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amazarashiの「デスゲーム」と京極夏彦の「邪魅の雫」は似てる説

 amazarashiの好きな歌のひとつに「デスゲーム」があるんですけど、この曲が歌っているものは京極夏彦の小説「邪魅の雫」で描かれているものと同じなのではないか?と思ったので、その話を書きます。

 

 邪魅の雫のネタバレが入るので、読みたくない人は読まないでください。

 

 邪魅の雫は、複数の人間の視点で進行する物語です。その主観は客観とは乖離しています。しかしながら、乖離した客観を構成する別の一人の主観もまた、客観とは乖離しているというような作りの物語になっています。

 つまり、あらゆる人間は、世界を構成する中のたった一人でしかなく、世界を砂浜とするならば、一粒の砂、いや、その一粒の砂にすら吸い込まれて消えてしまうほどの雫でしかないということを見せつけられます。

 読者は最初に読んだ複数の人間の主観的な物語が、実は客観的な視点では全て掛け違いでしかないことを後に知り、そこで起こったことは客観的には愚かなことではあったものの、主観的にはとても辻褄のあったものであったことも認識できるようになるのです。

 ただ、そこには、それぞれの人をそのように誘導した人と、人の殺意をそのまま殺人に転換できる魔法のような「雫」もあったわけなのですが。

 

 ひとりの人間の認知には限界があり、その視野に大きく欠けた部分は想像力で埋められます。自分が認識した論理的機序や因果関係は、その一滴の雫でしかないひとりの人間が、そう認識したというだけでしかなく、世界の在りようを決めるようなものではないのです。

 ここで問題なのは、自分が世界の中の一滴の雫でしかなかったとしても、それでも、自分自身にとってみれば、自分の認識は世界そのものであるという点です。自分にとっては1は全であるが、他人にとっては1は1でしかないというギャップに、人は悩み苦しんだりもします。

 

 さて、amazarashiのデスゲームは、「悪い奴は誰だ?」という繰り返される歌詞が象徴するように、人と人が疑心暗鬼になり他人を攻撃してしまうということ、例えば誰か悪い奴を見つけることで今目の前に広がる不協和を、上手く並べ替えて理解し、安心して納得するというような状況を歌っています。

 その「悪い奴」は客観的な意味で「悪い奴」でなくてもかまいません。その人間が悪い奴であったのなら、全ての辻褄が合うと認識できればそれでよいのです。

 

 「こう考えれば辻褄が合う」ということと「これが世界の真相だという認識」の差には、少なくともひとりの人間の中では大きな距離はないのではないかと僕は思います。なぜなら、僕自身にそういう経験が結構あるからです。

 

 デスゲームでは、テレビやラジオ、ネットや週刊誌で得た断片的な情報だけを元にして、実態があるのかもわからない悪い奴を探しては、それを攻撃することを止められない人々の様子を歌ったあと、こう続きます。

 

ああ 一滴の涙が 海に勝るとは知らなかったな

 

 誰かに与えられた断片的な情報から作り上げた、歪で不完全な主観の一滴が、この世界全てに勝るかのように思えてしまうということ、これは現代的な感覚でしょうか?

 ネットの情報を鵜呑みにして、歪な理解を元に誰かを攻撃するということ、それだけを見れば現代的と言えるかもしれません、でも、僕が思うに、これは普遍的な話です。類似の事例を色んな時代に探せることから、人間にはそういう性質があると思うからです。確かに、ネットやメディアがそれを増幅している部分もあると思いますが。

 

 誰かが誰かを悪者として見つけ、その首を絞める様子、そして、それは一方的ではなく順繰りで、誰しもが誰しもの首を緩やかに絞めているような人間社会に対する厭世感をデスゲームと表現し、自分の主観と異なる認識を持った正気な人を滑稽と評し、一番正しいと主観的に思える人が実は悪かもしれない。可能性を想像すれば無限に想像できるように、疑おうと思えば無限に疑うことができる世の中で、自分の頭の中という密室の中で何らかの答えを出すことを求められます。

 

