漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

貧しい幸福と豊かな不幸関連

 僕は「豊かさ」という概念を、「どれぐらい先のことを考えて今の行動を最適化できるか?」という指標で捉えています。「つまり今この時良ければそれでいい」という行動をするのは貧しく、「10年先のことを考えて今やるべきことをやる」のは豊かということです。

 

 なぜそう思うかというと、10年先のことを考えて今の行動を決定できるということは、これから10年の間の自分の生活について、今の想定のままで進むことがある程度保証されていると信じられているという状態だと思うからです(もちろん本当に保証されているかどうかは誰にも分かりません)。自分の行く先が安定的に見えるということはそのリソースの供給に不安がなく、つまり豊かだと感じられているということだと思います。

 

 今食うや食わずの貧しい人間に、10年先のことが考えられるでしょうか?貧しさの中では、下手をすれば、その未来を迎える前に自分の人生が終わるかもしれないと考えてしまうことだってあり得ます。つまり、貧しさの中では、確実に存在する今この時が重要視されてしまいます。

 なので、多くの人が遠い先のことを考えながら、今の自分を未来に最適化することができるなら、その社会は豊かな社会なのだと思います。

 

 一方で、今だけに最適な行動をするという貧しい状態の方が、豊かな状態よりも幸福感が高い場合があると思います。なお、僕が考える幸福感とは「今の自分の状態に満足すること」のことです。つまり、「10年後はどうなるかは分からないが、とにかく今好きなことをする」という貧しさは、幸福に寄与すると考えられます。

 

 この考えにおける分かりやすい事例で言えば、10年後の自身の健康を考えた食事は、今食べたいものとは異なるかもしれないということです。未来の健康を考えることなく、今好きなものを食べられる状態のとき、少なくともその瞬間は幸福感が高いはずです。

 つまり、10年後を考えられる豊かさは、見方をを変えれば、10年後の健康というものを人質にして今の欲求を叶えられない状態ということになります。人は時にそこに豊かさゆえの不幸を感じたりするのではないでしょうか?

 

 「将来報われるために、今を我慢しろ」という種類の苦しさは、一昔前の、日本の多くがまだ豊かさを感じられていた時代によく見られていたものだと思います。そして今は、未来が今よりもどんどん良くなるという豊かさを感じられにくい世の中かもしれません。

 でも、それゆえに今のことしか考えないようになっているならば、その場そのときの幸福感は実は上がっているのかもしれません。少なくとも、将来を人質に取られた今の我慢からは解放される場合もあるからです。

 

 もちろん世の中には多様な立場があり、今も豊かさを感じられる人がいれば、昔に貧しさを感じていた人もいるでしょう。なので、これは僕自身の実感の話としての1ケースでしかない話です。

 

 ちなみに僕自身は、ある時期から、だいたい1年先ぐらいまでのことしか考えていません。それは、自分にとってそれぐらいの時間感覚が、自由と安定のバランスとしてちょうどいいと思っているからです。数年先を見て今を我慢することは苦しいですし、かといって無計画過ぎても生活がむちゃくちゃになります。その辺りのバランスを見て、一年後ぐらいまでのことを頭に置きつつ行動をしているのが自分にとってベストだなと思う感じになっています。

 

 だからローンとかは組めないんですよね。だって、それは何年も先のことを考える行為だからです。それがトータルでは損になったとしても、ずっと先までのことを考えるという不幸よりはましという価値観で動いています。

 

 そういえば、僕は今の仕事は「辞めようと思えばいつでも辞められる」と感じていることで続けられています。矛盾するように思えるかもしれませんが、もし「絶対にこの仕事にしがみつかなければならない」と考えていたら、そのしがみつかなければならないというプレッシャーで精神が追い詰められ、仕事を辞めてしまうかもしれません。

 「嫌になったらいつだって辞めていいんだ」と思いながら働いていることで、とりあえず先のことは分からないが今のことをちゃんとやろうと思えるようになります。それがおそらく僕の感じているタイプの幸福感と関係しているように思っています。

 

 何年か後に花開くようなもののために、今苦しい思いをすることもきっと必要だったりもするんでしょうけど、それよりもまず、今当座として満足するようなことがあるか?それがないなら、どうなれば今満足できるのか?という風に物事を考えるようにすることで、日々の生活からしんどさが少なくなっていくように思います。

