漫画皇国

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人間が機能しか求められないことの気楽さとしんどさの話

 昔なんかの研修かなんかで聞いたのは、人間が顔と名前とパーソナリティーを把握して、コミュニケーションをとれる人数の限界が200人ぐらいという話です。これは実感と合うようには思っています。ただ、僕個人の能力としてはもっと人数が少ないようにも思いますが。

 

 でも、都会で暮らしていると一日ですれ違う人の数は200人どころではありません。だから、もしかすると、人間は他人をそれぞれ意志を持った個人として捉えないことで都会の生活をやっているのではないかと思ったりします。

 なぜなら、僕もまた多くの場合、「人間」を「人間でない」と思っておかないと生活するのが厳しい感じがするからです。例えば、休日に偶然知り合い(そんなに親しくない)を見かけると、その場をこそこそ逃げ出してしまうこともあります。それは、人間に見られてしまうと、自分が自然体ではなく、他人の目を意識した自分になってしまうことがストレスだと感じるからです。せめて仕事のとき以外は、そのモードにならずに済むようにしたいと思ってしまうのです。

 つまり、僕が休日にひとりで街をぶらぶらしていても平気なのは、周囲にいる人たちが知らない人だからでしょう。個体識別した人間ではないことが安心の理由です。街にいる人の全てが知り合いだったとしたら、僕は休日に街には出て行かないかもしれません。満員電車に乗れるのも、周りが知らない人たちばかりだからではないかと思います。もし、知り合いしかいない満員電車なら、その中での押し合いへし合いのストレスが強過ぎて乗ることができないかもしれません。

 

 僕が都会で生活をしていて話す相手は、仕事以外ではほぼお店の人です。話すと言っても、僕はお店の人には、お店の人という機能しか求めていません。レジに商品や伝票を持っていき、お金を渡して会計をしてもらうという機能です。その事務的なこと以上のことは求めていないわけですよ。だから、お店の人に、個体識別されて何かを言われてしまうと、その店に行く足が遠のいてしまいます。それは、人と人としてコミュニケーションになってしまうからです。コミュニケーションが必要なら、コミュニケーションをとれるという気合があるときしか行くことができません。

 そういう意味では、最近はちょこちょこ見るセルフレジなんかも好きですね。楽だからです。

 

 一方、人間に対して、そのような形で機能しか求めないということは、その人がその機能以外に持っている沢山の部分を意図的に無視しているということでもあります。それは場合によっては失礼なことにもなるでしょう。目の前にいる人は機能を提供してくれる人かもしれないけれど、別の側面では、自分と同等の権利を持った人間でもあるということが抜け落ちているからです。

 たとえ、人がその担う機能を満足に果たせなかったとしても、体調不良とか、家庭の心配とか、仕事が多くてパニックになっているとか、まだ仕事を始めたばかりで慣れていないとか、事故や災害で緊急事態であるとか、他にも様々な個別の事情を抱えていることがあるはずです。人間なのだから。でも、機能としてでしか人しか見ていないと、それを意図的に無視してしまいます。それはよいことでしょうか?

 そんなことは客である自分には関係ない、そちらは店で、こちらは客なのだから、個別に事情があろうが、言い訳せずにさっさと機能としての役割を果たせ!などと言ってしまうこともあるかもしれません。そこにはある程度の正しさもあるでしょう。でも、やっぱり人間と人間ですよ。それを無視して、お前は人間としてではなく、機能としてしか求められていないということは、人の尊厳に関係することなのではないでしょうか?

 

 僕は人間関係があまり得意ではないですが、他人と機能としてなら接することはそれよりはましにできます。そのとき、人間と自動販売機はほぼほぼ同じ意味であって、自動販売機に対してまで恐縮することはないので大丈夫な感じです。でも、そこから少しの人間臭さを読み取ってしまうと、無理になってしまうこともあります。

 例えば、店員さんが忙しそうにしているときに、お会計お願いします伝えるのを、やっている途中の作業の切れ目ができるまで待ってしまったりします。それは、作業中に中断させられるのは嫌かもしれないなという想像があるからです。でも、そんなことをいちいち想像してまごまごせずに、さっさと金払って出て行けやという方が向こうからしても良いのかもしれません。

 分からないですよ。人間なんだから。ちゃんとコミュニケーションをとらないと分からないです。機能なら分かります。何をどうすれば一番都合が良いかが決まっているからです。

 

 僕は自分の少ない許容限界が無理にならないように、他人とはできるだけ機能としてでしか接さないようにしています。でも、その機能が十分満たされないときには、相手を人間として捉えないといけないなと思うこともあって、それは人間は人間だから機械じゃないし、やっぱり色々あるよと思っちゃうからなんですよね。実際、機械にだって色々あって上手く動かないときがあるわけですよ。いわんや人間をやですよ。

 

 まとめると、僕には「人間を機能でしか見ないことでようやく社会でやっていける」という困った性質があって、でも一方で人間に機能しか求めないことは相手に過度の負担をかけたり、尊厳を傷つける可能性もあるんじゃないかと危惧していたりもします。

 

 この機能というのは役割と言い換えてもいいかもしれません。ここまで例示したのはお客とお店との関係性ですが、家族や会社でもそういうことはあります。例えば、親も同じ人間ですが、親としての機能しか求めないということはよいことでしょうか?それが会社で、上司としてのとか、部下としてのとか、そういう役割だけを求めることはよいことでしょうか?そこからいつの間にか人間としての意味合いが剥奪されていたりはしないでしょうか?

