漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

価値観に所属するという感覚関連

 近年意識しているのは、「価値観に所属する」という感覚です。その感覚が個人の損得よりも上位にあるので、傍から見ると、個人の損得レベルで不合理のような選択をしていると思われることがあり、でも、僕の中では合理的に自分が一番得をするように振る舞っているので、これはその辺の話です。

 

 価値観に所属するということがどういうことかというと、例えば「人に親切にするということは良いことだ」という価値観があるとします。その価値観に至るのは、他人に親切にされて嬉しかった経験に根ざしていたり、人が互いに親切にし合える世の中っていいよねという思いだったり、色々な理由があると思いますが、自分が人に親切にすることによって、その価値観に所属することができるようになります。

 人に親切にするっていいよねという価値観に所属することで、自分が過去他人から受けた親切も肯定することができますし、その価値観の中で自分が生きていることで嬉しくなります。そのため、自分には自分のこれまでのよかったことや今の自分の状態を肯定的に捉えられるという、とても大きなメリットがあります。

 

 見知らぬ人に特に見返りもなく親切にするということは、個人レベルでは損かもしれません。その人に親切にするために支払った労力が返って来ないことも多いからです。なので、僕が感じているような価値観に所属するということの良さが理解できない場合、自分の持っている何かを他人にただばらまいているという愚かな人に思えるかもしれません。

 僕がそういうことをしていると、「そんなに頑張らなくていいんだよ」とか、「もっと自分を大切にして」とか、「親切にされたのに返して来ないなんて酷い奴ら」だとか、そういう言葉が僕を心配して出てくることがあり、心配してくれているのは良いことだなと思う一方で、僕自身は十分得たいものを得られているので、得をしており、得をするために行動をしているだけなので、何も問題はないという状態です。

 

 これは価値観に所属し続けるために、何かをしないという影響もあります。例えば、困っている人を見捨てるということは、自分が大切にしたい価値観に砂をかけているようなもので、そんなことを続けていたら、もう人に親切にすることっていいよねと思いにくくなってくると思います。自分の中で辻褄があっていることを優先させるなら、そこで助ける方がいいという判断が自分の中で出てきます。

 

 こういう自分の中の価値観の一貫性については、特にネットなんかを見ていると思うことが多くて、例えば「イジメはいけない」と憤ったとして、その時に思うのは自分はちゃんと「イジメはいけない」という価値観に所属で来ているかどうかということが気になってきます。

 つまり、「自分がしている行動の中にイジメと判断できるものがないだろうか?」ということが気になってしまいます。自分がイジメをしているのに、イジメに憤っているということは辻褄があいません。そうなってくると、イジメは良くないと思ったという自分の感情を、自分で貶めていることになってくるので、とても居心地が悪くなってきます。

 

 なので、イジメが良くないと思い続けるためにも、自分がやっていることはイジメではないのか?ということを考え続ける必要があることになりました。

 

 自分が大切にしたいものを大切にできているということは、とても良いと感じられることで、その状態に自分がなっていると安心します。そして、自分が大切だと思っていることを自分で馬鹿にするような態度をとってしまうと、自分の中の辻褄が合わず、例えば、自分を傷つけたような価値観を自分で肯定しているようなことになり、自分という存在には価値がないように思えてしまいます。

 

 殴られて言うことを聞かされた悔しさを、誰かを殴ることで解消しようとするなら、自分が最初に殴られたという手段は正しかったということになってしまいます。そんなものは正しくなかったと言い続けるためには、殴るという方法を使ってはいけないでしょう。

 

 世の中にいる人が大体そうであるように、僕も色んな嫌な目に今まであってきましたし、色んな人に親切にされて生きて来ることができました。自分に親切にしてくれた人を肯定するためにも、自分も同様に親切であった方がいいなと思いますし、自分があった嫌な目を自分で肯定しないためにも、嫌なことを自分ではしないようにしていきたいと感じています。

 

 自分じゃない人が馬鹿にされているときに、なんで我がことのように腹を立てているのか?と聞かれることがあって、それはその人に対しては別に興味があるわけではなくとも、そこに存在している価値観に、自分が苦しめられきたのであれば、それに対する反発はしておいた方がいいと思うからです。優しくしようと思うのもその逆で同様です。

 

 僕はそれが良いと思った価値観に、自分の行動の中で良いと取り扱っていくことで所属していきたいし、自分が嫌だなと思った価値観には所属しないで済むために、そのようなことをしないでいようと思います。

 

 ただ、最近このようなことをしようと思えているのは、今の自分が肉体的精神的金銭的にそこそこ満ち足りて暮らしているため、多少の損になることを支払ったところで大したことではないと思えているからだと思います。

 余裕がなければ、その場その時だけの損得に拘らなければ生きて行くことができませんし、自分がこのようなことを思えているのは、たまたま自分が恵まれているからだなという理解もあります。なので、恵まれた状態を維持することで、この状態を保ちたいなということを思っています。

