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アニメ映画「窓ぎわのトットちゃん」を観た関連

 観た人たちからの評判がよく、上映中に観に行かなければと思っていた「窓ぎわのトットちゃん」のアニメ映画をやっと観に行けました。すごく良かったです。観て良かった。

 

 原作は黒柳徹子さんの自伝本で、僕も子供の頃に一度手に取ったようなおぼえはあるのですが、その内容は全然覚えていませんでした。

 

 この物語は、あまりに自由奔放に振る舞い過ぎるために通っていた小学校を出て行ってほしいと言われてしまったトットちゃんの、転校した先のトモエ学園での日々を、戦争が始まり青森に疎開するまで描いたものです。

 この映画で僕が感じたものは大きく2つあり、1つは「変化」、もう1つは「二面性」です。

 

 この物語はトットちゃんの変化を描いています。最初、学校の授業を無視して外の道を行くチンドン屋を招き入れていたトットちゃんは、最後の疎開先へと向かう列車の中で、チンドン屋(の幻だと思いますが)を見かけても、もうそちらへは行きません。そして、誰もが疲れ切った列車の中でなく赤ちゃんに大して、かつて自分がかけてもらったように「あなたはいい子」であると声をかけます。

 その変化の背後にあるのは、学校という環境による変化と、戦争という環境による変化、そしてその変わりゆく環境の中で、トットちゃんが出会った人々による変化です。そこで何があったのかをアニメーションという表現を最大限活用して、描いているのが本作の素晴らしいところだと思います。


 トットちゃんは自分の中にあるものが自分にとって大きすぎて、周りに上手く合わせられない子供です。大人の作る空気を読んで合わせるのではなく、自分がよいと思ったものをよいと思い、それを行動に移すような子供です。だからこそエネルギーに満ち溢れていて、しかしながら、そのエネルギーに付き合い切れる大人は少ないです。トットちゃんの持つとてつもないエネルギーはその動きと言葉の多さでアニメーションとして表現されていて、そして、ときに現実と乖離したのような自分の世界を持っていることは、特別なアニメーションによって表現されています。

 

 自分の中のことだけでいっぱいになるのは子供の特権ですが、多くの場合、空気を読んで周りに合わせていきます。それは小さなころからあることで、その中で自分のが我を通し続けられるトットちゃんはやはり特異な人なのだと思います。それはそれを受け入れてくれるトモエ学園という学校があったことによって肯定的に捉えられます。

 

 この物語に感じた二面性は、同語反復ですが一面的な正しさを描かないという部分だと思います。トットちゃんはすごい女の子で、トットちゃんがいることによって起こる良いこともありますが、その危険性も同時に描かれていると感じました。象徴的なのは、小児麻痺で片手片足が上手く動かせない泰明ちゃんを、自分が登っている木に招待するところでしょう。そこで、ハシゴや脚立を使って、泰明ちゃんを押し上げ引っ張り上げてなんとか木の上に乗せるところですが、この場面は危険なことをしていると見ている人に思わせるような描写をしていると思いました。たまたま上手くいったからよかったものの、下手をすると大事故になっていたかもしれないという場面です。

 まともな安全意識のある現代の大人なら、やめておきなさいと言ってしまうでしょうし、目にすれば止めに入るような光景です。しかしながら、その出来事は泰明ちゃんにとっての特別で大切な出来事になります。

 

 自分には登ることなんてできないと最初から諦めていた木に、登ることに成功するからです。危険なことだ、やめた方が良い、それは正しい意見です。そして僕は、この光景を実際に見たらすぐに止めに入ると思います。でも、それが人にとってとても大切なことになったりする、それがなかったら生まれなかったかもしれないものがあるというという二面性があることに思うことがありました。

 

 アニメーションは人間にはできないようなアクションを、安全に面白く描くことができます。カリオストロの城で、ルパンが屋根の上を助走をつけてジャンプするとき、そこに危険性を感じたでしょうか?アニメーションは、本当にやったら危険でたまらないようなことも面白く描き、安心して見ることができます。でも、トットちゃんで描かれたのはその逆で、観ている人がハラハラするような光景で、そして観ている人でしかない自分たちにはそこに手助けをすることはできません。

 

 トットちゃんは素晴らしい子供であると同時に、やはり危険な子供でもあります。冒頭の小学校を辞めさせられるときにもそれは明確に描かれていたと感じていて、なぜならばトットちゃんの振る舞いに先生が本当に困っていたからです。「自由な子供に対する理解のない悪い大人」ではなく、「奔放な子供の取り扱いに限界になって音を上げてしまう大人」です。

