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カイジの石田さんに見る物言わぬ弱者関連

 「賭博黙示録カイジ」に登場したおっちゃん、石田さんのことをたまに思うけど、石田さんのことを思うと悲しくなる。それは作中で、石田さんの死に接したカイジが思ったことと同じだと思う。

 石田さんはなんでもないおっちゃんで、とにかく人に騙されやすい。帝愛の開催するギャンブルは、無重力空間のようなもので、そこで浮上するにはそれだけの反作用が必要だ。つまり、上に行くには誰かを蹴落とさなければならない。人が善く、騙されやすいのは、そういうギャンブルには向かないと思う。どこかで誰かに騙されて蹴り落とされ、どんどん下に落とされてしまう。下にあるのは強制労働で、さらにその下にあるのは死だ。

 石田さんは死ぬ。死因は人の善さだろう。人の善さが美徳であるのは、人の善さが良い結果を招く限られた場所だけの話で、そうでない場所では、それがむしろ自分の首を絞める。だから、人が善い人は、それが良い結果を招く良い場所から外にでるべきじゃないし、そうでないことになってしまった時点で、破滅的な未来しかなかったのだろう。あるいは、人の善さを捨て、悪になるという方法もあったが、人の善い人はなかなか悪になれないからこそ、人が善いのだ。

 人が善いというのは人を簡単に信じてしまうということだ。海上の船エスポワールで開催されたギャンブル「限定ジャンケン」で、石田さんは仲間を信じてイカサマに手を貸した。しかし、それで勝てた仲間は、自分のために動いてくれた石田さんを簡単に見捨てた。助ける理由がないからだ。

 人と人の信頼関係は、普通はすぐに確立できるものではない。短期的な信頼関係は、実質的に利害関係となりがちだ。助けるだけの利益があるならば助けるけれど、それがないなら見捨てた方がよい。その方が利益があるからだ。石田さんはそれを見誤った。自分をきっと助けてくれるだろうと簡単に信じてしまった。それが人の善さだろう。それが人が奈落に落ちるための、一押しだろう。

 

 カイジはそんな石田さんを身銭を切って助ける。それは人の善さだろうか?きっとそれもある。カイジはどうしようもなく人が善い。ここで言う「人が善い」ということは、悪になりきれないという意味だ。カイジはいつも悪になりきれない。それで、稼いだはずの金を何度も失う。自分を石田さんと同じように利害で見捨てた悪なる仲間に対するあてつけのように、カイジは大金をはたいて石田さんを助けた。自分を見捨てた理屈に、同じく身を任すことが許せなかったのではないだろうか?

 利害だけで動くならば、人の行動は御しやすいはずだ。なぜなら、利害で動く人はきっと、一番利益があり一番害がない選択をするだろうからだ。しかし、経済学でそう考えても、実体的には人間はそうは動かないこともよくある。なぜならば、人間の視界には金銭的利害以外の他にも見えているものがあるからだろう。その意味でカイジはあまりにも人間だ。人間だからこそ、カイジは石田さんを助ける。

 

 そんなことで命が助かった石田さんが、再びギャンブルの地に現れる。のちのちに分かることだが、それは借金を抱えた息子のためだった。金が必要だが、金を作る能力が石田さんにはない。いやあった。それがギャンブルだ。

 

 人間が他人に対して残酷になりやすくなるきっかけがあると思う。それはその他人が自分を傷つけてこようとするときだ。自己防衛のためならば、緊急避難のためならば、人殺しすら情状酌量で理解可能となる。カルネアデスの板だ。

 今度のギャンブルは、ビルの間に渡された鉄骨の上を渡るだけのレースで、そこで重要な勝つためのテクニックがある。それは、前を歩く人間を突き落すことだ。誰かがそれを始めると、一斉にそれが始まってしまう。なぜならば、それをしなければ、追い越し不可能な鉄骨の上では勝つことができないからだ。そして、自分もまた後ろから来る人に突き落されるかもしれないからだ。

 目の前を歩く人間は、既に別の誰かを突き落した人間だったりもする。誰だってやっていることだ。自分もやられるかもしれないことだ。なら、自分が目の前にいる人を突き落すことは果たしてそんなに悪いことだろうか?なぜならば、そうしなければ、自分もそうされてしまうかもしれないのだから。

 

 他人を傷つけるということは、実際結構なストレスがかかることだ。だからそれをするためには、そのために十分な言い訳が必要だ。賞金のために誰かが誰かを突き落す、悲惨な鉄骨渡りレースでは、その条件は満たされているのではないだろうか?そう、目の前にある人間を押してもいい。そこは、それが許された残酷で無慈悲な空間だ。

