世の中には色んな本があります。そして、世の中には色んな人がいます。しかし、人が本から読み取れることは基本的に2種類だけだと思います。それは「わかっていること」と「わかりかけていること」です。もし、例外的なものを1つ付け加えるとしたら、「この本に書いてあることがわからない」ということがわかるということもあるでしょう。
もう少し、具体的に言うと、充分な前提知識を持たないで本を読むと最後の状態になります。つまり、「この本に書いてあることはわからない」と思って読書が終了してしまいます。例えば、一般的な小学生が大学レベルの数学の本を読めばそうなると思います。あるいは、自分が行ったことのない外国の話なんかもそうでしょう。現地の常識がわからなければ、わからないことが多いはずです。自分の持っている常識を前提に無理矢理読むことは可能かもしれませんが、おそらく書かれていることを誤解してしまいます。
この誤解は、多かれ少なかれ、どんな読書にもつきまといます。なぜなら、本の作者が読者が持っていると想定している前提情報を、読者の側が常に全て持ち合わせているとは限らないからです。それは作者の書き方が拙いからとも限りません。なぜなら、昔に書かれた本は昔の常識に沿って昔の人々に向けて書かれているので、今の常識しか持ち合わせない人にはわからないかもしれません。あるいは、ある専門的な教育を受けている人を対象に書かれた本は、そうでない人をそもそも対象としていないこともあります。
面白い本というのは、概ね「わかりかけていること」について書かれている本だと思います。なぜならば「わかっていること」しか書かれていなければ、読むのは既に知っていることの確認作業でしかありません。そして、「わからないこと」について書かれている本の感想は常に「わからなかった」でしかないからです。
つまり、本が面白いか面白くないかは、読者が既に何を知っているかに依存します。ある分野についてあまり知識を持ち合わせていない人のために書かれた本は、想定読者である人が読むには「わかりかけていること」について書かれた本ですが、その分野について詳しい人が読むと「既にわかっていること」に関する本なので、退屈と感じるかもしれません。
また、ある分野について充分な専門知識がある人にしてみればとても面白い本も、その専門知識を持ち合わせていない人にしてみれば、わけのわからないことの書かれたわけのわからない本でしかなかったりするのです。
このように、読書には段階があります。自分にとって「わかりかけていること」について書かれた本を、段階的に順序よく読んでいけば、そのうち最初の段階では「わからないこと」について書かれていたはずの本が「わかりかけていること」について書かれた本に変化するかもしれません。問題は、常にそのような順序で本が読めるかどうかが分からないということです。現実はドラクエのようにレベルデザインがされていないので、お城を出て最初に出会うのが弱いスライムとは限りません。いきなり難しい本を読んでしまい、わけがわからないと思って、その分野について段階を経ることを諦めてしまうかもしれません。
このようなレベルデザインがきちんと成されているのが教育の分野です。教科書は順序良く読んでいきさえすれば、着実に分かるようになっているはずです。問題は、最初の方のレベルをちゃんと理解できるようになっていないのに、次の段階に進んでしまうことです。そうなると、あらゆる教科書は、わけのわからないことの書いてあるわけのわからない本となってしまうでしょう。
その理解度を確かめるのがテストであるはずですが、現実問題としては、完璧に理解できていないからといって落第とはなりません。例えば6割分かれば進級できたとすると、4割はわかっていないまま次の段階に進んでしまいます。次の段階では前段階がわかっていることを前提とされてしまうため、段階が進めば進むほどに、分からないことが増えてしまう人も多いと思います。そして、どこかの段階で挫折してしまうのだと思います。
僕自身、大学はうっかり受かってしまいましたが、高校までに教えられる段階を完璧に習得していたとは言い難く、さらに、大学の1回生あたりに教えられる基礎の基礎である数学などを確実に習得して次の段階に行けたかというと胸を張れない感じで、なんとか単位はとったものの、学年が進むにつれて、それが理解できていることを前提の講義についていくのがやっとでした。さらにそこからは、研究の分野に入っていきます。
そこで読む論文には、色んな数式や理論や物理法則に関する前提知識が当たり前のように要求され、さらにそれらは基本的に英語で書かれています。そして、それを読んで理解できなければ、自分が論文を書くという段階に進むことができません。その段階に到達すると、わかりやすい教科書というものも少なくなってきます。専門分野は専門性が高まるほどに、そこにいる人の数が少なくなってくるので、誰でも理解できるような「わかること」だけで本を書く必要性が薄まってきますし、需要がなければ本は出しづらくなってしまうからです。とはいえ、そこは教育なので、ゼロではないため大変助かります。そういうのを読んで、「わかること」を増やし、「わかりかけていること」を「わかること」に変えていくことで、前に進んで行くのです。
このあたりの状況でしんどくて転げまわっているときに、思い当たったのは「わからないことがわかった」ということにも意味があるということです。いくつかの教科に関しては、分からないなりにテストを合格点のすれすれを低空飛行して先に進んできましたが、それが何について書かれていたことで、自分はそこがイマイチよくわからなかったという事実を記憶しています。そして、いざ、それらの知識が当たり前に必要とされることになったとき、記憶を遡って自分はあそこがわかっていなかったので、読み直すべきだということに思い至ることができます。幸い教科書はまだ持っていたのです。