SDガンダム外伝ラクロアンヒーローズを遊んでいる関連

 analogue pocketというゲームボーイ互換機をしばらく前に買ったので、SDガンダム外伝ラクロアンヒーローズを遊んでいます。子供の頃に何度もクリアしたゲームを今また遊んでいる感じです。

 

 ラクロアンヒーローズは騎士ガンダムRPGです。33年前に作られたゲームボーイRPGが今も面白いのか?と聞かれると、なんかこれが面白いんですよね。この33年の間にゲームの技術はとてつもなく進歩していて、ゲームを面白くする技術も沢山生み出されて共有されているのに、こんなに昔のゲームが今なお面白いとはどういうことだ??という気持ちがあります。

 

 この面白さは、僕が子供の頃にRPGに求めていたものが何であるのか?ということを思い出させてくれました。

 

 ラクロアンヒーローズの良さは、ほどよい緊張感と、リソース管理、そしてレベルアップの気持ちよさのサイクルにあると思います。別に取り立てた特殊なシステムがあるとかではないんですよね。ただ気持ちよく遊んでいるだけです。

 ここで言うほどよい緊張感というのは、死んでしまうとセーブしているところからやり直しになるため、死なないために頑張らないといけないということと、にもかかわらずボスでもない通常の敵が結構強いというところにあります。そのため、ちょっとでも危険を感じると台無しにならないように一回ダンジョンの外に戻ったりをする判断があります。
 そこで重要なのが、レベルアップするとHPMPが全快するという仕様で、なおかつレベルは比較的上がりやすいので、一回戻るか、レベルを上げて回復して先に進むかという選択肢が生まれ、この場所で自分がどうすべきかを細かく考えるのが楽しいです。あとは休息という一定期間ごとにHPMPを回復できるコマンドがあって、遠出をするときにも重宝します。

 

 また、戦闘も今のゲームと比べると不親切で、指定した敵が攻撃前に死んでしまうと、自動的に別の敵を攻撃してくれるという仕様がなく、一回の攻撃が無駄になってしまいます。なので、敵の残りHPを考えて攻撃を振り分けないといけません。なので攻撃をどのように振り分けるかが大事なのですが、そこで出てくるのが、グループ攻撃や全体攻撃が出来る呪文の存在で、どのような組み合わせをすれば敵を効率よく倒せるのか、残りMPとレベルアップのマネジメントをして、効率よくゲームを進められるのか?ということを考えて進めるのが楽しいです。

 

 また、レベルアップによる呪文の増え方などがとてもよくて、全体攻撃ができる呪文を覚えると、これまで苦戦していたような敵を倒す組み合わせがとても簡単になり、全体攻撃を繰り返してくる敵が5体出てきたりするとこれまでめちゃくちゃ怖かったのが、その前に倒しやすくなるので、レベルアップの実感が強く、めちゃくちゃ気持ちよくなってしまいます。

 

 昨今の不快感を減らすように至れり尽くせりのゲームにはあるような仕様があまりなく、道具の整理も面倒くさいし、すぐ死んでしまうし、冒険のヒントの出し方も分かりにくかったりする部分はあるのですが、限られたリソースをやりくりして目的地まで到達し、その過程で、強くなって、これまで苦戦していたものをあっさり乗り越えられるようになったりするという気持ちのよいサイクルがとてもあって、今やっても面白いなと思っています。なおかつ小学生の頃の僕にもクリアできていたので、これは広く人を楽しませられるゲームだなと思いました。

 

 あ、あと、この時期のRPGには珍しくBボタンを押すとダッシュができるんですよね。その部分も移動が遅くてイライラすることが少なくていいです。その代わり敵に遭遇する頻度が高くてイライラすることもありますが。

 大きな話で言うとなんか遊んでてほどよい頭の使い方と、達成感があって気持ちいいループがあるので、気分転換にちょっとだけやったりを繰り返しています。

 

 あ、そうそう、analogue pocketのいいところにハードウェア敵にスリープ機能があるので、セーブできなくてもすぐに中断できるのとの組み合わせがいいんですよね。互換機ですが、ゲームボーイで遊ぶよりも便利だし、画面も綺麗だしバックライトもついているので、めちゃくちゃオススメのハードウェアです。

 ゲームやりたいけど、何時間もやってる余裕が今ないので、今はこれが遊べて気が紛れます。でもそろそろクリアしそうなので、次は何を遊ぼうかな。

アニメ映画「窓ぎわのトットちゃん」を観た関連

 観た人たちからの評判がよく、上映中に観に行かなければと思っていた「窓ぎわのトットちゃん」のアニメ映画をやっと観に行けました。すごく良かったです。観て良かった。

 

 原作は黒柳徹子さんの自伝本で、僕も子供の頃に一度手に取ったようなおぼえはあるのですが、その内容は全然覚えていませんでした。

 

 この物語は、あまりに自由奔放に振る舞い過ぎるために通っていた小学校を出て行ってほしいと言われてしまったトットちゃんの、転校した先のトモエ学園での日々を、戦争が始まり青森に疎開するまで描いたものです。