 そして、そんな空間でカイジは「押さない」と言う。ボロボロ泣きながら、自分はそれでも決して目の前の人間を押さないと言う。だから、他の皆も押すんじゃないと投げかける。それは金銭の利益を考えれば不合理な行動だ。だからこそ、その場において、カイジだけが人間だったと言っていいかもしれない。カイジが人間であることで、他の人たちの中に人間が帰ってきたりもする。

 

 石田さんはそんなカイジをますます信頼してしまう。人を信じやすいおっちゃんなんだから、自分を助けてくれた人をより強く信頼してしまうのは仕方がない。馬鹿なおっちゃんは、馬鹿なりに金を得ようと奮闘する。そして、そんなおっちゃんがやっとのことで手に入れた賞金の引換券はとんでもないところで交換されることが知らされた。その場所は、さきほどとは比べ物にならない高層に渡された鉄骨の先で、落ちれば確実な死である場所にある勇敢な者だけが歩ける道だ。

 いや、それは本当に勇敢だろうか?彼らは金が必要であるがゆえに、そこを歩かざるを得ない。金があったならば歩かなくてよかった危険な道を歩かざるを得ないことに勇敢という言葉はやはり不適当かもしれない。それはただの悲惨だ。

 

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 その鉄骨の上で起きた出来事、石田さんの死の際のことを思うと、いつも泣いてしまう。臆病で人の善い、なんでもないおっちゃんの死に際はまるで無だ。何もない。何もないのが何故かというと、何も言わなかったからだ。何も言えなかったのではなく、意志をもって言わなかったのだ。自分が道半ばにして力尽き、鉄骨から落ちて死んだという事実がカイジに動揺を与えないために。物音ひとつ立てず、少しも悲鳴を漏らさず、石田のおっちゃんはいなくなった。その直前にカイジに賞金の引換券を託し、義務を果たしたように、ただいなくなった。

 何にもできなかったおっちゃんがせめて、自分の信頼した男、カイジにだけは何も迷惑をかけたくないと思って、無言で消える。僕はそのときの石田さんの気持ちを思うと、泣いてしまうけれど、それは果たして美徳だろうか?

 

 これは物語の話だけれど、実際にも似たようなことはよくある。誰にも迷惑をかけたくないという人が、自分の欲求を口にすることすらできなくなるということだ。辛い状況にいるのに誰にも何も言わず、全て自分の中に飲み込んでしまったり、自分だけで解決しようとしてしまう人を目にするし、それで上手く行けばいいけれど、上手く行かないと悲惨なことになる。

 「助けを求めればいい」という言葉が出てくるのは、助けを求めることができなくて悲惨なことになってしまったあとのことが多いと思う。まだ頑張れる余地があるときには、簡単に助けを求めずに自分で頑張れ!とか言われてしまうんじゃないだろうか?少なくともそう追い込まれてしまう人の中では、そう言われるに違いないと思い込んでいることもしばしばだと思う。

 

 弱者には助けを求める権利があるだろう?と問われれば、その通りだと答えるかもしれない。でも、助けを求めないままに何も言わずに消えてしまった弱者を良い人だったと思ったりしないだろうか?といつもひっかかってしまう。

 「あなたには権利があるが、権利を行使しない状態を一番評価してあげよう」という態度は、それをきっと助長するだろう。それが誰かに迷惑がかかる行為だとしても、それで自分がどうにかなってしまうのであれば、きっと声をあげるべきだと思うんだよな。

 

 石田さんはダメだけどいいおっちゃんだ。でも、そんなダメなおっちゃんがせめて迷惑をかけないようにと無言で消えてしまったことはたぶんいい話ではない。それは、きっと悲しい話だ。石田さんは理屈が通らず無様に泣きわめいて、自分が生きたいと主張したってよかったはずだ。その方がきっといいと僕は思う。

 

 そして、ワンポーカー編の最後の和也はそうだった。あんなにもあまりにも傲岸不遜で自信満々だった和也ぼっちゃんが、ギャンブルの負けの結果の死の際で、あまりにも無様であまりにも格好悪く泣きわめき、助けを求め、理不尽に怒り狂う様子を見て、少しほっとした。そうだ、人間はこうでなければならない。無様に生きることを求めたっていいじゃないかと思った。

 あのとき、何もできぬまま気づかぬままに石田さんを失ったカイジは、今度は同じく落ちようとする和也を助けることができるわけでしょう?それはもしかすると、和也の命だけでなく、あのとき無力だった何もできなかったカイジの心をも救ったのかもしれないじゃないですか。

 なんかそういうことを思ったわけですよ。