漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

イエーイ!漫画オタクをやっててよかった関連

 僕は他のみんながちゃんと自分の人生をやっている間、ずっとひとりで古本屋で漫画を読んで過ごしてきたような人間です。それは、子供の頃は色々あって、そうやって自分の人生から目を逸らさないと日々やってこれなかったということだと思っていて、だから漫画が身近にあったことにとても感謝をしています。

 

 今は大人になり、色々忙しくて漫画を読む量はさすがに減ってしまいました。昔は本屋にある少年誌と青年誌は全て読んでいて、古本屋も棚の端から端まで読んでいたので、そこそこ漫画に詳しい人のつもりでした。ただ、今ではもうあんまり漫画に詳しくない人だなと思います。読めてないものが多いからです。昔はちょっと詳しい人のつもりで発言していましたが、今はそんなに詳しくない人として発言をしています。

 

 僕が今よりももうちょっと漫画に詳しかった時期には、読んで面白かった漫画の話を活発にしていて、この漫画はこのように面白いという話を友達に聞いてもらうのが好きだったので、podcastをやったりブログを書いたりをしていました。厳密に言うと今もそういうことはしているのですが、他に色々やらないといけないことがあり過ぎて、あまりできなくなっています。

 

 当時そういうことを活発にやっていたモチベーションのひとつとしては、自分が好きな漫画について検索して出てくる感想群への「反発」がありました。なんだそれ?と思うかもしれませんが、ざっくり言うと、自分が好きな漫画が、ネットで出てきた文章の中ですごく粗雑に面白くないと言われていたりして、そんなことはないだろ!これはめちゃくちゃ面白いだろ!という気持ちが出ていたということです。

 評論的な分野では、評論家の自己アピールとして、「作者よりも自分の方がセンスが良いと示すために作品をけなす」みたいな行為がよく行われていると思います。

 それをしたくなるのは分かりますし、別にそれをやってはいけないとは思いませんが、その理屈で言うと「一番面白いものを知っている人は、この世にあるあらゆるものを面白くないと断じている人」という話になるので、それは違うだろうと思うんですよね。

 

 これは別に「褒めることだけをやれ」というわけでもなくて、褒めるにせよけなすにせよ、そこで自己アピール成分を出し過ぎないことと、そして粗雑なやり方ではなく、もっと具体的に詳しくやった方がいいんじゃないかというのが僕の価値観です。

 

 ただし、それが良いと思うなら、他人にやらせようとするよりも、僕自身がやった方がいいだろうなと思いました。僕が面白いと思っていることを具体的に説明して、それがネットの検索の上位に出てくる方がいいだろうなという考えになりました。僕の感想でネットを汚染してやろうという暗いモチベーションがそこにありました。

 

 なので、自分なりに、この漫画がどのように非凡で、どのように面白いかを書き連ね続ける感じになります。それは後々に、僕自身が漫画家としてデビューすることの下地になりました。面白い漫画を描きたいと思ったときに、何が面白いのか?どうすれば面白く描けるのかは色々感想文として書いていたので、それらを応用して今の自分の表現をしています。

 ちなみに当時は自分が漫画家になるということについては、考えたこともありませんでした。若い頃に漫画を描こうとして上手く描けなかったこともあり、そもそも自分にちゃんとした漫画が描けるはずがないと思っていたからです。しかし、人間万事塞翁が馬、何が役に立つか分からないものですね。

 

 他人の感想を読んで気に食わないなと思ってきたことが、漫画家になる上でとても役立ちました。

 

 これらの漫画の感想を書いたり喋ったりする活動は、別に誰かの役に立ちたいと思ってやっていたというわけではありませ。「この漫画が面白いと感じる自分の頭の中」と「この漫画が面白くないと言われている自分の頭の外」が大きく乖離していることが嫌だと感じてしまって耐えられなくなり、その差を少しでも埋めてやろうという、自己利益のためにしていた活動です。

 ただし、その副次的な作用として、同じ漫画が好きな人に喜んでもらえたり、よく感想を書いてくれる人として作者の漫画家さんにも喜んでもらえたりということがありました。

 

 例えば、何年も前にコミティアに出ていたときに、知らない人がスペースに来てくれて、「以前、感想を書いて貰った者なのですが」と言われ、何の話だ??と思ったら、それは当時アフタヌーンで「螺旋じかけの海」を不定期連載をしていた永田礼路さんでした。僕がブログに感想を書いていたのを読んでくれ、コミティアに僕が参加しているのを知ったので、わざわざ挨拶に来てくれたのでした。

 永田さんはその後「螺旋じかけの海」の連載を出版社から自分でひきとって、個人で完結させるまで描きます。今ちょうどその回顧録を漫画で描いているのでオススメです。その回顧録を読むと、コミティアで初めてお会いしたときは、「螺旋じかけの海」の連載を今後どうすべきかを悩んでいらっしゃった時期だったので、そんなことも知らずに僕は、連載の続きを楽しみにしています!みたいな雰囲気だったと思います。とにかくこの前出た完結巻はめちゃくちゃ良かったのと、この分量を個人の活動で最後まで描いたのが本当にすごいなと思います。

 感想を書いたという縁で、永田さんとは今もコミティアで交流をしています。

 

