、僕はアイドルをやりたいと思う人の気持ちはよく分からないんです。でも、だからこそ、アイドルという存在に対して自分にはできないことをやっている人だなという畏敬の念があったりもします。

 自分が立っているだけでも十分めんどうくさいのに、なぜ他人に自分の元気を分け与えようとするほどに、無限のエネルギーが湧いてくるのか?永久機関を見せつけられたような気持にもなるわけですよ。そんなものがあり得るのかって思うわけですよ。そんなもの、自分の中をいくら探してもそれが出てこないのに。

 

 めんどくさいから何にもやりたくないという仁淀くんと、死してなおありあまる元気を仁淀くんの体で表現し続ける、天性のアイドルのアサヒちゃんのコンビは、その事情を知らないファンからすると元気だったり、元気じゃなかったりの寒暖差で竜巻でも起ころうかというもので、そのガチャ具合に困惑も引き起こしてしまいます。

 ここの仁淀オタの人たちの動きがすごくいいんですよね。パフォーマンスもやる気がない仁淀くんを推すことに決めた剛の者たちじゃないですか。やる気がないのが当たり前、でも、そこにガチャ的な確率で中身がアサヒちゃんの元気いっぱい、サービス精神満タンのパフォーマンスが出てきて、自分たちが好きなものを他人にも薦める好機だと捉えて動き始めるわけですよ。

 

 オタクは自分が好きなものを皆にも好きになってもらえると嬉しい(諸説あります)。

 

 この物語は2巻に入って加速するようなところがあります。それは同じくアイドルの瀬戸内くんの登場によってのことです。しかし、トップアイドルの瀬戸内くんは何故か仁淀くんに対して怒りを覚えているのです。その理由は仁淀くんのパフォーマンスにアサヒちゃんの影響を見ることができるからなのでした。それは中身がアサヒちゃんなので当たり前のことではあるのですが。

 

 瀬戸内くんはアサヒちゃんを見て、アイドルファンになり、自分もアサヒちゃんのように沢山の人に元気を与えたいと思って、アイドルになった男です。からっぽだった自分の中に、最上アサヒのような元気の永久機関が入ってくることで、生きる力が溢れてきたわけですよ。それと同じことを自分もファンの人たちにしようというわけです。

 瀬戸内くんは仁淀くんとは全く似ていませんが、仁淀くんと似たところもあります。それはこの2人、もともとからっぽだった2人だけが、この世界から死んで消えてしまったはずの最上アサヒというアイドルを、この世に再現しようとしているからです。

 もちろん、幽霊となったアサヒちゃんに出会ったことで、自分でアイドルをやりたくないから体を貸している仁淀くんと、ファンとして、アイドルとして、自分が最上アサヒから得たものを繋いでいこうとする瀬戸内くんは真逆ですが、これ、事情を知らない瀬戸内くん側からすると、違って見えてたりもしたんじゃないですかね?

 それはつまり、自分以外にも、自分と同じものを好きで、既に失われてしまったそれを再現しようとしている人が存在するという認識です。

 

 瀬戸内くんはそれを怒りとして表現しますが、マザーテレサが愛の反対は無関心と言ったように、その怒りは、それに注目して無視できないということですよ。だって、最上アサヒは瀬戸内くんにとってとても大切な自分の一部なのだから。

 

 僕の感覚では、人間の人格は、接する相手の数だけ存在しています。例えば親と接しているときの自分と、友達と接しているときの自分と、仕事場の人たちと接しているときの自分は違う人格でしょう?(それが一緒の人もいるかもしれませんが、僕は全然違うので、全然違うんですよ)。そうなってしまうのは、それぞれの場所おける自分の立場や、目の前の相手の人格に合わせて自然に出力されているものだと思っています。だから、人によって嘘の仮面をかぶっているというわけでもないと思うんですよ。

 そしてひとりでいるときには自分だけと接する人格があります。これを「本当の自分」なんて解釈もできるんですけど、僕はそれも違うと思っていて、自分とはきっと全部です。立場や人の数だけ存在する様々な人格のバリエーションを全部足したものが自分だと思っています。

 

 だから、「この人と接しているときの自分が好き」という感覚があります。ある人と一緒にいるときに、自分から自然と出てくる人格が、自分自身にとって心地よいかどうかという話があるんです。だから、この人のことは好きだけど、この人といるときの自分の人格が嫌いとか、この人のことはそこまで好きではないけど、この人といるときの自分の人格は心地よいとかがあるんですよね。

 具体的に言えば、すごく好きな人と一緒にいるけれど、その人が別の人の話をするときに嫉妬心が出てしまうとか、その人に嫌われたくなさ過ぎてキョドってしまう自分が好きではないみたいなことで、あるいは、長い付き合いの友達に対して、もはやめちゃくちゃ好きみたいな感情は出てこないけれど、気を張らなくても間が持つので、とにかく一緒にいて楽というというのが好きみたいな話です。

 

 これは実はアイドルに対してもそうなんじゃないでしょうか?

 

 アイドルのファンは、アイドルが好きなことはもちろんですけど、好きなアイドルを応援しているときの自分が好きというのもあるのではないかと思います。僕自身はアイドルにハマったことがないんですけど、好きな漫画に相対して感想を書いているときの自分が好きだったりします(今とか)。漫画はこっちを意識して見てくれるはずがないので、完全に僕からの一方通行な孤独な応援ですよ。でも、それが好きなんです。その状態の自分が好きなんです。

 だから、アイドルが好きという感情は、一個人と一個人としてファンがアイドルと接したいというようなものには限らず、アイドルとファンが存在する空間への帰属意識というか、その場にいることでなる自分の状態が自分で好きというのもあるんじゃないでしょうか?

 だとすれば、自分のそういう側面を引き出してくれるのがアイドルという在り方で、それはアサヒちゃんのように無限のエネルギーが溢れる天性のアイドルだけでなく、瀬戸内くんのように、ファンのために、ファンが自分を鏡としてよりよいファン自身を掴んでくれる環境を作り上げるみたいな仕事って感じのことを思いました。

 

 それは同時に、ファンを目の前にするアイドルとしての自分を作り上げるという、逆の目線もあるということじゃないかと思います。アイドルという概念は「ファンとアイドルの相互作用が作り上げる、人生において心地よい時間と空間」という感じがしています。

 そのような対象はアイドルじゃなくてもいいかもしれませんけど、人生において何かは必要じゃないですか!何かしらそういうものは!!必要じゃないですか!!それの方を向いているときの自分が好きなら、そっちを向いて生きるしかないじゃないですか!!貧困と将来の不安にまみれていた頃の僕なんかは、漫画を読むことがそれに当たって、それで救われてきたわけなんですよ。

 

 天然もののアサヒちゃんは特別として、アイドルが「アイドルとして生まれる」のではなく「アイドルになる」のが普通であれば、アイドルがアイドルになっていく過程はファンにとって代え難い体験なのかもしれません。それは、自分たちとアイドルが同じ方向を向いて、心地よい場所を作っていく時間だからです。共同作業とも思えるからです。それは永遠に続くものではないかもしれませんけど、今ここにそれがあり、それがなくなったあとでも胸の中には残るでしょう?

