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チームに発言が攻撃的な人がいる場合の話

 仕事のチームに攻撃的な人がいる場合に、チームとしての生産性が下がるという話があります。この話は、実体験としてそういうこともあるなと思い、一方で、単純化し過ぎるのも良くないと思っていますが、この辺について何年か前の実体験ベースの話について書こうと思います。

 

 僕が以前働いていた環境では、ある攻撃的な人が、自分の思った通りにならない場合に、その相手の人格否定レベルの攻撃的な発言をすることが常態化しており、その結果、耐え切れなくなった人がメンタルを理由として辞めていき、最終的に僕とその人の2人になったところで、その人はその役職から外されてしまいました。

 僕は外から来てそのチームに最後に入ったので、僕が入ったときにいた人が全員いなくなったところから、その後、チームを立て直すということをやり、その過程で様々に考えることがあったと思います。

 

 最後まで残った僕自身もその人から攻撃的なことを言われていなかったのか?と言われると、僕もめちゃくちゃ言われていて、でも僕が乗り切れたのは、大学の研究室で受けていたアカデミックハラスメントによって一回心が壊れているので、その辺の神経が鈍感になっているのではないかと思います。

 とはいえ嫌は嫌だったので、当時のその上の上司にも、あの人の態度はどうにかなりませんかね?という相談は何度もしていて、でも、その時は一切どうにかはしてくれませんでした。そもそも人数がギリギリの中でやっていたので、仕事のできるその人がひとり抜けることは致命的だという判断だったのではないかと思います。つまり、その人の下で働く人の心をすり減らしてでも、その状態を維持するという合理性が会社にあり、そして、人が次々に辞めていくことでやっとその合理性が崩れたので、手が打たれるようになったのではないかと認識しています。

 

 攻撃的な人が言うことは間違ったことであったならば、「この人の言うことは間違っているな」と思うことでいいのですが、正しいことの場合、正しいので反論がしづらく、その「正しいことだから」ということを免罪符として、どのような口汚い言い方をされても言うことを聞かざるを得ない感じになってくるとチーム全体の雰囲気が悪くなってきます。

 「正しいことを言ってはいけない」のではなく、自分が認識している「正しいこと」を他の人にも実行してもらうためには、高圧的な態度で相手の人格を否定しながら脅すように「そうしろ」と言えば良いわけはなく、ちゃんとそれなりの手順を踏む必要があるものだ思うということです。

 

 神ならば「光あれ」と言えば光がありますが、人間は神ではないので、口にするだけでそれがあることはありません。しかし、攻撃的に相手を脅すように言えばそれがあるかのように思えるということが、もしかすると人をおかしくさせるのではないかと思います。

 

 つまり、僕が思う攻撃的な人の問題は、「人間関係におけるスキルが低いこと」であって、それによって他人に何かをやってもらうときにとり得る選択肢が極端に少なくなっているんじゃないかということです。なので、それはもっと対人関係に対する勉強と訓練をすることでスキルアップをすることで解決すべきことではないかと思います。

 しかし、それをスキルアップで解決すべき課題だと認識しない人は、いつまでも、駄々っ子のように自分のして欲しいことを強く言うだけでなんとかしようとしてしまうので、それは、人間の在り方として悲しいところだなと思ったりします。

 

 この悲しさは、個人の問題だけでなく構造的な悲しさだと思っていて、なぜならば、攻撃的な人が、そのさらに上から攻撃的なことを言われていることもよくあるからです。その人のスキルアップを待つことなく無理なことを実行させられようとしている場合、他人に対して強く言うことしか、その人の手元にはもう選択肢がないのかもしれません。

 ならば、その上には?さらにその上には?と考えていくと、それは悲しい連鎖の話であって、たまたま間にそれを吸収できる人がいれば、命令系統の上と下との間を良い感じに取り持つことで連鎖を止められるかもしれません。ただ、良くない場所では、そういう人がいるのはたまたまいるというだけで、そういった良い感じの調整ができる能力を訓練して育てようとする機構はないことも多く、運の問題となってきたりします。