 別で書きましたが、寺沢大介先生とも長いファン活動の末、今とても良くして頂いていて、ファンをやっていてよかったなと思っています。

mgkkk.hatenablog.com

 

 いそふらぼん肘樹さんも、最初は「神クズ☆アイドル」の特に瀬戸内くんというキャラクターがめちゃくちゃ好きで、これホント良い漫画なんですよと僕がオタクの早口でネットで話していたのを聞かれたところから縁から始まり、今では友達になって、たまに遊んでもらいます。

 

 直近だと、一度お話しただけなので名前は伏せますが、ある漫画家さんにご挨拶させてもらうタイミングがあって、そのときに「前から色んな漫画をプッシュされてましたよね?」って言われて、昔からの漫画オタク活動の部分を認識してもらっていたのと、「みんなが喜んでいたと思いますよ」と言ってもらって、僕が自己顕示欲のためにやっていた活動が、多少なりとも人の役にも立っていたなら、本当に良かったなと思いました。

 

 他にもおおっぴらに言わないような色々が本当に色々あり、僕が漫画オタクとしてやっていた活動が、近年はとても良い形で返ってくることが多く、漫画オタクを続けていた過去の自分に、おい!お前!それやったことによる良いことが、そのうちめっちゃあるぞ!と伝えたくなります。

 

 ただ、結果的に交流が生まれたりもしていますが、漫画オタク活動は別に、好きな漫画の作者さんと仲良くなりたいと思ってやっているわけではないというか、僕はとにかく今でも対人関係が不得手なので、人と接したら嫌われる可能性の方が高いと感じており、好きな漫画の作者さんには嫌われたくないので、あんまり積極的に近づきたくないかも…と考えており、話すこと話したら逃げてしまいたいといつも思ってしまいます。

 でも、そのわずかなやりとりの繰り返しの果てに仲良くなることなどもたまにあるという話です。そこまで至れた場合は、それをとても嬉しいと思います。その嬉しいがいくつもあるって話です。

 

 このように、ここ最近は特に、昔の自分が漫画オタクとしてやってたことによる今嬉しいことが本当に沢山あって、漫画オタクをやっていて本当に良かったなと思っています。

 このままずっとずっとラララこんな感じに続いてほしいです。

人生思考囲いリアルイベントお疲れ様でした関連

 先週の10/22(日)に、昨年に引き続きWEBラジオ 人生思考囲いのリアルイベント「阿佐ヶ谷リアル囲いvol.2 ティア・マイ・フューチャー」を開催しました。ティア・マイ・フューチャーというサブタイトルは、同人誌即売会コミティアのティアと、プリティーリズムの2作目ディア・マイ・フューチャーをかけた言葉です。

 

 人生思考囲いは元々、中野でいちさんとあらばきさんがやっていたWEBラジオで、そこに僕も何年か前からレギュラー参加させて貰うようになった感じです。その関係ができたきっかけのひとつがコミティアでした。

www.youtube.com

 

 今年は、コミティアの発行する冊子ティアズマガジンで、人生思考囲いとして毎号連載を持たせて貰うようになったりしており、リアルイベントではそれぞれが持ち寄った同人誌を紹介するコーナー「漫画頭蓋骨絞め」をやったりと、「コミティアっていいよね」「いい」という感じの雰囲気を出しています。

 

 昨年のイベント開催時には、果たして人が来てくれるのかドキドキしており、最悪知り合いを呼んで阿佐ヶ谷ロフトAで飲み会をして帰るかと思っていましたが、結果、満員かつイベントのネット配信でもたくさんの人が集まってくれ、またやりましょう!という気持ちになっての開催です。

 今回は来てくれる人はいるだろうという認識のもとで動き始めたので、かなり気が楽でした。

 

 会場にはWEBラジオのリスナーが来てくれるので、身内のイベント感も強く、いつものラジオのようにやっていれば、それを好きな人が来てくれる感じで、とてもやりやすくてよかったです。

 

 今回のゲスト漫画家は、いそふらぼん肘樹さんと、サプライズ登場した位置原光Zさんで、お二人とも人でもイベントをすれば人が集まるような人たちなので、とても面白かったですね。

 肘樹さんは、昔描いた同人誌を持参してくれ、ラッキーマンアイドルマスターを組み合わせるということと、ラッキーマンの技法をいかに自分で再現するかの解説をしてくれたり、位置原さんはデカパイなぞなぞを携えた怪人として登場、サービス精神が満点でめちゃくちゃ面白かったです。

 

 漫画頭蓋骨絞めのコーナーでは、僕が以前あらばきさんに「今すぐ読んで下さい!」と駅構内で渡されて読み、とんでもないものを読まされた…と思いながら帰ったアイカツの同人誌「ネバー・エンド」や、ゲームクリエイターのポーンさんの作品「絶対防御防御無視」など、それぞれが持ち寄ったヤバい同人誌が紹介されました。

 僕も自分が将太の寿司の世界に登場する同人誌「SSSS-笹木は寿司の夢を見るか-」やエアコミティアの王kmcさんの「令和の漫画描き 断頭台ともよ」を紹介しました。こちらも両方ヤバい漫画なのでオススメです。

 

 当日は朝から色々ありましたが、ずっと楽しく、あっという間の一日でした。登壇しながらiPadで漫画を描いていたので、作画もノルマ分進みましたし、客席から差し入れて貰ったしらす丼も2杯食べてカロリーも十分とれました。

 僕が楽しかったため、きっと楽しいので、みなさんも見てみてはいかがでしょうか?

