漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

何かを面白くないと感じる能力の存在関連

 何かの作品を面白くないと感じたとします。そのとき、自分の「面白さを感じる能力」がその作品から面白さを感じなかったという消極的な側面以外に、その作品に対して「面白くなさを感じる能力」を積極的に発揮したからそうなった、という側面もあるのではないかと思っています。

 

 面白くないと感じる能力って何?と思う人もいるかもしれません。例を挙げるなら、前世紀には同性愛者を滑稽に描くことで笑いものにする作品は当たり前にありました。そして僕も当時はそれで笑っていましたが、今では笑えないなと感じています。

 当事者の顔を思い浮かべて、これは笑っていいものではないなと今では思うからです。これが面白くないと感じる能力の一例です。これは面白くないものだと感じる能力が今はあるため笑うことはもうできません。

 

 何かしらの差別的なコンテンツを笑ってしまうということは、それを「面白いと感じる能力」が「ある」と同時に、それを「面白くないと感じる能力」が「ない」ということだと思います。能力が未発達であれば、色んなものが笑えてしまいます。

 

 ただしこれは、面白くないと思う能力がある方が正しいという話ではありません。そんな能力が発達しなければよかったのにねというシチュエーションだって他に沢山あると思います。例えば、作者の日頃の発言が気に食わないから、その作者の作品を面白くないと感じる能力が発達したり、自分が日頃から気に食わないと思っている人が褒めているから、その感性を肯定したくなくて、面白くないと感じることができるようになってしまうこともあります。

 そんな能力がなければ十分楽しめたものを、能力を獲得したことで楽しめなくなってしまったりします。

 

 つまり、僕がここで言いたいのは、何かを面白いと感じたり面白くないと感じたりするのは、面白さを感じる能力だけの1つの軸ではなく、それを面白くないと感じる能力というもう1つの軸との兼ね合いになるという認識を持っているということです。

 

 ある作品を面白さ0点と判定した人がいたとします。それはその作品から面白さを一切感じられなかったという可能性もありますが、面白さは50点感じていたけれど、面白くなさも50点感じたために、相殺されて0点になったりすることもあるのだと思います。

 特に商業的に展開している作品などは、一切面白い要素がないわけではなく、そこに何かしら許せない要素があるために、面白くないと感じることでマイナスされて、結果的に0点になっていることの方が多いのではないでしょうか?商業的に出てきている作品は、何かしら人の目を通過してから出てきているので、本当に虚無のように面白い要素が全くないということはあまり考えられません。

 

 そういうときに思うのは、自分が何かの作品を面白くないと判断したとき、果たして何の要素を面白くないと積極的に感じてマイナスした結果、面白くないものと判断したのかという点です。そこに自分の感性を詳しく知る手がかりもあるのかもしれません。

 

 人間は長く生きていると色んな経験を積むので、面白いと感じる能力も面白くないと感じる能力も、それぞれ発達していくものだと思います。なので例えば、目にする色んな作品の大半を面白くないと感じてしまうとき、面白くないと感じる能力だけを優先して鍛えてしまった可能性もあります。

 

 そこでもし自分が楽しめなくなっていることが不安になったら、自分が何を面白くないと感じる能力を鍛え過ぎてしまったのかを振り返ってみてもいいかもしれません。そして、何かを面白いと感じる能力も鍛えてみるのもいいですね。また、自分が好きな物を面白くないと言っている人がいたり、自分が嫌いなものを面白いと言っている人がいたときにも、その人が、何を面白いと感じ、何を面白くないと感じる能力をそれぞれ鍛えてるのかを想像してもいいかもしれません。

 

 そうすれば、自分と異なる感性の人がいたとしても、その人はそういう形でその人の能力を鍛えてきたからそうなっているのであって、その前提条件が異なるのだから、自分と至った答えが違っても別に気にするようなことではないと思えるようになるのではないかと思います。

 この人は、この作品の要素の中でこれを面白くないと感じる能力を鍛え上げたから全く楽しむことが出来ないんだなと思えたり、この人はこの作品の中でこの要素をめちゃくちゃ楽しむ能力を鍛え上げているから、これをすごく楽しめているんだなと思えたりするからです。

