漫画皇国

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マニアは創作に向かないのか?あるいは研究のように創作をする関連

 僕は近年創作もやるようになっただけの漫画マニアなのですが、前に友達と話してて「マニアが創作をやっても上手く行かないことが多い印象がある(のにやってて偉いね…)」と言われたことがありました。

 

 僕は長らく読み専の漫画マニアとして、漫画を読んではインターネットで好き勝手に書き散らすということをしてきたのですが、でも、認識としては、そのときの蓄えで今創作をやっているという実感があり、むしろ、マニアじゃなかったら創作をやれてない気がする…という逆の印象があります。

 

 ここで「ラーメン発見伝」の話をしますが、ラーメン発見伝は、優秀なラーメンマニアと揶揄される主人公の藤本くんが、いつかの専業独立を夢見ながらも、昼はサラリーマン、夜は屋台のラーメン屋をやっている話です。藤本くんはそのラーメン知識を使って、昼の仕事でもラーメン屋のサポートをすることになったりしています。そこでは、敵であり、ライバルであり、師匠的存在でもある優秀のラーメン屋の芹沢さんが登場します。芹沢さんは、藤本くんを「ラーメンマニアとしては優秀」と評価しながらも、業としてラーメン屋をやるという視点からは不足している点をどんどん言い当てて行きます。

 ラーメン発見伝では、その繰り返されるバトルの中で、藤本くんが専業のラーメン屋として店を持つまでのお話なのですが、これは結構今の自分の状況と似ているなと思いました(漫画に自分を重ね隊)。

 

 僕も会社員としてフルタイムで仕事をしながら、残りの時間で趣味で漫画を描いていて、去年からは、それがなんとなく副業になることもあるという状況だからです。

 

 一方で、僕も作中で藤本くんが指摘されたような弱点があります。それは「作りたいラーメン(漫画)がない」ということです。僕は好きな漫画は沢山ありますが、自分独自の漫画によって世間に向かって伝えたいことや表現したい衝動はろくにありません。

 ただ、好きな漫画が沢山あるので、それらを分類して整理し、中身を自分なりに分析して、そこから、まだあまり描かれていないと思われる領域や、そこに組み合わせられる好きな演出手法を見つけるのは得意な方だと思います。それによってなんとなくお話を作っています。

 

 もう少し具体的に言うなら、なんというか、受け身の消去法でお話を作っています。僕独自の分類において、「この領域はまだあまり描かれていないな」と判定した分野が、「ならば描く価値があるだろう」という判断となり、そこに自分の人生経験に照らし合わせることで、自分の感情がより動く部分を抽出し、それを物語に置き換えるならば、自分に描ける中でどういった演出が最適だろうか?というものを過去の読書の記憶からピックアップして組み合わせ、最終的にお話として組み上げているというような感じです。

 

 だから、「好きな漫画のどこが好きか?」という話をし続けてきた、「マニアとしての性質」の部分を使って僕はお話を作っていて、もし、それらがなかったら、自分は創作者としてはがらんどうだろうなという認識があります。

 

 つまり、マニアの創作者としての限界は、作るものが「既存の物語のN回目の繰り返し」でしかなく、新しい領域を切り開けるような物語を作ることに不得手という部分ではないかと思いました。どこかで見たようなものを繰り返すだけであれば、それは特に新しいものには成り得ないという話です。

 

 マニアや評論家の領分は、今あるものについての何かしらの視点を提供することはあって、今ない新しい何かを提案するということではありません。なので、マニアや評論家が、マニアや評論家然として実創作に乗り出して作った作品が、どこかで見たようなパッとしないものでも、基本的にはそういうものだなと思います。

 

 ただ一方で、例えば僕が本業でやっている研究開発の分野では、ある種のマニアであるということは研究者としての第一歩みたいな部分があります。つまり、過去にどのような研究が行われてきたかは、論文でも導入部分で必ず書かれる内容で、それに詳しくなくては、その研究がどのような位置づけにあり、どのような意義があるのかが説明できないからです。

 

 それでいて研究は、何かしら新しい部分がなければ成立しません。

 

 研究ならば、今既に存在するものの中にどういう課題があって、これまでどのようなアプローチがとられてきたかをまず踏み台として、今回自分がやることは、それとは違うこれまでの弱点を解消できる何かであるという認識が必要です。であるならば、研究のように漫画を描くということも可能ではないかと思いました。

 そう考えると、自分がやろうとしていることはそれなのかもしれないという気持ちにもなってきました。

 

 影響を受け過ぎてはいけないから、同分野の有名漫画をあえて読まないという創作術は存在すると思います。実際面白い漫画を描く人が、同じ分野の超有名漫画を、自分の独自性を守るためにあえて読んでいないとインタビューで答えるのも何度か見たことがあります。

 僕が考えている方法はそれと真逆です。自分が描こうとしているものについて読んだ記憶を振り返り、そこにある、まだとられていないアプローチを見つけるようなやり方です。ただし、これは研究でもよくある話ですが、確かに独自性はあるが、ただこれまでとられていなかったアプローチをやったというだけで、結果そのものは芳しくないというものに陥る可能性も高いです。