 

 アーカイブが買えます。

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 ちなみに去年のイベントのアーカイブも10月末まで販売中です。

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 よろしくおねがいします。

トイレ掃除をするように出世をしている関連

 会社の中でここしばらくしんどい立場をやっており、それは自分が会社の中で出世していることと関係しているのですが、ネットを見ていて、こういうしんどさは「男の中での競争社会で勝ち抜こうとしているから生まれている」ので、そこから降りれば(他人を押しのけてでも出世することを諦めれば)楽になるよという意見を読むことがあり、それが自分の実感と全然違っていたので、そのあたりについて書きます。

 

 まず僕が出世をすることを受け入れたのは、手元の選択肢の中で「それが一番自分を楽できる道だと思ったから」です。つまり「辛い状況に耐え切れず、それをどうにかするために仕方なく出世をした」という経緯があります。

 

 具体的に言えば、自分が課長でないときに、直属の課長の人が僕がやって欲しいと思った通りに動いてくれず、人手的にできもしない仕事をバンバン引き受けてくるわ、それをこちらに流すだけ流して、上手く行くための手伝いはしてくれないわという状況がありました。なので、それなら自分が課長になってマネジメントをした方がましじゃないか?という気持ちになったということです。

 

 僕は当時の会社の仕事の進め方に全然納得がいっておらず、こんな環境なら今やっている仕事がが終わったらもう辞めよう、と思っていて限界のギリギリになっていました。そのタイミングで、当時いた会社の役員から、親会社に新設される部署に課長として転籍しないか?という話をもちかけられ、もしかしたら自分自身が課長になって頑張れば、少しはこの状況をましにできるかもしれない。何も変わらない中で他人に不満を抱え続けるだけ、という不毛な状況に居座るよりは、その方がずっとましだろうと思って課長になることにしました。

 

 なので、出世競争に勝ちたいという気持ちなどは全然なく、出世は自分たちの働く環境を少しでもましになるために権限を求めた結果でしかありません。

 ただし色々思い出すと、課長にならないか?と持ちかけられたことへの嬉しさというのはありました。それは僕のそれまでの仕事ぶりを見ていた人が、「この人に任せた方が今の状況をましにできるかもしれない」と思ってくれたということだからです。それまで色々嫌な思いをしながらもやっていた仕事について高く評価してくれる人がいたことは嬉しく感じました。

 でも、実際自分自身の人間的性質を考えると、自分が課長職に適任だとは思えていませんでした。なので、話を持ち掛けられてすぐは、受けるかどうかに迷いもかなりありました。しかし、その役員の人に「そこをそうやって迷えるぐらい自分が成すべきことが具体的に見えているなら、やる自信がなくてもやれるようになるために一度やってみるべきだ」という後押しを貰いました。沢山の人がいる中で、将来的な可能性を含めて自分が一番適任だと会社の上の方から認められるという嬉しさもそこであったと思います。

 

 その意味では、多少なりとも競争意識自体はあるのかもしれません。でも、他の人が課長職を上手くやってくれているならその方が楽でよかったので、他人を押しのけてでもやりたかったわけではないんですよね。他人より秀でているとわざわざ示したいという競争は、そこには無いわけです。

 

 僕の感覚はそんなに特殊なものではないと感じていて、実際今の会社の若い人たちは課長や部長に、そしてその上の役職にどんどん出世したいと思っている人が少ないように思います。特に僕がいるような技術職では、今やっている技術のエキスパートとして評価され、給料が上がって欲しい人の方が多くいて、マネジメントはやりたくないと思っている人は多いです。だから、課長のなり手があまりいません。そのため、積極的に課長になりたいとは思っていなかった僕にも出世の話が回ってくるわけです。

 

 この一年半課長職を続けてきて、一通りの経験はしましたし、なんとかやれるなという気持ちにもなってきました。それでも、自分が今やっていることを自分以上にやってくれる人がいるなら、今でも役職を降りて、手を動かす仕事の方にまた専念したいなと思っています。

 

 最初に書いたネット上で目にする指摘にあるように「出世なんてしようとしない方が楽になる」というのは実際そうだと思っていて、少なくとも僕が勤めている会社では、前述のように多くの若者が、わざわざ出世をしてしんどいマネジメントの仕事を引き受けたりしない方がいいと感じているようです。しかしながら、その中でも出世を引き受けている人は、「競争社会の中で積極的に勝つために生きようとしてるのか?」というと、少なくとも僕の場合は、誰かに貧乏くじを引かせるよりは、自分が引いた方がまだましだなと思ってこれをやっているに過ぎません。

 なので、「出世をする」ということの意味は「男社会の中で自分が優秀だと示したくてやっている」みたいなことではなく、「立場が弱いくせに変な責任感があるため、誰もやりたくない仕事をやらざるを得ない立場に追い込まれている」というのが僕の自己認識としての記述になります。

 

 そのため、今僕が課長職をしんどいしんどいと思いながらも、せめてうちの課のメンバーが働きやすい環境を作っていかなければと頑張っていることについて、「そうやって出世競争みたいなのにこだわっているから苦しんでいるんだよ」みたいに、内情と全然違う見当はずれのアドバイスをされたりすると、本当に嫌な気持ちになるんですよね。