 

 僕は最近は割とそういう感じに自分の中での整理をしています。この認識は、自分と他人を切り分けるためにも有用ですし、何かを楽しめるようにとか楽しめないようにコントロールしたいときにも有用だと思っています。

人間の生きづらさ関連

 生きづらさを抱えた人がいるという話については、自分自身のことも考えて色々思うところがあるのですが、そもそも「生きづらい」というのがどういうことを言っているのかが曖昧なまま話されていることも多いなと思います。

 

 個人的な感覚としては、「生きづらい人」というのは「生きづらくない人」との対比なのかなと思っていて、つまり「他の多くの人がつらいと感じないところでつらいと感じてしまうこと」が、生きづらいということではないかと思います。そのように、多くの人がつまづかないような場所でつまづいてしまい、なぜ自分だけが上手く出来ないのかと悩んだり、つまづいてしまうせいで皆が普通にやっているような必要な行動が起こせず、起こせないからこそそこからずっと抜け出せない泥沼にハマってしまう、みたいなことがあり、それを生きづらいと感じるのかなと思います。

 

 もちろん、生きづらさについては他の理解もあると思いますが、ここではこういう種類の生きづらさについて思うことを書こうと思います。

 

 つまづく場所は人それぞれ様々にあると思います。色んなところでつまづくけれど、その結果、生きづらいと感じているということだと思うので、生きづらいと感じている人に一発こうすればいいと伝えられるような処方箋はないように思います。ただ、そのように一律な解決策がないからこそ、解決できないままにただただ時間が過ぎてしまうのかなとも思います。

 

 例えば、上手く声が出せない人がいたとします。そういう人は、何を言ったかを人に聞き返されることが多く、聞き返されるたびに言い直しても、それでも上手く伝わらないことを繰り返すと、そのうち疲れて人に言うことそのものを止めてしまうかもしれません。

 これにより生きづらさのひとつのケースが発生します。人に話すこのハードルが高いために、人に聞けば答えが返ってくるようなことを人に聞くことができず、自分だけで調べてやろうとして長時間がかかってしまい、能率の悪い人間と思われたりします。それにより自分はダメな奴だという認識が深まったりもするでしょう。

 これは例えば、生活圏内で使われている言語と自分の母語が異なる場合でも似たようなことになってしまうかもしれません。場所が変わるだけでそれまでは困ってなかった人も困ることがあります。他の理由でもいいですが、他者とのコミュニケーションのハードルが少し上がるだけで、人は何かが上手くできない状態に陥ってしまうことはあります。

 

 こういう言えばいいだけじゃないか、というようなことについて、もはや疲れて言うことができなくなっている場合、「言えばいいだけじゃないか」というだけのアドバイスをしてもあまり効果がありません。だって言うことについてとっくに疲れてしまっているからです。

 

 そういうときには、ゆっくり言いたいことを聞いてくれる人がいてくれれば解決するかもしれませんし、言わなくても伝えられる方法を選ぶこともいいと思います。自分がそのタイプの生きづらい人のそばにいるなら、言いたいことをゆっくりちゃんと聞こうとするだけでも変わることがあります。

 

 対人コミュニケーションが不得手な人が、それを回避するために、いつまで経っても不得意なままで、人とやり取りすることがなかなかできずに孤立してしまうことがあります。そのきっかけは非常に些細なものだったりすることだってあるのに、その状態が長期間継続することによってなかなか抜け出すことができなくなったりします。そういうのって悲しいことだなと思います。

 

 人間は色んな場所で色んな理由でづまづくんですよ。

 その中には、もっとちゃんとすればいいだけでは?と説教されそうなこともあります。

 

 例えば、「他人にお礼を言えない人の生きづらさ」などもあると思います。何かをしてもらったときにお礼を言うということ、その行為に感謝をするということが上手くできてない人が、それゆえに他人に何かをして貰えなくなっていくことがあります。