 それは単純な話で、日々の食の満足とか、睡眠とか、あとは自分が何が好きで、その好きなものを生活にどれほど入れられているか?とか人間関係とかの話です。未来のことはとりあえず置いておくとして、今の状態が自分にとってどうなのかをまず考えるということが重要だなと思っています。

 

 僕の考える定義においては、あまり豊かになり過ぎてしまうと不幸になるなと思います。かといって貧しくなるとそれはそれで不安定の可能性が高まりますし、別の種類の不幸も招き入れやすくなってしまうかもしれません。つまり、何事もバランスです。そして、僕にとっては今の1年というバランスが最適なだけで、他の人のはまたそれぞれのバランスがあるでしょう。

 

 思うのは、今の自分の状態が、本当に自分にとって良いバランスになっているかどうかを考えてみることがいいんじゃないかということです。そして、もしズレているなと思った場合に、その時間間隔を上手く調整すると、生活の苦しさが減って、幸福感が上がるかもしれません。

 僕自身はそういうことを考えていて、今のところ具合よく調整しているなという話でした。

「コーポ・ア・コーポ」における人間が物語に勝利してる関連

 岩浪れんじ「コーポ・ア・コーポ」はすごく面白くてすごくオススメです。

 

www.comic-medu.com

 

 コーポ・ア・コーポは、ある家賃の安そうな集合住宅に住んでいる人たちを取り巻く人間の様子を描いた漫画で、とにかく登場するあらゆる人間の存在感が異常に濃くて強い漫画です。漫画というのは、物語と登場人物のどっちが主導権を握るかの綱引きで描かれるようなところがあると思っていて、例えば、こういうお話にしようと思っても、物語の方が強くて、登場人物がそれを構成するパーツにしかならない場合、そこに人間味を感じられなくて面白くなかったりします。

 コーポ・ア・コーポの場合は、物語を駆動するために人間がいるのではなく、人間がいて、その人間を描くことが物語になっているような雰囲気を感じます。だから、あるお話に登場する人の様子を見ても、そこで出てくるその人は氷山の一角でしかなく、その話では出てこない向こう側に、その人のでっかいまだ見えていない部分があることを思わせます。

 あるエピソードを描くためにその人がいるのではなく、あくまでその人がいて、生きているからエピソードがあるという風に読んでいて感じるということです。

 

 そして、また別のお話を重ねて読んでいくと、登場人物のそれまでの話では見えなかった部分が徐々に描かれたりもして、分からなかった描写の意味がわかるようにもなったりして、だから、お話を読み進めるにつれて人間って本当に面白いなという気持ちになってきます。

 コーポ・ア・コーポのお話は基本的に、毎話ある登場人物にフォーカスをあてて、その人が過去に何があったのか?今どうなのか?そして別の人たちとの関係性がどうなのか?という部分が描かれていきます。読むことはそれぞれの人について知っていくことです。

 

 よくある物語が、時系列という線の上を登場人物たちが進んでいく物語だとすると、コーポ・ア・コーポは、人間関係の円が中心から徐々に広がって、そこにいる登場人物たちについて見える部分がどんどん広がっていくようなお話に思えます。

 だから、読んでいて、これはなんかすごいものを読まされているなと思ってしまいます。そして、ここまで一人一人の登場人物に実在性を感じるほどに濃いお話がどのように作られているんだろう?と思っていました。

 

 それでこの前、大阪までフラリと「忍者と極道展」を見に行ったときに、たまたま人のつてで、岩浪れんじさんとお話をする機会があり、それで分かったことは、岩浪さんがめちゃくちゃ面白い人であるということでした。

 面白い人が描いているから面白い漫画が生まれるんだなあという、すごく漠然としたことを思いました。

 

 コーポ・ア・コーポは、人間というのは誰しもその存在が面白い、という根源的な部分を感じられる漫画だと思います。そして、そこにあるのはおそらく「分からない」という気持ちなのではないかと思いました。

 実際に生きている人に対しても、他人を単純化して「こんなやつ」みたいに理解することはあると思いますが(だって全ての人とちゃんと個別に人間関係をやることはできないため)、でも、実際はそれぞれの人にはそれぞれの人生があり、それらは、たとえ傍目にはどれだけ類型的に凡庸に見えたとしても、人間一人分だけ十分面白いのではないか?と思ったりします。