 瀬戸内くんは「最上アサヒのファンだった」という過去形で投げかけられた言葉を、「ファンだ」と現在形に訂正するわけなんですよ。

 

 仁淀くんも仁淀くんなりに、自分を応援するファンを見て、少しずつ変化をしていきます。人間と人間の相互作用で人間が変わっていくわけですよ。そして、ここで第一部完なんですよね…。

 

 僕は、この先もめちゃくちゃ読みたいので、単行本が爆売れするなどして第二部が始まってほしいという気持ちが強く、これを読んだ人も同じ気持ちになってくれよ…という感じになっています。

 

mgkkk.hatenablog.com

 

 最後に、めちゃ好きなシーンの話なんですけど、自分は人一倍やる気がないんだから、自分やるアイドルには人一倍やる気のあるアサヒちゃんがいてくれないと困ると言う仁淀くんに、「仁淀くん!私… 私 人一億倍やる気があります!」と嬉しそうに宣言するところで、僕は最初に書いたように、生きる上での元気があんまりないので、なんかそういう無限のエネルギーが湧いている存在を見ると、なんか泣いちゃうぐらいに嬉しくなっちゃうんですよね。

 たぶん、ハンターハンターでゴンを褒め称えるシュートみたいな感じですよ。もしくは、将太の寿司の大和寿司の親方が、父の日に将太くんに貰ったネクタイを締め、「見てくれ見てくれ」と嬉しそうに見せびらかして街を練り歩く感じですよ。

 

 これは自分じゃないけど、自分が好きなもので、それを皆もわかってくれよと思うということで、それがアイドルで、ゴンで、将太くんで、漫画だなあと思います。

抽象化された物語を具体例で解釈してしまう関連

 物語では現実に存在する問題を固有名詞もそのまま具体的に描くものと、一旦抽象化したあと何か別のものに置き換えて描くものがあると思います。どちらがいいかという話ではありませんが、具体的なものでは、現実と密連携されているため、描写の間違いにセンシティブであったり、実際にその問題に関係している人たちの心情にも配慮する必要もあるかもしれません。

 

 例えば、ある具体的な病気を漫画で取り扱ったとして、医学的な間違いを描いてしまうと問題もあるでしょうし、実際にその病気にかかっている人がその漫画を読んだときにショックを受けるような描写があるなら、少なからず人を傷つけてしまう可能性を織り込んだ上で描くことになると思います。傷つける意図はないかもしれません。でも、傷ついてしまう人がいるかもしれないことには目を向けた方がいいと僕は思います。その上で、描くか描かないかという話だと思うからです。

 

 一方、その問題を一旦抽象化して描く物語では、現実との連携が疎になるので、その辺が緩やかになります。病気で言うなら、架空の病気であれば医学的な間違いの厳密性は軽減されますし、実際にその病気にかかっている人は存在しませんから、人を傷つけてしまう可能性も小さくなります。

 つまり例えば物語の舞台が架空の世界ならば、そのような現実との間に起こり得る摩擦を考慮する範囲が狭まるということで、人間の集団の内外で起こることや各人間の心情を描くことに集中するためには、むしろ、そのように現実とのリンクが疎の方がいいのかもしれません。

 

 ただ、具体的に描くことにメリットがないのか?と言えば、そうでもないと思っていて、具体的だからこそ今実際にあるその問題についての理解が生じるかもしれませんし、読者側も実際に自分に関係あるものであったとしたら、人一倍心に響くかもしれません。個別具体なそれはときに届き過ぎる槍のようなものであるからこそ、リスクとの両面があると思うわけです。誰かの胸に強く突き刺さる可能性が高いからこそ、その強さは毒にも薬にもなると思います。

 

 さて、抽象化されて置き換えられたものについては、読んでいる個々人が、その抽象化された枠組みと似たものを自分の経験から見つけ出し、関連付けて理解したりします。僕が思うに、物語を読むことで得られる理解は、それを作った者ではなく、それを読んだ者の中にあるので、その抽象化されたものが普遍的なものであればあるほど、個々人の中から当てはまる経験が見つけやすく、きっと心に響きやすいでしょう。

 おそらく、その抽象化された物語に感じ入る個々人には、それに対応する個別の具体的な経験があるはずです。しかし、それは人によって当然違っているとも思います。同じ赤を見て、リンゴの色だと思う人もいれば、血の色だと思う人も、共産圏やカップのきつねうどんを思い浮かべる人もいるでしょう。それぞれが異なる具体的なものを思い浮かべているのに、それを同じ抽象化された枠組みで表現することができることの良さがあって、同時に怖さもあるかもしれません。

 

 ここで憶えていた方がいいと思うのは、そこで思い浮かべた具体的なものは、あくまで自分自身がそれに関連付けて理解したというだけであって、元となる抽象的なものは、そればかりではない無数の具体的なものになぞらえることができるものだということです。

 

 チャンピオンで連載中の「BEASTARS」では、肉食獣と草食獣が同じ社会を営む世界が描かれています。肉食獣には本能的な草食獣を食べたいという欲求があることが前提となっており、そのために草食獣が喰い殺される食殺事件が起こっては社会的な問題にもなっています。

 この物語の舞台は今僕たちが生きている現実の世界ではないですが、描かれている状況や感情には、自分が覚えがあるものが含まれていると僕は理解していて、この物語もまた、抽象化されたものを置き換えて描写されているものだと言えるでしょう。

 

 しかしながら前述のように、これはあくまで「BEASTARSの世界で起こっている問題を、一旦抽象的に捉えれば、自分の具体的な経験とリンクさせて理解することができる」というだけのことです。だから、BEASTARSの世界で起こっていることは、そこから自分が連想した具体的なものだけに閉じた話ではないと思った方がいいのではないかと思うのです。

 