 

 なぜならば、こういうことを言う人は、こちらの内実を知ろうとする気が全然ないんだなと思うからです。だからその人の持つ偏見を一般的な事実にすり替えて話するんじゃないかなと思います。そのすれ違いを元にして、僕が色々精神をすり減らしながらも、せめて周りの人たちが働く環境がましなるようにとなんとかやっていることについて、ざっくり言えば「苦しいのはお前が愚かことにこだわっているからだ」と言われているという構図です。ええ!?僕は、自分を含めたここで働く皆が、少しでも日々楽に働けるようにと思って頑張っているのに!と思ってショックを受けてしまいます。

 

 例えば、この構図を家事に置き換えれば、誰もやってくれない家のトイレ掃除を一人で頑張っている人が、全く掃除をしない家族に、「掃除好きアピールのためにやってるんだと思っていた。そんなのやめてしまえば楽になるのに」と言われているようなものです。

 じゃあやめればいいか?と思うと、トイレが汚いのは嫌なため、やらざるを得ないからやっているわけです。他の人がやってくれるならその方が楽なのに、やってくれないからやっているわけです。しかしながら、その気持ちでやっていることについて、その効果を無意味と評されるばかりか、頑張って続けていることを、しょうもない自尊心のためにやっていて愚かだと表現されたりすると、嫌だなあとは思いませんか?

 

 さて、今した家事へのなぞらえはひとつ間違っています。どこだか分かりますか?

 それは、ネットで目にするこういうことを言う人は、僕にとって「家族ではない人」であるということです。これは会社の話なので、ここで「家族」にあたるのは僕の会社の「上司や部下や同僚」になります。僕が頑張っていることの意味も価値も、その「家族」には評価されているために、実際はしんどくても続けるモチベーションは持ち合わせています。互助のサイクルが回っているからです。

 

 「家族」ではない人は「家族」ではないのだから「家の中」のことは分からないだろうし、「同じトイレを使っている」わけでもないので、こういうすれ違いはある程度は仕方ないかなとも思います。とはいえ、そういう話を目にするとギョッとしてしまいますし、認識がすれ違っていて嫌だなという気持ちはあるので、「家の中」のことを「家の外」に向けて少し書いてみました。

 いかがでしたか?

昨日より今日はちょっとマシになる関連

 昨日の話の捕捉みたいな文章です。

mgkkk.hatenablog.com

 昨日の話は、漫画家志望の人に対して、よってたかって「一作描けなければ才能がない」みたいな話がされているのを目にして、そんなこと言われたって別に描けるようになんかならないだろと思って、漫画家志望者の人も言われた先って何かあるわけじゃないなと思って不毛に思ったというか、どうせなら描けるようになるために少しでも近づく話が出来た方がいいだろうなと思って書きました。

 

 漫画家志望者が漫画家になるまでのステップを以下のようなものじゃないかと思います。

①漫画を描きたいと思う

②漫画が1作描けた

③漫画を何作も描けた

④漫画を上手く描けて他の人に褒められた

⑤プロの漫画家になれた

 

 昨日の文章は①から②になかなか移行できない人に対して、できてないことを他人に色々言われるかもしれないけど、人の能力は適切な訓練をすれば伸びるものなので、描きたいと思うなら少しずつでも②に向かっていくしかないし、色んなやり方があるよと提示したいというのが文意です。

 なおかつ、僕自身が中年になってからそれをやったので、まだ若い人ならそんなに時間に関して焦る必要もないかもしれませんよと言いたい感じでした。

 

 そういうことをわざわざ言いたいと思うのは、世間で「何かになりたいと思うけれど、そこになかなか上手く進めない人」が、まるで劣った人間であるかのように悪く言われているのをよく目にするからです。

 少しずつでも能力を伸ばしていけば、そのうちできるようになるかもしれないことを、そうなる前に他人に「才能がない」というようなことを言われて辞めてしまったら、せっかくできるようになるかもしれなかったのにできないままで終わってしまいます。

 

 他人に言われる「お前には才能がない」という言葉にどれほどの根拠があるでしょうか?例えば、「こんな人間は漫画家には決してなれない」という嘲笑をする人が、そもそもどれほど「漫画家になる」ということに詳しいのでしょうか?実際はどこかで見たことのある言い回しを真似しているだけで、反撃できない誰かを「劣っている」と表現すれば、あたかも自分はそれよりも「優れている」と感じられると思い込んでいるとかそういう可能性だってあります。

 

 そんな言葉を真に受けて、何かやりたいと思ったことを簡単に辞めてしまっていいんでしょうか?