 お礼が言えないのは、「お礼を言った方がいいということを学ぶ機会を得られなかった」とか、「それを言うことで相手に強い負い目を感じてしまうから言いたくない」とか、色々な理由が考えられますが、誰かに何かをしてもらったときに、その行為に感謝することを表明できなかったために、助け合いの枠組みの中からだんだんと外されていくことがあります。助け合いの枠組みから外れてしまうと、他の人たちが助けて貰えていることもたった一人でやらないといけなくなるため、生きることに困難を抱えてしまうかもしれません。

 

 その場合、「ちゃんとお礼を言えるようにしよう」みたいな解決策もあると思います。生きづらい人が生きやすくなるためには、本人が変わることも選択肢のひとつです。でも、ちゃんとお礼が言えない人に対しても、ちゃんとお礼を言えるようにしましょうよ!と単純に伝えてもできるようにならないかもしれません。

 その人がなぜそれができないのか?ということを考えて、それができるためには何がハードルとなっているのかを考える必要があるのではないかと思います。例えば、その人が何かをやってくれたときにちゃんと感謝を表明することで、感謝を表明することの大切さを異なる立場で実感してもらうとか、感謝されたことを足場にして何かを要求したりしない関係性を示すとか、色々なやり方はあるわけです。

 

 でも、実際の世の中では他人の生きづらさなんかには興味がない人も多いですよね。「なぜ自分がわざわざ手間暇をかけてこんな奴のことを手助けしてやらなければならないんだ」と思ってしまう人も多いのではないでしょうか?運が良ければ生きづらい自分に向き合ってくれる人が出てくる人もいるかもしれません。でもいないかもしれません。

 

 結局、自分に対して特別に接してくれる理由のある唯一の存在は自分自身なのかなとも思います。誰かに期待して、期待通りにしてくれないことに腹を立てたりするのも、さらなる孤立を招いて、生きづらさを加速させてしまうかもしれません。

 

 僕も社会生活があまり得意ではありませんが、でも思っているのは、「仮に世界中の全ての人が僕を嫌いだったとしても、せめて自分自身ぐらいは自分のことを大切に考えてやろう」ということです。社会の中で生きて行くならば、他人の中に自分をうずめていくことは避けられません。でも苦手なんですよね。それをやるのは。失敗体験もたくさんありますし。

 それでも社会の中で生きて行くしかないならば、自分がその中でどうあればいいか?ということを考えて、そのために少しでもそのありたい形に近づくことをしていくしかないなと思います。何かができないなら、どうやればできるようになるのか?今自分がそれを出来ない理由は何で、どうすればそれを乗り越えたり回避したりして先に進めるのか?を考えていくしかないのかなと思っています。少なくとも自分の話としては。

 

 特にネットでは、非常にたくさんの人の目が集まる可能性があるため、「自分の抱えている困難さを開示し、そしてできれば他人にこうしてほしい」と求める行動にはリスクが伴います。その発言が目立てば目立つほどに、何かを求められることが嫌いな人たちが、「あなたの抱える困難はあなたの自業自得であり、こちらには関係ないので勝手に自分で解決しろ」という意味のことを言ってくる量が増えていくと思います。

 ただし、その求められることが嫌いな人たちもまた、困難を抱えたギリギリの人かもしれません。自分のことだけて手一杯だから、自分に求められても困るのかもしれません。だから、それがそういう人たちが悪い人とも思わないのですが、でも結果的に現象として、自分の困難の話をすると大量の人に突き放される言葉を向けられるため、「もう困難を開示したりしたくないな」と思ってしまうことはあると思うんですよね。それは悲しいことだなと思います。
どんな立ち場の人だって、困っているのなら、それによって生きることが困難に感じているのなら、まずは自分の困っていることを認識し、それを表明することが第一歩です。

 

 僕も以前ネットラジオで、自分が今本当に困っていることの話をしたら、そこに対する知らない人たちからの嘲笑の言葉をいくつも向けられたことがあります。そういう反応を見ると、うるせえボケがという気持ちと、本当のことなんて言わなきゃよかったな、という気持ちがごちゃまぜになったりしました。