 例えば「肉食獣が草食獣に感じる食欲」は「男から女への性欲」に置き換えて理解することが可能かもしれません。例えば、「肉食獣と草食獣の非対称な関係性」は「人種による差別」に置き換えて理解することも可能かもしれません。

 でも、他のものに置き換えることもできるはずです。草食獣に対する食欲を抱えてしまった肉食獣の苦悩が、もし男から女への性欲にしか変換して理解できないものだとしたら、では、この苦悩は女性には理解ができないものなのでしょうか?きっとそんなことはないはずです。自分がどうしても抱えてしまう欲求が他人を傷つける種類のものであるという抽象的な苦悩は、男の性欲以外にも存在するものだと思うからです。

 肉食獣と草食獣の関係性についても同様です。力が弱いために暴力に怯えながら暮らす生まれながらの弱者の苦悩や、力が強いがゆえにその行使を厳しく監視されてしまう生まれながらの強者の苦脳、その他にも色々な要素をその中に認めることができ、それらを現実の社会にある色々な具体的なものになぞらえて捉えることができるはずです。

 

 だから、この物語で描かれているこの描写は、実は現実に存在する○○を描いているのだという理解は、その読者一人の中の理解では真実かもしれませんが、その真実は実は人の数だけあるかもしれません。自分の中だけに閉じていれば間違いのない話を、その外にも適用しようとしてしまうということは、実はもともとの描写の持っていた豊かな枝葉について、一本を残して全てを切り落としてしまう行為かもしれないと思うわけです。

 

 ジェイムズ・ティプトリー・Jrの「接続された女」という小説があります。これは広告が禁止された未来のお話で、そこでは誰もの注目を集める魅力的な人間が、さりげなく商品を宣伝するという行為が横行しています。しかし、誰もの注目を集める魅力的な人たちに、こっそり広告を依頼するよりも効率的な方法を思いついた人たちがいました。それは、そんな魅力的な人間を意図的に創造することです。

 魅力的な容姿を伴ったボディに、別の女の精神だけが接続されることになります。その接続された女は、魅力的な振る舞いを演じることを求められます。

 広告塔となることを目的として、誰の目にも魅力的に映るように作られた彼女は、見事その意図通りに大衆の注目を集めることに成功します。さらには、ある大金持ちの御曹司に見初められることになるのですが、彼は彼女を理解しようとするあまりに、接続された女の真実の姿を見ることとなり…、というお話です。

 

 このあらすじを読んで、例えばCGの容姿で人間が活動する様子の動画を作っている「バーチャルユーチューバー」を思い出さなかったでしょうか?接続された女は1970年代に書かれた小説です。となれば、この小説は予言的ではないかと思わなかったでしょうか?

 

 この「接続された女」を、ジェイムズ・ティプトリー・Jrの母であるメアリー・ブラッドリーの著作「I Passed for White」と関連付けて評する文章を以前読んだことがあります(今調べたら「狭間の視線 ─メアリ・ヘイスティングス・ブラッドリー&ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア母娘に見るpassingの政治学小谷真理)」でした)。

 僕はこの「I Passed for White」を読んだことはありませんが、白人と黒人の混血である女性が主人公で、その見た目が白人にしか見えないことから問題が生じるお話だそうです。黒人差別が今よりもずっと色濃い時代に、見た目だけならば白人として取り扱われる女性が、その出自が周囲にバレないように奔走したり、自分の子に黒人の特徴が出ないかを危惧したり、そして、夫である白人男性が、黒人男性に向ける差別的な視線に気づいて傷ついたりする内容だというのです。

 これは確かに「接続された女」と似ている部分があります。魅力的な容姿と演じられた人格を備えた広告塔の裏には、醜い容姿と真実の人格を持った接続された女が隠れているからです。

 だとすれば、「接続された女」は予言的な物語ではなく、当時既に存在していた感覚を描いたものかもしれません。

 

 他人に求められるためには、その他人の物差しに見合う魅力的な容姿や人格を獲得しなければならないということ。しかしながら、その表にあるものは本当の自分自身ではなく、作り上げ演じた結果保っているものであって、その裏側には実はそうではないものが広がっており、その露見に対する恐怖があるということ。

 このような抽象的な枠組みについて、当時は混血児という具体になぞらえて理解したかもしれませんし、現代ではバーチャルユーチューバーという具体になぞらえて理解するのかもしれません。そしてもしかすると、何十年か先の未来には、別の理解も存在するかもしれないでしょう。

 

 だとすれば、「接続された女」が描いていたものは現代の予言ではなく、人間が抱える普遍的な課題への示唆と考えることもできます。その普遍的課題が一旦抽象的に捉えられたあと、「未来の物語」という形に置き換えて描かれたことが、当時と現代の生きる時代の異なる読者に対して、それぞれ異なる具体を対象にした理解を得られるという結果になったと考えることもできるのです。

 

 抽象的な物語にはその柔軟性があって、誰もが異なるものを思い浮かべながら、同じような気持ちになることができる余地があります。だから、その物語の持つ良さを社会で享受するためには、自分自身がある物語を具体的な何かになぞらえて理解したとして、それが唯一の解釈方法だとは思わない方がいいのではないかと思っているという話です(抽象的に書きました)。

 この文章は、せっかく様々な人が自分なりに解釈できる余地を残して抽象的に描かれている物語を、この物語は実はこの問題を描いていると解釈する方が正しい!と言っている人の文章を読んで、わざわざ狭く解釈することを他人にまで求めてやがるし、くそムカつくなあと思って書かれました(具体的に書きました)。

amazarashiの「デスゲーム」と京極夏彦の「邪魅の雫」は似てる説

 amazarashiの好きな歌のひとつに「デスゲーム」があるんですけど、この曲が歌っているものは京極夏彦の小説「邪魅の雫」で描かれているものと同じなのではないか?と思ったので、その話を書きます。

 

 邪魅の雫のネタバレが入るので、読みたくない人は読まないでください。

 

 邪魅の雫は、複数の人間の視点で進行する物語です。その主観は客観とは乖離しています。しかしながら、乖離した客観を構成する別の一人の主観もまた、客観とは乖離しているというような作りの物語になっています。

 つまり、あらゆる人間は、世界を構成する中のたった一人でしかなく、世界を砂浜とするならば、一粒の砂、いや、その一粒の砂にすら吸い込まれて消えてしまうほどの雫でしかないということを見せつけられます。

 読者は最初に読んだ複数の人間の主観的な物語が、実は客観的な視点では全て掛け違いでしかないことを後に知り、そこで起こったことは客観的には愚かなことではあったものの、主観的にはとても辻褄のあったものであったことも認識できるようになるのです。

