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神秘体験に人間の自我は耐えられるのか?関連

 昔何かで読んだ詐欺の方法で、競馬の予想ができると主張する人物が、無作為に大量の人に予想情報を送りつけるというものがありました。しかし、それは実は、送る相手ごとに違った予想を送りつけるものなのです。そして、その中には、確率的にたまたま的中するものもあります。その的中した相手だけを対象に2回目の予想を送り、それも的中した相手には3回目の予想を送ります。そうすると、とても低い確率ですが、本当に何度も的中する競馬の予想を受け取る人が出てくるわけです。

 それを受け取った相手からすると、本当に当たる予想結果が送られてきたのだから、この人は、本当に競馬の予想を的中させる能力があるに違いないと信じたくなってしまいます。それを根拠に、今度は大きな詐欺を行うわけです。

 

 これを実際行う場合には、非常に多くの人に予想を送りつけないといけないので、ネットが発達し、情報が流通しやすい世の中では、その過程で簡単にからくりがバレてしまうかもしれません。しかし、このような神秘的な結果を見せつけられたときに、人は本当にそれに抗うことができるのか?ということを考えてしまいます。

 

 自分はインチキにはハマらないと思っている人が、まんまとこのような詐欺に引っかかってしまうような事例はあります。それはなぜなら、確固たる結果が目の前にあるからです。目の前の疑いようのない結果は、人に対して強い力を持ちます。人には、過程から帰納的に結果を得るのではなく、目の前の結果から演繹して過程を類推する能力があるからです。

 人間には、あらゆる分野における専門的知見を得ることはできません。なので、自分が専門的な知見を持っていない分野に関しては、専門的なものに対する判断を、専門的な知見以外から得るようなことをしています。

 例えば、もし嘘だった場合、明日には絶対にバレるようなことを言う人に対して、「明日には絶対バレるようなリスクのあることを、わざわざ今日言う人はいないだろう」という、リターンに対してリスクが見合わないので、「信じてもいいんじゃないか」と判断するようなことがあります。

 それは、人の言うことの真偽そのものについては全く検討をしておらず、周辺事情からの類推で、真偽を判定しているということです。

 

 道端で知らない人に渡された飲み物を飲むでしょうか?まだ蓋の開いていないペットボトルであれば、中身が危険なものに入れ替えられているリスクは低いと思って飲めるかもしれません。でも、蓋が開いていない場合でも、中身が何かしら危険なものにすり替えられたり、小さな穴が空けられていて何かが混入されている可能性はあるかもしれません。ただ、自分がその対象になる可能性は高いでしょうか?いや、無差別にそんなことをする人がいたこともあります。

 じゃあ、道端で知らない人ではなく、お店が無料で配っていたらどうでしょうか?もしそれで何かが起きた場合、営業は停止するでしょうし、オーナーや従業員の身元は分かるでしょう。そんな状況で、リスクに見合うでしょうか?そのお店が昔からずっとあれば、より信じてもいいという気持ちは高まるでしょう。

 

 しかし、ここではやはり、その中身については一切検討されていません。

 

 疑おうと思えばいくらでも疑える世界の中で、全てを知ることもできない身の上で、それでも人は、色んなリスクを判断しなければならないのです。詐欺師につけ込まれる隙もそこにあります。

 

 僕が思うのは、「自分は疑り深いので詐欺には引っかからない」という気持ちを、どれほど自信を持って言えるかということです。ちなみに僕は比較的疑り深い人間だと思います。例えば、学生のときに友達と旅行に行ったときに温泉に入って、脱衣所で他の皆が財布を盗まれたのに、僕だけ盗まれなかったということがありました。なぜなら、僕は疑っていたからです。誰かに盗まれる可能性があるということをです。

