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喩え話の地獄

 僕はネット関係の分野で働いているのですが、そのお仕事の中で色んな人に色んな説明をしなければならない機会があります。ですが、ネットの仕組みに関する基礎知識がない人も多いので、技術的なことをそのまま説明したとしても相手に上手く伝わるとは限りません。なので、喩え話を使うことも多いです。

 喩え話というのは、ある分野における基礎知識を持たない人に対して、その人が既に知っている分野における言葉を使って、今話していることの構造がどのようなものであるかという概要を、手っ取り早く理解してもらうための技法です。なぜそういう技法を使う必要があるかというと、技術的なことというのは正確に話そうとすると相応に複雑なので、その場で即座に基礎知識として身に着けて頂くことはできないからです。

 例えば「ネット」であれば「交通」の喩えを使って説明することが多いです。「ネットを通じて情報が行き来するということ」と、「自動車や電車に乗って人が行き来するということ」には共通点が多いからです。そもそも、ネットワークの分野の言葉には交通から輸入したものも多く、例えば、行き交う情報の流れのことをトラフィックと呼んだりします。

 ちなみに、この文章の中では「喩え話」と「例え話」を分けて記述します。今みたいに抽象的な話から具体例を挙げるのが「例え話」、具体的な話を別の具体的な話になぞらえるのを「喩え話」と表現するということにします。

 

 ネットを使って効率よく情報を運ぶということを、「道路」を「ケーブル」、「自動車」を「パケット」になぞらえれば、「ある端末から送信されたパケットが、ルータで経路制御され、別の端末に到着する」ということを「自宅を出発した自動車が、交差点にある道路標示を見て適切に曲がり、目的地に到着する」という感じに喩え話に落とし込むことが可能です。前者のことは知らなくても、後者のことは知っている人は多いはずです。なので、後者の「交通」を知っていれば、前者の「ネット」を分かったような気になれるという、とても便利な技法が喩え話なのです。

 

 さて、ご存じだとは思いますが、ネットはネットであって交通ではありません。そして、交通は交通であってネットではありません。今挙げた喩え話で言えば、パケットと自動車を同一視していますが、パケットは「その行先を経路上のルータが振り分けるもの」であり、自動車は「その行先を運転手が自律的に判断するもの」です。つまり、ある切り口における類似(この場合は、枝分かれする道があってそこを通る物がある)を、その類似点においてのみに限定して便利に使っているだけであって、両者が同じものということでは決してないのです。

 なので、喩え話というのは、ある分野への知識がない人に短時間で分かったような気になってもらう技法としては便利であるものの、厳密に言えば「嘘」なのです。僕は今とても重要なことを言いました。「喩え話」をちゃんと「嘘」だと認識しておかないと、議論は明後日の方向に向かってしまいがちです。なので、少なくとも真面目な議論の場では、できれば使わない方がいいと僕は思っています。

 

 漫画の「プラネテス」では、星野五郎が息子の八郎太に「ツィオルコフスキーの喩え話における嘘」を指摘します。「ロケット工学の父」と称されるツィオルコフスキーは、かつて地球をゆりかごに喩え、「しかし、ゆりかごで一生を過ごす者はいない」という発言を行いました。これが「嘘」だというのです。この喩え話は、前述の「短時間で理解をさせる手法」としても機能していますが、それに加えて、「その理解をある方向に歪めようとする力」も働いています。つまり、「地球をゆりかごに喩える」ことによって、「そのゆりかごは、そのうち出るのが当たり前」だという結論に至れるのです。果たして地球は人類にとって本当にゆりかごなのでしょうか?そこにどれだけの妥当性があるのでしょうか?

 では、これを別の方法で喩えてみましょう。人類は魚で、地球はオアシス、宇宙が砂漠だとします。とすると、「魚はオアシスを離れ、砂漠では生きることはできない」という結論が導けます。宇宙には出てはならないという結論です。そして当たり前ですが、人類は魚ではありませんし、地球はオアシスではありませんし、宇宙は砂漠ではありません。この喩え話はそれ自体に何の意味もないのです。意味があるとすれば、このように喩えることで、「人類は地球を離れて生きようとしてはならない」という結論を導き出したいという、話者の都合でしょう。

 ツィオルコスフキーが宇宙を目指したいがために喩え話をしたように。

 