 ただ、そこには、それぞれの人をそのように誘導した人と、人の殺意をそのまま殺人に転換できる魔法のような「雫」もあったわけなのですが。

 

 ひとりの人間の認知には限界があり、その視野に大きく欠けた部分は想像力で埋められます。自分が認識した論理的機序や因果関係は、その一滴の雫でしかないひとりの人間が、そう認識したというだけでしかなく、世界の在りようを決めるようなものではないのです。

 ここで問題なのは、自分が世界の中の一滴の雫でしかなかったとしても、それでも、自分自身にとってみれば、自分の認識は世界そのものであるという点です。自分にとっては1は全であるが、他人にとっては1は1でしかないというギャップに、人は悩み苦しんだりもします。

 

 さて、amazarashiのデスゲームは、「悪い奴は誰だ?」という繰り返される歌詞が象徴するように、人と人が疑心暗鬼になり他人を攻撃してしまうということ、例えば誰か悪い奴を見つけることで今目の前に広がる不協和を、上手く並べ替えて理解し、安心して納得するというような状況を歌っています。

 その「悪い奴」は客観的な意味で「悪い奴」でなくてもかまいません。その人間が悪い奴であったのなら、全ての辻褄が合うと認識できればそれでよいのです。

 

 「こう考えれば辻褄が合う」ということと「これが世界の真相だという認識」の差には、少なくともひとりの人間の中では大きな距離はないのではないかと僕は思います。なぜなら、僕自身にそういう経験が結構あるからです。

 

 デスゲームでは、テレビやラジオ、ネットや週刊誌で得た断片的な情報だけを元にして、実態があるのかもわからない悪い奴を探しては、それを攻撃することを止められない人々の様子を歌ったあと、こう続きます。

 

ああ 一滴の涙が 海に勝るとは知らなかったな

 

 誰かに与えられた断片的な情報から作り上げた、歪で不完全な主観の一滴が、この世界全てに勝るかのように思えてしまうということ、これは現代的な感覚でしょうか?

 ネットの情報を鵜呑みにして、歪な理解を元に誰かを攻撃するということ、それだけを見れば現代的と言えるかもしれません、でも、僕が思うに、これは普遍的な話です。類似の事例を色んな時代に探せることから、人間にはそういう性質があると思うからです。確かに、ネットやメディアがそれを増幅している部分もあると思いますが。

 

 誰かが誰かを悪者として見つけ、その首を絞める様子、そして、それは一方的ではなく順繰りで、誰しもが誰しもの首を緩やかに絞めているような人間社会に対する厭世感をデスゲームと表現し、自分の主観と異なる認識を持った正気な人を滑稽と評し、一番正しいと主観的に思える人が実は悪かもしれない。可能性を想像すれば無限に想像できるように、疑おうと思えば無限に疑うことができる世の中で、自分の頭の中という密室の中で何らかの答えを出すことを求められます。

 

 そのストレスとプレッシャーの中で、自分にとって都合が良い想像を事実と混同して飛びついてしまうことは、悪いことでしょうか?悪いことかもしれません。でも、その主観にシンクロできるとしたら、そこにはある程度の理解が生じるかもしれません。そこが悲しく、そしてやるせない気持ちにもなります。

 

正義も悪もない 事実は物語よりもくだらない

悪意で悪事を働く 悪人の影さえ見えない

エピローグ間近のこの世界で生き残るなら

一番正しい奴を疑え まず自分自身を疑え

 

 これはデスゲームの終盤に歌い上げられる歌詞で、実はくだらないだけかもしれないことに、悪意を見いだし、実在しない悪人と戦うつもりで首を絞め合っている人間の様子に見る悲しさから、その中で首を絞められたくないのならば、自分が今信じていることを疑うこと、常に疑い続けることを主張します。

 

 邪魅の雫でも、ある人が殺した人は、その人が想像した悪事を実際に犯した人ではなく、そうだと思い込まされていたがゆえに発生した犯行でした。京極堂がそれらの主観をまとめて客観を作り、事実を突き合わせてみれば、そこにあったのはくだらない勘違いです。くだらない勘違いが引き起こした殺人の連鎖であって、デスゲームです。

 

 自分は一滴の雫でしかないということを完全に徹底できる人はそうはいないでしょう。だからこれは他人事ではない話です。一番正しい奴を疑うことができず、自分自身も疑うことができなかった人たちが、取り返しのつかないことを引き起こし、引き起こされてしまったあとに流れる虚しい風のような物語であり、歌ではないでしょうか?

 

 このようなデスゲームの話を聞くと、もしかすると、「今のインターネットだ」とか思ったりしてしまうかもしれません。

 しかしながら、デスゲームが収録された「千年幸福論」は2011年の発売されたアルバム、邪魅の雫は2006年に発売された小説です。それ以前の歴史の中でも、流言から起きた殺人や暴動の連鎖などは枚挙に暇がありません。

 これは人間という不完全な認知しか持たない存在が、ときに引き起こしてしまうバグのようなもので、目の前に存在するものを情報が欠けていてもなんとか理解しようとする能力と、そして、理解できないものが目の前にあるときに感じてしまう不安の組み合わせで起こるような気がしています。

 そして、それはそんなことがあると認識していたとしてもハマってしまうことがあるという恐ろしいことです。

 

 常に自分が本当に正しいのかどうかを疑い続けるということは容易ではありません。どこからかいい加減な自分の方が正しい証拠を見つけ出してきては、補強してしまったりもするわけです。

 何かの情報Aが開示され、それに反する別の情報Bが遅れてきたときに、Aが自分にとって不都合なら、それを否定できるBに深く疑いもせずに飛びついてしまったりもするわけです。逆にAが自分にとって都合がいいなら、なんらかの理屈付けをしてBを否定してしまったりもするでしょう。

 その背後にあるのは自分の損得であって、人は正しくも損をする選択よりも、間違っていても得をする選択を選んでしまったりもします。後者の行動は間違っているでしょうか?では、正しいけれど損をし続けるということが正しいなら、その人は正しさの名のもとに損をし続けなければならないのでしょうか?