 ただ、少し考えた結果、そういう反応を得ることで「こういうことを誰にも言わないようにすることが一番正しい」と思わされることもまたさらに生きづらいことかもしれないなと思いました。なので、言い方は考えますが、言っていくほうがいいだろうなというのが今のところの結論になっています。

 

 この文章もそういうことのひとつだということが分かると思います。

 

「一番弱い者が死なずにすむために社会というのはある」

という言葉が山口晃氏によるパラリンピックのポスターに書かれていました。ほんとうにそうだなと思ったので、自分の全ての考えの基礎のところにこの言葉を置いています。ただ、人は易きに流れるので、これを常に実現することは難しいことではないかと思います。少し自覚を怠けると「一番弱い者」という言葉の意味を好きなように読み替えて、「この人は弱い者ではないので、社会は(自分は)別に何もしなくてよい」ということにしてしまうんじゃないかと思います。そうなると良くないんじゃないかなと感じています。

 

 「生きづらさ」というのを社会の中にいることの困難さと捉えるのであれば、それはやはり弱い者なのではないかと思います。どんな種類の生きづらさでも、それが本人の自業自得と解釈できるものであったとしても、死なずにすむために社会はあった方がいいと思っています。

 

 こちらは社会の側からの視点ですが、個人の視点からで言えば工藤直子氏の「花」という好きな詩があります。

「わたしはわたしの人生から出て行くことはできない、ならばここに花を植えよう」

たとえどんな人生であったとしても、自分の人生から出て行くことはできません(それでも出て行きたくて自死を選ぶ人もいますが)。生きるのであれば、生きることが不得意であったとしても、それでも生きていくしかないのだから、せめて自分ぐらいは自分の人生の中に花を植えていくしかないという諦めにも似た気持ちが自分にはあります。

 

 自分と自分の外との間にある摩擦に目を奪われてしまうかもしれませんが、まずは自分の中だけでも、そこに花が植えることを考えてみるのがいいのではないかと思い、僕は以前からそういうことをして、少しずつましにできていると思います。

 

 もしこれを読んでいる人が「生きづらい」という気持ちを抱えているとしたら、色々たいへんなことはあると思いますが、まずは自分にとっての何らかの花を自分の人生に植えることを考えてみるのはオススメです。

コミティア146に出ます関連

 12/3(日)に東京ビッグサイトで開催のされるコミティア146に出ます。

 新刊は前回コピー本として出した「僕のことを三次元と呼んでくる多次元お姉さん」という漫画を手直しして製本したのでそれが出てきます。スペース番号はP27aです。

 

 この漫画については取材をしてもらったのでリンクを貼ります。

realsound.jp

 

 当日はマンガノというサイトのブースで開催されるトークセッションにも登壇します。SNSでの宣伝とかセルフプロデュースについて喋るらしいです。マンガノに載せた漫画を見てジャンプ+の編集さんが連絡をくれ、前に読み切りが掲載されたので、とても良いサイトです。みんなも使うといいのではないでしょうか。

manga-no.com

shonenjumpplus.com

 

 トークセッションに出るために昼は少しの間スペースを空けると思いますが、隣のスペースも友達(あらばきさんと中野でいちさん)なので店番を頼む感じになると思います。

 そういえば、我々3人がやっているWebラジオの出張版がティアズマガジンにも載っているのでチェックしてみてください。QRコードで書き起こしもとのラジオが聞けます。

blog.livedoor.jp

 

 コミティア楽しみですね。7年ぐらい参加するうちに、ずいぶんとホームタウン感が出てきました。楽しいことばっかりですよ。当日僕の単行本を持ってきてくれたら何か絵を描くので、紙の本を持っている人は持ってきてください。

 

 コミティア閉会後の夜は幕張メッセで開催されるライブに行くので荷物を抱えて移動するため、本はできるだけ売れておいてほしいと思っています。

 ぜひ買いに来てくださいね。東京ビッグサイトで僕と握手。

近年のインターネットの使い方関連

 インターネットにどっぷり浸かって20年以上になります。インターネットが好きなのは、今ここではないところに心を飛ばすことができるからでしょう。仮に知らない場所で知らない人に囲まれていても、スマホを手にとりインターネットを見さえすれば、そこは勝手知ったる自分の家の庭のようなものになるのです。