 この映画で僕が感じたものは大きく2つあり、1つは「変化」、もう1つは「二面性」です。

 

 この物語はトットちゃんの変化を描いています。最初、学校の授業を無視して外の道を行くチンドン屋を招き入れていたトットちゃんは、最後の疎開先へと向かう列車の中で、チンドン屋(の幻だと思いますが)を見かけても、もうそちらへは行きません。そして、誰もが疲れ切った列車の中でなく赤ちゃんに大して、かつて自分がかけてもらったように「あなたはいい子」であると声をかけます。

 その変化の背後にあるのは、学校という環境による変化と、戦争という環境による変化、そしてその変わりゆく環境の中で、トットちゃんが出会った人々による変化です。そこで何があったのかをアニメーションという表現を最大限活用して、描いているのが本作の素晴らしいところだと思います。


 トットちゃんは自分の中にあるものが自分にとって大きすぎて、周りに上手く合わせられない子供です。大人の作る空気を読んで合わせるのではなく、自分がよいと思ったものをよいと思い、それを行動に移すような子供です。だからこそエネルギーに満ち溢れていて、しかしながら、そのエネルギーに付き合い切れる大人は少ないです。トットちゃんの持つとてつもないエネルギーはその動きと言葉の多さでアニメーションとして表現されていて、そして、ときに現実と乖離したのような自分の世界を持っていることは、特別なアニメーションによって表現されています。

 

 自分の中のことだけでいっぱいになるのは子供の特権ですが、多くの場合、空気を読んで周りに合わせていきます。それは小さなころからあることで、その中で自分のが我を通し続けられるトットちゃんはやはり特異な人なのだと思います。それはそれを受け入れてくれるトモエ学園という学校があったことによって肯定的に捉えられます。

 

 この物語に感じた二面性は、同語反復ですが一面的な正しさを描かないという部分だと思います。トットちゃんはすごい女の子で、トットちゃんがいることによって起こる良いこともありますが、その危険性も同時に描かれていると感じました。象徴的なのは、小児麻痺で片手片足が上手く動かせない泰明ちゃんを、自分が登っている木に招待するところでしょう。そこで、ハシゴや脚立を使って、泰明ちゃんを押し上げ引っ張り上げてなんとか木の上に乗せるところですが、この場面は危険なことをしていると見ている人に思わせるような描写をしていると思いました。たまたま上手くいったからよかったものの、下手をすると大事故になっていたかもしれないという場面です。

 まともな安全意識のある現代の大人なら、やめておきなさいと言ってしまうでしょうし、目にすれば止めに入るような光景です。しかしながら、その出来事は泰明ちゃんにとっての特別で大切な出来事になります。

 

 自分には登ることなんてできないと最初から諦めていた木に、登ることに成功するからです。危険なことだ、やめた方が良い、それは正しい意見です。そして僕は、この光景を実際に見たらすぐに止めに入ると思います。でも、それが人にとってとても大切なことになったりする、それがなかったら生まれなかったかもしれないものがあるというという二面性があることに思うことがありました。

 

 アニメーションは人間にはできないようなアクションを、安全に面白く描くことができます。カリオストロの城で、ルパンが屋根の上を助走をつけてジャンプするとき、そこに危険性を感じたでしょうか?アニメーションは、本当にやったら危険でたまらないようなことも面白く描き、安心して見ることができます。でも、トットちゃんで描かれたのはその逆で、観ている人がハラハラするような光景で、そして観ている人でしかない自分たちにはそこに手助けをすることはできません。

 

 トットちゃんは素晴らしい子供であると同時に、やはり危険な子供でもあります。冒頭の小学校を辞めさせられるときにもそれは明確に描かれていたと感じていて、なぜならばトットちゃんの振る舞いに先生が本当に困っていたからです。「自由な子供に対する理解のない悪い大人」ではなく、「奔放な子供の取り扱いに限界になって音を上げてしまう大人」です。

 

 この映画は良いものも悪いものも二面両方描いていて、そこが単純に良いことと悪いことがあり、その中から良いことだけ集めればいい、みたいな感じではないのがとても良かったなと思いました。何かの側面では良いことが、何かの側面では悪いことであり、どちらかだけをとることができないのが人生であり社会であるように思うからです。

 トットちゃんのお父さんは戦争に対する非協力の立場をとりますが、それでも結局戦争には行きます。トットちゃんを受け入れてくれたトモエ学園は、近所の子供達からおかしな学校として揶揄されますが、トットちゃんたちは良い学校であると主張し、そこで非暴力で戦います。近所の子供たちが悪いのはそうですが、そこで目に入るのはそれぞれの衣服の差です。トモエ学園の生徒たちは裕福な家庭の子が多いように見え、近所の子は貧乏な家の子のように思えました。その背後にそれぞれの生活水準の格差もまた想像してしまいます。

 