 

 そのような環境の中では、人はうすうす間違っていると知りながらも、自分に都合が良いだけのいい加減な情報をまるで事実であるかのように取り扱ってしまったりもするわけです。繰り返しますけど他人事ではないですよ。自分だってやってしまうことです。

 「このようなことをしてしまうのは愚かな人だけである」というように、誰かを悪い奴として探してしまうことそのものが、その入り口になるということを認識しておかなければなりません。

 

 デスゲームと邪魅の雫、まあ似てないっちゃ似てなくて、自分や自分が信頼している人を疑えない人が、勘違いで起こしてしまう悲劇や、それを海の中の一滴の雫や、砂浜の砂一粒のように表現してしまうこと、あとピックアップするなら「人殺しの道具が 人一人の価値に勝る」という歌詞あたりですかね。

 箇条書きすれば似ているものなんて無数にあるので、その程度の似ている具合です。でも、その根底には、人間が逃れようとしても逃れきれない問題があるような気がしていて、これは普遍的な話ではないかと思ったので、そういうことを書きました。

人間が機能しか求められないことの気楽さとしんどさの話

 昔なんかの研修かなんかで聞いたのは、人間が顔と名前とパーソナリティーを把握して、コミュニケーションをとれる人数の限界が200人ぐらいという話です。これは実感と合うようには思っています。ただ、僕個人の能力としてはもっと人数が少ないようにも思いますが。

 

 でも、都会で暮らしていると一日ですれ違う人の数は200人どころではありません。だから、もしかすると、人間は他人をそれぞれ意志を持った個人として捉えないことで都会の生活をやっているのではないかと思ったりします。

 なぜなら、僕もまた多くの場合、「人間」を「人間でない」と思っておかないと生活するのが厳しい感じがするからです。例えば、休日に偶然知り合い(そんなに親しくない)を見かけると、その場をこそこそ逃げ出してしまうこともあります。それは、人間に見られてしまうと、自分が自然体ではなく、他人の目を意識した自分になってしまうことがストレスだと感じるからです。せめて仕事のとき以外は、そのモードにならずに済むようにしたいと思ってしまうのです。

 つまり、僕が休日にひとりで街をぶらぶらしていても平気なのは、周囲にいる人たちが知らない人だからでしょう。個体識別した人間ではないことが安心の理由です。街にいる人の全てが知り合いだったとしたら、僕は休日に街には出て行かないかもしれません。満員電車に乗れるのも、周りが知らない人たちばかりだからではないかと思います。もし、知り合いしかいない満員電車なら、その中での押し合いへし合いのストレスが強過ぎて乗ることができないかもしれません。

 

 僕が都会で生活をしていて話す相手は、仕事以外ではほぼお店の人です。話すと言っても、僕はお店の人には、お店の人という機能しか求めていません。レジに商品や伝票を持っていき、お金を渡して会計をしてもらうという機能です。その事務的なこと以上のことは求めていないわけですよ。だから、お店の人に、個体識別されて何かを言われてしまうと、その店に行く足が遠のいてしまいます。それは、人と人としてコミュニケーションになってしまうからです。コミュニケーションが必要なら、コミュニケーションをとれるという気合があるときしか行くことができません。

 そういう意味では、最近はちょこちょこ見るセルフレジなんかも好きですね。楽だからです。

 

 一方、人間に対して、そのような形で機能しか求めないということは、その人がその機能以外に持っている沢山の部分を意図的に無視しているということでもあります。それは場合によっては失礼なことにもなるでしょう。目の前にいる人は機能を提供してくれる人かもしれないけれど、別の側面では、自分と同等の権利を持った人間でもあるということが抜け落ちているからです。

 たとえ、人がその担う機能を満足に果たせなかったとしても、体調不良とか、家庭の心配とか、仕事が多くてパニックになっているとか、まだ仕事を始めたばかりで慣れていないとか、事故や災害で緊急事態であるとか、他にも様々な個別の事情を抱えていることがあるはずです。人間なのだから。でも、機能としてでしか人しか見ていないと、それを意図的に無視してしまいます。それはよいことでしょうか?

 そんなことは客である自分には関係ない、そちらは店で、こちらは客なのだから、個別に事情があろうが、言い訳せずにさっさと機能としての役割を果たせ!などと言ってしまうこともあるかもしれません。そこにはある程度の正しさもあるでしょう。でも、やっぱり人間と人間ですよ。それを無視して、お前は人間としてではなく、機能としてしか求められていないということは、人の尊厳に関係することなのではないでしょうか?

 

 僕は人間関係があまり得意ではないですが、他人と機能としてなら接することはそれよりはましにできます。そのとき、人間と自動販売機はほぼほぼ同じ意味であって、自動販売機に対してまで恐縮することはないので大丈夫な感じです。でも、そこから少しの人間臭さを読み取ってしまうと、無理になってしまうこともあります。

 例えば、店員さんが忙しそうにしているときに、お会計お願いします伝えるのを、やっている途中の作業の切れ目ができるまで待ってしまったりします。それは、作業中に中断させられるのは嫌かもしれないなという想像があるからです。でも、そんなことをいちいち想像してまごまごせずに、さっさと金払って出て行けやという方が向こうからしても良いのかもしれません。

 分からないですよ。人間なんだから。ちゃんとコミュニケーションをとらないと分からないです。機能なら分かります。何をどうすれば一番都合が良いかが決まっているからです。

 

 僕は自分の少ない許容限界が無理にならないように、他人とはできるだけ機能としてでしか接さないようにしています。でも、その機能が十分満たされないときには、相手を人間として捉えないといけないなと思うこともあって、それは人間は人間だから機械じゃないし、やっぱり色々あるよと思っちゃうからなんですよね。実際、機械にだって色々あって上手く動かないときがあるわけですよ。いわんや人間をやですよ。

 

 まとめると、僕には「人間を機能でしか見ないことでようやく社会でやっていける」という困った性質があって、でも一方で人間に機能しか求めないことは相手に過度の負担をかけたり、尊厳を傷つける可能性もあるんじゃないかと危惧していたりもします。

 

 この機能というのは役割と言い換えてもいいかもしれません。ここまで例示したのはお客とお店との関係性ですが、家族や会社でもそういうことはあります。例えば、親も同じ人間ですが、親としての機能しか求めないということはよいことでしょうか?それが会社で、上司としてのとか、部下としてのとか、そういう役割だけを求めることはよいことでしょうか?そこからいつの間にか人間としての意味合いが剥奪されていたりはしないでしょうか?