 

 外にいて落ち着かないときには、庭を見ていると楽になるし、庭に何かおもちゃを持ち込んで遊ぶのもいい。ここ10年ぐらいはダジャレと替え歌がずっと好きなので、目にした情報や漫画などにかこつけて何かのもじりをやったり、替え歌をして遊んだりしています。

 僕の見ているインターネットというかTwitter(現X)には同じようなことをしている人が沢山いるので、誰かが変な言葉を投稿し出すと、それに合わせてみんながそれぞれ似た種類の変な言葉を投稿したり、過去の類似する発言を再放送したりし始める。そんなことが楽しいのか?というと、一番楽しいと感じています。

 

 インターネットを通じて何かを成したいということは昔からあまりありませんでしたが、近年はさらにもっとどんどんなくなっていて、自分が好きな人たちと好きなような放言をしていられたらそれでよいと思います。しかし、今見えている好きなアカウントの人たちも、永遠の命はないですし、インターネットから遠のいてしまうかもしれないので、皆がいなくなって、今のこの快適な空間がいつかなくなってしまうことを考えたら、強烈にさみしくなってしまいます。

 

 この10年ぐらいをかけてかき集めてきた、この人は面白いと思うリストがあり、その人たちが何かをやっているのを見るのが好きですし、僕がやっていることに何らかのリアクションをくれるのが好きです。あんまり密なコミュニケーションはやっていなくて、やっていると疲れてしまうので、これぐらいの付き合い方がいいなと思います。

 

 会社の仕事はずっとしんどい状況をなんとかしようともがいていて、いつも精神が限界ギリギリのピッキピキになっているので、一回スマホを見て頭をそこから逃がしたあと、また取り組むというような、サウナと水風呂をいったりきたりするようなことを繰り返しており、これが精神に良いことなのかは分かりませんが、仕事の方だけにいるともう頭がおかしくなってしまうと悲鳴を上げそうなので、この行動パターンが一番仕事上のパフォーマンスが出るように感じて、今はそうしています。

 

 インターネットは好きだけど、世界中の色んな人と繋がれるみたいなことよりも、今ひとりで何かをしているのに、遠くのどこかに住んでいる好きな人との距離が近くにいるのがいい、みたいな使い方を好んでいるような気がします。

 

 いや、漫画の宣伝とかをするときには、知らない人に見て欲しいとかは思うか。でも、それぐらいです。

 

 そういえば、コロナ禍の自粛の時期には丸一年以上人と全く会わない生活をしていたのですが、孤独感はなくて、なかったのはインターネットがあったので、直接は会わなくても近くに人がいるなと思えていたということがあるなと思います。もしインターネットがなかったら孤独でおかしくなっていたかもしれません。

 そういう意味でインターネットが今あってよかったなと感じています。

「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」を観た関連

 今やってる映画の「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」を観ました。面白かったです。

 

 この物語はアニメ6期の世界観に繋がる物語ですが、最後、原作にもある鬼太郎が誕生したシーンに繋がる前日譚です。その鬼太郎の誕生シーンに原作以上に色んなことを思えるように実はこういうことがあったという様々な文脈が重ねられた物語でした。

 

 鬼太郎が幽霊族(人間より前に地球に生まれた人類的なもの)の最後の生き残りであるということ、ゲゲ郎(のちに目玉の親父となる鬼太郎の父につけられたアダ名)とその妻がなぜあのような姿になったのか、後に鬼太郎を見つけて育てる水木の戦争体験(総員玉砕せよを思わせる)、戦争戦中戦後と、幽霊族も弱い立場の人間も何らかの力に虐げられてきたということ、水木はなぜ鬼太郎を育てたのか、6期の鬼太郎がなぜ人間を助けるのか、それらが最後のシーンに圧縮して繋がるように描かれていて、しかも、僕はゲゲゲの鬼太郎を子供の頃から読んでいるしアニメも見ているため、その集約が最後に来たので、めちゃくちゃ感情が溢れてしまいました。