 

 これまで誰もやらなかった物語の作劇は、それが別に面白くないからやられなかっただけかもしれません。アプローチの新しさは、面白さを保証してくれるわけではないのです。

 

 自分にとっては漫画マニアであるということは武器だろうなと思っていて、特に商業誌で依頼を貰って読み切り描くようになってからは、そこで、ちゃんとお金を出しただけの新しい価値を見せられる物語を作らないといけないなと考えています。

 まだ描かれていないものは何か?はこれまでの漫画マニアとしてのリサーチ力で埋められますが、そこから作るものが果たして面白いのか?どう演出すればそれが面白くなるのか?という部分は、毎回苦しみながら探さないといけない領域だろうなと思います。

 

 今もそういうことをしていて、おそらくは遠からず次に掲載される漫画の告知もできると思いますが、そこでも何かしら新しく面白いものが見せられればいいなと思って、研究的な漫画の描き方というのをもっと突き詰められるやり方などを考えています。

 上手く行くかは分かりませんが…(気弱になりました)。

同人誌は商業漫画より儲かるのか?関連

 同人誌を出した方が商業誌に漫画を描くよりも儲かる??という話があり、その答えは「いくつかの要素を満たせば儲かる場合はある」だと思います。そして、それが成立するための要素として一番大きいと僕が思うものは、「ページあたりの販売単価が高い」というところです。

 

 つまり、商業誌であれば、200ページの単行本を500円で売っているところを、同人誌であれば30ページで1000円でも売れたりします。

 僕もコミティアでは50ページぐらいの同人誌を500円とかで売っていたりしますが、それについて「自分の同人誌はジャンプの漫画の単行本よりも高いな」と思ったりします。冷静に考えてみれば、ジャンプに掲載されている漫画の方が技術も高いし分量も多いので、コスパ観点では、僕の同人誌を買う理由は無さそうなんですが、でもなぜか買ってくれる人がいるので、僕は本を刷ることができています。不思議ですね。

 

 僕は全部の本を売り切った場合でも、年間の収益的に税金を払わなければならないラインには届かないような部数でしか同人誌を刷ってないので、1冊あたりの印刷費もそんなには下がらないということもあり、刷った本を全部売り切っても印刷費と参加費の回収+αぐらいの雰囲気で活動をしています。

 それでも、趣味で好きなように遊んでいるのに、そこで利益が出るのは不思議だなと思っています。普通趣味はやるほどお金が減るので。でも、同人誌を作るのはなぜかやるとお金が手に入るので不思議な趣味だと思います。

 

 話を戻しますが、同人誌が商売として商業誌よりも割の良い前提条件は、そのように「少ないページ数の漫画をより高く売ることができるという売り場があること」が前提であって、つまりは、漫画の本を作る上での出版社の役割に意味があるか?という話とは別のところでまず決まっていると思います。

 

 つまり、仮に同人誌であったとしても商業誌の単行本ぐらいの分量を、同じぐらいの値段で出そうとしたら別に割はよくないという話です。

 数字の立て方によって任意の結論が導けそうではありますが、例えば、商業誌で500円で200ページの単行本が8000冊ぐらい刷られる本のことを考えたとします。

 

 商業誌の場合は、原稿料が1枚8000円だとして、200ページを描くことで8000*200=160万円と、印税率が10%で500*0.1*8000=40万円、収入は合計200万円です。

 

 そして同人誌の場合は、一冊の印刷費を200円程度と見積もる場合、(500-200)*8000=240万円の収入になります。ただし、これは在庫を売り切れた場合の話です。2割売れ残った場合では、500*8000*(1-0.2)-200*8000=160万円と在庫が1600冊。そして、この1600冊には資産としての税金と保管場所の費用がかかります。

 

 この数字で考えた場合、同人誌は商業誌よりも「割の悪い商売」となります。さらに、商業誌は印刷や構成で他の人に手伝ってもらうことができますが、同人誌の場合は自分でやらなければなりません。他人に仕事を頼むのであればその費用を自分で払うか、無償や食事代ぐらいで手伝ってくれる人を探す必要があります。利益はもっと少ないはずです。

 

 ただし、電子書籍ならまた条件がもう少し良くなります。8000部売れる想定の場合、電子書籍ストアの決済費用が3割必要であったとして、500*(1-0.3)*8000=280万円、紙で2割売れ残る想定と合わせても、224万円です。

 この場合、商業誌よりもいい感じの水準の商売になってきました。ただしこの場合も、作業はひとりでしなければなりません。電子書籍ストアへの取次を代行してくれる会社を利用すれば、利益はここからさらに6がけなどになってくると思います。

 

 このあたりを考えて分かることは1万部売れない水準の漫画というのは、商業誌の分量を描いて商業誌の値段で食っていくのが難しいということです。

 

 一方で、30ページで1000円の漫画を電子書籍で配信し、8000部売れる想定をすると、1000*(1-0.3)*8000=560万円になります。紙で2割売れ残る想定と合わせ448万円です。値段設定を上げることで一気に話が変わってきました。