 

 この映画は良いものも悪いものも二面両方描いていて、そこが単純に良いことと悪いことがあり、その中から良いことだけ集めればいい、みたいな感じではないのがとても良かったなと思いました。何かの側面では良いことが、何かの側面では悪いことであり、どちらかだけをとることができないのが人生であり社会であるように思うからです。

 トットちゃんのお父さんは戦争に対する非協力の立場をとりますが、それでも結局戦争には行きます。トットちゃんを受け入れてくれたトモエ学園は、近所の子供達からおかしな学校として揶揄されますが、トットちゃんたちは良い学校であると主張し、そこで非暴力で戦います。近所の子供たちが悪いのはそうですが、そこで目に入るのはそれぞれの衣服の差です。トモエ学園の生徒たちは裕福な家庭の子が多いように見え、近所の子は貧乏な家の子のように思えました。その背後にそれぞれの生活水準の格差もまた想像してしまいます。

 

 戦争は大きな変化で、もちろん良くないことをたくさんもたらしましたが、直接的な戦争は良くないメッセージがあるわけではなく、その変化の中で人々の生活がまた変わっていくことを、ある程度引いた目線で描いているように思えました。戦争に協力した人が愚かで、反対した人が正しかった、そこで人が正しくありさえすればよかった、というようなものではなく、誰しもが戦争に巻き込まれ、変化をせざるを得なかったということが描かれていたように思います。

 その中で、トモエ学園の様子もどんどん変わっていきます。戦争に合わせて服装やオブジェや食べ物や何かしらが変わっていき、ついには学園そのものが空襲で燃えてしまいます。特異だったのは校長の小林先生で、彼の目はその中で新しい学校を作ることを見ていました。変わりゆく世の中の中で、変わらず理想を追い求めることは、ある種の狂気であることが感じられ、そこにトモエ学園という場所が良くも悪くも成立したのだと思いました。

 

 この物語のもう一人の主人公は泰明ちゃんだと思いました。彼は小児麻痺で不自由な身体を持ち、そして、物語の中で死んでしまいます。彼は実在の人物でもあるので、その事実は覆りません。

 物語に登場した泰明ちゃんは走ったりすることができず、それゆえに色んなことを諦めています。みんなに迷惑がかかるからと、散歩にもついていかずに本を読んでいます。彼は可哀想な子でしょうか?この物語の中ではそうは描かれていなかったように思えて、彼は不得意なことがあるだけの普通の子です。トットちゃんが落ち着いて授業を受けれないように、泰明ちゃんは飛んだり跳ねたり走ったりが苦手なだけの普通の子供です。

 

 トットちゃんとの木登りの成功体験を経て、泰明ちゃんはよりそのようになっていきます。腕相撲でトットちゃんに手加減をされたことに怒り、それは自分が特別扱いされる可哀想な子ではなく対等な友達であるということの表明です。

 

 泰明ちゃんには苦手なことはあります。戦争の社会への影響が強くなり、雨の中で歌うトットちゃんが大人に怒られ、傘を落とし、泰明ちゃんは片手と片足が不自由だから、その傘を拾って差してあげることも簡単にはできません。自分が好きな女の子に、優しくしてあげることすらできないのが泰明ちゃんの身体です。

 でも、泰明ちゃんは学校で習ったように片足でも足を踏み鳴らし、口に出せない歌を、全身で歌い続けてみせます。歌えないことで泣いていたトットちゃんと一緒に身体で歌って見せます。それは泰明ちゃんの変化で、物語の最初であれば自分にはできないと諦めてしまっていたかもしれない泰明ちゃんが、自分にできることで、自分がしたいことを掴み取っていく様子がとてもよくて、彼は程なく亡くなり、それは悲しいことですが、その事実に相殺されることのない嬉しいこともちゃんとあって、その場面があったことがとても良かったなと思いました。

 

 本作はとにかくうるさい映画でした。うるさいというのは登場人物の動きに、演出に、色んな意味が見てとれる気がして、情報の洪水のようなものを浴びせ続けられたように感じたということです。

 それがトットちゃんという存在とも重なる気がして、映画そのものがトットちゃんの魅力が最初から最後まで詰まったような内容だったなと思いました。

 

 上映回数は減ってきていそうですが、まだまだ上映しているのでめっちゃオススメです。