 戦争は大きな変化で、もちろん良くないことをたくさんもたらしましたが、直接的な戦争は良くないメッセージがあるわけではなく、その変化の中で人々の生活がまた変わっていくことを、ある程度引いた目線で描いているように思えました。戦争に協力した人が愚かで、反対した人が正しかった、そこで人が正しくありさえすればよかった、というようなものではなく、誰しもが戦争に巻き込まれ、変化をせざるを得なかったということが描かれていたように思います。

 その中で、トモエ学園の様子もどんどん変わっていきます。戦争に合わせて服装やオブジェや食べ物や何かしらが変わっていき、ついには学園そのものが空襲で燃えてしまいます。特異だったのは校長の小林先生で、彼の目はその中で新しい学校を作ることを見ていました。変わりゆく世の中の中で、変わらず理想を追い求めることは、ある種の狂気であることが感じられ、そこにトモエ学園という場所が良くも悪くも成立したのだと思いました。

 

 この物語のもう一人の主人公は泰明ちゃんだと思いました。彼は小児麻痺で不自由な身体を持ち、そして、物語の中で死んでしまいます。彼は実在の人物でもあるので、その事実は覆りません。

 物語に登場した泰明ちゃんは走ったりすることができず、それゆえに色んなことを諦めています。みんなに迷惑がかかるからと、散歩にもついていかずに本を読んでいます。彼は可哀想な子でしょうか?この物語の中ではそうは描かれていなかったように思えて、彼は不得意なことがあるだけの普通の子です。トットちゃんが落ち着いて授業を受けれないように、泰明ちゃんは飛んだり跳ねたり走ったりが苦手なだけの普通の子供です。

 

 トットちゃんとの木登りの成功体験を経て、泰明ちゃんはよりそのようになっていきます。腕相撲でトットちゃんに手加減をされたことに怒り、それは自分が特別扱いされる可哀想な子ではなく対等な友達であるということの表明です。

 

 泰明ちゃんには苦手なことはあります。戦争の社会への影響が強くなり、雨の中で歌うトットちゃんが大人に怒られ、傘を落とし、泰明ちゃんは片手と片足が不自由だから、その傘を拾って差してあげることも簡単にはできません。自分が好きな女の子に、優しくしてあげることすらできないのが泰明ちゃんの身体です。

 でも、泰明ちゃんは学校で習ったように片足でも足を踏み鳴らし、口に出せない歌を、全身で歌い続けてみせます。歌えないことで泣いていたトットちゃんと一緒に身体で歌って見せます。それは泰明ちゃんの変化で、物語の最初であれば自分にはできないと諦めてしまっていたかもしれない泰明ちゃんが、自分にできることで、自分がしたいことを掴み取っていく様子がとてもよくて、彼は程なく亡くなり、それは悲しいことですが、その事実に相殺されることのない嬉しいこともちゃんとあって、その場面があったことがとても良かったなと思いました。

 

 本作はとにかくうるさい映画でした。うるさいというのは登場人物の動きに、演出に、色んな意味が見てとれる気がして、情報の洪水のようなものを浴びせ続けられたように感じたということです。

 それがトットちゃんという存在とも重なる気がして、映画そのものがトットちゃんの魅力が最初から最後まで詰まったような内容だったなと思いました。

 

 上映回数は減ってきていそうですが、まだまだ上映しているのでめっちゃオススメです。

2024年の抱負

 年末年始に珍しく人に会う予定が多くあり、色んな人に「健康を大切にしろ」「甘いパンばかり食うな」「いつもパンを見せてくれてありがとう」「仕事を辞めろ」「仕事は辞めるな」「長生きをしろ」「誰かと一緒に住め」「地元に帰ってこい」「この家をあげる」と色んなことを言われて、色々ご心配をおかけしているなと思ったりしました。

 

 しんどいこととか困っていることとかが結構あります。全て会社の仕事関係です。昨年もいろんなそれらが表出していました。そういうのはTwitterとかでは書かない方がいいという考えがあるのは分かります。身の回りのこまごまとしたことだけを書いてた以前と違い、今は商業仕事の宣伝とかもしているので、読んだ人に不安を与えるようなことをしても得がない感じもするからです。実際それでフォローを外されたりしているんじゃないかなと思います。マイナスですよ。

 

 でもしんどいときに、しんどいんだよなあと書ける場所としてTwitterを使い続けているため、書かないで抱えたままにしていると、余計に調子悪くなってしまったりしそうなんですよね。あと、ずっと元気で楽しいフリしていても、どこかでなんかあったあとで実はしんどくて…みたいな話をしても、それはそれでみんな嫌がるだろうなという気もします。なので、見ている皆にはスマンが僕の悲鳴は垂れ流されるし、見て貰うかミュートするかフォローを外して貰うことになります。

 

 会社の仕事は手元に本当に色んな仕事があって、これらを全部自分が統括者としてやり切らないといけないのかと思うと精神がピッキピキになってしまうのですが、幸い相談できる人もいるし、責任者として巻き込める人もいるので、色んな人の手も借りつつ、なんとか全部やり切りたいと思っています。

