漫画皇国

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経験する機会がないことのしんどさ関連

 会社の仕事をしていて思うのは、良くない行動というものは「選択肢の少なさ」から来ていると思うことが多くて、このやり方は良くないと思うが、この人にはこのやり方が唯一できることなのかもしれないなと思ったりします。

 

 例えば、人に指示する方法がパワハラ的な方法しかない人というのがいて、漠然とした指示をして、あるいはろくな指示もせず、自分より立場の弱い人(部下や外注先)の方が全部考えて持ってきたものに対して、望む通りのものがでてくるまでただ強く否定的なことを言い続けてやり直させる人がいます。こういう仕事の進め方をする場所では参加メンバーがどんどん疲弊していくので良くありません。

 

 目指すべきものが何かを共有し、具体的な指示をして、想定している時間と人数の範囲で感性を目指していくことがモチベーションを維持しやすいですし、やり直しも少なく、効率的な仕事となります。

 

 このようなパワハラ的なやり方でしか人が仕事を進められない問題は、当人のできることの少なさに起因すると思っています。具体的なビジョンを思い描き、それを細かく分解して適切に割り振りし、齟齬がある場合には具体的な指摘と修正方針に合意するというようなことができない中で、それでも完成品を作らなければならないときに、人にはこのような手段しか残されていません。

 他の方法があればこんなやり方にならないものを、他の方法がないけれど、それでもやらなければならない場合にこうなってしまいます。悲しい話ですね。

 

 何が間違っているかと言うと、そんな能力のない人を支持する立場につけるということだと思います。しかし、能力的に適切な人というのは実は貴重で、いないことも多々あり、このような自体は世の中のそこかしこに発生していると思います。

 

 能力がないということは、個人の特性もあるとは思いますが、その能力を育む適切な機会が与えられてこなかったという環境要因も大きいと思います。というか、対策を講じる場合には、個人の特性に落とし込むと打つ手がなくなるので、環境要因をどうにかすることを考えた方がいいなと思います。

 僕自身の事例ですが、新卒で就職した際に企業の研究所での職を得ました。企業の研究所は基礎研究をするセクションもあるとは思いますが、僕の担務は事業貢献を求められるものでした。しかし、ここで困ったのは、僕が事業部門を経験したことがないことです。

 

 つまり、事業領域において「実際には何で困っているか」を知る経験ないにもかかわらず、「困っていることを解決する役割」を得てしまい、めちゃくちゃ困りました。自分の頭で一生懸命考えたことは下地がないために的外れと言われ、現場の人にヒアリングをしますが、ヒアリングで分かるのは、既に明らかになっている問題であって、既に明らかになっている問題には先駆者がいることが多いです。研究の領域で大きな方向性としてあるのは、既知の問題を他の人よりエレガントに解決するか、まだ知られていない問題を見つけて普通に解決するかだと思います。

 僕は当時研究者としてはペーペーかつ凡才なので、後者のまだ知られていない問題を発見して解決する方が適していると考えていたのですが、現場感が全くないために発見することもできません。

 

 この悩みと戦いながら何年も研究をしていましたが、結局根本的に解決したのは、僕が現場仕事に出向や異動をすることで、現場の仕事を実際にみっちりやるという経験を得たあとになりました。経験をするということで、それまで見えていなかったものが見えるようになりましたし、人から聞いてそうなんだと納得するだけではなく、自分の身で体感を持って理解することができたと思います。

 思ったのは、「経験もしていない人に能力を期待するのは良くないな」ということです。人が能力を伸ばすためには、伸ばすための適切な機会を割り当てる必要があり、その経験の中で能力を伸ばしてもらう必要があります。機会も与えていないのにできないと嘆くことは無意味だなと思います。

 

 このような問題は仕事の色んなところであり、例えば僕は会社の事業をゼロから立ち上げることを何度もしていますが、ゼロから立ち上げるときには、まずは全体が見られるような小規模な部分から始めて、それが徐々に拡大していく経験を積むことができるようになります。なので、事業が大きくなって自分の担当範囲が少なくなったとしても全体の構成がどうなっているかがなんとなく分かりますし、別の担当の業務範囲の勘所もそこそこ分かります。