 その温泉には、鍵のかかるロッカーがなかったのですが、僕は「こんなの誰でも盗めるじゃん」と思ったので警戒して簡易的な対処をしていました。僕がやったことは、ズボンから財布を抜いて、タオルに包んで奥に入れておいただけのことです。ただこうすると、盗人がいたとしてもごそごそとあさらないと財布は見つからないので、短時間で盗むことが難しくなります。それが見事有効に機能した事例です。

 

 とにかく常に疑っています。一人で喫茶店やファミレスに長居するときも、トイレに立つときには絶対に貴重品を手放しません。盗まれるリスクがあるからです。前に、人がタッパーで持ってきてくれた食べ物を、まず匂いを嗅いでしまい、すげえ怒られたこともありました。何か変なものを持ってきたとでも思ったか?という怒られ方です。でも、これは自分の中では無意識にやってしまうことで、食べるものについては、本当に食べてもいいものなのかを絶対に疑ってしまうんです。それ子供の頃に、山でその辺に生えているものを食っていた経験も関係しているかもしれません。

 目の前にある食べ物が安心して食べられるものであるかの確証がない世界で生まれ育ったということです。

 

 とにかく疑ってしまう僕は、何の条件が満たされていれば信じてもいいのか?ということにすごく注目しています。インターネットで投稿された体験談も、こんなのどうとでも捏造で書けるじゃないかと疑ってしまいますし、完全な嘘でなくとも、書いた人の主観でいくらでもゆがめられるものだと思ってしまいます。

 コミティアで出版社の人から名刺を貰ったとしても、名刺なんていくらでも勝手に作れるので、本当に出版社の人かどうかを警戒したりします。その後、出版社のドメインから来るメールを、アドレス偽装がされていないかも確認して、やり取りが成立した上で、ようやく信じてもいいかなという気持ちになります。

 

 そんなふうに全てを疑い続けると、何も信じられるものがなくなるので、一歩の動けなくなります。なので、もし嘘だった場合に生じるリスクを考え、最悪騙されてても問題ないなと思うものに対しては、それ以上疑うことをやめたりもします(生活の知恵)。

 

 とにかく疑り深い僕ですが、それでも、いや、だからこそ、自分が神秘体験的なものに直面したときのことを考えると怖くなるんですよね。それを本当に疑うことができるのか?ということをです。もしかすると、そこに意味を見出し、信じられる理由を考えてしまうかもしれません。普段警戒しているからこそ、そこに無防備にさらされる自分を想像すると、恐ろしくなってしまいます。

 

 例えば、世界中の人が参加するトーナメントのジャンケン大会が開催された場合、そこでは1人だけ、一回も負けずに勝ち続けた人が生まれることになります。これは当たり前のことですが、同時にとても奇妙な体験かもしれません。なぜなら、その勝者には、「なぜか33回程度連続でジャンケンに勝ててしまった」という体験が付随するからです。

 例えばすごい動体視力があるだとか、心理戦に長けているだとか、機械が瞬間的に判断した情報を教えてくれるイカサマだとかであれば説明がつきます。正気でいられます。しかし、ただ何も考えずにジャンケンをしたのに、延々勝ててしまうとき、それは確実に起こり得ることですが、自分が体験として考えると、同時にあり得ないことだとも思ってしまうでしょう。

 

 例えば、周りの人間が結託して、僕を勝たせようと画策していると疑うかもしれません。あるいは、それを何かの神秘体験として、神の存在を信じ始めてしまうかもしれません。

 おそらく五回、十回と勝ちを重ねていくにつれて、手足が震えてくると思います。そして、そこからさらに一回一回繰り返すたびに、なぜかずっと勝ててしまうということに説明がつかなさ過ぎて、頭が変になってしまうかもしれません。

 でも面白いのは、この体験は1人に対しては絶対にあることだということです。80億人の人がいれば、80億人分の勝ち負けがあります。それぞれの意味は確率的に等価ですが、人間は全勝に対して強い意味を見出してしまいます。そこで見出した意味が、個人で抱えきれる以上に大きかったとき、自分はいったいどうなってしまうのでしょうか?