 そのストレスとプレッシャーの中で、自分にとって都合が良い想像を事実と混同して飛びついてしまうことは、悪いことでしょうか?悪いことかもしれません。でも、その主観にシンクロできるとしたら、そこにはある程度の理解が生じるかもしれません。そこが悲しく、そしてやるせない気持ちにもなります。

 

正義も悪もない 事実は物語よりもくだらない

悪意で悪事を働く 悪人の影さえ見えない

エピローグ間近のこの世界で生き残るなら

一番正しい奴を疑え まず自分自身を疑え

 

 これはデスゲームの終盤に歌い上げられる歌詞で、実はくだらないだけかもしれないことに、悪意を見いだし、実在しない悪人と戦うつもりで首を絞め合っている人間の様子に見る悲しさから、その中で首を絞められたくないのならば、自分が今信じていることを疑うこと、常に疑い続けることを主張します。

 

 邪魅の雫でも、ある人が殺した人は、その人が想像した悪事を実際に犯した人ではなく、そうだと思い込まされていたがゆえに発生した犯行でした。京極堂がそれらの主観をまとめて客観を作り、事実を突き合わせてみれば、そこにあったのはくだらない勘違いです。くだらない勘違いが引き起こした殺人の連鎖であって、デスゲームです。

 

 自分は一滴の雫でしかないということを完全に徹底できる人はそうはいないでしょう。だからこれは他人事ではない話です。一番正しい奴を疑うことができず、自分自身も疑うことができなかった人たちが、取り返しのつかないことを引き起こし、引き起こされてしまったあとに流れる虚しい風のような物語であり、歌ではないでしょうか?

 

 このようなデスゲームの話を聞くと、もしかすると、「今のインターネットだ」とか思ったりしてしまうかもしれません。

 しかしながら、デスゲームが収録された「千年幸福論」は2011年の発売されたアルバム、邪魅の雫は2006年に発売された小説です。それ以前の歴史の中でも、流言から起きた殺人や暴動の連鎖などは枚挙に暇がありません。

 これは人間という不完全な認知しか持たない存在が、ときに引き起こしてしまうバグのようなもので、目の前に存在するものを情報が欠けていてもなんとか理解しようとする能力と、そして、理解できないものが目の前にあるときに感じてしまう不安の組み合わせで起こるような気がしています。

 そして、それはそんなことがあると認識していたとしてもハマってしまうことがあるという恐ろしいことです。

 

 常に自分が本当に正しいのかどうかを疑い続けるということは容易ではありません。どこからかいい加減な自分の方が正しい証拠を見つけ出してきては、補強してしまったりもするわけです。

 何かの情報Aが開示され、それに反する別の情報Bが遅れてきたときに、Aが自分にとって不都合なら、それを否定できるBに深く疑いもせずに飛びついてしまったりもするわけです。逆にAが自分にとって都合がいいなら、なんらかの理屈付けをしてBを否定してしまったりもするでしょう。

 その背後にあるのは自分の損得であって、人は正しくも損をする選択よりも、間違っていても得をする選択を選んでしまったりもします。後者の行動は間違っているでしょうか?では、正しいけれど損をし続けるということが正しいなら、その人は正しさの名のもとに損をし続けなければならないのでしょうか?

 

 そのような環境の中では、人はうすうす間違っていると知りながらも、自分に都合が良いだけのいい加減な情報をまるで事実であるかのように取り扱ってしまったりもするわけです。繰り返しますけど他人事ではないですよ。自分だってやってしまうことです。

 「このようなことをしてしまうのは愚かな人だけである」というように、誰かを悪い奴として探してしまうことそのものが、その入り口になるということを認識しておかなければなりません。

 

 デスゲームと邪魅の雫、まあ似てないっちゃ似てなくて、自分や自分が信頼している人を疑えない人が、勘違いで起こしてしまう悲劇や、それを海の中の一滴の雫や、砂浜の砂一粒のように表現してしまうこと、あとピックアップするなら「人殺しの道具が 人一人の価値に勝る」という歌詞あたりですかね。

 箇条書きすれば似ているものなんて無数にあるので、その程度の似ている具合です。でも、その根底には、人間が逃れようとしても逃れきれない問題があるような気がしていて、これは普遍的な話ではないかと思ったので、そういうことを書きました。