 

 僕は子供の頃から不器用で、他の人が授業中の1時間もないうちにできることができなくて、居残りをして何時間も練習をし続けたりした経験が沢山あります。先生に求められたことが上手く出来ず、お前みたいな人間は社会に出たら通用しないよ、などと言われたことも何度もあります。大学院のときまで言われ続けました。

 自分が頑張って考えたことを笑われたり、描いた絵を下手くそだと笑われたり、上手く喋れないことを笑われたり、せめて真面目にやろうとしたことを真面目にやってると笑われたりしたことも数限りなくあります。

 

 それでも今は毎日楽しくやっているんですよ。それは、できないことを時間をかけて少しずつできるようになったという変化があるからです。人と喋るのだって、会社の仕事だって、絵を描くことだって話を考えることだって、未だに上手く出来ないことは多々ありますけど、昨日より今日がマシになることを繰り返して、今生活をしています。少しずつマシになることで、以前は困難だったことが困難ではなくなって、楽に生活できるようになっているんですよね。

 何かが上手くできないことでこれまで、嫌なことだって沢山ありましたが、それでも自分が自分のありたいようになるために少しずつ改善しているという今が、自分にとっての生きていることの救いです。

 

 会社の仕事もちゃんとできるようになりました。描けるようになりたいと思ってチャレンジした漫画も仕事にまでなるようになりました。生きるお金にも困っていませんし、友達とも楽しく遊べています。昔は何も上手くできなくて将来のことを暗く考えていたけれど、今は楽しい将来に辿り着けています。それは誰に何を言われても、昨日よりちょっとでもマシになろうとすることを辞めないでいられたからじゃないかと思います。

 

 僕に「社会で通用しない」と言い放った先生は間違っていました。なぜなら今の僕は社会で通用しているからです。でも、「自分は将来も社会で通用しないんだ」と思って、社会の中でやっていくことを諦めていたら、本当にそうなっていたかもしれません。

 僕はどんくさいので、先生の立場からはそう言ってしまったことも理解できます。結局先生は、何も上手くできない僕を、上手くできるようにする方法が何も浮かばなかったので、僕が社会に通用しない劣った人間であると見なすことで、自分の指導の手にあまることの辻褄を合わせようとしたんじゃないかなと思います。

 

 漫画の話も一緒ですよ。「一作描けていないなら漫画家にはなれない」「漫画家になりたいならまず一作を描け」、それしか言えないのなら、それはつまり、「一作描く」ということをどうすればできるようになるかを、プロセスに分解して説明することができないということだと思います。

 そのため、「できた」か「できてない」という1ビットの価値判断しか持つことができず、「できないことをできるようにする」ということの説明ができないのではないからそのような物言いをするしかないのではないかと思いました。その場合、その人の話を聞いてもどこにもたどり着けません。できることは歩みを止めることぐらいです。

 

 人間は段取りを踏んで反復を重ねて行けば何でも少しずつ上手くはなります。そこで世界で一番にはなれなくても、昨日の自分のよりは少しマシになれると思います。その積み重ねで人生をやっていくのがいいんじゃないかと思って思います。僕がそれによって今いい人生をやれていると感じているからです。

 

 出来る奴は最初から出来る、出来ない人間は才能がないから出来ない、みたいな世の中なら、今がダメなら未来にはもう希望がないし、そんな世の中を生きるのは楽しくないでしょう?僕は人生を楽しくやっていきたいんですよね。

 

 漫画家志望者が少しでもマシになるように頑張り続けても漫画家になれるかどうかは確約はできません。①から②に行くのなんて最初のステップですし、でも、そこで挫折する人も多いんですよね。

 多いということは難しいということですよ。難しいということは、乗り越えるためには無策ではなくやり方が必要です。やれと言われてやれない人の方が多い話です。僕のケースはひとつやるための方法として例示しました。でも、人によって適切なやり方は違うと思うので、それぞれが自分で模索してみるしかないと思います。その先に漫画家になれるかもしれません。ちなみに挫折したら可能性は確実にゼロです。

 

 また、そういうところでやり方を模索したことが、そのあとは描く「漫画をより面白くできるやり方」を考える下地にもなるのではないかと思います。実際漫画家をやる上で本当に難しいのは上記の⑤よりもあとです。

 受賞したり連載を始めたりすることよりもあとにある、「単行本を多くの人に買って貰えるか?」のところにあります。連載を開始するまでは、最小手数では商業誌の編集長1人がOKを貰えれば開始できますが、単行本が売れて漫画家を長く続けるためには、何万人もの知らない人に「この漫画をお金を出して買いたい」と思って貰う必要があります。

 何万人ですよ?一生かけても出会わない量の人かもしれません。そのためには「嫌なことを言ってくる人に嫌なことを言われないように行動すること」よりも、「自分のやっていることを良いと言ってくれる人を一人でも多く作ること」が大切だと思います。

 

 それを実現するために僕も今試行錯誤をしています。色んな漫画の描き方を試して、より多くの人に読んで貰える漫画の描き方を考えて、自分の漫画で実験をして、効果を確かめるサイクルです。そうやって明日はもっと良いものを作れるようになるように試行錯誤することは面白いです。

 「自分で考えて」「試行錯誤して」「少しでもマシになる」。それを始める最初のステップは、「今はまだできないことを、できるようになりたい」と願うことなので、その願いを持つことは正しいと思います。

 

 なので、とりわけネットの人とかには色んなことを言われたりするかもしれませんが、やりたいなら少しでも今の自分よりマシになる方法を考えて、試行錯誤を続けながらやっていくのがいいんじゃないかと思います。

 少なくとも僕はそういうことを面白く続けています。

漫画家になりたければまず一作描け関連

 先日、「漫画を描きたいと言いながら今一作も描いていない人間が漫画家になれるはずがない」みたいな話をネットで目にして、その描いていない人に対しての厳しい意見が沢山目に入りました。

