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男らしさから降りる関連

 近年、「人間の精神が自由であること」と「人間が何らかの属性に起因する役割を担うこと」の間に少なからず存在する齟齬について、それが「ある」ということを言っても大丈夫な雰囲気になってきていると感じていて、世の中が良くなってきたなあと思います。

 「アナタは○○なのだから、○○としての役割を全うすべき」という風潮は、ときに、その人の個人的特性と全然合わなかったりして、そういうとき本当に辛くなったりするんですよね。

 

 とはいえ、世の中は誰かが何かの役割を全うしてくれているから成り立っているということもまた、ひとつの事実だと思います。誰もが役割を果たす必要がないと考えるようになったい場合、今上手く回っている仕組みの多くは回らなくなってしまうかもしれません。

 ただし、「その役割を全うする」ということについて、それ以外の選択肢がないように見えることが苦しみとなりうると思っていて、それを全うしないという選択肢があることを否定しないというのは、人間の生きる苦しみを取り除ける活動なので、いいことだなと感じています。

 

 さて、この「役割を全うしなくてもよい」あるいは「役割による何らかの強制が存在することがそもそもおかしい」という考えについて、男性も「男らしさ」というものから人は降りてもよいという話があります。直近では「違国日記」の7巻でそういう話が出ていていて、男性も男らしくあることが辛いときがあるのではないか?というところへの言及がありました。

 

 僕自身、結構前から男らしさ的なものからは降りて生活している感じがするので、ほんとその通りだよなあ!と思ったりするのですが、ここで言う「男らしさを降りる」ということが意味する内容については、人によって思っていることが違う場合があると感じています。

 なので、一概に「男らしさを降りる」と言っても、そこで実際は何の話をしているかによって話がこんがらがってしまうことがあるよなと、インターネットとかを見ていても思うので、僕の中で整理していることについて書こうと思います。

 

 僕の認識では、「男らしさから降りる」の意味は、概ね以下の3つに分類できると思います。

  1. 競争社会から降りる
  2. 異性に男としての役割を求められることから降りる
  3. ステレオタイプな男像から降りる

 では、各項目を個別に見ていきます。

 

1. 競争社会から降りる

 「競争社会から降りる」ということは、男という属性が、「男同士の競争社会を生きなければならない」という概念として認識されているということだと思います。例えば、自分な優秀な雄であるということを示すために、誰かと争って勝つという戦いの中に身を置くタイプの男らしさです。

 ここから降りるには、シンプルに「競争をしない」ということによって降りることができると思いますが、特に仕事なんかをしていると、その全てから降りることは難しい部分もあります。

 

 他人を蹴落としてでも、自分が優秀であるということを示すということは、勝てれば楽しいかもしれませんが、負けるのは辛いかもしれません。一方で、仮に勝てたとしても、いつまで勝ち続けなければならないんだ?というような果てないプレッシャーの辛さもあると思います。

 それは苦しい話ですが、にもかかわらず、スポーツでも芸術でも、一番を決める戦いに人が進んで参加したりもします。それは、そういう場において、「自分が優秀であると証明すること」に意味を見出している人も多いからでしょう。そして、それに向かない人も全然いると思うわけです。

 

 争いに最初から参加しないことがそこから降りるための方法です。しかしながら、人は望む望まざるに関わらず、そういうものに巻き込まれてしまうことがあります。そのとき、「自分が負ける人間でよい」と思えるかということが分水嶺です。そこで、「他と比べて自分が優秀な人間ではない」と認定されることを受け入れられるか?ということです。

 つまり、世間の一部から自分が「負けている存在」であると見なされることを無感情に受け入れられないなら、そこには少なからず「勝ちたい」という気持ちが残ってしまうということです。勝ちたいと思うなら、争いに参加するしかなく、競争社会から抜けることはできません。

 

 勝ちたいと全く思わないことは、そうそう人に出来ることではないかもしれません。例えば、目にした他人の意見に対して「反論を書きたくなること」も勝ちたいということだと思うからです。つまり、自分の目の前に、自分とは全く異なる考えの人がいたとして、「それは違う!」と言いたいなら、「自分の考えの方が正しい」と思っているということです。相手の意見より自分の意見の方が正しいはずということは、勝ちたいということだと思います。

 なので、目の前の人がどれだけ自分と異なることを考えていても、「そういう人もいるんだね」で全てを流せるぐらいではないと、競争社会から完全に抜けることは難しいのではないでしょうか?

 

 僕自身、あまり争わないようにしたいと思っていても、そこから完全に解脱しているとは言い難いです。

 

 そして、重要なことですが、このようなことは別に男社会に限ったことではありません。女社会でも全然あることです。人は、「自分が他人よりも優秀である」ということを示したくなるという苦しみの中で生きていることが多いと思います。そこからできるだけ抜けられた方が楽ではあると思いますが、でも勝ちたいと思ってしまうでしょう?