 今いるところは仕事量に対して組織の体制がちゃんとできないままに動いており、無理矢理リソースをやりくりして辻褄を合わせているので、まずはここを手厚くする必要があり、そのために本当に色々動いています。

 

 仕事辞めないの?という話は色んな人に本当に何度もされていて、別に辞めてもいいっちゃいいというか、ここ何年もめちゃめちゃ働いていて、成果が出ているので、給料もベースからグングン上がっているしそれを踏まえた賞与も出ていて、さらには漫画の仕事の収入もあるので、自分でびっくりする速度で貯蓄が増えており。今と同じ生活を続けるだけならここから十何年かは全く働かなくても生きられるぐらいになってきているので、今すぐ会社を辞めてもいいんじゃないかな、なんでこんな量を働いているのかな、という気持ちがすごく頭をもたげています。

 ずっと忙しくしているのでゆっくりしたいとは思っていて、だから辞めたいな、辞めようかなとTwitterにめちゃくちゃ書いていますが、でも結局まだ辞めてないし、頑張って働いているし、自分がいったい何なんだ??と思います。

 

 会社の仕事について思っていることを箇条書きにすると以下のような感じです。

  • 何かをやり残したなと思う状態で辞めると、今後それに囚われるから嫌
  • なので自分はやりきったぞと思うところまでやりたい
  • やり切れてないのは、誰かに応力が集中しないようなバランスのよい組織を作ること
  • それによって今手掛けている仕事がこの先も順調に回っていくようにしたい
  • でもそのために人を連れてきたり訓練してもらったりするのが本当に難しい
  • だからこそ、これをもしやり切れたら強い達成感があるだろう
  • その達成感を感じられるところまで頑張ろうかな

 これをやり切れたと思えたら会社を辞めていいことにしているので、今の仕事のスケジュールを見ると最短で3月末に辞めチャンスがありますが多分無理ですね。その次が7月末、その次が9月末ぐらいのあたりが辞めチャンスです。いつ辞めれるんだ??

 こういうこと言いながらずっと会社に居続けそうな感じもするし、自分がもう嫌だ。

 

 漫画の仕事は、とりあえずヤングキングが連載の仕事をくれているので、楽しくやっています。隔週16ページの3回やって1回休みというペースは余裕を作りやすくて、楽しくできているなと思っています。

 今はその余裕を消費して、あと1エピソード描けば単行本にできそうな「いじめ撲滅プログラム」の最後の話をそろそろやろうという話になっており(ひとでなしのエチカの1巻の最後に去年でるはずだった予告が載っていますが、すみません…)、その話を今ボチボチ描いています。他にも多分ちょっとした読切などが何らかに載る話もあり、それ以外にも色々声はかけてもらっているのもあるので、できそうな範囲で頑張りたいです。

 

 2024年は単行本3冊出ればベストで、それ以外に読切が何本か描けたりするといいですね。

 

 漫画はもっと売りたいと思っています。この前の編集さんと、めっちゃ売れる漫画の企画を立てましょうかという話をして、売れる漫画とは何か?と自問自答したところ、ろくな答えがでて来なくて頭を抱えましたが、何らかの答えを見つけていきたいですね。

 2024年も頑張るぞ!

2023年の振り返り

 2023年は大変でした。主に会社の仕事が。そしてそれはまだまだ続く。

 

 漫画の方は、ひとでなしのエチカとゴクシンカのそれぞれ2巻を出せて良かったです。ゴクシンカは去年の秋には完結が決まっていたので、規定の話数の中で、どこまで自分の描きたいことを描けるかを試し、満足いく形で描けたので良かったです。

 ただ、完結後の反応を見ていると、自分が思っていた本筋と考える話が、ぜんぜんそう思われていなかったケースもあるようで、その人たちに対しては上手く伝えられなかったなという反省の側面もありました。

 とにかく描きたいことは描けたのと、伝わるところには思った通りに伝わっていることも確認できたのでよしとします。

 

 より多くの人に満足して貰える漫画というのは、商業活動を続けていく上では、取り組まないと行けない課題だなと思いました。

 

 

 ひとでなしのエチカは、同人誌として描いていたエピソードを使い切ったので、新作を始めることができました。自分的に色々なチャレンジをしているので、面白く連載ができています。

 会社の仕事をしつつ、隔週誌で16ページずつ、3回掲載して1回休みというのは、今のところ無理なくできるペースなので、空いている時間に別の仕事も進めようとしています。皆さんにお知らせできるのは、もう少し先になると思いますが。

 

 エチカの2巻については、とにかくamazarashiの秋田ひろむさんから、帯の言葉を頂けたのが嬉しかったです。自分が好きな人に、自分の漫画を読んでもらい、リアクションを頂けるのはホントすごくて、頭がおかしくなりそうでした。

 

 去年は2冊単行本を出せたので、今年は3冊出せたらベストだなと思っていましたが、「NEEDY GIRL OVERDOSE」のアンソロに寄稿したのを数えれば3冊になりました。