 

 僕は30代半ばで、ひょっとしたら今なら漫画が描けるんじゃないかと思って、チャレンジしたら描けたので、そこからうっかりプロの漫画家になったりしましたが、これは大人になってから初めて描き始めたということではなく、大学では漫研にいたので、20歳前後あたりでも漫画を描いてみようとしたことはあって、でも、ちゃんと最後まで描けなくて挫折したというその前の経緯があります。

 

 その後、30代半ばになって、会社員としての経験を色々経た後で、「今できないことを、なんとかしてできるようにする」ということをある程度筋道立ててできるようになってきたので、そのノウハウを応用すれば漫画だって描けるようになるのではないか?と思い立ち、色々試行錯誤したら漫画が一作描けたいうのが全体の話です。

 

 なので、「漫画を描きたいと言いながら1作も描けたことがないような人間」というのは若い頃の僕のことであって、でも色んな幸運の流れに乗った結果、今は会社員との兼業ですが漫画家になっています。

 

 つまり、僕は「漫画を描きたいのに一作も描き上げられない状態が十数年続いていた」状態ですが、漫画家になっており、「漫画を描きたいと言いながら今一作も描いていない人間が漫画家になれるはずがない」という意見については僕自身の存在が反証となります。

 一方で、一作も描けていない人が実際に漫画家になれない例も沢山あるのだと思います。でも、30代半ばまで一作も描き上げられなかった人間からすると20代でまだ描けてなくても自分と同じだし、もしそこで一作でも描けたら僕よりよっぽど早いので、僕よりは優秀だと思います。まだ可能性がある。

 

 僕自身の経験で言えば、漫画を一作描けたら、二作目を作るハードルはかなり下がりました。一作描くということはそれだけの経験値が入ることなのでとてもオススメです。でも、描けないですよね。僕は描けなくて十数年過ごしたので、本当によく分かりますよ。漫画なんて描けない。

 

 こういうときに、描けないのは「本当はやる気がないから」だとか、「漫画家という立場が欲しいだけで描くことには興味がないんだ」とか、「目の前の嫌なことからの現実逃避で言っているだけ」とか言われがちだと思うんですけど、そういうのもあるかもしれませんが、頭の中にはこういうお話を作りたいと思い描いていて、そのパーツはいくつも持っていても、それが具体的な形にならないことだってあるんですよ。

 もしそうなら、そこでやった方がいいのは、その人が描けないことがいかに愚かなのかをあげつらうのではなく、描けるようになるための道筋をつけられた方が良くないですか?と思います。

 

 僕自身が描けないことに対して、なぜ描けないのか?と思った時には以下の理由が考えられました。

(1)描いているうちにこれって面白くないんじゃないかと思って進められなくなる

(2)描く作業がしんどくて続けられない

(3)描きたい絵を描く画力がなくて描けない

(4)上記の3つが原因で完成が無限に先延ばしされる

 

 描けない理由が分かれば、それを一つ一つ解決していけば描けるようになるはずです。なぜなら描けない理由がないからです。描けない理由を解決したのにまだ描けないなら、まだ埋もれている理由があるということで、それを明文化して、解決するということを繰り返せば、原理的にいずれ「描ける」に到達するはずです。

 

 僕の場合はまず(4)の解消のためにコミティアに申し込みました。この日までに入稿しなければならないという明確な〆切を設定するのが最初のステップです。そうなってくると(1)にも変化が出てきます。面白かろうが面白くなかろうが、〆切がくるため、面白いものを作るための試行錯誤には時間的な限界があり、面白くなくても最後まで描こうという気持ちが生まれます。

 (2)は当時コミックスタジオというデジタルで漫画を描けるソフトを買ったところで解消しました。まずはとにかく枠線を引くのが嫌だったので、デジタル技術がスイスイっと枠線を引いてくれるので、やりたくない作業をテクノロジーが解決してくれます。あとは紙をスキャンしてゴミ取りをするみたいなのが本当にやりたくなかったので、下描きからの全てをデジタル環境で完結するようにしました。

 残るのは(3)なのですが、当時の僕は2人の人間が喋っているだけで成立する話にしようと思った覚えがあります。なぜならそれは人の上半身が描ければ描けるので、自分の画力でも描けると思ったからです。こういう漫画は初心者がやりがちで良くない漫画であるというような言説もあったのですが、逆を言うと、初心者でも描けるスタイルであるため、まだ描けたことのない自分にはうってつけだと思いました。

 

 それぞれの問題に対する対策ができましたが、それでもすんなりと描けたわけではありません。結局ネームが描けない⇒ネームが出来ないから作画ができない⇒なのに〆切は近づいてくるという問題があり、新たな課題として、

(5)ネームが描けない

が発見されました。この解決方法はシンプルで、「ネームを描かない」というものです。いきなり1ページ目の作画を始めることで解決しました。そうすると出てくる問題は、「何ページの漫画になるかが分からない」とか「最後が上手く終われるのかが分からない」がありますが、前者はアタリだけつけておいて、後者はそもそも面白くない漫画を描こうとしているので、最後のページで登場人物の頭に隕石が当たって死んでおしまいだっていいわけです。後戻りできない形で漫画を描き進めて、最後は着地点をなんとかひねり出すというというやり方が生まれました。

