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カイジの班長とハーモニー関連

 伊藤計劃の「ハーモニー」では、人間の脳内に様々な欲求を司るエージェントが存在すると語られます。そして、人間が理解する自身の意思とは、互いに矛盾するような複数のエージェント同士が戦った結果として勝ち残ったものであると語られます。

 つまり、ある問いにイエスと答えたとして、それは100%のイエスとは限らず、60%のイエスと40%のノーが戦った結果であったりもするということです。そのようなとき、脳内には、実はイエスと答えたい様々な気持ちや、ノーと答えたい様々な気持ちがあり、それが葛藤であるわけです。

 

 作中におけるハーモニーとは、そのような葛藤がない状態のことです。人間の脳に機械的に干渉することで、あらゆる行動に対して、100%満額のイエスやノーを答えられるとき、人の内面から闘争が消失します。それはつまり、どちらを選べばいいかが分からない状態に陥る苦しみから解放されるということで、同時に、人間からある種の人間らしさが奪われることを意味すると思います。それは、それゆえ美しく、そしておぞましい光景です。

 

 そのようなハーモニーを阻害することを考えていたとき、思い当たるのが「賭博破戒録カイジ」の地下帝国に出てくる班長です。地下帝国は、借金を抱えた人々が利息を免除される代わりに、非常に低賃金で肉体労働をさせられる場所です。そして、外界から隔離されたその場所では、嗜好品がバカ高い値付けで売られています。

 カイジは、どうにかしてそこから抜け出すため、できるだけ多くの給料を貯蓄し、それを外出権に充てることで一発逆転を狙うことにしました。しかし、そこに悪魔のささやきをするのが班長です。

 

「フフ…へただなあ、カイジくん。へたっぴさ…!欲望の解放のさせ方がへた…」

 

 買い物を節制をしようとするカイジに対して、そんな妥協ではなく、ちゃんと満足を得られるものを買った方が、むしろ次の節制への励みになる、と囁くのです。班長は、その呼び水になるようなサービスまでして、カイジをまんまと歯止めがかからなくなってしまう豪遊に導きます。

 カイジの脳内では、「お金を貯めるために節制をしよう」と「美味しいものを食べ、お酒を飲みたい」という気持ちが戦っていました。それは最初節制の方に軍配が上がっていましたが、班長の囁きによってパワーバランスが変わり、豪遊に傾いてしまうわけです。

 

 これは重要な話だなと思います。つまり、人間の行動を変えることができるのは、論理的な説明や説得そのものでは、きっとないのだろうなという僕の実感と合うからです。

 ある人の行動を変えたいときには、その人が持っていない考えをゼロから植え付けても上手くいかず、その人の頭の中に、どのような欲求エージェントが既に存在しているかを把握して、それらの欲求のパワーバランスに刺激を与え、表面上に出るものを変えることが近道であるように思います。

 

 柿ピーではなく、焼き鳥とビールで豪遊したかったのは、カイジ が元々持っていた欲求です。そして、カイジ をカモとして借金で絡めとるためには、班長にとってはその豪遊をしてもらうことの方が都合がよいことでした。そこで、カイジ にそれをしてもいいだけのちょうどいい理由を与えてやるということをし、節制に豪遊が勝ちやすい状況を演出たのが、すごいことだなと思ったんですよね。

 

 ハーモニーの世界にも、ナノマシン化された班長が存在していれば、脳内の欲求エージェントを上手く調整して、あの結末を変えられたのかもしれません。今書いていて、何を言っているんだ僕は…と思いましたし、なんなんだこの文は。

 

 こういうことを思ったのは、この前、コンビニに行ってホットスナックのからあげ棒をちらっと見つつも、レジにコーヒーだけ持って行って買ったら、レジの人に「からあげ棒もどうですか?」と聞かれてしまい、ああ、見られてたかあという気持ちとともに、「からあげ棒もお願いします」と僕が笑って言ってしまったからです。

