物語がどのように終わるかは重要なんですけど、でもそれは個人的には一番重要なことでもないなと感じています。
僕が一番重要だと感じているのは、今読んでいる瞬間が面白いと思えているかどうかです。なぜなら、最後まで読んで初めてめちゃくちゃ面白くなる物語は、最後まで読めなかったりするからです(面白くないものを面白くないなと思いながらずっと読まないといけないため)。
だから、仮に終わり方がイマイチしっくり来ないと思った物語があったとしても、そこに至るまで面白く読んだということは事実ですし、そのそこまで長い間面白く読んだということの方を重要視していたりします。
「クライングフリーマン」は人生にめちゃくちゃ影響を受けた漫画で、今も強烈に好きですけど、終わり方は最初読んだときに、え?これで終わり?って感じに思いました。でも、そんなことさほど重要でないぐらい、それまで読んできたことが面白かったんですよね。
ジャンプ漫画なんかは、人気が下降したことで打ち切りに終わることがよくあって、だから、最後が唐突にばたばたと終わる漫画も多いです。だとしても、その打ち切られた漫画が好きだったことは変わりません。
当然、最後も良いにこしたことはなくて、終わり方によって完璧に完成する漫画もあります。それはもちろん好きです。打ち切られた漫画でも、最近は特に、描きおろしで最後が補強される漫画もあります。人気がなくて続けられなくても、そういったせめてもというのはあるし、それができる環境はいいなと思います。また、作者が個人として続きを描いてくれることもあります。それもとてもありがたいことだと思います。
ただ、自分としては、仮に何らかの漫画が道半ばで終わったとしても、そこまでとても面白く読んだので、買った元は既にとってるんですよね。物語の謎が明らかにならなかったとしても、登場人物のそれぞれの行く末が描かれなかったとしても、そこが一番重要なことだとは感じていません。
最近は、作者が病気や事故で亡くなってしまうことで、物語が途中で終わることもよくあることになってきました。もちろん続きは読みたかったです。でも、それは作品が未完成の半端なものになってしまったということはなくて、その作品の価値は何にも落ちていなくて、そこまでが面白かったということの方がよほど自分には重要だということです。
その後、何らかの形で、他の誰かの手で、その先が描かれてもいいですけど、自分にはここまで読んできたということだけで十分だなと思っています。
「シュトヘル」に出てきた言葉が好きで、折に触れて思い返しています。
きどって死ねた方がえらいのか。犬に食われ間抜けに死んだなら、その男の生きてきた年月も間抜けというわけか。
無惨に死んだなら生きた年月も、無惨か!
どう死のうが生が先だ。食って寝てそこにいた。
いつも生が死の先を走る。死に方は生き方を汚せない。
人間の結末はいつだって死です。その死に方が結果的にどれほど不幸で無意味で無残なものであったとしても、最後のそのひとつだけで、その人が生きてきたこれまでの全ての意味がひっくり返るほどのことだとは思えません。
仮に孤独に死んで、発見が遅れ、家の床の染みになってしまったとしても、その人にはそれまでの生があったはずでしょう。僕もひとりで暮らしているので、突発的な何かがあればそうなる可能性は高いのですが、仮にそうなったとしても、自分がこれまで満足して生きているということの方がよほど重要だろうなと思います。
物語についても似たような感覚でとらえていて、きれいに終わったっていいですし、きれいに終わらなくてもいいです。
重要なのは今どういう気持ちで読んでいるかであって、どう終わるかは、最後のボーナスみたいなもので、それ以前に大切なものは、そこまでの過程のひとつひとつだろうなというのが僕の個人的な感覚だなと思っています。
今年の五月に三浦建太郎先生が急逝し、そして今月「ベルセルク」の最終巻が出ました。雑誌で最後の話を読んだときに思ったこととしては、ここで終わりかという気持ちと、ここまでは描かれたという気持ちです。その後、大ベルセルク展を見に行って、最終巻でまた読み直しました。
今後何らかの形で続きがあるのかもしれませんし、ないのかもしれません。でも、ここまでの物語で、自分は十分過ぎるものを既に得られているという気持ちがあって、もちろん続きは読みたかったと思いますが、これだけでも十分過ぎるほど十分だと思っている気持ちがあります。
ベルセルクは本当に良い漫画だなと思います。