漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

「ケモ夫人」とコミティアのCHAOS関連

 Twitterで連載されている藤想さんの「ケモ夫人」が、先週アフタヌーンから単行本が出て、重版および続刊が決定したという嬉しいニュースがありました。

 

 2/26(土)に開催された配信イベント「ケモ夫人 オーディオコメンタリー」にファンの一人として登壇させてもらい、藤想さんと一緒に5時間半かけてケモ夫人を全話振り返るという大変贅沢な時間を過ごしましたが、そこで喋ったことや、あまりでしゃばっても良くないだろうと思って、長々とは言わなかったことを含めてここに書いておこうと思います。

 

 ケモ夫人は、ケモノの姿の夫人が唐突に斧を渡され、巨人と戦うことを指示されるというところから始まる漫画です。この漫画の1ページ目が描かれた時点では、その後どうするかは決まっていなかったそうですが、結果、今まで続いている物語は、長大な奇想に溢れた世界の広がりの中で、ケモ夫人という存在がなんたるか?を踏みしめながら続いています。

 

 僕は、1話目を読んだあとすぐにファンアートを描いたのですが(それもきっかけのひとつでイベントに呼ばれた)、そうさせた魅力の一つは、第一話には隙が多かったという部分があります。これは全然ネガティブな意味ではなくて、ケモ夫人とは何者なのか?斧を渡した人物は何なのか?巨人とはどういう存在なのか?というものの全てが謎に包まれていて、しかし、ケモ夫人はめちゃくちゃな無茶ぶりをされており、「出来ないわ…ちょうちょしか捕まえたことないのよ…?」のリアクションでケモ夫人のキャラクター性が端的に表現されています。

 

 

 その足場が置かれた部分における、確固とした部分と、謎に包まれた空白の隙の部分、あとは思い付きのままに描かれた絵の部分が、自分なりに絵に描いてみることの欲を誘うので、描いてしまったというところがありました。

 

 さて、1話(1ページ)が大きくバズったことで、2話以降はとてもプレッシャーが大きかったと藤想さんもおっしゃっていましたが、大きな空白の部分が埋められていくことで、物語がドライブしていきます。

 具体的には、ケモ夫人という存在のキャラクター性として夫の存在とその関係性によるキャラクターの確立、巨人という存在が、人智を超えた本当にどうしようもない存在であることの提示、そして、この世界が、とてつもなく混沌に包まれた、異形と暴力の跋扈する世界であるということへの導入です。

 

 特に夫との通話に不思議なスマホが出てくるところが面白くて、着信したスマホがめちゃくちゃ長い上に形状を変化させ、伸びたりします。とても自由ですが、そこには理があります。つまり、ケモ夫人の耳の位置を考えれば、耳と口に合わせるために長くなるという必然性があり、必然性があるならば、それがどれだけ奇妙に見えたとしても、そうなるだろうという、奇想と理解が同時に存在するのが面白く感じました。

 伸びるスマホは、空中にも浮くし、形状を変化させて戦いもするわけです。

 

 この物語は、とても理不尽な暴力の渦巻く世界の中に、とても暴力とは無縁そうなケモ夫人という存在が存在するというギャップによって生まれる不思議なグルーヴ感によって、異様なバランスが生まれていることが魅力のひとつだと思います。

 また、それをどのように演出するのか?というところに、強さがあるように感じていて、印象的な部分は、タイトルが出る部分でした。

 

 それは、ケモ夫人と、ともに理不尽な巨人討伐を押し付けられたフォックステール博士が、研究所も廃棄させられ、孤立無援の中をたった2人で、道を歩く場面です。背後には巨人との戦いの巨大な残骸が広がっており、とてつもない理不尽の前に2人がそれでも歩くしかないという光景に対する祈りのように、大きく「ケモ夫人」と出るのがめちゃくちゃ面白くて、タイトルがカッコよくでる漫画はめちゃくちゃいいなと思いました。

 

 さて、ケモ夫人はとても個性の強い漫画ですが、似た漫画ってありますか?という話の中で、僕は「BLAME!」を挙げました。BLAME!は、どこまでも続く構造物の中をネット端末遺伝子を求めて探索する物語です。BLAME!の僕が好きな部分は、壁の向こうには全く異なる世界が広がっているというところで、この世界には未知が広がっていると思える部分です。

 それは子供の頃に読んだ「ガリバー旅行記」や「ほら男爵の冒険」に抱いたものと同じお憧れで、この世界には見知らぬ国があって、今自分が生きているのとは異なる法則の何かが存在しているという想像へのワクワク感です。

 

 BLAME!は、現代の情報化によって認識が平均化された世界からは失われつつある、未知のワクワク感を持った物語だと思いました。構造物によって隔てられ、長大な時間の中で、それぞれ独自に進化した未知が無数に存在するというワクワク感が復活したという認識です。

 そして、そこにある多くの設定や理屈も、仔細には説明されません。つまり、分からないが確固として存在するものに対峙するときに、人の気持ちがめちゃくちゃ良くなるということを再認識されてくれた物語でした。

 ケモ夫人に僕が感じているのも、そういうところだと思います。この世界はまだよく分からないが、広大に広がっていて、小さくまとまった話にするのではなく、とにかく大きく大きく広がっていき、その広さを埋めるために数多くの設定とキャラクターが惜しみなく投入されています。

 そして、その各パーツを利用した、要所要所にあるエモさのある演出がめちゃくちゃ上手いんですよね。

 

 まとめると、僕の感じているケモ夫人の魅力は、「広大に広がる未知なる世界とそこを埋める設定やキャラクター」、「その世界に存在するギャップのある人としてのケモ夫人」、「それらをエモくまとめる演出の美学」の相乗効果が生み出す、混沌とした部分です。

 

 それが面白い一方で、人がついてこれるのか?という疑念はあり、それが、商業出版における即重版と続刊の決定によって杞憂だと分かったので、とても良かったなと思いました。

 

 僕はコミティアがとても好きなんですが、コミティアには大きくLAW属性(秩序を重んじる)とCHAOS属性(自由を重んじる)の作品群が存在していて、LAW属性の作品は綺麗にまとまっているため、商業展開がしやすく、雑誌で言うと、ハルタ青騎士、トーチやコミックビームなどに回収されていくことも多いです。

 一方で、CHAOS属性の作品には、めちゃくちゃなパワーが存在していて、他では見られない面白さがある一方で、面白過ぎるがゆえに、その面白さを一般的に展開するための商業化が難しい印象があり、コミティアの外にはなかなか出てこないという印象がありました。

 藤想さんの漫画はそのCHAOS属性という認識があります。

 

 ここで、ケモ夫人が、描き直しなどもなく、CHAOSがCHAOSのままで商業化に成功したというのは、ひとつのロールモデルとなる偉大な話だなと思っていて、その部分でも良かったなと思いました。

 ちなみに、僕自身はコミティアのLAW属性だと思います(コミックビームに読み切りも描いたし)。CHAOSの要素も多少はあると思いますが。

 

 まあ、とにかく、ケモ夫人は面白いし、その面白さが世間に受け入れられているというのは希望的な話だなと感じていて、とても良かったなと思っていますという話でした。