 

 このやり方は自分にはとても合っていて、なぜなら漫画の作業を進めながらもネームが確定していないため、ここからいくらでも面白く出来る余地があり、このネームで作画しても面白くならないのでは…と思いながら描くのに比べてモチベーションが上げやすくなります。

 さらに、一回描いたものを絶対に後戻りできないようにするためのもうひとつの方法として1ページ描けるたびにネットに上げるなどの方法も併用するようになります。ネットに上げるのは漫画を描く上での細かい報酬を得るために今もやっていて、進捗の数字の増減があることの嬉しさや、こいつサボってるのでは?と思われないようにするという外面の取り繕いなどで、作業がとても進みやすくなります。あるいは皆が想像もしていないような1ページを上げることで驚かせてやろうというようなことも思います。

 

 ともかく、そういう出来ない理由をひとつひとつ潰していくとか、やるために自分がやりやすい環境を整備するという色んな工夫を積み重ねることで描けるようになりました。この1回描けるようになったというノウハウは2回目にもすぐに応用可能ですし、今も細かく改善しながら漫画を効率よく描ける仕組み作りをしています。

 

 ちなみに最初に描けた漫画「つじつま合わせに生まれた僕等」は、商業誌掲載用に描き直したものがこちらの単行本の最初に収録されています。読めば、僕がいかに描けるものだけでお話を描こうとしていたかの試行錯誤が見て取れるかもしれません。

 

 

 ただし、これはあくまで僕に有効だった方法であって、他の人にそのまま使えるかどうかは分かりません。ネームがないのに完成するのは出来ないと言う人もいますが、僕はできたのでその辺りも人によって差があると思います。ちなみに、ネームなしで物語を破綻させないコツは、「テーマの設定」で今描いている展開がテーマに照らして意味があるかないかを考え、ある方を描いていれば、内容は自由でも話は大きくブレません。

 

 漫画を今描けないなら、自分がなぜ描けないのかを分解して考えることが有効だと思います。このような大きな仕事を小さな課題に切り分けてひとつずつ解決するというのは、僕が会社員の仕事をする中で身につけたものなので、会社員をやると漫画家になりやすくなると言えるかもしれませんね。

 

 なので、もし漫画を描いてみたいけれど描けないと思っている人がこの文章を読んでいるなら、もうちょっと一般的に、以下のことを試してみるのがいいのではないかと思います。

・不完全なものでもこのタイミングで表に出すという強い〆切を設定する

・〆切に向けてこのタイミングまでに何ができていないといけないかの小〆切を設定する

・面白くないなと思っても小〆切に向かってとにかく描き進める(試行錯誤は有限のリソースとする)

・描けない絵が出てきたときには、描けるもので代替できないかを考える

・他に手が止まったときにはなぜ止まったのかを考え、その理由を今できることで解消していく

 

 これができれば、〆切と設定したところまでには何かができているはずです。それは面白くなくてもよくて、面白くないなら、なぜ面白くないかを考えるフェイズに入ります。そこには、他人の読んでもらってどう思ったかを聞くことなども入りますし、描き終わっていればそれができるようになります。

 

 なお、直し方は読んでくれた人がコメントしてくれた通りでなくていいと思います。あくまで自分自身が今の面白くない漫画をどう捉えるのがいいかというところと、それをどうすれば今より少しでも面白くなるのか?を考えることが重要だと思います。

 漫画を描き続けて行く上では、この「今の自分の漫画をどうすれば今よりも面白くなるかを考え続けること」はずっとやり続けなければならないことだからです。その訓練をまずはしていく必要があり、僕も日々それをしています。

 

 実際、漫画を描きたいのなら、まずは一作完成させるのがスタートラインです。ちなみに商業漫画家なら、漫画の単行本が出て、世間の人々にこの漫画を買おうと思うか?と問われるところまでは、ずっとスタートラインだと思います。読者がお金を払ってでも自分の漫画を読みたいと思ってくれるかというところでどれだけやれるかが商業漫画家のやるべきことだと思うからです。

 僕は今のところまだそんなに多くの人に買いたいとは思って貰えていないと思いますが、今は漫画の仕事を続ける中でそこで試行錯誤を続けており、何をどう改善すればいいのかを考え、自分自身の漫画で実験してくことは面白いので、続けられる限りは続けたいなと思っています。

 

 とにかく、漫画を一作描くのはとても大変なことだと思っています。でもそれができれば色んな選択肢が広がっていくので、今描けていない人は何らかの手がかりを得て、描けるようになるといいですね。繰り返しますが、34歳までにそれができれば僕よりはずっと早いので、僕より才能があると思います。

「ベルセルク」の42巻が出ました関連

 三浦建太郎先生が亡くなったニュースを知ったときはとてもショックで、そして「ベルセルク」はここで終わりなのかという気持ちと、最後に描いていた話を読んで、それでもここまでは描かれたのだという気持ちになったのを覚えています。

 

 個人的な感覚で言うと、物語が完結するかどうかについてはそんなに重要なことではないと感じています。僕が好きな様々な物語の中には、作者が亡くなったり、何らかの理由で描けなくなったりしたことで終わったものはすでに多くあります。