そのような感じに、一回段階を降りて、勉強をしなおして、また戻ってくるというようなこともします。しばらく先に進んでいたことが幸いして、今度はわかっていることが以前よりも増えていますから、前はわからなかったことが今度はわかるということもあります。そういうことを繰り返して何とか今に至っているわけです。重要なのはわからなくても一回は読んで道しるべは作ったということ、そして、どうしても先に進めなくなったときは、段階を下がってまた読み直したということです。
教育の分野は、分かりやすいので例に挙げてみましたが、読書は他の分野でも全部そうだと思います。わかる本もあればわからない本もあります。自分にとってちょうどいい本を読めれば楽しいですが、それがどれであるかは人それぞれなので適切に辿り着くのが難しいことです。そしてまた、わからない本だといっても読む意味がないわけでもありません。
事実、僕が子供の頃に読んだ本は、当時の自分にはわからなかった感情や難しいことが書かれていたことも多いですが、わからないものはわからないままで、わかるところだけ数珠つなぎにして読んでいました。大人になってから読み直すと、ああ、こういうことだったのかと思い、ようやくある程度読めるようになったと思い、嬉しくなってしまいました。それらの本を読み直すに至ったのは、昔読んでいたからなので、分からないなりに読んでいてよかったなあと思います。あと、わからなかったときの自分と、わかるようになったときの自分の変化を感じれるのもよかったので、子供のときにわからない本を色々読んでおくみたいな経験はすごく大事だったと今になって思います。
以前、本を読むことはワインを作ることに似てるということを思ったんですが、どういう喩え話かというと、仕込んでから発酵するのに時間がかかるということです。ブドウを摘むのが読書だとすると、それが飲めるワインになるためには手間と時間がかかります。つまり、本で読んだことの意味が、自分の中で実感を伴ってわかるのは、読んだ瞬間ではなく、その後の適切なタイミングになって、ようやくわかるということも多いということです。なので、そのときに良い本だと思わなくても、そのうちにあれはやっぱり良い本だったと思い返すことがあります。そしてそれは、読み終わった瞬間に適切な感想が書けないことが多いということでもあります。
そんなことを言いながら「お前はよく読み終わった瞬間に感想を書いているじゃないか」と言われてしまうかもしれませんが、その多くは既に用意してあるやつだからできるだけで、ワインの喩えでいうなら、読んだ本に応じた既に作って発酵の進んでいるワインを出しているに過ぎないと思っています。たまたま自分の人生の進み具合などに応じて作っているワインがその本の内容に合致して、同じものを見て取ったということを根拠にそのタイミングで表に出しているだけで、その本を読んだ結果、自分が受けた影響が実感を伴ってわかるようになるのは、もう少し人生が進んだ先かもしれません。
色んな本を読みつつ、そこに存在する「わかるまでのタイムラグ」によって、実は前に読んだ本によってわかったと思ったことの感想を、次の本を読んだときに似たものを感じて言っているのかもしれないと思います。新しい本を読んで、昔読んだ本の話を引き合いにだしてしまうということを僕がやってしまうことが多いのは、そういうことなのかなと思っています。
(関連:何を見てもデビルマンの話をするおじさんの話)
このように、全く新しいことが書かれた本の内容を、自分がどのように受け止めていいかは、しばらく経たないと分からなかったりします。なぜなら、その本を受け止め方を、読んだ時点では自分がまだ知らないからです。なので、新しいことの書かれた本を、「この本は面白い」と説明することは自分にとってはなかなか大変なことで、自分の考え方が、それによって変わりきったあたりで、ようやく口にできるものだと思います。
一方、その本がつまらないということを表明するのは簡単です。全く新しいつまらなさというものもあるかもしれませんが、ほとんどの場合、つまらなさは定型的なもの、つまり、すでに自分の中にある分類に当てはめていれば説明できてしまうからです。ただし、そのつまらなさは、面白さを「まだわからない」からこそ、そう認識しているだけなのかもしれません。
面白さを表明するときに、自分の中の定型的な面白い分類に合致するから面白いということもできますが、それは「わかっていること」に対しての話なので、「わかりかけていること」に適用することは難しいと思います。僕が「わかりかけていること」が「わかっていること」に変化する過程を追い求めて読書をしている以上、新しい面白さを感じたときには自分の中に新しい分類を作らなければなりません。それは相応の時間や、読んだ本について考えることが必要です。
読んだものの、自分の中でまだ上手く説明できないことを頭の中の「つまらない箱」に分類することは簡単で、手間を省いて、それをつまんなかったと言って終わりにしてもいいのかもしれません。しかし、自分がまだ面白さをわかる段階に進んでないだけなんじゃないか?ということを僕は常に念頭に置いています。なぜなら、今まで読んできた本の中に、最初読んだときはピンとこなかった本が、そののちわかったような気になってすごく大切な本に変化したという経験が沢山あるからです。
本を読んで「つまらない」と思っても「面白い」と思っても、それは読者の自由だと思いますが、頭の中に既にある「つまらない」と「面白い」の分類に、ヒヨコの雄雌鑑定みたいに放り込んでいくだけなら、いずれ飽きてしまうんじゃないかと思います。なぜなら、何度繰り返しても毎回変わらない同じ作業になってしまうからです。
読んだ本を放り込むための新しい箱を頭の中に作って広げていくためには、既にある定型的な処理を重ねるのではなく、自分自身が変わっていくことが必要不可欠なのではないかと思っています。そういうことを思いながら、今日も「わかる本」「わかりかけている本」「よくわからない本」を分け隔てなく読んでいます。