 なおかつ、漫画を描く量が6分の1以下になっているので、単純化すると、200ページの本を作るのと同じ労力で6冊の本を作ることができます。それが同じだけ売れたと仮定すれば利益は6倍になります。

 こうなってくると、儲かる商売に見えてくると思います。

 

 ざっくりとしてでも数字を比較してみると、1万冊も売れない水準の商業出版では、誰かが中間で不当に利益をとっているということはなく、むしろ出版社の設備や人員を持ち出して成立しているものだということが分かります。

 商業出版でそれができるのは、何十万冊何百万冊売れる本がその中から出てくるからこそのことでしょう。

 

 印税率の10%が高いか低いかの話でも、電子であろうがストアの決済費用は3割程度は必要でしょうし、紙の本でも特に書店や取次の費用が3割とかなので、流通させる費用は安くなりません。そこにデザイン費、校正費、入稿費などの諸経費もあります。紙の本にはさらに印刷費と在庫の管理やリスクを出版社がとっているという事情もあります。部数が大きくなれば相対的に諸経費の割合が少なくなり、在庫を抱えなくて済めばそこのリスクもなくなりますが、そうではない本もあります。売れている本で出る余裕も、結果的に売れなかった本を支えるために使われたりもするので、別に誰かが不当に上前を跳ねているという話でもないわけです。

 この手の話では、「作者の仕事をより評価をする」というていで、周辺で労力を支払っている人の仕事を不当に低く評価し、彼らの報酬を切り下げることでそれを達成させようという発想の人が目に入ることがあり、なんだか嫌だなあと思ってしまうことがあります。

 

 例えば、著者印税を10%から倍に増やすためのシンプルな方法は、10%値段を上げるということだろうなと思っていて、その場合、値段が上がったとして買う人がどれぐらい減るか?という試算が必要となってきます。

 以前、福満しげゆき氏がエッセイ漫画の中で、自分の本の値段を上げられないか?という交渉をする場面がありました。氏の主張では、自分の漫画のファンは、値段が少し上がったぐらいで、「じゃあ買わない」となる客層ではないという認識が開示され、それは実際そうではないかという印象があります。

 

 同人誌の市場では嗜好品的な意味合いが商業出版よりも高いことから、さらにそういう側面が強くあり、400円の本が600円になっても問題なく買うという人が多いですし、逆にそれまで買わなかった人が、200円だったなら買うということも少ない印象があります。

 たった30ページの漫画が数百円以上で売られていても成立するという事情は、それが特殊な嗜好品であるからではないかと思います。反面、そのような値段を気にしない人の総数は商業出版よりも多くはないと思います。つまり、それは値段に糸目をつけずに同人誌を買える人の総数の中でだけ成立するもので、そこから数百万冊のヒットが出ることは難しいのではないかということです。

 

 あと別な話では、30ページが1000円で買われている場所でも、200ページの本が6000円だったら売れない気がしますね。

 

 つまり、商業出版というのは、単巻何十万部以上売れる漫画が出てくることが前提の場所であり、それは一人の漫画家が1冊200ページもあるような漫画が何十冊も量産するような環境で生まれてくるもので、同人誌の市場はその代替にはなり得ないのだと思います。

 

 一方で、売れるのは1万部以下だが嗜好品的な内容で、この本でなければならないという漫画を描ける人にとっては、商業出版の流れには乗れなくとも、同人誌であれば儲けられるということだと思います。そして、そのような嗜好品として代表的なものはエロ漫画で、エロでない漫画だとその壁を突破するのは、かなり難しそうです。

 

 結論としては、最初に書いたように、同人誌が特定条件下で商業出版よりも儲かるのは事実だと思います。そして、それは商業出版の代替になる種類のものではないとも思いますし、出版社の役割もなくなる理由がないように思います。少なくとも、今のところは。

 

 これは同人誌の市場を大したことがないと言っている話ではなくて、商業誌では食えない人でも自分に適した戦う場所ならば食えるという話ですし、電子販売などの環境整備によって、その領域は広がっているという話でもあると思います。

 自分が何かをやるならば、どの場所でやるのがいいのかを考える選択肢が増えることはいいことで、そして、漫画で食っていくことを考えるなら、その場所が自分にとってどこなのかを考えないといけないのだろうなと思いました。

物語が終わるかどうかは重要だけど一番重要というわけでもない関連

 物語がどのように終わるかは重要なんですけど、でもそれは個人的には一番重要なことでもないなと感じています。

 僕が一番重要だと感じているのは、今読んでいる瞬間が面白いと思えているかどうかです。なぜなら、最後まで読んで初めてめちゃくちゃ面白くなる物語は、最後まで読めなかったりするからです(面白くないものを面白くないなと思いながらずっと読まないといけないため)。

 

 だから、仮に終わり方がイマイチしっくり来ないと思った物語があったとしても、そこに至るまで面白く読んだということは事実ですし、そのそこまで長い間面白く読んだということの方を重要視していたりします。

 「クライングフリーマン」は人生にめちゃくちゃ影響を受けた漫画で、今も強烈に好きですけど、終わり方は最初読んだときに、え?これで終わり?って感じに思いました。でも、そんなことさほど重要でないぐらい、それまで読んできたことが面白かったんですよね。