 これもすごく面白かった仕事で、今までの自分の頭では考えなかった部分を使って描いたのと、ここで考えたことが、エチカの3巻に収録される予定の話の下地になっています。

 

 他にもたくさん色々ありました。コミティアにも出たし、寺沢大介先生がコミティアで本を出してくれて嬉しかったり、この前も忘年会に呼んでくれて嬉しかったり。

 他にも色んな好きな漫画家さんとお話できる機会があったり、自分の漫画も読んで貰えたりして、ほんと嬉しいことばかりでした。

 

 アイドルランドプリパラが始まったり、来年にはプリティーシリーズ新作アニメが開始するらしかったり、ゴールデンウイークには華倫変展というすごいものが開催されて、大阪まで行って楽しかったです。

 他には、コワすぎのお化け屋敷に行ったのもめちゃくちゃ楽しかったですね。

 

 漫画以外の活動だと、参加してるwebラジオ「人生思考囲い」がティアズマガジンで連載になったり、リアルイベントも人がいっぱい来てくれて、よかったです。

 

 よかったことは本当にたくさんあり、人にも環境にも恵まれていて、つらいのは会社の仕事だけです。その会社の仕事も、つらさと引き替えに成果はでていて、ボーナスもかつてない金額を貰ったので、多少はましな気分です。ただ、ここからもう一年頑張れるのかどうかは不安ですが。

 

 来年は会社を辞めているかもしれない。かつてないほど辞めたいからです。でも、頑張っている自分も想像できます。

 どうなるんだ!?どうなると思います?

実写ドラマ版の幽遊白書を観た関連

 幽遊白書は、自分の心の中にぬりかべのようにズドンといる漫画なので、何の話をしても関連付けて話してしまいますし、今でも、まだ連載中であるかのように日常的に幽遊白書の話をしてしまいます。

 

 実写ドラマ化がアナウンスされたときには、そんなこと可能なのか??という困惑がありつつも、でも、絶対観たいし自分はそれを楽しむことができるか、ある意味楽しむことができるという確信がありました。先日ついにNetflixで配信が開始され、ワクワクしながら再生し、その日のうちに一気に全5話を観終わりました。

 

 え?全5話??っていう感じじゃないですか。そして物語は100%の戸愚呂弟と倒すところ、単行本で言えば12巻あたりまでが入っています。それで全5話??っていう感じじゃないですか。原作の量に対して短すぎる。でも、面白かったんですよね。

 

 主に良かった部分は漫画を実写にするという表現の部分です。特にバトル描写については、人間の肉体で漫画的バトルを表現するということについてかなり突き詰められていて、とてもかっこよく気持ちよかったです。

 僕は、HIGH&LOW THE MOVIE 2 END OF SKYを観たときに、この動きができるなら色んな漫画の実写バトルが可能じゃん!と思って期待が膨らんだのですが、幽遊白書ではその先の一端が見せて貰えた気がして、この描写ができるなら、僕が大好きな漫画エアマスターのバトルシーンも実写で再現可能では??と思って新しい期待を抱いてしまいました。

 

 おそらくワイヤーの利用による空中を飛び跳ねる動きが結構あるのですが、そこで引っ張られて不自然に浮いている感じがなく、合理的な動きの中で超人的な格闘シーンが展開されます。これを観ると幽遊白書という原作はこの表現にちょうどよく、肉弾戦と超常的な戦いの組み合わせで描けるバトルが、少なくとも今回映像化された部分ではバッチリ合っているように思いました。

 この実在感との接続としては、序盤の剛鬼との戦いが、化け物と喧嘩自慢のヤンキーが戦っている感があってめちゃくちゃ良かったですね。

 

 さて、原作ファンとして面白かった部分は、その端折り方です。おそらく原作の暗黒武術会の最後までやることは分かっていたので、一体どうやって間を省いていくのか?という部分がこういうやり方があるのかと思って面白く感じました。お話の主軸を主人公の浦飯幽助という男と、戸愚呂弟という男の対比とその決着の部分に持ってくると、武術会の開催は別に必要ないというのが、確かにそうだなと思って面白かったです。

 霊界から盗まれた道具を取り返す部分も、飛影の部分は垂金の雪菜のエピソードがあるためその中で描けばよく、飛影が道具によって邪眼を手に入れたという設定改変もありましたが、この尺の中で妹の雪菜を探している兄としての飛影の姿を描く上では納得感がありました。蔵馬の戻ろうと思えばいつでも妖狐に戻れるという設定改変も、戻れるのに人の姿を選んでいるということを感じられたりして面白かったですね。

 とにかく背骨を決めたら、何を描かなくていいのか?何を繰り返さなくてもいいのかの部分がカリカリに削り込まれていて、5話によく収めたねと思って面白かったです。

 