 それでも、その物語が好きだったのは「いずれ完結するという期待から」ではなく、「読んでいる今面白かったから」なので、完結しようともしなくとも、その物語が僕自身にとって良いものであったことは揺るぎないことです。

 

 なので、僕個人の感覚としては三浦先生のベルセルクは41巻で終わり、そして、それは自分の心に残るとても素晴らしい漫画でした。

 

 そして、ベルセルクの42巻は、三浦先生の筆は入っておらず、スタッフと三浦先生の親友であり、物語の結末を知っている森恒二先生の力で描かれています。続きを描くのであれば、これ以外の人選はなく、様々な葛藤があったのでしょうが、それを乗り越えてこの続きが描かれるという選択がされ、それが読めることはとても嬉しい気持ちがあります。そして、読む中でやはり三浦先生の漫画とは違う部分を読み取ってしまっています。でもそれでいいんだろうなと思います。

 描いているのは三浦先生ではないのだから、三浦先生の漫画と比較して、どこが違うというところに着目する話ではないように感じています。

 

 森先生が知っている、ベルセルクの物語が今後どうなる予定で、そしてどのような結末を迎えるのかは、三浦先生が描きたかったものなのだから、それが形になることはやはり良いことで、そして、それを読者に伝える様々な手段の中で、漫画として描かれるというのも、それが一番適しているのだと思います。その選択がされてよかったです。

 だから42巻が出てよかったなと思うのと、43巻以降も楽しみにしています。

中身が分からなくても数字なら分かる関連

 仕事関係では、「何でも数字にしろ」と上から言われていて、昔は数字にならないこともあるだろ!という反発心もありましたが、今は仕方がないことだなと思うところがあって、なぜなら人間は、中身が分からなくても数字なら分かるからです。

 

 会社組織の上の方に行けば行くほど、見なければならない範囲というものが増えてしまい、それはおそらく人間が認知できる以上の情報量になります。人間が社会的に関わることができる人数は150人~250人程度が限界という話もありますが、人間の認知能力にも時間にも限界があるため、見聞きし理解できる領域にも限界があり、あとは物事を単純化したり、一定の法則で取り扱ったりすることで、それぞれの情報量を減らさなければ認知できる範囲に収まらないのかもしれません。

 

 数字にしなければならないのは、数字なら中身が分からなくても分かるからです。技術の詳細が分からなくても、この数字の投資をすると、この数字の利益が期待できるみたいな話なら分かります。これは少し単純化し過ぎましたかもしれませんが、大きな枠組みとしてはそういうことです。分からないものを取り扱うときに、数字になっていれば数字を取り扱うことで中身の分からないものでも便宜的に取り扱うことができるようになります。

 それが大きな営利組織を運営することの方法のひとつなんだろうなと思います。

 

 さて、中身が分からなくても数字なら分かるということは応用範囲が広いです。芸術が分からなくても、この絵は1億円すると言われれば価値が分かります。サッカーの個々の選手のプレーが分からなくても、点数が1点入ったということは分かります。音楽もビルボードのランキングやYouTubeでの再生数で語れます。

 

 何かを買うときに、ランキングを参考にするならそれは数字です。その価格も数字です。何が良いか悪いかの中身が一切分からなくても、数字を見れば買うものが決められるかもしれません。数字は便利ですね。でも、便利な数字を逆手にとられて、騙されて中身のないものを買わされてしまうこともあるかもしれません。

 

 そう思ったときに、自分が目にするものの中で「数字がなくても良し悪しが分かるもの」が詳しいもの、こだわりがあるもので、「数字がないと良し悪しが分からないもの」が詳しくないもの、興味がないものという分類をすることができるようになります。

 

 数字の良さは増減が分かることと、大小比較ができることです。周りに対して理解を求めるときには数字にすれば中身を説明できなくても理解してもらうことができるかもしれません。ある映画が面白かったことを説明できなくても、「30回観に行った」「グッズを10万円分買った」などを主張することはできます。聞いた人は、中身がちっとも分からなくても、「普通は1回行けば十分なものや、普通は1万円使えば十分なところに、そんな大きな数字が出るならすごいものなんだろうな」と思ってくれるかもしれません。

 映画やゲームなんかで、売り上げや本数やランキングの話が盛り上がるのも、中身に触れなくても幅広く話が通じる領域だからじゃないかと思います。

 

 昔のアップルは、新しいMacが出るたびにPhotoshopのフィルタがこんなにも短い時間で実行できることをアピールしていました。これも数字です。CPUのクロック周波数や、コア数の話もそうです。

 メガドライブスーパーファミコンのときは16、プレステやサターンのときは32、そしてニンテンドー64のときには64というビット数がゲームの良し悪しを示す数字でした。ドリームキャストやプレステ2の頃には秒間に描画できるポリゴン数がそんな数字でした。シェンムーの開発費は70億円でした。

 

 数字の話題は簡単に広く通じる話題で、数字にならない話題は狭いところでしか通じにくい話題になりがちです。でも、だからこそ自分は、「数字にしなくても話せること」にこそ愛着があるような気がします。PS2では、秒間7000万ポリゴンという能力よりも、FF8のダンスシーンがリアルタイムで動いたこと語ることもできます。

 

 皆さんは何を数字で見ていて、何を数字がなくても見られますか?そこに自分にとっての大切なものがあるのかもしれませんね。