 

 ジャンプ漫画なんかは、人気が下降したことで打ち切りに終わることがよくあって、だから、最後が唐突にばたばたと終わる漫画も多いです。だとしても、その打ち切られた漫画が好きだったことは変わりません。

 当然、最後も良いにこしたことはなくて、終わり方によって完璧に完成する漫画もあります。それはもちろん好きです。打ち切られた漫画でも、最近は特に、描きおろしで最後が補強される漫画もあります。人気がなくて続けられなくても、そういったせめてもというのはあるし、それができる環境はいいなと思います。また、作者が個人として続きを描いてくれることもあります。それもとてもありがたいことだと思います。

 ただ、自分としては、仮に何らかの漫画が道半ばで終わったとしても、そこまでとても面白く読んだので、買った元は既にとってるんですよね。物語の謎が明らかにならなかったとしても、登場人物のそれぞれの行く末が描かれなかったとしても、そこが一番重要なことだとは感じていません。

 

 最近は、作者が病気や事故で亡くなってしまうことで、物語が途中で終わることもよくあることになってきました。もちろん続きは読みたかったです。でも、それは作品が未完成の半端なものになってしまったということはなくて、その作品の価値は何にも落ちていなくて、そこまでが面白かったということの方がよほど自分には重要だということです。

 その後、何らかの形で、他の誰かの手で、その先が描かれてもいいですけど、自分にはここまで読んできたということだけで十分だなと思っています。

 

 「シュトヘル」に出てきた言葉が好きで、折に触れて思い返しています。

きどって死ねた方がえらいのか。犬に食われ間抜けに死んだなら、その男の生きてきた年月も間抜けというわけか。

無惨に死んだなら生きた年月も、無惨か!

どう死のうが生が先だ。食って寝てそこにいた。

いつも生が死の先を走る。死に方は生き方を汚せない。

 人間の結末はいつだって死です。その死に方が結果的にどれほど不幸で無意味で無残なものであったとしても、最後のそのひとつだけで、その人が生きてきたこれまでの全ての意味がひっくり返るほどのことだとは思えません。

 仮に孤独に死んで、発見が遅れ、家の床の染みになってしまったとしても、その人にはそれまでの生があったはずでしょう。僕もひとりで暮らしているので、突発的な何かがあればそうなる可能性は高いのですが、仮にそうなったとしても、自分がこれまで満足して生きているということの方がよほど重要だろうなと思います。

 

 物語についても似たような感覚でとらえていて、きれいに終わったっていいですし、きれいに終わらなくてもいいです。

 重要なのは今どういう気持ちで読んでいるかであって、どう終わるかは、最後のボーナスみたいなもので、それ以前に大切なものは、そこまでの過程のひとつひとつだろうなというのが僕の個人的な感覚だなと思っています。

 

 今年の五月に三浦建太郎先生が急逝し、そして今月「ベルセルク」の最終巻が出ました。雑誌で最後の話を読んだときに思ったこととしては、ここで終わりかという気持ちと、ここまでは描かれたという気持ちです。その後、大ベルセルク展を見に行って、最終巻でまた読み直しました。

 今後何らかの形で続きがあるのかもしれませんし、ないのかもしれません。でも、ここまでの物語で、自分は十分過ぎるものを既に得られているという気持ちがあって、もちろん続きは読みたかったと思いますが、これだけでも十分過ぎるほど十分だと思っている気持ちがあります。

 ベルセルクは本当に良い漫画だなと思います。

2021年の振り返り日記

 2021年はいろいろ大変でした。

 

 本業の労働の強烈な忙しさについて、詳細は書くことができないんですが、時間がないなかで全てをやり切るために、自分の手元に権限を集めて、とにかく僕がいろいろ決めていくという方法をとったんですが、そのせいでひたすら人と話しては何かを決めていくという感じになっていて、一日に人間が決断できる量に限界があるという話が本当なら、毎日速攻で全て使い切ってしまうような感じになっていて、もう日々しんどいです。

 とにかく人数と時間が足りない中で、何かを上手くやっていくということに対して、本来は、人数を確保して時間を十分とるという、僕より手前でやっておくべきことが全て失敗したような状態から手渡されて始まっていて、いまだなんとかなるという確証が得られないままで、走り続けているような状況です。

 少なくとも、このまま3月末まではこの状況を続けなければならず、それは、ただ時間が過ぎれば終わるというものではなくて、今手元にある課題をそのときまでに全て解決しないといけないので、早く時間が過ぎて終わってくれという気持ちと、解決のために少しでも時間が遅くなってくれという気持ちが同時に存在し、合体融合してスペリオルドラゴンになっています。

 

 そんな状態と並行して今年は漫画をやりました。

 

 4月に今年度は漫画家になろうかなと思ってから、3月末までに100ページぐらい商業の原稿を描けるようにしようと目標を立てたのですが、秋ぐらいには達成した(コミックビームヤングキングとジャンプ+)ので、なんかワケがわからないよなと思いました。思った時点ではなかった読切漫画の話が、その後、とんとん拍子で話を貰って描いたら載ったので、運を使い果たしたかと思いました。