 他人のことは分かりません。だからこそ、そこに表面上の反応の裏を想像するような不安な気持ちがあったり、たまに分かったと思う嬉しい気持ちがあったり、やっぱり分からないと思ってしまったりがあるものだと思います。そういうのが面白いなと思います。

 

 コーポ・ア・コーポに関しては、あらゆる登場人物にそれを感じてしまうので、とにかくそれぞれの人間の物凄い情報量の含まれた凝縮体のような漫画で、人間って面白いんだなあと思って読んでいます。物語のために人間がいるのではなく、人間がいるからそこに物語があると思える力のある漫画だと思います。

 とりあえず冒頭のリンクから無料で何話も読めるので読んでみてください。オススメです。

「恋のニノウチ」メイキングメモ

 商業誌でまた漫画の読み切りを描かせてもらい、今回は割と珍しくコンセプトから理詰めで話を作ったので、そのメモを描いておきます。長くなると思うので別に読まなくてもいいです。

 

shonenjumpplus.com

 

 きっかけとしては、ある日突然、「ジャンプ+で描いてみませんか?」と提案を頂いたので、やったぜ!と思い、同時にえ?ホントかなあ?と現実感なく思いながらも、せっかくだから描かせてもらうことにしました。

 僕は漫画を三十代半ばで描き始めたこともあり、年齢の割りに漫画を描いた経験が少ないので、描くことで自分の経験値を貯めるという目標と、それはそうと、お金を貰って描く以上、漫画が面白くないといけないという2種類の目標があります。つまり、自分の中での目標と、他人に対する目標です。

 

 経験値を貯めるという方面では、今回は格闘描写を描きたいというものがあって、なぜならあまり描いたことがなかったからです。描かないと上手くなりようがないので、どうにかねじこみたいということがあり、またジャンプ+という場所だと、読者層的にアクション描写へのリアクションももらいやすいかな?という想像もありました。

 そこでやろうと思ったのは、以前同人誌として描いた「少年対組織暴力」という漫画の、違うアレンジの話です。

 

manga-no.com

 

 僕の漫画は最終的に、2人の人間の言葉のやり取りに収束していってしまうのですが、その場合、2人が立ちっぱなしで話すというようなことになってしまって、言葉は動いていても、体の動きはないので絵面も地味になるという問題があって、それを解消しようと試みたのが少年対組織暴力のコンセプトのひとつでした。

 つまり、戦いながら話すことによって、動きの中に言葉を乗せて、絵の力で言葉の威力をより高めるということです。格闘技の打撃において、拳に自身の体重を乗せるように、拳に言葉を乗せると威力も倍増するんじゃないかな?という雑な考えがありました。

 

 また、少年対組織暴力で描いたテーマ性というものにも思い入れがありました。それは、中野でいちさんの「hなhとA子の呪い」という漫画で描かれていたのを読んで、自分の中にあったもやっとしたものが具体的になったものです(余談ですが、中野さんとは、その後、友達になりました)。

 

 それは、「男性性の持つ加害性によって自ら傷ついてしまう男」という苦しみの話です。人が誰かを好きになるということには、少なからず暴力性があります。自分の欲求を充足させるための他者を求めるということになるからです。それはつまり、他者が自分の欲求に寄り添う形であって欲しいという願いでもあります。

 しかしながら、他者への愛情というものは、その人が幸福な状態であって欲しいという願いでもあったりします。つまり、他者への愛情が強くなればなるほど、その他者に自分の望む形に変わって欲しいと思ってしまうことと矛盾する可能性があります。そのひとつの形としては、自分が好きな女性に対して抱く性欲は、その人に対して抱く愛情と矛盾するように感じられるなどがあります。

 これは他では、「レベルE」の作中作でも描かれています。生殖欲求として異性を捕食する宇宙人が、好きな女の子を食べてしまったことに絶望するという光景はとても印象的でした。

 

 僕はこれは現在の世の中の状況で、より色濃くなってきているように見えていて、近年は「他者を傷つける」ということに対して社会が自覚的になっています。多くの人たちは、自分の発言が他者を傷つける要素を持っていないか?ということを気にしながら喋っていますし、他者の発言で傷つけられた人は、それを我慢せず口に出して良いようになってきています。僕はこれを好ましいことだと思っています。