 喩え話は、ある分野Aと別の分野Bにおいて似たような構造があると指摘することによって、既知の知識を効率的に利用し、未知の分野を理解するためのとっかかりにしているに過ぎません。ここで担保されているのは、ある切り口においてはAとBに似た構造が存在しているということであって、切り口を変えてみれば似てなんかないのです。

 なので、Aへの理解を深めるために、みなさんご存じのBを引き合いに出すこと自体はいいと思いますが、「AとBはCという点で似ていて、BはDという状態だから、AもDである(Dであるべきである)」みたいな結論を導き出す道具にして使ってしまうと、変なことになります。なぜならば、AとBはCという点で類似してはいても、Dという切り口でも類似しているかどうかという説明はどこにもされていないからです。Aについての結論を導き出したければ、Aの分野のみで論じるべきであり、あるいは、AとBに共通する抽象的な構造を抜き出して、抽象的な話として論じるべきだと思います。ここで、なぜ「べき」という強い言葉を僕が使うかというと、そうしないと適切な結論が出せないと思っているからです。

 喩え話は、出現した瞬間に話の論点に喩え先に由来する新しい要素が足されてしまいます。そしてその要素は元々の論点に何の関係もないので、喩え話をするたびに考慮する要素が増加するものの、その実、本筋は遠くなり、結果として議論の時間がかかる割にまともな結論が出ないという状態に陥りがちだと思います。僕はその状態がすごく嫌です。なぜなら、今まで何度もそのような状態になって、結論も出ない割に時間だけがかかるということを経験してきているからです。

 

 このような状態を「喩え話の地獄」と表現しています。地獄とは地の獄と書きます。もがけばもがくほどに、論点ばかりが増え、抜け出せなくなってしまう人を捕えるおそろしい獄です。そして、それはその論点の増殖性ゆえに周囲の人間を次々に巻き込んで肥大化し、そのくせ結論は出ないのです。そこから抜け出す唯一のすべは、お釈迦さまによってカンダタに垂らされた唯一の蜘蛛の糸、「喩え話をしないこと」だけなのではないでしょうか??

 

 さて、あからさまかつ下手くそなので気づいた方も多いと思いますが、僕は「喩え話による議論」を「地獄」というイメージの悪いもの、「喩え話をやめること」を「蜘蛛の糸」に喩えることで、印象を誘導しようとしました。このように、「自分が肯定したいもの」を「印象の良いもの」、「自分が否定したいもの」を「印象の悪いもの」に喩えることで、結論を誘導しようとすることはよくあります。そして、この方法は実行すること自体はとても簡単なものなので、ともすれば、ある命題について地道に議論をするより、「皆が共通認識する悪いもの」と「命題」の共通点を探すことや、「皆が共通認識する良いもの」と「命題」との共通点を探すことに終始してしまうこともあるかもしれません。

 共通点を探そうと思えば、何にでも強引に探せるものだと思います。そして、そういう議論になると、自己利益に誘導するための喩え話をどれだけできるかという戦いになってしまいます。このようないかに喩え話にするかという戦いは、そもそもの本筋とはあまり関係ないので、そもそもの問題を解決する上で役に立ちませんし、時間を効率的に使うためには、そういうことに時間を使わず、もっとちゃんとお話をしましょう!!と思うのですが、また今日も議論の中に喩え話が出てきて本筋の話が進まなくて辛い!!と思ってしまうような残念な経験を重ねてしまっています。

 もし、会議室に「幽遊白書」の海藤がいてくれれば、「禁句(タブー)」の能力を使って、「たとえば」という言葉を発したひとの魂をどんどん抜いていってくれるのになあと思いましたが、残念ながら海藤は実在しないので、そうはなりませんし、これらかも人類は雑な喩え話と戦っていかなければなりません。

 

 余談ですが、僕が好きな漫画の中の喩え話と言えば、「エアマスター」の坂本ジュリエッタがするやつで、「たとえばおまえらがその昔、幼き頃、捨てられて凍えてる仔犬を助けたことがあるとしよう、でも死ね」や「例えば、地球全体絶対破壊ミサイルが地球に向かって飛んできたとして、マキを守るためなら、受け止めてやる」などです。この喩えが入ることで、ストレートな言葉がそのままにとても強くなるので素晴らしいと感じます。ただ、これらは「状況の仮定」という種類の喩え話なので、上で説明している喩え話とはまた別の種類のものですね。世の中には色んな「たとえ話」がありますね。