 2021年度の目標はもう達成したので、2022年度には読切漫画だけでなく漫画の連載をやったり単行本を出したりしたいなと漠然と思っています。そうしたらやっとちゃんと漫画家を名乗っていい気がするので。

 

 ゴリゴリ労働しながら漫画を描く時間がどこにあるんですか?という話は今年何度も聞かれたのですが、仕事しているのと生活に最低限必要な時間以外は、隙間があるとiPadで漫画を描いているので、iPadさまさまです。あとClip Studioの使い方を覚えていっているので、時短で描けるようにはどんどんなっています。

 本来、こういうのは作画が効率化されて浮いた時間でさらにクオリティアップなどを狙えるといいのでしょうが、僕の場合は、それでようやく描けるみたいなところなので、もっと時間をかけてできたらいいのになとは常に思っています。

 

 仕事辞めて漫画の方を頑張ってみる気はないんですか?って話も今年は結構言われていて、ただ、僕はキツくてもそこそこ給料の出る安定した仕事をしていて、このままこの領域でおそらく20年はまだ働けると思うので、仕事を辞めて漫画をやるときっと年収がグッと減るんですよね。

 なので、少なくとも漫画の連載が決まって単行本が出て、それが結構売れるみたいな状況にでもならないと、生活が不安定になるので、昔の生活が不安定だった時期にもう二度と戻りたくねえという気持ちから、今はまだそうは思えないみたいな感じです。

 

 でも、条件が揃えば仕事を辞めてもいいなという気持ちもあるにはあったり、本業は専門技術職なので一回無職になっても仕事はどこかにあるでしょうし、転職するタイミングで、間でしばらくを貯金を頼りに漫画をやってみるとかの選択肢もあるような気もしています。

 ただ、今の時点では漫画の仕事があることは全てが皮算用なので(今の読切漫画仕事もなぜ貰えているのか不明)、仕事しながらも、継続的に漫画仕事があるような状態にできれば、やっと考えのスタートラインに立てる感じだと思うので、それをしようと思います。

 

 2021年は客観的に見てもいろんな方面ですごく頑張ったでしょ?ですよね?って感じがありますし、2022年もなんかその調子で面白いことができればいいなと思っています。

チームに発言が攻撃的な人がいる場合の話

 仕事のチームに攻撃的な人がいる場合に、チームとしての生産性が下がるという話があります。この話は、実体験としてそういうこともあるなと思い、一方で、単純化し過ぎるのも良くないと思っていますが、この辺について何年か前の実体験ベースの話について書こうと思います。

 

 僕が以前働いていた環境では、ある攻撃的な人が、自分の思った通りにならない場合に、その相手の人格否定レベルの攻撃的な発言をすることが常態化しており、その結果、耐え切れなくなった人がメンタルを理由として辞めていき、最終的に僕とその人の2人になったところで、その人はその役職から外されてしまいました。

 僕は外から来てそのチームに最後に入ったので、僕が入ったときにいた人が全員いなくなったところから、その後、チームを立て直すということをやり、その過程で様々に考えることがあったと思います。

 

 最後まで残った僕自身もその人から攻撃的なことを言われていなかったのか?と言われると、僕もめちゃくちゃ言われていて、でも僕が乗り切れたのは、大学の研究室で受けていたアカデミックハラスメントによって一回心が壊れているので、その辺の神経が鈍感になっているのではないかと思います。

 とはいえ嫌は嫌だったので、当時のその上の上司にも、あの人の態度はどうにかなりませんかね?という相談は何度もしていて、でも、その時は一切どうにかはしてくれませんでした。そもそも人数がギリギリの中でやっていたので、仕事のできるその人がひとり抜けることは致命的だという判断だったのではないかと思います。つまり、その人の下で働く人の心をすり減らしてでも、その状態を維持するという合理性が会社にあり、そして、人が次々に辞めていくことでやっとその合理性が崩れたので、手が打たれるようになったのではないかと認識しています。

 

 攻撃的な人が言うことは間違ったことであったならば、「この人の言うことは間違っているな」と思うことでいいのですが、正しいことの場合、正しいので反論がしづらく、その「正しいことだから」ということを免罪符として、どのような口汚い言い方をされても言うことを聞かざるを得ない感じになってくるとチーム全体の雰囲気が悪くなってきます。

 「正しいことを言ってはいけない」のではなく、自分が認識している「正しいこと」を他の人にも実行してもらうためには、高圧的な態度で相手の人格を否定しながら脅すように「そうしろ」と言えば良いわけはなく、ちゃんとそれなりの手順を踏む必要があるものだ思うということです。

 

 神ならば「光あれ」と言えば光がありますが、人間は神ではないので、口にするだけでそれがあることはありません。しかし、攻撃的に相手を脅すように言えばそれがあるかのように思えるということが、もしかすると人をおかしくさせるのではないかと思います。

 

