漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

実写ドラマ版の幽遊白書を観た関連

 幽遊白書は、自分の心の中にぬりかべのようにズドンといる漫画なので、何の話をしても関連付けて話してしまいますし、今でも、まだ連載中であるかのように日常的に幽遊白書の話をしてしまいます。

 

 実写ドラマ化がアナウンスされたときには、そんなこと可能なのか??という困惑がありつつも、でも、絶対観たいし自分はそれを楽しむことができるか、ある意味楽しむことができるという確信がありました。先日ついにNetflixで配信が開始され、ワクワクしながら再生し、その日のうちに一気に全5話を観終わりました。

 

 え?全5話??っていう感じじゃないですか。そして物語は100%の戸愚呂弟と倒すところ、単行本で言えば12巻あたりまでが入っています。それで全5話??っていう感じじゃないですか。原作の量に対して短すぎる。でも、面白かったんですよね。

 

 主に良かった部分は漫画を実写にするという表現の部分です。特にバトル描写については、人間の肉体で漫画的バトルを表現するということについてかなり突き詰められていて、とてもかっこよく気持ちよかったです。

 僕は、HIGH&LOW THE MOVIE 2 END OF SKYを観たときに、この動きができるなら色んな漫画の実写バトルが可能じゃん!と思って期待が膨らんだのですが、幽遊白書ではその先の一端が見せて貰えた気がして、この描写ができるなら、僕が大好きな漫画エアマスターのバトルシーンも実写で再現可能では??と思って新しい期待を抱いてしまいました。

 

 おそらくワイヤーの利用による空中を飛び跳ねる動きが結構あるのですが、そこで引っ張られて不自然に浮いている感じがなく、合理的な動きの中で超人的な格闘シーンが展開されます。これを観ると幽遊白書という原作はこの表現にちょうどよく、肉弾戦と超常的な戦いの組み合わせで描けるバトルが、少なくとも今回映像化された部分ではバッチリ合っているように思いました。

 この実在感との接続としては、序盤の剛鬼との戦いが、化け物と喧嘩自慢のヤンキーが戦っている感があってめちゃくちゃ良かったですね。

 

 さて、原作ファンとして面白かった部分は、その端折り方です。おそらく原作の暗黒武術会の最後までやることは分かっていたので、一体どうやって間を省いていくのか?という部分がこういうやり方があるのかと思って面白く感じました。お話の主軸を主人公の浦飯幽助という男と、戸愚呂弟という男の対比とその決着の部分に持ってくると、武術会の開催は別に必要ないというのが、確かにそうだなと思って面白かったです。

 霊界から盗まれた道具を取り返す部分も、飛影の部分は垂金の雪菜のエピソードがあるためその中で描けばよく、飛影が道具によって邪眼を手に入れたという設定改変もありましたが、この尺の中で妹の雪菜を探している兄としての飛影の姿を描く上では納得感がありました。蔵馬の戻ろうと思えばいつでも妖狐に戻れるという設定改変も、戻れるのに人の姿を選んでいるということを感じられたりして面白かったですね。

 とにかく背骨を決めたら、何を描かなくていいのか?何を繰り返さなくてもいいのかの部分がカリカリに削り込まれていて、5話によく収めたねと思って面白かったです。

 

 もちろん無茶な端折り方をしているので気になる部分もあって、幽助が短期間に異様に強くなりすぎだろうとか、本来時間をかけて育むはずだった関係性がダイジェストで仲間になっていく感じもあり、漫画で言えば四聖獣編ぐらいの時間感覚なのに、いきなり血を伴った戦友という感じのところまで行っているなと思いました。

 

 キャラクターで言えば、戸愚呂兄がとても良かったです。自在に変形できるという映像的に生える部分が最大限活用されていて、バトルも映像的に面白かったです。あとは、梶芽衣子演じる幻海も、配役としては完璧だなと思いました。他には戸愚呂弟がその身を妖怪に堕とすきっかけとなった潰煉のシーンが描かれたのもよかったですね。

 あと垂金!垂金も俗物の成金感が、屋敷の雰囲気も含めてめちゃくちゃ良かったです。

 