 

 この物語が徹底していたのは、過去に悲しみがあったということと、その先に今の人間と妖怪と鬼太郎たちが生きているということです。なので、助けられて欲しいと思ってしまう人が人が助けられなかったりします。それは起きてしまった悲しい出来事だからでしょう。

 主な舞台となる山奥の村は、閉鎖された環境の中でその中のルールが人を捕え、その中のルールに従うことを求めます。起きる悲劇は、その抗いの結果でもあり、それは押さえつける力への反発でもあります。

 彼らの中には、そのくびきから逃れ、外の世界の輝かしい未来に想いを馳せたりします。その近くには、外に出たのに連れ戻された人もいます。諦めてその中で生きることにした人、積極的に順応してしまった人、生きる場所としてそこにたどり着いた人、それは世界のある種の縮図です。

 

 外には行くことができなかった人たちがいて、閉じられた中の閉じられたルールの中で最期を迎えてしまった人たちがいて、そして今、彼らが憧れた外の世界で生きている人たちがいます。しかし、それは自由で明るいだけの未来ではなく、今なお相似形の悲しみが連なっているということも思います。

 ただし、その中で抗った人たちがいたから鬼太郎は生まれました。6期の鬼太郎は人間と妖怪の間をドライに見ている人ではありますが、それでも人を助けるために動いてくれます。それはきっと、水木と過ごした幼少期があるからで、それはこの物語が存在した先にあることです。

 

 映画を見ながら、少しの未来を知っている僕は、ゲゲ郎の姿が崩れたミイラ男のようになることも知っています。その妻が死んで、墓場から鬼太郎が生まれることも知っています。みんなが明るく楽しい未来を得られるということを最初から期待していません。

 なので悲しい話になるだろうと思いながら見ましたが、そこに少しの希望を見ることができたので、よかったなと思いました。

 鬼太郎に思い入れがあるなら強くオススメです。

 

 余談ですが、原作では幽霊族の血液が血液銀行に混ざったトラブルにより、水木が鬼太郎誕生の場に立ち会うことになるのですが、映画では幽霊族の血液による問題は前日譚の中で問題視されているので、その部分はこの話では変わったのかなと思いました(明確には描かれなかったと思いますが)。

物語を終わらせる力関連

 比較的短いページ数の同人誌の漫画を作っていると、物語を終わらせる力について考えることが多いです。つまり、この話をこのページ数で終わらせないといけないが、では物語ってどうすれば終わるんだっけ?という話になってきます。

 

 ここには固定的な正解はなく、描く人の思想性が出てくると思います。何が描かれればこのお話は終わったことになるのか?という認識が試されるわけです。

 

 色んな漫画を思い浮かべてください。この漫画はちゃんと終わらなかったと言われている漫画が思い浮かんだりしないでしょうか?例えば、MONSTERやドラゴンヘッドの終わり方について、僕は連載終了時には、ちゃんと終わっていないと思ったりしましたが、後に読み返した時には、いや、ちゃんと終わっていると思いなおしました。それは、自分がこの物語は何を描いていたものか?という認識が連載を追っているときには上手く捉えられておらず、まとめて読み返したときに、この物語はこれを描いていたのだから、描くべきものが終わったところで終わるのが正しいと思い直したということです。

 

 スラムダンクで、山王戦のあとの湘北の負け試合がちゃんと描かれていないと文句を言う人をめったに見ないように、寄生獣で結局ふと思った地球上の誰かが誰なのかの謎が明らかになっていないと文句を言う人をめったに見ないように、その物語が描く必要のないと思ったものは描かなくても問題がありません。

 でも、その描かれなかったものこそが本筋だと思う読者もいて、その人はちゃんと終わっていないと文句を言うのだと思います。ただし、それもその人がそう思ったのなら間違ってはいないと思います。

 

 終わらせるということについては、これが何の物語であったかの認識が重要だと思います。その物語として描くべきものが決まれば、それを描けば終わることになります。

 