 

 正しいことブレずに厳しく言う人は必要だと思います。なぜなら、それがないと色んなものがナアナアのグダグダになってしまうことが多いからです。なので、人が正しいことを言うこと自体は間違っていないと考えるべきだと僕は思うんですよね。その上で、その正しさをどうやって組織の中に浸透させ、継続的に実行していくかという話になると思います。

 

 もしそこで、他人に攻撃的なことを言って正しいことを実行させようとしてしまっていたら、それは自分の拙さだと思った方がいいのではないかと思います。数ある選択肢の中で「攻撃的なことを言う」ということしか選べないということは、そのように選択肢の無さで、とても悲しいことだと思います。

 ここで言う「悲しい」ということの意味は、「自分が目指しているところに辿り着こうとする行為が、むしろ目指している場所から遠ざけてしまう」という感じのニュアンスです。

 

 また、これも実際あったことの話なのですが、他人が何かを上手くできなかったときに攻撃的なことを言っていた人が、実はそれが自分のミスであると分かったときに、曖昧に笑って誤魔化す場合があります。僕はこれは明確に悪いことだと思います。

 なぜならば、正しくできなかった人への攻撃性が、「正しさにこだわるためにやっている」という大義名分があるならば理もありますが、その正しさを自分には適用しないならば、そこで言う「正しさ」は、結局、他人を攻撃するための大義名分でしかなく、つまり、その人自身が「正しさ」を何ら尊重していないというメッセージとして機能してしまうからです。

 それはつまり、拘っていたはずの「正しさ」を汚す行為であり、その攻撃的な言動は、理すらない最悪の行為となり果ててしまいます。そうなればそれは、他の人をその正しさを信じることからより遠ざけてしまうと思います。

 

 沢山の人が働く組織の中で、自分が大事だと考える正しいことを浸透させることは簡単なことではありません。そこにはある種の厳しさがないと、すぐにその正しさから外れてしまう人もいると思います。

 そういったときに、どのように正しさを浸透させていくかを考えなければなりません。つまり、もし正しい手順を踏まない人がいた場合に、その人がなぜそれをしてしまったのかを考えるということです。そこにはきっと正しさを全うしない方が都合がよかったという何らかの力学があるはずなので、そこにある原因に対してひとつひとつ解消する手を打つことで、そんな短絡的なことをしなくても良くなる環境を整えなければならないと思います。

 それはとても厄介で面倒なことですが、それをしないといけないなと思って僕は日々やっています。

 

 そう考えると、「自分の正しさを他人に攻撃的に強要する拙さ」は、その攻撃対象である「正しいことをやらない人の拙さ」と実は相似形であると認識をすることができます。

 何かをやるために必要な手順を踏むことができないために、短絡的なことをしてしまうことで問題が起きるということだからです。

 

 継続的に正しいことをやっていくには、人の精神の高潔さを期待するだけではダメだと思います。その場で、正しいこととは何かということを共有すると同時に、それを実行するための負荷を減らすことも必要です。

 そしてそれは往々にして大変なことで、僕自身も、それによってめちゃくちゃしんどい思いをしながら日々仕事をしていますが、自分の考える正しさが、組織の中に浸透してくると、それがだんだんと楽になってきてもいるので、そういう方向に光を見出すしかないなと思います。

 

 ということを思いながら仕事をしているんですが、正直、日々大量の仕事を目の前に四苦八苦しながら色んなものが上手く行くように気を遣い気を遣い立ち回っていて、部下に攻撃的なことを言うだけで全てが上手く回ったら、どんなに楽だろうな?と思うこともあり、こういうところで余力を完全に使い切ると、このような魔境に入ったりするんだろうなという想像もあります。

 ちゃんとしなければらならないですし、それは余裕がないと難しいので、余裕を決して失わないぞ!!と思いながら、日々大量の仕事を目の前になんとかやっているところです。