 

 僕はやっぱり人付き合いが苦手過ぎるので、他人との連携は機能的な部分だけにして、社会を回す機能としての歯車にはなるけれど、人として人の中にはあまり参加せずにやり過ごそうとしてしまいがちです。ですが、自分はそれを全うするにしても、他人がそれを全うしてくれないときに、はて、自分はどうするんだろう?という疑問が湧いてきます。

 

 親であるのに、親が果たすべきことをしないであるだとか、上司や部下であるのに、果たすべきことをしないとかいうことになると、やっぱりそこには不満が出てくるのかもしれません。でも、それぞれの人は、その担った機能としての役割を、本当に喜んで受け入れているのだろうか?という疑問も残ります。

 本当はそんな機能を担いたくないのに、そうせざるを得ないだけかもしれないじゃないですか。

 

 僕が仕事をしているのは生きるためにお金が必要だからで、上司の部下であったり、部下の上司であったりという機能は、特に望んでいるわけではありません。それを全うすることが、自分が今足を置いてもいい場所を維持すると思っているだけです。そこに足を置く以上は、その機能を演じるしかないと思い込んでいるだけなのかもしれません。

 だから、その機能を求められることが苦痛であるならば、別の居場所を探せばいいかなというような気持ちもあります。

 

 僕自身がそれから逃れることが困難であるように、僕が求められている機能を全うしないと、他人から責められることがあります。あなたはそうすべきなのにそうしない、なぜそうしないのか?そうしろ!と責められることがあります。

 僕は若い頃、早くおっさんになりたかったんですよ。それは僕が若い男として求められる機能に対して、ちっとも応えたくなかったからです。知り合いの若い女の人に(当時は僕の方も若かったですが)、ざっくり言えば「私は若い女であなたは若い男なのだから、当然こうすべきだ」ということを求められ、そうしないことに文句を言われることも頻繁にありました。僕はそれがかなり辛かったんですよ。なんで、この人たちは僕が当たり前にそうするべきだと思い込んでいるんだろうと思ったからです。だから、そういう機能を求められる対象から、早く外れたくて仕方がありませんでした。

 

 ネットとかでも同じ種類のことを感じることがあって、知らない人がなぜだか、僕がその人に評価されたいはずだと思い込んでいることがあります。だから、「私に評価されたければ、あなたはこのように振る舞うべきだ」という言葉を投げかけられることがあります。僕にはその人に評価されたいなんて気持ちがありませんから、そのように振る舞う必要なんてないわけですけど、それはつまり「ネット上に何かを発表している人は、当然より多くの人に評価されたいはずだから、そのような意見を伝えれば作っているものに喜んで反映する」という機能が求められているということだと思うんですよね。

 作っている人は、より多くの人に褒められたいはずだという定型的な人間像が設定され、そこにある像から乖離した反応が想定されていません。。

 褒められたら喜ばないといけないし、不快にさせたら謝らないといけないし、要望を受けたら応えないといけないしということが、暗黙の正しい行動として勝手に理解されていることがあって、作ったものを見て貰えれば嬉しがるべきだし、より多くのRTやいいねが付けば当然喜ぶはずだろうしで、その機能にそぐわない行動をとると、なぜそうしないのか?と言われたりもします。

 

 答えは単純で「僕はそうしたくないから」ですよ。前提とされている条件は、ある種の傾向としてはあるのかもしれませんが、個別具体の人にとって当てはまるかどうかは分かりません。

 

 相手が自分と同じひとりの人間であるということが分かっていれば、容易に推察できることを、他人を自分の生活の中における機能のひとつとしてしか認知していないと、その機能を全うしないということについて否定的な態度をとられることがあるわけです。

 

 ただ、最初に書いたように、人が自分の認知の限界を超えた大量の人の中で生きるには、あらゆる人を人として認識することはあきらめて、人を機能として単純化して取り扱わざるを得ないことがあります。僕は自分自身がそうであることから、それは仕方がないと思う側面と、とはいえ、その定型化された機能から外れる行動を咎められることの不快感の両面を持ち合わせているなということを思うわけです。

 

 人間が何らかの属性を元に、単純化されて理解され、その定型化された機能のみを求められ、それに応える以外の反応が認めれないということの辛さを理解するにもかかわらず、他人に対しては同じことをしてしまうという悲しい状況が世の中にはあると思っていて、それは人間が周囲の人間の認知に割ける能力の限界があるからなんじゃないかなと思ったりします。

 ほら、僕はその能力がたぶん他の人より低いので、それがより分かるような気もするんですよ。

 

 こんな人がいるはずがないなという想定は、いつも実際よりは狭くて、例えば、白米が嫌いな人なんていないと以前の僕は思っていましたが、そうでもない人がいることを知って、よかれと思ってご飯を勧めてたのが間違いだったと気づいたことがあります。

 僕は相手を実態よりも単純化したものとして理解していたために、だから喜ぶはずだし、喜ばないのはおかしいなんて思っちゃったりしたのは、完全に僕の間違いでした。

 でも、もし僕のが最初に思った偏見による勘違いが世の中の全てだったとしたら、同じ行動には同じ結果が返ってくることが想定できるので楽でしょう?だから、そんな楽にすがって、良くないこともしちゃったりするわけですよ。

 

 自分が気楽にやることが他人へのしんどさを生み出しているのだろうし、自分のしんどさは他人が気楽にやりたいがためだったりします。部下に仕事を言いつけたら、はいと元気よく返事して、期日までに完璧にやってくれたら楽でしょう?だから、そうすることが部下のつとめだなんて、機能しか見ていないことを思っちゃったりもするわけですよ。それ以外の反応なんて求めてなかったりするわけですよ。

 でも、それってやっぱりおかしいですよね。人はそれぞれ個別の人なのだし。

 

 色々そういうことを考えるにつけ、自分が社会で生活することには向いていないのだろうなという実感ばかりを深めていきますが、それでも気楽に生きていきたい気持ちが強いので、なあなんとか上手い具合にやっていこうという曖昧なことを思いました。

「めしにしましょう」と料理漫画の競争領域関連

 「めしにしましょう」は、イブニングで連載されている料理漫画ですが、毎回何かしらの意味で極端なレシピの料理が作られる様子が描かれていて、すごく面白いです。

 

 漫画の特徴とは何か?という問いには色々な答え方があると思いますが、僕が思うにそのひとつの答え方は「誇張と省略」ではないかと思います。描くべきことを誇張し、描く必要のないことを省略するということが、漫画的であると言えるのではないかと僕は思うからです。

 これは分かりやすいところでは絵に対するもので、日本の漫画では、写実的な絵と比較して目が大きく描かれ、鼻が省略されることが多い傾向があるでしょう。それはつまり、人の顔を漫画の中で表現する上で、目は誇張すべき部分ですが、鼻は省略すべき部分であると思われがちだからだと思います。例えば感情を表情の絵で表現をしたい場合に目ですることが多く、鼻ですることが少なければ、目をより大きく描き、微細な表現をしやすくすることに有用性があると言えるのではないでしょうか?