 それはつまり、勝つことのメリットが大きいということです。勝たなくていいと思うことは、そのメリットを放棄し、何かしら相対的に損をしてもいいと思うことでもあります

 その損があることが、競争をせずに楽になることと同じかそれ以上に苦しい場合、人はどっちにしたって、何らかの苦しみからは逃れられないのかもしれません。

 

 競争は男女問わずあるものだと思いますが、それが男らしさと結び付けられるのは、男が競争する相手は男のことが多いからかもしれません。つまり、同じ場所に足を置いている者同士が、その中でより良い席を確保するために他人を蹴落とし、蹴落とされることをし続けなければならないという苦悩だと思います。

 

 僕は、そういうものから出来るだけ降りようとしているつもりですが、その方法は、社会との接点をあまり作らないということです。同じ場所に似たような形でいるから椅子取りゲームが始まるのであって、何かに属することをできるだけ避ければそこからある程度逃げられます。なので、基本的にひとりでいればいいわけです。しかしそれは、孤独と表裏一体です。人間関係を疎にすることで成り立つ気楽さは、僕は良くても、他の人に薦められる解決方法ではないかもしれません。

 あと、ネットで見た意見とかに反応はよくしているので、全然解脱できてないなという気もしてきました。インターネットをやめよう!

 

2. 異性に男としての役割を求められることから降りる

 僕の記憶だと、「異性から男としての役割を求められる」ということをとても苦しく感じていた時期があります。20代の前半ぐらいの時期です。

 これは一般化はできない話だと思うんですけど、少なくとも僕は「男たるもの女にこう接するべき」という話を女の人からとにかくされまくっていました。そして、僕があまりその男像に合わせられないことでひたすら叱られていました。それが知り合いぐらいなら距離をとればいいだけの話なんですけど、付き合っている相手とかになってくると、もはや逃げ場がなくかなりしんどい気持ちになってしましました。

 僕は結局その人たちの望むように変わることができなかったのですが、それは向こうからすると僕がカスなんだという話なんだと思うんですけど(そもそも人間関係は歩み寄りなのでそれができない僕に良くないところが当然ある…)、それでも僕はどうしてもその人たちの望むように振る舞うことができなかったということがありました。

 そのような関係は最終的に、僕がどれだけダメかという説教&罵倒をくらって人間関係が壊れるので、とにかくキツい気持ちになっていた覚えがあります。

 

 「こういう男はダメ」という言い方で、とにかく「自分たちの言うことを聞かないと、アナタを低く評価します」という態度をとられることを当時は繰り返されたので、そういうふうに扱われるがマジで無理だなと思っていました。それを引きずっているのか、中年になった今でも、女の人のことは基本的に怖く感じてしまいます。

 そうなってしまったのは、人と仲良くなっていく過程で、男の人相手よりも、女の人相手の方がこちらに踏み越えてくることが、早くて大きかったことが多かったからかなと思います。これは異性だからかもしれません。こういうことも一般化はできないでしょうし、僕の社会性が乏しく拙いというのが、そうなってしまった主因なんでしょうけれど、とにかく、「女の人には怒られる」というトラウマのようなものがあり、その後、女の友達ができても、この人もそのうち僕を怒るのだろうか?ビクビクしてしまっているところがあります。

 なので、そうは思わないで済む人とだけ友達をやっています(男でも女でも)。

 

 そういう経験で非常に辛くなってしまったので、女の人から男という役割を果たす態度を求められるということを、僕はとても苦手だなと思って避けているんですけど、一方で、そんな風に求められることを、むしろ嬉しく感じる人もいると思います。そういう人の場合、求める人と求められる人のマッチングが上手く行くので、それはそれで幸福なことだなと思います。

 

 つまり、そういう風に、他人に男らしさを求めることそのものが完全に悪いことだとは僕は思わないということです。ただ、僕はそこにおけるマッチング相手としてはダメなんですよね。そういうことを思っていたので、若い頃は早くおっさんになりたいと思っていました。そうすれば、そういう関係性の対象外になれると思ったからです。

 そして、今はおっさんなので、かなり楽になりました。

 

3. ステレオタイプな男像から降りる

 男だからこういう服装をしなければならないとか、男だからこういうものを好まないといけないとか、そういうステレオタイプな人物像というのはあると思います。そこから降りるということは、好きなようにするということですが、そのため、珍奇なものを見るような目で見られたりする可能性はあります。

 