 つまり、僕が思う攻撃的な人の問題は、「人間関係におけるスキルが低いこと」であって、それによって他人に何かをやってもらうときにとり得る選択肢が極端に少なくなっているんじゃないかということです。なので、それはもっと対人関係に対する勉強と訓練をすることでスキルアップをすることで解決すべきことではないかと思います。

 しかし、それをスキルアップで解決すべき課題だと認識しない人は、いつまでも、駄々っ子のように自分のして欲しいことを強く言うだけでなんとかしようとしてしまうので、それは、人間の在り方として悲しいところだなと思ったりします。

 

 この悲しさは、個人の問題だけでなく構造的な悲しさだと思っていて、なぜならば、攻撃的な人が、そのさらに上から攻撃的なことを言われていることもよくあるからです。その人のスキルアップを待つことなく無理なことを実行させられようとしている場合、他人に対して強く言うことしか、その人の手元にはもう選択肢がないのかもしれません。

 ならば、その上には?さらにその上には?と考えていくと、それは悲しい連鎖の話であって、たまたま間にそれを吸収できる人がいれば、命令系統の上と下との間を良い感じに取り持つことで連鎖を止められるかもしれません。ただ、良くない場所では、そういう人がいるのはたまたまいるというだけで、そういった良い感じの調整ができる能力を訓練して育てようとする機構はないことも多く、運の問題となってきたりします。

 

 正しいことブレずに厳しく言う人は必要だと思います。なぜなら、それがないと色んなものがナアナアのグダグダになってしまうことが多いからです。なので、人が正しいことを言うこと自体は間違っていないと考えるべきだと僕は思うんですよね。その上で、その正しさをどうやって組織の中に浸透させ、継続的に実行していくかという話になると思います。

 

 もしそこで、他人に攻撃的なことを言って正しいことを実行させようとしてしまっていたら、それは自分の拙さだと思った方がいいのではないかと思います。数ある選択肢の中で「攻撃的なことを言う」ということしか選べないということは、そのように選択肢の無さで、とても悲しいことだと思います。

 ここで言う「悲しい」ということの意味は、「自分が目指しているところに辿り着こうとする行為が、むしろ目指している場所から遠ざけてしまう」という感じのニュアンスです。

 

 また、これも実際あったことの話なのですが、他人が何かを上手くできなかったときに攻撃的なことを言っていた人が、実はそれが自分のミスであると分かったときに、曖昧に笑って誤魔化す場合があります。僕はこれは明確に悪いことだと思います。

 なぜならば、正しくできなかった人への攻撃性が、「正しさにこだわるためにやっている」という大義名分があるならば理もありますが、その正しさを自分には適用しないならば、そこで言う「正しさ」は、結局、他人を攻撃するための大義名分でしかなく、つまり、その人自身が「正しさ」を何ら尊重していないというメッセージとして機能してしまうからです。

 それはつまり、拘っていたはずの「正しさ」を汚す行為であり、その攻撃的な言動は、理すらない最悪の行為となり果ててしまいます。そうなればそれは、他の人をその正しさを信じることからより遠ざけてしまうと思います。

 

 沢山の人が働く組織の中で、自分が大事だと考える正しいことを浸透させることは簡単なことではありません。そこにはある種の厳しさがないと、すぐにその正しさから外れてしまう人もいると思います。

 そういったときに、どのように正しさを浸透させていくかを考えなければなりません。つまり、もし正しい手順を踏まない人がいた場合に、その人がなぜそれをしてしまったのかを考えるということです。そこにはきっと正しさを全うしない方が都合がよかったという何らかの力学があるはずなので、そこにある原因に対してひとつひとつ解消する手を打つことで、そんな短絡的なことをしなくても良くなる環境を整えなければならないと思います。

 それはとても厄介で面倒なことですが、それをしないといけないなと思って僕は日々やっています。

 

 そう考えると、「自分の正しさを他人に攻撃的に強要する拙さ」は、その攻撃対象である「正しいことをやらない人の拙さ」と実は相似形であると認識をすることができます。

 何かをやるために必要な手順を踏むことができないために、短絡的なことをしてしまうことで問題が起きるということだからです。

 

 継続的に正しいことをやっていくには、人の精神の高潔さを期待するだけではダメだと思います。その場で、正しいこととは何かということを共有すると同時に、それを実行するための負荷を減らすことも必要です。

 そしてそれは往々にして大変なことで、僕自身も、それによってめちゃくちゃしんどい思いをしながら日々仕事をしていますが、自分の考える正しさが、組織の中に浸透してくると、それがだんだんと楽になってきてもいるので、そういう方向に光を見出すしかないなと思います。

 

 ということを思いながら仕事をしているんですが、正直、日々大量の仕事を目の前に四苦八苦しながら色んなものが上手く行くように気を遣い気を遣い立ち回っていて、部下に攻撃的なことを言うだけで全てが上手く回ったら、どんなに楽だろうな?と思うこともあり、こういうところで余力を完全に使い切ると、このような魔境に入ったりするんだろうなという想像もあります。