 このように何を誇張して何を省略するかは、表現したいものをより明確に読者に伝えるために重要なことです。

 

 これは絵だけでなく物語自体にも適用されることだと思います。その漫画が何を描きたいかは、何を誇張して描き、何を省略して描かないかに見て取ることができるはずです。その意味で「めしにしましょう」はめちゃくちゃ思い切りのよい取捨選択をしているように思うんですよね。

 

 料理漫画でありがちな要素を考えてみると、

  1. 料理を作る理由の提示
  2. 食材を手に入れる工程
  3. 調理の手順
  4. 食べたときのリアクション
  5. 料理による問題の解決

 以上、5つが思い当たります。

 

 つまり、(1)まずはなぜその料理を作らなければならないのかという状況が提示され、(2)そのために必要な材料を調達する必要があります。(3)手に入れた材料を調理して料理が完成すると、(4)それを食べた人のリアクションによる美味さの説明があり、最後に(5)その料理を作ったことで当初の問題が解決されたりします。

 

 よくある漫画の物語では1と5が重要視されます。それはその部分が人間の物語だからだと思います。それは僕が思うに、人間が鼻よりも目からより多くの感情を読み取りやすいように、人間は人間の物語からより微細な感情を読み取れるからなのではないでしょうか?今風に言えば「解像度が高い」ということだと思います。

 この例で言えば擬人化などがあります。例えば宇宙探査の「はやぶさ」は機械であって、人が飛ばしたものですが、このはやぶさ自身を人に見立てて、頑張れと応援するような光景を目にすることがあります。なぜそうするのかと言えば、対象が機械ではなく、人であった方が解像度が高くより多くの情報を読み取れるからなのだと思うのです。

 だから漫画では少ない描写からより解像度の高い情報を提示するため、人の物語が描かれがちです。

 

 しかしながら、めしにしましょうで描かれるものは主に3です。それと0です。0というのは、料理そのものにはあまり関係のないことも多いギャグパートです。そしてなにより、2の食材調達を過激な方法で省略するのがすごい。過激な方法で省略とはつまり、なんだか分からない謎の物の中に手を突っ込むと必要な食材が出てきたり、無の空中からいきなり食材が出てきたりします。

 

 この思い切り、なかなかできることではありません。

 

 もちろん、回によっては食材を手に入れるところをじっくり描くこともあります。しかし、そこにコマを割く必要がないとなったら、バシバシ過程を省略していきなり結果だけを得ていく(ジョジョの奇妙な冒険第五部のキングクリムゾンの能力のように)のがこの漫画の面白いところで、それは描くべき部分がはっきりしているからなんじゃないかと思うんですよね。だからこそ、描く必要がないこともはっきりします。

 必要なものを誇張し、不要なものを省略することを漫画的と言うならば、この漫画はとても漫画的な漫画だと言えます。

 

 3の調理の過程をじっくり描くということは、それがこの漫画の武器であるということでしょう。実際に試作した経験を踏まえた、何らかの意味でやりすぎな料理を作るということが、他の料理漫画との差別化要素になるということだと思います。

 0の料理漫画にはありがちではないギャグパートが入ってくるのは、これもまたこの漫画の個性で、他の漫画にはない風合いを出している部分がここに凝縮されています。極端な思考を持ったキャラクター性が、漫画全体に極端な進行をさせることを許容する背景を作り上げているように思うからです。

 

 さて以前、作者の小林銅蟲氏が料理対決をするイベントに行ったとき、審査員としてゲストに来ていた寺沢大介氏が印象深いコメントをしていました。

 ご自身が少年誌で料理漫画を描いていたときは、とにかくわかりやすくということを第一に置いており、料理の知識が全くない人でも読めるようにと、ときには編集者によって説明台詞を追加されることさえもあったそうです。

 

 これはそのときはそれが必要なことであったため、省略することができなかったということだと思います。料理漫画を数々読んできた我々としては、今となっては当然のようなことで作中の登場人物たちが驚いていたとしても、今となっては分かり切っていることを長々と説明されたとしても、それは料理の知識が全くない人でも読めるようにするための必要な工程であって、少なくとも当時にそれを省略することは対象となる読者を減らしてしまう可能性が高いことだったのではないでしょうか?

 しかしながら、昨今の料理漫画では、こんなことは読者は当然知っているよね?で省略されて、そのまま進んでおり、それに読者がついて行っているということが感慨深いとコメントをしていたのです。

 

 前述の料理漫画にありがちな5要素、寺沢大介氏の漫画では、その全てが非常に丁寧に描かれています。レーダーチャートを描くなら、全ての要素が高い数値を示しているということが、料理漫画というジャンルを切り開いてきた一人として出す凄みのように思います。

 しかしながら、一人の作者の中でもそのチャートの変化は時間の経過に従ってあるもので、例えば「将太の寿司」と「将太の寿司 全国大会編」、そして「将太の寿司2」のそれぞれでは分かりやすくそのバランスに変化が生じています。

 

 以下、直接は関係ないですが寿司の文章です。

mgkkk.hatenablog.com

 

 寿司を知らない人に対しても分かりやすく描かれた内容だとしても、漫画を読み続けた読者にとっては自明の領域がどんどん広がっていくため、全国大会編では明確に寿司そのもの以外の面白い要素が増加していますし、2ではその過程に様々な料理漫画があったことを踏まえての、未来の物語となっています。

 

 漫画を取り巻く時代性によって、何を誇張し、何を省略すべきかは変わっていきます。かつての正解が、今も正解かは分かりません。

 

 料理漫画の料理部分に対する主要なウンチクが、出そろってしまった後には、料理に対するリアクションを誇張した漫画が増えたり(4を誇張)、「僕は君を太らせたい」のように、山に海においそれとは出会えない特殊な食材を採りに行く部分が誇張される漫画が生まれたり(2を誇張)します。「きのう何食べた」では、めしにしましょうと同様に調理の過程を丁寧に描くことで(3を誇張)、漫画を読んでいるだけなのにその味を頭の中で具体的に想像できたりもします。1や5の誇張として、料理で世界征服をしたり、人間の精神を直接救済したりする漫画もありますね。

 前に以下のような文章も書きました。

mgkkk.hatenablog.com

 

 料理漫画は、王道的なものを構成する材料が結構出そろっているために、昨今ではその中でどの部分を売りにするかが、その個性を決めるための重要な競争領域になっているように思います。レーダーチャートで描くなら、槍のように一部分が強烈に突出したものでなければ目立つことは難しいのかもしれません。

 であるならば、その強調する部分を強烈に協調するためにも、限られたページ数の中で何を描かないで済ますかが重要な部分があると僕は思っていて、こともなげに食材調達の要素を全省略してきたのはすごいなと思った次第です。

 

 上述の1~5の要素の中で何を全省略しても物語が描けるのか、考えてみるのも面白いかもしれませんね。

なぜオタクは自分が好きなものを世の中に広めようとしてしまうのか?