 

 僕はやっぱり人付き合いが苦手過ぎるので、他人との連携は機能的な部分だけにして、社会を回す機能としての歯車にはなるけれど、人として人の中にはあまり参加せずにやり過ごそうとしてしまいがちです。ですが、自分はそれを全うするにしても、他人がそれを全うしてくれないときに、はて、自分はどうするんだろう?という疑問が湧いてきます。

 

 親であるのに、親が果たすべきことをしないであるだとか、上司や部下であるのに、果たすべきことをしないとかいうことになると、やっぱりそこには不満が出てくるのかもしれません。でも、それぞれの人は、その担った機能としての役割を、本当に喜んで受け入れているのだろうか?という疑問も残ります。

 本当はそんな機能を担いたくないのに、そうせざるを得ないだけかもしれないじゃないですか。

 

 僕が仕事をしているのは生きるためにお金が必要だからで、上司の部下であったり、部下の上司であったりという機能は、特に望んでいるわけではありません。それを全うすることが、自分が今足を置いてもいい場所を維持すると思っているだけです。そこに足を置く以上は、その機能を演じるしかないと思い込んでいるだけなのかもしれません。

 だから、その機能を求められることが苦痛であるならば、別の居場所を探せばいいかなというような気持ちもあります。

 

 僕自身がそれから逃れることが困難であるように、僕が求められている機能を全うしないと、他人から責められることがあります。あなたはそうすべきなのにそうしない、なぜそうしないのか?そうしろ!と責められることがあります。

 僕は若い頃、早くおっさんになりたかったんですよ。それは僕が若い男として求められる機能に対して、ちっとも応えたくなかったからです。知り合いの若い女の人に(当時は僕の方も若かったですが)、ざっくり言えば「私は若い女であなたは若い男なのだから、当然こうすべきだ」ということを求められ、そうしないことに文句を言われることも頻繁にありました。僕はそれがかなり辛かったんですよ。なんで、この人たちは僕が当たり前にそうするべきだと思い込んでいるんだろうと思ったからです。だから、そういう機能を求められる対象から、早く外れたくて仕方がありませんでした。

 

 ネットとかでも同じ種類のことを感じることがあって、知らない人がなぜだか、僕がその人に評価されたいはずだと思い込んでいることがあります。だから、「私に評価されたければ、あなたはこのように振る舞うべきだ」という言葉を投げかけられることがあります。僕にはその人に評価されたいなんて気持ちがありませんから、そのように振る舞う必要なんてないわけですけど、それはつまり「ネット上に何かを発表している人は、当然より多くの人に評価されたいはずだから、そのような意見を伝えれば作っているものに喜んで反映する」という機能が求められているということだと思うんですよね。

 作っている人は、より多くの人に褒められたいはずだという定型的な人間像が設定され、そこにある像から乖離した反応が想定されていません。。

 褒められたら喜ばないといけないし、不快にさせたら謝らないといけないし、要望を受けたら応えないといけないしということが、暗黙の正しい行動として勝手に理解されていることがあって、作ったものを見て貰えれば嬉しがるべきだし、より多くのRTやいいねが付けば当然喜ぶはずだろうしで、その機能にそぐわない行動をとると、なぜそうしないのか?と言われたりもします。

 

 答えは単純で「僕はそうしたくないから」ですよ。前提とされている条件は、ある種の傾向としてはあるのかもしれませんが、個別具体の人にとって当てはまるかどうかは分かりません。

 

 相手が自分と同じひとりの人間であるということが分かっていれば、容易に推察できることを、他人を自分の生活の中における機能のひとつとしてしか認知していないと、その機能を全うしないということについて否定的な態度をとられることがあるわけです。

 

 ただ、最初に書いたように、人が自分の認知の限界を超えた大量の人の中で生きるには、あらゆる人を人として認識することはあきらめて、人を機能として単純化して取り扱わざるを得ないことがあります。僕は自分自身がそうであることから、それは仕方がないと思う側面と、とはいえ、その定型化された機能から外れる行動を咎められることの不快感の両面を持ち合わせているなということを思うわけです。

 

 人間が何らかの属性を元に、単純化されて理解され、その定型化された機能のみを求められ、それに応える以外の反応が認めれないということの辛さを理解するにもかかわらず、他人に対しては同じことをしてしまうという悲しい状況が世の中にはあると思っていて、それは人間が周囲の人間の認知に割ける能力の限界があるからなんじゃないかなと思ったりします。

 ほら、僕はその能力がたぶん他の人より低いので、それがより分かるような気もするんですよ。

 

 こんな人がいるはずがないなという想定は、いつも実際よりは狭くて、例えば、白米が嫌いな人なんていないと以前の僕は思っていましたが、そうでもない人がいることを知って、よかれと思ってご飯を勧めてたのが間違いだったと気づいたことがあります。

 僕は相手を実態よりも単純化したものとして理解していたために、だから喜ぶはずだし、喜ばないのはおかしいなんて思っちゃったりしたのは、完全に僕の間違いでした。

 でも、もし僕のが最初に思った偏見による勘違いが世の中の全てだったとしたら、同じ行動には同じ結果が返ってくることが想定できるので楽でしょう?だから、そんな楽にすがって、良くないこともしちゃったりするわけですよ。

 

 自分が気楽にやることが他人へのしんどさを生み出しているのだろうし、自分のしんどさは他人が気楽にやりたいがためだったりします。部下に仕事を言いつけたら、はいと元気よく返事して、期日までに完璧にやってくれたら楽でしょう?だから、そうすることが部下のつとめだなんて、機能しか見ていないことを思っちゃったりもするわけですよ。それ以外の反応なんて求めてなかったりするわけですよ。

 でも、それってやっぱりおかしいですよね。人はそれぞれ個別の人なのだし。

 

 色々そういうことを考えるにつけ、自分が社会で生活することには向いていないのだろうなという実感ばかりを深めていきますが、それでも気楽に生きていきたい気持ちが強いので、なあなんとか上手い具合にやっていこうという曖昧なことを思いました。