 良くなかったところは、主要登場人物のビジュアルの非実在感でしたが、でも、バトルシーンでの視認性の良さを考えると、リアリティを求めずにこっちの方に振り切ったのも良いのかもしれないと思います。

 少なくとも考えた結果こうしたという感じはしました。それでも妖狐蔵馬は優しい目で見る必要がありましたが。

 

 なので、色々気になるところもあるにはあるけれど観て良かったというのが僕の感想です。

 

 改めて見て、幽遊白書って面白い漫画なんですよね。序盤からそれは非凡で、世間と上手くやっていけない幽助が、死んだら死んだで別のいいと思っているところを、死んだ自分に対する周囲の人々の姿を見て、それまでの自分が見えていなかったものに気づき、生き返るという選択をするというところがホント胸にきます。

 

 5話という短さで描かれて改めて思ったのですが、幽助は助けたい子供を「助けられた代わりに死んでしまった人間」で(実はそれは無意味な行動だったとも原作では語られますが)、戸愚呂弟は、弟子を目の前で妖怪に喰われて殺されるのを見させられた、「助けることができずに自分だけ生き残ってしまった人間」であるという対比構造を見つけることができます。

 

 その後、幽助は生き返って霊界探偵になりますが、戸愚呂弟は妖怪になることを選びます。自らを忌むべき存在に変化させることは自分への罰だったのではないかとも推察されますが、100%になった戸愚呂弟の姿は、潰煉の姿に似ているのが悲しいです。幽助と戸愚呂弟の戦いでは「守れずに自分だけ生き残った」という構図の繰り返しになります。

 幽助は目の前で桑原を殺され、それになすすべがありません。戸愚呂弟は何を思ってそれをしたのでしょうか?自分と同じ境遇になった幽助に、同じ選択をして欲しかった?いや、自分と同じ境遇なのに、それを選ばない人間を見ることで救われたかったのかもしれません。なにせ、戸愚呂弟は桑原を殺さなかったのですから。

 

 全てが手遅れになったあとで潰煉を殺してももはや手遅れです。なぜなら、守りたかった人々は戻ってきません。戸愚呂弟の心の中には虚無があったのかもしれません。復讐の鬼となったところで、自分が失ったものは取り戻せないものだったからです。

 もしそれを取り戻すために、誰かに自分ができなかった選択をして貰いたかったのだとしたら、そんな人間が現れるまで強くあり続けなければならなかったのだとしたら、妖怪になるということは目的のために最善の選択です。

 

 そして、ついに現れた人間が幽助だったのかもしれません。幽助は、何かを守るために強い力を発揮できる男です。戸愚呂弟は、自分がされたのと同じように幽助を暗黒武術会に誘い、そして決勝戦で戦います。しかし幽助の力はまだ自分に及びません。かつての自分が潰煉におよばなかったように。その力の源泉は何か?憤怒です。これもかつての自分と同じです。そして、仲間の死。

 幽助は、強くなるためには何かを捨てなければならないという戸愚呂弟の言葉に反論します。「捨てねえ」と「しがみついてでも守る」と。このとき、ついに幽助こそが、戸愚呂弟が望んだ強敵であり、自分ができなかった選択を出来る者となったのではないでしょうか?戸愚呂弟は全力で戦いそして負けることこそが、かつて自分に出来なかった選択肢が、この世の中にはあるということの証明になります。

 

 力が全てだという価値観を否定するためにこそ、全てを捨てて自らが力が全てだという存在に成り代わり、その上で全力で戦ってそれでも負けることこそが、力が全てだということの何よりの否定になるということです。戸愚呂弟の傷ついた心は、守れなかった自分への罰と、そうではない選択がこの世の中にはあるということを確認することに費やされたのではないかとも考えることができます。

 

 あれ???なんでこんな話に。実写版の話をしていたはずですが??

 

 これは実写版が骨組みを残してそぎ落とし組み替える内容であったおかげで、また幽遊白書のことを考える切っ掛けになって良かったなという話です。

 実写ドラマは是非とも仙水編もやってほしいですね。