 ちゃんとしなければらならないですし、それは余裕がないと難しいので、余裕を決して失わないぞ!!と思いながら、日々大量の仕事を目の前になんとかやっているところです。

「君の戦争、僕の蛇」と人間が物語に殺される関連

 人間の自意識を描かせたら天下一、我らが中野でいち先生の新作「君の戦争、僕の蛇」の第1巻が先週発売されました。ので、その感想を書こうと思います。

 

viewer.heros-web.com

 

 「君の戦争、僕の蛇」、略して君蛇は、ファージと呼ばれる、人類を襲う何かに立ち向かう少年少女の物語です。

 

 その戦う少年少女たちはモルニエと呼ばれ、オロチという蛇のような生体兵器をその身に宿し、その力を顕現させ、その身を化け物の姿に変えることでこの世界を守っています。モルニエは、オロチの使用によって自身が侵食されていく恐怖の中で、ある種の使命感を携えながらファージと戦います。そして、その傍らにはそれぞれ異性のバディがいます。

 バディの血にはオロチを顕現させる力があります。そして、バディにはもうひとつの重要な役割がありました。それが、モルニエの恋人となることで、その「使命感」の源泉となることです。

 

 兵器としての役割を担ったモルニエたち個々人の戦う理由は、実はそのような形で仕組まれたものです。彼ら彼女らの使命感も、戦わせている側からすれば、そのパーツの一部でしかありません。

 それゆえに、彼ら彼女らが必死で辿り着いた、守るべきものを守りたい気持ちや、そのためにその身を犠牲にすることを厭わない態度は、いかに感動的に描かれたところで、決して良い話ではないという目線が存在します。

 

 このような、「良い話」と「良くない話」が同時に存在する二重構造が、本作の大きな特徴だと思います。

 

 花言葉のように漫画家言葉があるなら、中野でいちさんのそれは「誠実」なので、漫画の中には、世の中でなんとなく受け入れられているものに対しても「ちょっと待ってください、本当にそうですか?」という目線を期待することができます。

 普通なら見ないふりをしてしまいそうな部分を、たとえそれを見ることによって傷ついたとしても、しっかり直視する誠実さがあるために、この先も本作では多くの悲しいことがあったりするのではないかと思うのですが、それを楽しみに読んでいきたいと思っているんですよね。

 

 1巻で特に良かったのは、4話で主人公の西丸子くんが、死んだモルニエの少年のことを思う部分です。直接的な知り合いではなかった彼について、西丸子くんは、彼が生前何を考えていたのかを想像し、彼という人間を物語のように理解します。

 それは辻褄が合っていて、そして、残された人々にとって優しさのある物語です。しかしそれは、やはりただ想像しただけの物語でしかないのではないか?死んでいった彼をそんな物語に勝手してしまうことは、不誠実なのではないか?ということが語られます。

 

 実際、人は、多くのことをそのように取り扱ってしまうことも多いです。他人の心なんて直接的には見ることができないことは分かっているはずなのに、それでも断片的な情報を元にして、そう考えれば辻褄の合うという、自分たちにとって都合がいいだけの物語を求め、他人の人生をそうであったことにしてしまうことがあります。

 ただ、それによって人の心が救われることだってあると思います。だからそれが、必ずしも悪いことだとは限りません。

 しかし、実際はどうだったんだろうか?やっぱり異なっていたりするんじゃないだろうか?そこには、周囲にとって都合がいい物語に覆い隠された、誰かの本当の心があったんじゃないのか?という部分に視点があるのが、本作の良いところであり、同時にそれゆえに辛さを感じる部分ではないかと思いました。

 

 モルニエの戦う理由は仕組まれた物語として与えられます。そしてモルニエの死は周囲から物語として回収されそうになります。それはつまり、人間の人生が、その過程を物語によって操作され、そして、その結末が物語によって覆い隠されてしまうということです。

 ならば人間には、そのような物語との付き合い方を考えるということが必要なのかもしれません。それはもしかすると必ずしも物語を否定するということとも限らず、あるときにはそれを利用しながらも、自分たちが生きるということを模索することであるのかもしれませんが。

 

 まだまだ始まったばかりで先は分かりませんが、この漫画の誠実さを信じて、今後も楽しみに読んでいこうと思っています。

評論家文化と推し文化の摩擦関連

 最近の世の中的には、何かに対する否定的なことをどんどん言いにくくなっているみたいな雰囲気があるように思います。とはいえ、実際、何かに対する否定的な言説は普通に全然あり、否定的な言説に対する忌避感を表明する人が増えているような雰囲気があるという感じではないかと思いますが。

 

 昨今は特にネットなんかでは、何かを褒めることが何かを否定することよりもよしとされる風潮もあり、その流れの中では、否定的なことを言っていることが、否定的なことを言っているという理由から忌避されたりすることもあるように思います。

 僕自身も否定的なことばかりを言っている人がそんなに好きではありません。それは自分のこれまでの人生の中で、他人を否定的言説で動かそうとする人と出会って、うわっ!すげえ嫌!!って思った経験が多いからだと思います。だって、この人の意に沿わないことをすると嫌なことを言われるから、この人に嫌なことを言われないように言うことを聞くのがましかなと思ってしまうのって、めちゃくちゃ嫌な環境じゃないですか??