 いや、食いたかったんですよね、からあげ棒。でも、今はカロリー計算をしているので、食べるわけにはいかないなと思って我慢したんですけど、そこでレジの人に呼び水を与えられてしまったせいで、観念して欲求に従ってしまいました。

 

 そして、家に帰りながら、世の中は結構こんな感じに動いてるんじゃないかなと思ったりしました。みんな外向きに見せている態度の裏側には葛藤があって、表面に見せているものが全てではなく、それをやってもいい口実を与えられると、それをやってしまったりする気がします。

 

 ネットとかでたまに目にする「イジメられる側に原因があるわけがない」みたいな話に疑問を持つことがあって、それはつまり「原因があるならそれはイジメではない」という考えと表裏一体だと思うからです。

 イジメられた子にイジメられた原因があるということは実際はあると僕は思います。ただし、原因があったとしても責任があるとは思いません。ここでいう原因というのは、それが異なっていればイジメが発生しなかったポイントという意味です。

 

 例えば、大事な約束を破ったということが、裏切りと捉えられ、裏切った人への制裁としてイジメに発展することがあります。その約束を破りさえしなければイジメが起こらなかったと考えれば、それは原因です。でも、原因があるからといってイジメをされて当然だとは思いませんし、イジメられた責任をとる必要があるとも思いません。

 何がきっかけとなってそれが起こったかを把握するためには、そこを目を向けることそのものを避けるとよくないなと僕が思っているという話です。

 

 

 際どい話をしているので若干話がズレましたが、「原因があるものはイジメではない」というのは、イジメをする人が抱えているのを見ることがよくある感情です。そしてそれは、欲求エージェントのバランスを変える力だと思うんですよね。

 「イジメは良くない」というエージェントと、「誰かを攻撃したい」というエージェントが戦ったとき、規範意識が強ければ「イジメは良くない」が勝って、イジメには至りません。しかし、一旦「それはイジメではない」が参戦すると、パワーバランスが変わり、攻撃するということが表面に出てきてしまうんじゃないかと思います。

 こういうことを避けるためには、やっぱりどういう欲求エージェントが頭の中にあるのかということを把握して、自分の中には矛盾する欲求があり、その中のどれにどのような力を与える理屈を採用しているかということに自覚的になった方がいいと思うんですよね。

 

 小学生のときに、僕の持ち物に同級生がめちゃくちゃなラクガキをするという嫌がらせを受けたことがあるんですが、僕はそれを先生に言いつけたものの、先生がそれを見て、「それがどうしたの?」と言っただけということがありました。

 その行為は、先生によって「悪くないこと」としてお墨付きを得てしまったために、歯止めが掛からなくなり、その後もしばらく嫌がらせは続いたんですよね。結局どうしたかというと割と暴力的な解決をしたんですが、まあ、あんまり良くないなという思い出です。

 

 世の中では、自分が考える正しいことと、全く逆の行動をする人を目にしたりします。でも、それをする人たちにも、それをしていい理由がちゃんとあったりします。また、向こうからしてみれば、こちらの方が間違っているという認識かもしれません。

 だからそういうときに、相手に単純に「あなたは間違っている」なんて言っても仕方ないんだと思うんですよね。その人の中では、それをすることが正しいということで辻褄が合っているからです。

 

 そういうときに、その人の中には表面上は見えなくてもどういう欲求があって、その中のどの部分が理解できるものなのかを考えることが重要なのかなと思ったりしています。どこかの部分で共感できるなら、その部分の重要性をお互いに理解することができれば、同じ結論に至こともできるのかもしれません。

 理屈だけ言うなら簡単ですけど、実際やるのは難しそうですね。でも、相手が真逆の立場なのだから、理解することが一片たりとも不可能として、どちらかが相手を力で黙らせるしかないみたいなのは、しんどいじゃないですか。

 なので、そういう風に考えた方がいいような気がするなと思っている日記です。おしまい。