 もちろん無茶な端折り方をしているので気になる部分もあって、幽助が短期間に異様に強くなりすぎだろうとか、本来時間をかけて育むはずだった関係性がダイジェストで仲間になっていく感じもあり、漫画で言えば四聖獣編ぐらいの時間感覚なのに、いきなり血を伴った戦友という感じのところまで行っているなと思いました。

 

 キャラクターで言えば、戸愚呂兄がとても良かったです。自在に変形できるという映像的に生える部分が最大限活用されていて、バトルも映像的に面白かったです。あとは、梶芽衣子演じる幻海も、配役としては完璧だなと思いました。他には戸愚呂弟がその身を妖怪に堕とすきっかけとなった潰煉のシーンが描かれたのもよかったですね。

 あと垂金!垂金も俗物の成金感が、屋敷の雰囲気も含めてめちゃくちゃ良かったです。

 

 良くなかったところは、主要登場人物のビジュアルの非実在感でしたが、でも、バトルシーンでの視認性の良さを考えると、リアリティを求めずにこっちの方に振り切ったのも良いのかもしれないと思います。

 少なくとも考えた結果こうしたという感じはしました。それでも妖狐蔵馬は優しい目で見る必要がありましたが。

 

 なので、色々気になるところもあるにはあるけれど観て良かったというのが僕の感想です。

 

 改めて見て、幽遊白書って面白い漫画なんですよね。序盤からそれは非凡で、世間と上手くやっていけない幽助が、死んだら死んだで別のいいと思っているところを、死んだ自分に対する周囲の人々の姿を見て、それまでの自分が見えていなかったものに気づき、生き返るという選択をするというところがホント胸にきます。

 

 5話という短さで描かれて改めて思ったのですが、幽助は助けたい子供を「助けられた代わりに死んでしまった人間」で(実はそれは無意味な行動だったとも原作では語られますが)、戸愚呂弟は、弟子を目の前で妖怪に喰われて殺されるのを見させられた、「助けることができずに自分だけ生き残ってしまった人間」であるという対比構造を見つけることができます。

 

 その後、幽助は生き返って霊界探偵になりますが、戸愚呂弟は妖怪になることを選びます。自らを忌むべき存在に変化させることは自分への罰だったのではないかとも推察されますが、100%になった戸愚呂弟の姿は、潰煉の姿に似ているのが悲しいです。幽助と戸愚呂弟の戦いでは「守れずに自分だけ生き残った」という構図の繰り返しになります。

 幽助は目の前で桑原を殺され、それになすすべがありません。戸愚呂弟は何を思ってそれをしたのでしょうか?自分と同じ境遇になった幽助に、同じ選択をして欲しかった?いや、自分と同じ境遇なのに、それを選ばない人間を見ることで救われたかったのかもしれません。なにせ、戸愚呂弟は桑原を殺さなかったのですから。

 

 全てが手遅れになったあとで潰煉を殺してももはや手遅れです。なぜなら、守りたかった人々は戻ってきません。戸愚呂弟の心の中には虚無があったのかもしれません。復讐の鬼となったところで、自分が失ったものは取り戻せないものだったからです。

 もしそれを取り戻すために、誰かに自分ができなかった選択をして貰いたかったのだとしたら、そんな人間が現れるまで強くあり続けなければならなかったのだとしたら、妖怪になるということは目的のために最善の選択です。

 

 そして、ついに現れた人間が幽助だったのかもしれません。幽助は、何かを守るために強い力を発揮できる男です。戸愚呂弟は、自分がされたのと同じように幽助を暗黒武術会に誘い、そして決勝戦で戦います。しかし幽助の力はまだ自分に及びません。かつての自分が潰煉におよばなかったように。その力の源泉は何か?憤怒です。これもかつての自分と同じです。そして、仲間の死。

 幽助は、強くなるためには何かを捨てなければならないという戸愚呂弟の言葉に反論します。「捨てねえ」と「しがみついてでも守る」と。このとき、ついに幽助こそが、戸愚呂弟が望んだ強敵であり、自分ができなかった選択を出来る者となったのではないでしょうか?戸愚呂弟は全力で戦いそして負けることこそが、かつて自分に出来なかった選択肢が、この世の中にはあるということの証明になります。

 

 力が全てだという価値観を否定するためにこそ、全てを捨てて自らが力が全てだという存在に成り代わり、その上で全力で戦ってそれでも負けることこそが、力が全てだということの何よりの否定になるということです。戸愚呂弟の傷ついた心は、守れなかった自分への罰と、そうではない選択がこの世の中にはあるということを確認することに費やされたのではないかとも考えることができます。

 

 あれ???なんでこんな話に。実写版の話をしていたはずですが??