 オタクなので、自分が好きなものを世の中に広めたいという気持ちが湧いてしまいます。

 

 これ、昔からなんでかなあと思い続けていて、だって、別にそれが広まったところで、自分にお金が入ってくるわけでもないし、その作品の評価が自分の評価になるわけでもないじゃないですか。別にメリットはないわけですよ。じゃあなんでわざわざ労力をかけてまでそんなことをしてしまうのかなと思ってしまいます。

 

 その対象があまり世間的に知名度のない漫画であれば、それが広まることで連載が長く続いてくれるというようなメリットもあるように思いますが、自分の胸に手を当てて考えてみて、それは核心ではないような気がするわけです。

 だってそれじゃあ、既にそこそこ売れている漫画なんかに関してはその気持ちが湧かないはずですけど、ぜんぜん湧いて出ますからね。

 

 で、一応今の結論が出たんですけど、これは「自分の頭の外が、自分の頭の中と同じであって欲しいという願望」なんじゃないかと思いました。これは最近よく考えていることの延長の話です。

 

 人間は、自分の頭の中を生きているわけですが、生きる中では自分の頭の外とも接する機会が沢山あります。その時、自分の頭の外が、頭の中と違っているとストレスを感じてしまうんだと思うんですよね。

 「お米はおいしいな」という認識が自分の頭の中にあったとして、自分の頭の外にいる他の人たちが、「いや、お米は不味いよ」と言ってきたとしたらどうでしょうか?ストレスなんじゃないでしょうか?

 そんな時、「そんなことはない!お米は美味しいよ!!」と相手に食ってかかったり、「そうだよね、言われてみればお米は不味いのかもしれない」と自分の認識をそちらに合わせたり、「はー、この人はお米を不味いと思っちゃうんだな」と自分と切り離したりをしなければならなくなります。つまり、自分が単純にあるがままではいられないので、こういうのが頻繁にあるとしんどいように思います。

 だから、「最初からみんながお米を大好きであってくれ!!」って思っちゃったりしませんか?だから、そうなるように行動しちゃったりするんじゃないかと思うんですよ。

 

 自分が好きなものは、みんなも好きであってほしいし、自分が嫌いなものは、みんなも嫌いであってほしいなんて思っちゃったりします。このような、最初から自分の頭の中と外が一致しておいて欲しいという願いが、自分にはあるような気がするんですよ。

 だから、少しでもそうなるように、これが面白いよって話をしてしまったりしてる気がします。

 

 ただ実際には、自分の頭の中と外にギャップがある方が当たり前なので、そう簡単にはいかないですよね?だから、自分の頭の中ほどに外で評価されていないと思ったものには「もっと評価されるべき」と言ってしまったり、自分の頭の中では評価が低いものが世間的に評価されていると「世間は分かっていない」みたいな話を延々してしまったりします。

 でもそれってまとめると、「自分の頭の外が自分の頭の中のようになっていないこと」が嫌で嫌で仕方がないみたいな感情で、それって実は不毛なことなのかもしれません。だって、頭の中は人の数だけあるので、全員の願望が同時に全部満たされることってないじゃないですか。

 

 そう考えてみると、世の中の全部を無理やりにでも自分色に染めてやる!!みたいなことをし続けるには無限の力が必要だと思ってしまいますから、早めに諦めて、なんかぼんやりと、へえ、みんなはそうなんだね、僕はこれをこう思うけど…みたいに、自分の頭の中と外は違うものだということを受け入れてしまって、自分の頭の中だけで辻褄があっていればもうそれでいいじゃないか…みたいな気持ちも生まれてきます。

 

 別にそれでいいんですよ。自分が楽しめりゃそれ以上望むところはないですからね。僕は。個人的には。これはおそらく老化なのではないかとも思いますが。

 

 なお、自分に対してこう思うということは、他人に対しても同じ目線を持ってしまうということです。なので、自分の好きなものを必死で広めようとしていたり、自分が嫌いなものが世間でウケているときに怒ってしまったいるする人については、今の状態がギャップがあって辛いんだろうなという解釈をしてしまいます。だから、それをなんとか解消したいのだと。

 

 オタクがとりわけそんな感じになるというのは、オタクって基本的にはマイノリティですから、自然な状態だとそのギャップが大きく見えてしまうんだと思うんですよね。だって、自分が好きなものが最初から世間でウケているものと概ね一致していれば、その感情自体が最初から生まれないじゃないですか。

 どうして自分が好きなもの、嫌いなものは、世の中で大勢のそれと一致していないんだろう?という気持ちを解消するための活動が、これが面白いよってみんなに言ってしまったりすることであって、それが上手く行けばギャップが減って生活がしやすくなりますし、失敗すれば余計にしんどいみたいな感じなるでしょうね。きっと。

 

 僕はそういうのはもう疲れたので、そういうオタクの気持ちはひとりで抱えてりゃそれで充分だな、みたいな感じに落ち着きつつありますけど、それは僕がそういう方法を選んだだけで、正解ってわけでもないと思います。

 

 人は、日々、自分がどうあるかということと、それに対して世間はどうであるかということをすごく気にしてしまったりして、それぞれの人がそれぞれのやり方で、そのギャップを解消しようとしているんじゃないでしょうか?

 そして、そのやり方が人と人との間で矛盾してしまうと、喧嘩になってしまったりもするのでしょう。でも、それはたぶんもう仕方ないんですよ。全員の気持ちが一意に解決されることなんてありえないからです。

 

 それぞれの人が、歳を食うにつれてそれぞれのやり方で、その上手い折り合いのつけ方を得ていくのかもしれませんし、元気いっぱいなら生涯戦い続けるのかもしれません。

 結論としては、僕はそういう気持ちはあるにはあっても周りをどうにかしようと息巻く元気はもうないな、ということを思いました。