 そういった経験をしている人も多い感じがしていて、近年は特に、そこに対して嫌と言うことがあまり憚られない世の中になってきているように思うんですよね。

 

 さて、何かの創作物を見て、人は、それを良いと思ったり悪いと思ったり、あるいは、その社会的な位置づけや歴史的な位置づけに対して色んなことを思ったりすると思います。誰が何を思ったっていいと思いますし、それをやってはいけないことだとは思いません。

 だって、僕がが好きな作品を面白くないと言っている人がいたとして、その人は心から面白くなく感じたのだとしたら仕方ないじゃないですか。それに対して、「面白くないだなんて言ってはいけない」ともし僕が言うなら、その時点で僕は「自分の思った通りにならない人を、嫌な気持ちにさせることで、自分の思った通りの行動をとらせようとしている」ということになってしまいます。

 自分が嫌いだなあと思っている人と自分が同じになってたらめちゃくちゃ嫌ですよね。自分が嫌いなんですもん、日々の生活が最悪になってしまいます。

 

 なので、人は何を思ってもいいですし、それを表明してもいいと思います。一方で、他人に干渉することはまた別の話です。その人の中でしか成立していない話をこちら側に強要してきたとしたら、あるいはその逆のことが起きたとしたら、おいこらふざけんなよという小競り合いが互いに発生してしまうと思います。

 

 前置きが長くなりましたが、近年、何かの創作物に対して何かを言うときのスタンスが結構割れているのではないか?と思っていて、すごいざっくりとした話としては「評論家文化」と「推し文化」というものがあると思っていて、それらが互いに相容れないスタンスとなっているのではないかと思いました。

 

 僕が思うところの評論家文化というのは、何かの創作物が良いか悪いかを評論家としてジャッジするという文化です。世の中にある沢山の創作物を、自分の感覚や、参照する別作品を元に、良いや悪いや、その位置づけなどをそれぞれ定めていくというスタンスです。

 そこでは、「作品の持つ価値の源泉は評論家自身」となると思います。なぜなら、様々な根拠はあれど、最終的にその評論家が良いや悪いと判断することによって、それまで良くも悪くものなかった作品の価値が定められるからです。

 一方で、推し文化というものはまた異なります。推し文化では「価値の源泉は創作物そのものが最初から所有」しています。その作品を推す人々は、最初から既に価値があると定まっているものを後押しするというスタンスで創作物に接します。

 最初から価値がないものであれば推す気持ちが生まれないので、それも当然のことではないかと思います。

 

 細かい部分を検討すれば様々な例外もあると思いますが、僕が感じているところの評論家文化と推し文化の大きな違いは、「ある創作物が持つ価値の源泉がどこにあるか?」という部分です。

 

 それによって両者は相容れないスタンスになると思います。なぜならば、評論家文化では評論家が創作物を良いか悪いか検討しますが、推し文化ではそれは既に自明なので、コミュニケーションの余地がありません。評論家がいくら説得的にそれを悪いと言ったところで、それを推している人の中では既に価値があるものとして確定的になっています。そのため、評論家文化の中では、推し文化の人々は「言葉や論理が通じない人々」だと思われることでしょう。

 一方で、推し文化からすると、評論家文化は苦々しく見えると思います。なぜならば、自分たちの中では自明である創作物の持つ価値を、評論家文化の中では、あたかも「評論家が与えてやっている」かのように振る舞っているように見えるからです。それはおそらくある種の不敬なことと感じられるのではないかと思います。そこには、なぜこの素晴らしいものの価値の源泉を、誰とも知らない評論家が持っているかのように振る舞うのか?という苛立ちがあるかもしれません。

 

 評論家文化も推し文化も、どちらかが正しいということもないと思います。それぞれに意味があり、どちらの文化圏に属するかを選べばいいと思います。一方で、そのような異なる文化圏に足場を置く人々については、互いに上手く認められない状況はあるだろうなと思います。

 でも、互いにそれを貶めてもしょうがないので、違う立場の人は違うなと思うだけで、人それぞれやっていくしかないのでは??という気持ちが僕にある感じです。

 

 ただ、最近は特に若年では、評論家文化よりも推し文化に入ろうとする人が多いような気がするんですよね。それはシンプルな理由で、推し文化の人の方が日々楽しそうにしているからではないかと思います。僕自身も好きな漫画の好きな話をただしている環境が好きですし、そっちのスタンスでいることが多いです。

 とはいえ、推し文化も楽園ではなく、実際は心から推せるものが上手く見つからなかったり、推していたものが何らかの理由でなくなってしまって代替がないという苦しさもあったりすると思いますが。

 

 このような形で、近年は特に、評論家文化に対して推し文化の方が人数的に強くなってきているような雰囲気を感じていて、大きくなってきたからこその文化同士の摩擦があるように思っています。ここで、互いに別の文化圏だと思って、適切な距離感を保っていれば揉め事も起こらないと思いますが、実際は適切な距離感なんてなかなか上手くとれないのが人の世の常なので、文化と文化がぶつかる界面では、揉め事が起こったりするだろうなと思います。

 これは、なんかそういうのを見たという日記です。