 

 これは実写版が骨組みを残してそぎ落とし組み替える内容であったおかげで、また幽遊白書のことを考える切っ掛けになって良かったなという話です。

 実写ドラマは是非とも仙水編もやってほしいですね。

自分の漫画が「このマンガがすごい2024」のオトコ編で46位だった関連

 この前、このマンガがすごい2024が出て、載ってるよって人に教えて貰ったので電子版を買って読んだら46位に「ゴクシンカ」がありました。投票してくれた方々、まことにありがとうございます。

 マジで嬉しいのでマジでありがとうございます。

 

 このマンガがすごいは、毎年年末に発売されるムック本で、その年に単行本が出た漫画の中から、選者のアンケート投票の結果として、ランキング形式で上位ほど手厚く紹介される漫画ガイドです。

 毎年沢山出ている漫画の中から、どれを読んだらいいかで迷う人に対して、「これが面白いですよ!」と紹介してくれる本であると思います。

 

 このマンガがすごいは、投票企画としてはフェアな立て付けだなと思っていて、なぜなら選者が誰で、各自が何の漫画に投票したかが本の中でほぼ開示されているからです(ただし漫画家のタマゴが投票する枠は個人名非開示ですが)。それぞれの人や書店などの選者が、自分たちが人に薦めたいと考えた本を厳選し、その順位につけられたポイントが全体で合算されることで最終的なランキングが算出されています。

 

 その詳細を見ていて面白いと思うのは、投票される作品のばらけ方です。今回のオトコ編では、100人近い投票権をもつ人たちがそれぞれ5作品程度を選出し、300作品以上の名前が挙がっていると書かれています。つまり1票しか入っていない作品の方が多いということになります。

 

 なので、ランキングに入ってくるということは、「複数人が名前を挙げた」ということとほぼほぼ意味が重なってくるのではないかと思います。そう考えて過去のランキングを見てみると、各人の1位にはあまり選ばれていなくても、多くの人の印象に残り、名前が挙がった作品のポイントが複数人分合算されて、結果的にランキング上位となってくることもあったように思います。

 

 そういったとき、ランキングを見る人の中に「この作品が上位?」というような見方が出てくるかもしれません。なぜなら、この漫画が一番だ!と強く推している人の姿があまり見えない場合もあるからです。でも、一番ではなくとも沢山の漫画を読んでいる選者が限られた数しか選べない1作として、多くの人にひっかかるものがあったということは、それ自体意味のあることだとも思います。つまり、そこに問題があるとすればそれは、1軸の単純なランキングの中に様々な複雑なものが内包されていることが分かりにくいということでしょう。

 

 もう少し具体的に例示するなら、1位(10点)に選んだ人が3人いた30点と、5位(6点)に選んだ人が5人いた30点は同じ30点です。ここでどちらの点数の入りかたをした漫画が、このマンガがすごいという本の主旨に沿っているかということは単純には言えないと思います、ごく一部の人が強烈に薦めているものと、それよりも多くの人がそれなりに薦めているもののどちらがが、薦められる側にとって有効なオススメになるかは場合によるからです。選者との感覚がバッチリ合っていれば前者かもしませんが、レンジが狭く合わないかもしれません。そうなれば後者の方がレンジが広くて合いやすい可能性もあります。

 

 ランキングの結果に対する様々なコメントが例年見られますが、この本におけるランキングは投票結果としてこういうことになったというもので、それ以上の意味はないと思います。こだわりのある選者がそれぞれ独自の視点で作品を推し、たまたまそれが重なったところがランク上位となっているというだけのことです。

 そこで見るべきはランク外にも沢山の推されている漫画があるということではないかと思っていて、次に何を買えばいいかの参考になるのはそのランク外の部分も大きいように思います。

 

 一方で、本自体は買わずに発表されたランキングがどうであったかという情報の方が広まりやすく、その話だけする人にとっては、そこは不可視で不可知な領域になってしまうだろうなと思います。

 

 このへんの「ランキングとして見えるもの以外は見えにくい問題」は、切り口ごとに部門を分けたランキングにすれば解消しますが、それも結局、本を熟読するような人にとっては意味のあるランキングでも、結局この本自体は読まずに、ランキングだけ知ってコメントするタイプの人には届かないかもしれません。具体的な興味がないほどに数字しか気にされないので、「結局総合的に何が何位なのよ?」という部分しか広くは話題にされないのではないかと思うからです。

 その意味で、オトコ編とオンナ編が分かれていることについては意味があると思っていて、その分類名に関しては色々意見もありますが、結局オトコ編のランキングに出てくる漫画と、オンナ編に出てくる漫画の性質が異なるというところが重要で、一本化されたランキングだけでは見えないところが見えるようになっているという良さがあると思います。その意味で大きな切り口で二本あるのはいいところだなと思っています。

 

 46位になったことで、本が売れるということはそんなにないと思いますが(なぜならそれが大きく告知されることはないため人の目にそんなに触れないことだからです)、でも限りある投票権を僕の漫画に使いたいと思ってくれた人が複数人いたということが本当に嬉しいことでした。

 ランクインした「ゴクシンカ」も、ランクインはしませんでしたが連載中の「ひとでなしのエチカ」も、面白い漫画を描いているぞ!と思って描いているので、未読の人は読んでみてください。

 

 

 

 漫画活動は2023年も頑張ったので、来年も頑張りたいです。