 

 僕はその神秘的な体験によって、それまで持っていた自我を崩壊させてしまうかもしれません。

 

 これよりずっと小規模ではありますが、似たような事例が昔ありました。僕が大学生のときの、学科内の研究室配属を決める集まりでの話です。今では成績順に選ぶ権利が付与される仕組みだと聞いたことがありますが、当時は、完全に自由に希望を書いて、割当人数を超過した場合にはジャンケンで決めていました。

 僕は当時そんなに人気があったわけでもない研究室を最初に選んだのですんなり決まりましたが、別のところでは、盛大なジャンケン大会が開催されていました。

 

 つまりそこに1人、ジャンケンに負け続けた人がいたわけです。第一希望のジャンケンに負けて、第二希望でも負け、何回負けたのかは分かりませんが、最後まで負けて、残っていた一番不人気の研究室への配属が決定していました。そして、彼はその場で泣きわめいてしまいました。

 だって、きっと説明がつかないわけでしょう。自分のこれからの人生を決定づけるかもしれない場において、普段なら勝ったり負けたりするジャンケンにおいて、何回ジャンケンをしても負け続けてしまうという事実にです。彼はそれを受け止めきれなかったからこそ、泣いてしまったんだろうなと思いました。めちゃくちゃ可哀想だなと思いました。

 これが後に成績順になったのは、まあ良かったなというか、分かりやすい説明がつくと人間には合理的な納得が発生して、精神がズタボロにされにくくなると思うからです(副作用としては、成績の良い学生が人気の研究室に集中してしまいそうですが…)。

 

 こういうことを考えていると、自分が知っている科学的知見においてあり得ないと感じるものを、目の前で見てしまったときに、人はどうなるんだろうと思ってしまうことがあります。これは悪いことの話とも限らなくて、例えば、光が波と粒子の両方の性質を持つという科学的認識に対しても、最初は科学的に信じられないと捉えてしまった人が多かったのかもしれません。でも、目の前の実験の結果はどうしてもそれを指し示してしているとき、そのときに起こることは「科学的知見の方が書き換えられる」ということです。

 仮にその目の前の結果がインチキによるものだったとしても、個人レベルでは同じことが起こってしまうかもしれません。自分がそれを疑って疑って、疑いきってもインチキだと指摘できなかったときに、それを受け入れてしまう瞬間があるのではないかという想像です。良いとか悪いとかを抜きにして、人がそうなってしまう瞬間の精神状態は、スゴいだろうなと思います。

 

 ジャンケンの例え話では、実際に1件確実に起こることで、それは科学的に疑いようもないものであるからこそ、人間の疑い抗う力が無効化されてしまうという怖さがあります。そして、そこに意味を見出さずにいられるほどに人間の自我が強くないことから起こるエラーみたいな感じでやばそうだなあというか、このような種類の神秘的な体験(と解釈しうるもの)に自分が接してしまったときのことを考えてしまうんですよね。

 

 シャーロックホームズも言っていました。「あり得ないことを除外して、残ったものがどれだけ奇妙に見えても、それが真実である」と。

 「岸和田博士の科学的愛情」のあるエピソードでは、これを効果的に使います。密室殺人を解決するためにやってきた岸和田博士が、様々な検証の結果、どのような方法でも被害者を殺害することは不可能であるという結論に達し、だから、奇妙に見える真実として「この被害者は生きている」と主張しました。頭に斧が刺さり、首を絞められて毒を飲まされていても、彼を殺す手段がことごとく不可能である以上は、彼は生きているというのです。

 これはギャグでしたが、色々な示唆も含んでいると思っていて、つまり、その人が「何を疑い続けることができるか?」ということが、結果的に「何を真実として捉えるか」ということと密接に繋がっていて、そこから任意の「奇妙に見える真実」を得ることができるということなんですね。

 そして、疑うことができないときに人間は弱い。

 

 人間は面白いですね。そして怖い。