 例えば、ホラー漫画は一番インパクトのあるシーンが描かれればそこで終わっても大丈夫です。ホラー漫画は怖いということが重要なので、なぜその現象が起こったのかや、その後、登場人物たちがどうなったのかは重要なことではないからです。

 

 なので、自分が描いている物語が何を描いているものかを認識することが、終わらせ力を生み出す終わらせ筋を鍛えるために重要です。

 

 終わらせ筋のフィットネスは、終わらせてみる経験の繰り返しになると思います。お話を途中まで描いてみて、この話を今から何ページかで終わらせると決めたときに、終わらせ筋に火が入ってきます。この物語はどういう物語で、何が描かれれば終わりを迎えることができるのか?を考えます。

 

 最近描いた自分の同人誌で実例を挙げると、

・デスゲーム最速理論
 これは分かりやすくて、ゲームが終わればお話が終わります。ゲームが終わるには人が死ねばいいので、どんどん人を死なせることで終わらせることができました。追加エッセンスとしては、主催者の目的の開示に伴う意外な展開を上乗せしています。

 

・右手が毒手の毒島さん
 これは毒島さんにフラれて思い悩む主人公が、自分の気持ちを捉え直すという心の変化が出てきたところで、悩みの解消により終わらせることができました。毒島さんの新たな一面を主人公に捉え直させるために、急に殺し屋を出したりしています。

 

・勇者の寿司
 こちらは魔王の目的を明らかにするということと、魔王の変化が描ければ終わると思ったので、いきなり回想シーンをぶっこみました。将太の寿司からもってきたテーマ性である、「目の前の人のために寿司を握る」ということの意味を、過去の勇者に求めて時間経過に乗せることでハッとする気持ちを演出し、それを物語上のアクセントとして使っています。

 

・僕のことを三次元と呼んでくる多次元お姉さん
 こちらは謎のお姉さんとの別れとともに目的が開示されると終わると思いました。途中で時間の捉え方についての砂山の喩え話を出していたので、綺麗に出来た砂山を壊したくないという理由から去ることにし、なぜお姉さんはこの光景を大切だと思ったのかの理由が分かったところでフィニッシュです。

 

 このように、「この話って何を描こうとしていたんだっけ?」というところを明らかにしていけば、おのずと終わり方が見えてくるものだと思います。そのためにも描く前にテーマがちゃんと決まっていたりするととてもやりやすいですね。テーマというのは別に高尚っぽいものでなくてもよくて、「高飛車なお嬢様の服がはじけて裸になるのっていいよね…」みたいなものでも大丈夫です。その場合、どのような角度からでも、高飛車なお嬢様の服をはじけさせ、裸にすることができればお話は終わることができます。

 

 終わらせ筋が十分鍛えられていると、何にせよ終わらせることはできるだろうと思いやすくなるので、見切り発車で描き始めることができるようになります。そうなると特に短いページの漫画はすぐに描き始められるので、めちゃくちゃ得ですね。だから鍛えたいと思っています。

 皆さんも終わらせ筋のフィットネスを繰り返すことで、終わらせ力を鍛えてみるといいかもしれませんね。

アマチュアの存在が日本の漫画を支えている関連

 日本で連載を持っている漫画家が何人いるかと検索をすると6000人という数が出てきました。これは古い数字なので多分今はもっと多い気がしますが、もしそれだけの人しか漫画を描いていなかった場合、漫画を描くためのソフトウェアは成り立たせにくいでしょう。

 

 なぜなら漫画家が全員そのソフトウェアに年1万円払った場合でも、年間6000万円にしかならないからです。その場合、社員を年収500万円の人を6人しか雇えません(会社が雇用を維持するのに倍の費用がかかる想定です)。実際はさらに会社を維持するための間接的な経費なども沢山あるため、現役で連載を持っているプロの漫画家だけでは、ソフトウェアの開発とその維持をできる環境を保つのは難しいと思われます。

 色んな事業の中のひとつとしてやれるかもしれませんが、儲かる事業でない以上、継続できるかどうかは分からなくなります。

 