 しかし、既に大きくなったところに新たにやってきた人は、僕が経験したような全体を把握する機会や、小規模なところで試行錯誤をしながら色んなことを試す機会が、そもそも与えられていません。その人に対して、いきなり経験がなければ分からないことを求めるのは良くないことだろうなと思います。

 

 この場合、教育の仕組みをちゃんと作るなどもありますし、別のまだ小規模なプロジェクトを経験して貰ってそこで必要とされる能力の下地を作って貰うなどの色んな方法があると思いますが、「適切な経験をする機会を意識して割り当てられる環境」にならなければならないという認識が僕にはあります。

 

 冒頭の話に戻ってきますが、人に仕事を指示するための適切な機会を得られないままに来た人に、その能力をいきなり求めても仕方ないなと思っています。僕も同じ立場なら、今自分にできることと、やらなければならないことの狭間でパワハラ的な仕事の進め方をしてしまうかもしれません。

 それすらやらない場合には仕事が終わらず失敗するので、できなくても進めようとしている部分のみにおいては良い部分だなと思います(もちろんそれ以外のパラハラ部分は完全にダメです)。

 

 経験の話で言うと、対人関係のコミュニケーションというのはとても難しいです。僕はその能力がとても低いのでずっと苦しんでいますが、それでもそれをわずかながらにも克服できているのは、対人コミュニケーションをとった経験を少しずつ積み重ねられているからだと思います。実際にやってみたことを繰り返すことで、色んなことが見えてきます。

 コミュニケーションが苦手になると、コミュニケーションが苦手ゆえにコミュニケーションがとれなくなり、経験を積めないことでなおのことコミュニケーションができるようにならないので、そこから抜け出せなくなったりします。

 

 抜け出せないきっかけは些細なことかもしれません。自分が喋ったことで皆に笑われた経験から、以後話す前に考えすぎてしまうようになったとか、耳がよくなくて人の言っていることを何度も聞き返してしまい、それで向こうに嫌がられたとか、とっさに声をだすことが不得手で、テンポよく喋れないから喋らなくなっていくとか。心の中に根源的な他人とコミュニケーションをとりたいという欲求があっても、少しのきっかけで上手く経験が積めなくなり、経験が積めないと不得手になるので、なかなか経験が積めないというスパイラルに入っていきます。

 僕の場合は、文章ならまだましだったのでテキストで人と喋る経験なども少しずつ積みましたし、僕と喋っても嫌な顔をしない少数の友達と話すことで多少ましになれました。

 

 仕事でもできればずっと黙って、黙々と作業だけしていたかったですが、他人とコミュニケーションをとらないといけない仕事も多々あり、今は課長職をやっているので人と喋ることが仕事になっていたりします。未だに全然向いているとは思えません。でも、人と喋ることを重ねることで、多少ましになってきたという部分もあります。

 経験を積んで、苦手なことにも少しずつ慣れていくとか、自分なりのノウハウを発見して、少しずつましになっていくということは自分にとって昔から、そして今現在も取り組んでいることで、リアルな話です。

 

 誰かが何かをできないと嘆くよりも、それができるようになるための経験を積んで貰った方がいいし、それができる環境を作ることが、今自分にできる対策だろうなと思って、そういうことを日々会社でやっています。

 そういうの本当に苦手なので、ああもうやりたくないなあと思いながらやっていますが、そういう自分が苦手なことに取り組んで痛みを伴いながら自分の中身を作り替えることは、自分を自由にする側面があるだろうと思ってやっていますが、これも、かつてそういった経験が自分を作り替えたことが良い経験として今の自分の中にある成功体験が下地にあります。

 

 自分はたまたまその経験を得られたので、まだやったことのない色んなことをやることへの抵抗が減りましたが、その経験が得られたのは運の領域なので、仕組みとしてある必要があるなと思っていて、まだ得られていない人に適切な経験を得てもらうための場を作らないといけないなと思っています。