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トイレ掃除をするように出世をしている関連

 会社の中でここしばらくしんどい立場をやっており、それは自分が会社の中で出世していることと関係しているのですが、ネットを見ていて、こういうしんどさは「男の中での競争社会で勝ち抜こうとしているから生まれている」ので、そこから降りれば(他人を押しのけてでも出世することを諦めれば)楽になるよという意見を読むことがあり、それが自分の実感と全然違っていたので、そのあたりについて書きます。

 

 まず僕が出世をすることを受け入れたのは、手元の選択肢の中で「それが一番自分を楽できる道だと思ったから」です。つまり「辛い状況に耐え切れず、それをどうにかするために仕方なく出世をした」という経緯があります。

 

 具体的に言えば、自分が課長でないときに、直属の課長の人が僕がやって欲しいと思った通りに動いてくれず、人手的にできもしない仕事をバンバン引き受けてくるわ、それをこちらに流すだけ流して、上手く行くための手伝いはしてくれないわという状況がありました。なので、それなら自分が課長になってマネジメントをした方がましじゃないか?という気持ちになったということです。

 

 僕は当時の会社の仕事の進め方に全然納得がいっておらず、こんな環境なら今やっている仕事がが終わったらもう辞めよう、と思っていて限界のギリギリになっていました。そのタイミングで、当時いた会社の役員から、親会社に新設される部署に課長として転籍しないか?という話をもちかけられ、もしかしたら自分自身が課長になって頑張れば、少しはこの状況をましにできるかもしれない。何も変わらない中で他人に不満を抱え続けるだけ、という不毛な状況に居座るよりは、その方がずっとましだろうと思って課長になることにしました。

 

 なので、出世競争に勝ちたいという気持ちなどは全然なく、出世は自分たちの働く環境を少しでもましになるために権限を求めた結果でしかありません。

 ただし色々思い出すと、課長にならないか?と持ちかけられたことへの嬉しさというのはありました。それは僕のそれまでの仕事ぶりを見ていた人が、「この人に任せた方が今の状況をましにできるかもしれない」と思ってくれたということだからです。それまで色々嫌な思いをしながらもやっていた仕事について高く評価してくれる人がいたことは嬉しく感じました。

 でも、実際自分自身の人間的性質を考えると、自分が課長職に適任だとは思えていませんでした。なので、話を持ち掛けられてすぐは、受けるかどうかに迷いもかなりありました。しかし、その役員の人に「そこをそうやって迷えるぐらい自分が成すべきことが具体的に見えているなら、やる自信がなくてもやれるようになるために一度やってみるべきだ」という後押しを貰いました。沢山の人がいる中で、将来的な可能性を含めて自分が一番適任だと会社の上の方から認められるという嬉しさもそこであったと思います。

 

 その意味では、多少なりとも競争意識自体はあるのかもしれません。でも、他の人が課長職を上手くやってくれているならその方が楽でよかったので、他人を押しのけてでもやりたかったわけではないんですよね。他人より秀でているとわざわざ示したいという競争は、そこには無いわけです。

 

 僕の感覚はそんなに特殊なものではないと感じていて、実際今の会社の若い人たちは課長や部長に、そしてその上の役職にどんどん出世したいと思っている人が少ないように思います。特に僕がいるような技術職では、今やっている技術のエキスパートとして評価され、給料が上がって欲しい人の方が多くいて、マネジメントはやりたくないと思っている人は多いです。だから、課長のなり手があまりいません。そのため、積極的に課長になりたいとは思っていなかった僕にも出世の話が回ってくるわけです。

 

 この一年半課長職を続けてきて、一通りの経験はしましたし、なんとかやれるなという気持ちにもなってきました。それでも、自分が今やっていることを自分以上にやってくれる人がいるなら、今でも役職を降りて、手を動かす仕事の方にまた専念したいなと思っています。

 

 最初に書いたネット上で目にする指摘にあるように「出世なんてしようとしない方が楽になる」というのは実際そうだと思っていて、少なくとも僕が勤めている会社では、前述のように多くの若者が、わざわざ出世をしてしんどいマネジメントの仕事を引き受けたりしない方がいいと感じているようです。しかしながら、その中でも出世を引き受けている人は、「競争社会の中で積極的に勝つために生きようとしてるのか?」というと、少なくとも僕の場合は、誰かに貧乏くじを引かせるよりは、自分が引いた方がまだましだなと思ってこれをやっているに過ぎません。

 なので、「出世をする」ということの意味は「男社会の中で自分が優秀だと示したくてやっている」みたいなことではなく、「立場が弱いくせに変な責任感があるため、誰もやりたくない仕事をやらざるを得ない立場に追い込まれている」というのが僕の自己認識としての記述になります。

 

 そのため、今僕が課長職をしんどいしんどいと思いながらも、せめてうちの課のメンバーが働きやすい環境を作っていかなければと頑張っていることについて、「そうやって出世競争みたいなのにこだわっているから苦しんでいるんだよ」みたいに、内情と全然違う見当はずれのアドバイスをされたりすると、本当に嫌な気持ちになるんですよね。

 

 なぜならば、こういうことを言う人は、こちらの内実を知ろうとする気が全然ないんだなと思うからです。だからその人の持つ偏見を一般的な事実にすり替えて話するんじゃないかなと思います。そのすれ違いを元にして、僕が色々精神をすり減らしながらも、せめて周りの人たちが働く環境がましなるようにとなんとかやっていることについて、ざっくり言えば「苦しいのはお前が愚かことにこだわっているからだ」と言われているという構図です。ええ!?僕は、自分を含めたここで働く皆が、少しでも日々楽に働けるようにと思って頑張っているのに!と思ってショックを受けてしまいます。

 

 例えば、この構図を家事に置き換えれば、誰もやってくれない家のトイレ掃除を一人で頑張っている人が、全く掃除をしない家族に、「掃除好きアピールのためにやってるんだと思っていた。そんなのやめてしまえば楽になるのに」と言われているようなものです。

 じゃあやめればいいか?と思うと、トイレが汚いのは嫌なため、やらざるを得ないからやっているわけです。他の人がやってくれるならその方が楽なのに、やってくれないからやっているわけです。しかしながら、その気持ちでやっていることについて、その効果を無意味と評されるばかりか、頑張って続けていることを、しょうもない自尊心のためにやっていて愚かだと表現されたりすると、嫌だなあとは思いませんか?

 

 さて、今した家事へのなぞらえはひとつ間違っています。どこだか分かりますか?

 それは、ネットで目にするこういうことを言う人は、僕にとって「家族ではない人」であるということです。これは会社の話なので、ここで「家族」にあたるのは僕の会社の「上司や部下や同僚」になります。僕が頑張っていることの意味も価値も、その「家族」には評価されているために、実際はしんどくても続けるモチベーションは持ち合わせています。互助のサイクルが回っているからです。

 

 「家族」ではない人は「家族」ではないのだから「家の中」のことは分からないだろうし、「同じトイレを使っている」わけでもないので、こういうすれ違いはある程度は仕方ないかなとも思います。とはいえ、そういう話を目にするとギョッとしてしまいますし、認識がすれ違っていて嫌だなという気持ちはあるので、「家の中」のことを「家の外」に向けて少し書いてみました。

 いかがでしたか?