 上記では月額制として仮定しましたが、買い切りの場合はもっと難しくなります。たとえば漫画を描く用のソフトウェアが2万円の買いきりだった場合、6000人全員が買っても1億2000万円です。次のアップデートを買う人がその中の一部であれば、何年もしないうちに資金が枯渇してソフトウェアの開発もサポートも終了してしまうでしょう。

 

 何かの環境を維持し続けるためにはそのための最低限のお金が日々必要です。売り切りのソフトウェアが難しいのは、大きなアップデートのとき以外にお金が発生しにくいため、維持することが難しくなることです。色んなソフトウェアがサービス化し、月額料金制に移行しがちなのは、その意味で仕方がないことだと思います。

 

 さて、商業活動をしている漫画家だけではソフトウェアの維持は難しいという話をしましたが、実際は、アマチュアを含めた漫画を描く人は数十万人もいるようです。その場合、一人が一万円を払うなら数十億円になります。そうなると沢山の社員を雇い、開発を進めたり、維持してサポートをすることができそうに思えてきます。

 

 アマチュア人口が多いということは、その中からプロが出てくるという意味もありますが、制作のための環境を維持する上でも重要なことです。これは、アナログ画材の場合も同じで、スクリーントーンやペン先などは、既にバリエーションが減ったり、維持が難しくなってきています。

 

 なぜならば、デジタルに移行している描き手が多いからでしょう。

 

 データを見たわけではないので想像を含んでいますが、周囲を見る限り、おそらくアマチュアで漫画を描く人の方がデジタル画材への移行は早かったように思います。同人誌を作ってもさほど本が売れるわけではないアマチュアは、スクリーントーンを大量に使うことが難しいですし、印刷所にデジタル入稿するためには何にせよデジタル化をしなければならないので、そうなる理由が沢山あるからです。

 

 その流れもあってか、スクリーントーンは廃盤になっているものも多く、ペン先も廃盤になっているものがあるというわけです。維持するために必要な需要を割ってしまうと多様性は減ってしまいます。

 

 今あるものもいつまであるかは分かりません。紙で同人誌を出す人が減ってくれば同人誌を刷れる印刷所の数も減っていくかもしれません。僕はiPadクリップスタジオがなければ漫画を量産することができませんが、そのうちAppleiPadApple Pencilの製造を止めたり、セルシスクリップスタジオの開発とサポートを止めることもないとは言えません。そのとき僕は漫画を描けなくなるだろうなと思います。

 

 山本直樹先生は、Aldus SuperPaintで漫画を描いていると漫勉で見ましたが、それは僕も中学生だった95年ぐらいに触ったことがあるソフトウェアで、既に現役の動作環境はありません。当時は68kのCPUのMacで動いていたものが、PowerPCIntel CPU⇒Appleシリコンへと変遷しておりバイナリの互換性がありません。OSも漢字talkの時代からMacOSになりBSDベースのMacOS Xになり、しばらくはクラシック環境として昔のアプリの動作環境も維持されていたものの、今ではとっくにサポート外です。

 そのため、山本直樹先生はPowerMacの環境を予備を含めて維持しているとのことです。山本直樹先生が現役のうちはそれでなんとかもつかもしれませんし、どこかで全部故障してしまうかもしれません。仮想環境とかもあるのでそれでもなんとかなる可能性はありますが、同じ環境を維持し続けるということの前には様々な困難があり難しいことです。

 

 今の自分はまだ大丈夫ですが、そのうち同じ問題に直面するかもしれません。今の製作環境と同じものを維持し続けるということは、そこにお金の流れがあり続けることだと思っていて、その流れを維持するために必要なのは、商業誌に連載をしている漫画家だけでは足りず、アマチュアの漫画を描く人たちの存在が必要だと思います。

 

 仮に商業誌で連載をしていなかったとしても、皆で漫画を描く環境を維持しているという意味では、漫画を描く人たちは全員同じ船に乗った仲間です。プロだけいればアマチュアはいらない、みたいな話ではないなと思います。

 今あるものがどうやって維持されているのか?漫画以外でも色んなものをそういう視点で見てみても面白いかもしれませんね。