 例えば、僕はパフェが好きなので、よくひとりでパフェを食べに行ったりするんですが、イマドキ別に、それで珍奇な目で見られるとかはありません。平然としていればいいわけです。

 僕自身も普段は別に気にしないのですが、それでも、混んでいる店におっさん一人で行ったときに、一人なのに順番の関係で4人席とかに座ってもそもそパフェを食べていると、まだ並んでいる人たちが、もしかしたら「おっさんが一人でパフェ食いに来て、4人席を占有してんじゃねえよ」と思われているのでは??と思ってしまって、ちょっと食べる速度が速くなってしまったりします。

 そこにはやっぱり、自分の中にふさわしいふさわしくないという感覚があるにはあって、ふさわしくないところでは、異分子としておとなしくしておこうとか、迷惑をかけないようにしようというような感覚があるんだろうなと自覚したりします。

 

 僕はあまり自分の好き嫌いを、「周りにどう思われるか?」ということに左右されないようにしようとしていて、それはそこそこできるようにはなっているのですが、でも結局やっぱり、他人と摩擦が生じる部分では、自分の姿や振る舞いは、自分が属する社会において適切か?というところからは完全に自由になれていません。

 学生の頃は、友達がよく変な服をくれたので、ブルースリー死亡遊戯で来ていた服とか、着ぐるみパジャマとかを着たり、プロレスラーのマスクをかぶって大学に行ったりしていたのですが(友達があきれるのが面白くて)、そういう場違いな服装をして夜中家に帰っていたりすると、職質にもよく遭いました。

 このように当たり前に合わせないということは、目立ってしまうということもあって、目立ってしまうと面倒なことも増えます。埋没するにはステレオタイプに合わせておいた方が楽という現実があるので、めんどうになるとステレオタイプになりますし、それがまたステレオタイプ感を強化してしまいます。

 

 僕自身そういうものに若い頃は縛られることが多かったのですが、これも歳をとるにつれて、ある程度恥知らずになってきたというか、気にならなくなってきました。若い頃の自分だったなら、映画や漫画を見てめちゃくちゃ泣いてしまうことは恥ずかしいことだと思っていたでしょうし、女児向けのアニメとかを見て、心からこれが好きだなと言うことはできなかったと思います。

 世間から見て、自分がどうであるか?というところからはまだ完全に自由にはなってはいません。でも、完全にまで自由になれなくてもいいかな(自由すぎると軋轢も増えるので)と思っているのですが、ただ自分が心から好きだと思えるものに関しては素直でいられることが増えたことで、かなり気持ちが楽になっています。

 周りに変に思われたくなくて、好きなものを好きと言えなかったり、好きではないものを好きであるとして振る舞わなければならなかったりすることがなくなってくるからです。

 

まとめ

 男らしさについて1も2も3も、完璧ではなくとも、僕はある程度降りることができていて、そして、それによって日々の生活はストレスの少ないものになっています。なので、良かったなあと思っているのですが、そこにある僕の姿は、「女児アニメを見ながら号泣している孤独な中年」だったりして、それでいいのか??というご意見もあるかもしれません。

 

 でも、それでいいのか?と、僕自身は思わないで済むような精神性を今の僕が持っていることが、日々感じるストレスが少なくなっていることと関係していると思います。だから、いいんですよ。僕がその方が生活が楽だと思って選択したことなのだから。

 でも、もし、そこに辛さを感じてしまうのであれば、これらの男らしさから降りることは、より多くの苦痛を感じてしまうことなのかもしれません。なので、安易に降りればいいと言えることではないのかもしれませんね。

 

 結局のところ、男らしさから降りることのメリットは、それによって自分の苦しさが軽減できるというところにあるはずです。なので、例えば、自分が他人より劣っていると感じると苦しいとか、異性に求められないと苦しいとか、変に目立ってしまって視線が苦しいとか、そういうことを苦しいと感じてしまうと、男らしさから降りても別の苦しさが立ち上がってきます。

 ただ、そう感じてしまうことそのものが苦しさの根源にあるのだとしたら、そこから抜け出られるといいですよね。でも、はいそうですかとそれがすぐにできるなら、人は苦しんだりはしません。

 

 ただ、全てはゼロかイチかの極端で決まるわけではなく、その間にグラデーションがあります。自分にとって何が重要で、何が重要でないかをちゃんと整理することで、何をどれだけやって何をどれだけやらないかが明確になってくれば、今感じている苦しさみたいなものは軽減できるかもしれません。

 そういう意味で男らしさについても、そこから降りる降りないは、複数ある長い梯子のどの部分に自分のちょうど良い足置き場を見つけるという話なのかもしれないなと思いました。おそらく、全ての梯子を完全に下まで降りることはほとんど不可能だと思うからです。