 しかしながら、その一方で、自分が他者を傷つけないか?ということに対して怯えてしまっている人がいることが目に入ります。恋愛に臆病になっている若い男性の中には、特にその傾向が見て取れることがあって、自分が女性に対して地雷を踏んでいないか?をとても気にしながら、結果的に、恋愛をするに至るまで踏み出すことができないということがあると思うんですよね。

 僕は恋愛はしなければならないものだとも思いませんが、しかし、その理由が他者を傷つけてしまうことへの怯えであったり、それが自分に内在する性欲などの他者へのある種暴力的な欲求への自覚からくるとするならば、それは苦しいことだろうなと思います。

 苦しいものというものがあるならば、苦しみを抱えた人間の変化を描けば物語になると思いました。

 

 予め注意頂きたいのは、ここからの話は、あくまで僕がこういうコンセプトで話を組み立てていったという記録であって、僕の描いた話の正しい解釈というわけではありません。読書体験とは、作品と読者の共犯関係のもとに生まれるものなので、読者の数だけ(その読者にとっての)正しい解釈はあるからです。

 

 少年対組織暴力のタイトルは、もちろん「県警対組織暴力」からとっているのですが、「人間の理性はときに自身の性欲を忌避するが、それでも自分もまたその結果によって生まれてきた」という矛盾する状況を、「生物としての人間」を「組織暴力」に見立てることができると考え、少年がその組織暴力に蹂躙されるという形で決着をつける物語となりました。

 少年は組織暴力のために、かつての理想を失ってしまいますが、それも悪くない結末だよねという話です。

 

 恋のニノウチは、同じ構造的な苦しさを描きながらも、人が異なればまた別の結末もあるだろうと思って考えた、また別の物語です。「恋愛感情に対する忌避感」と「恋愛感情の喜び」という矛盾する状況を同時に肯定するという結末であればいいと思いました。

 なので、コンセプトとしては、恋愛感情および行為の肯定と、その気持ちの動きの変化をバトル形式で描くというものです。

 

 ここで出したアイデアは、「登場する男女を格闘技の擬人化とすること」でした(より正確に言えば、実際の格闘技ではなく、漫画に登場する格闘技概念の擬人化です)。そうすれば使う技そのものを、人の心と直結させることができます。そこでまず思い当たったのが、合気道です。

 合気道には、相手の攻撃を利用する技があります。しかし、相手が攻撃をしてこなければそれを使うことができません。ただし、その争いがない状態を理想的だと、グラップラー刃牙の渋川剛気は言いました。

 「互いに攻撃しない状態が理想的である」というのは、「自身の加害性を認識するあまりに、他者との関係性を作ることに積極的になれない人間像」と一致します。テーマと描写が一致すると思ったので、この辺でなんとか話として構成できるなという確信が得られました。合気道では理想とされるものを覆す解釈を提示することで、驚きも生まれると思ったからです。

 

 合気道と戦うという話になると、相手が八極拳であることがすぐに決まりました。一撃で相手を倒すという攻撃性特化のイメージが得られるからです。また、「エアマスター」あるいはその後の「ハチワンダイバー」に登場する、皆口由紀(合気道)vsジョンスリー(八極拳)に対するなぞらえもできます。

 今回の漫画は、漫画格闘技の擬人化というコンセプトなので、他の僕の好きな漫画からたくさんのパーツを寄せ集めて錬成する形になるので、概念や表現や単語はそこから引っ張ってきても、そのまま使うだけではただのパクりになるので、それらを元ネタの作品では使われなかったような使い方をする必要があります。

 

 大きなところでは八極拳の「一撃で倒す」部分を「一撃で倒せない」ことをむしろ肯定的に描く、そして前述のように合気道の「争いが生まれないことが理想」という部分を「争いがないことは少し寂しい」と描くということです。

 そうであるならば、既に他作品を読んでいる読者に対しては、むしろ、ひっかけ問題として機能するという効果を得られると考えました。

 

 つまり、攻撃性のある八極拳士が自身の攻撃性に怯え、争いがないことが理想のはずの合気道家が争いを求めることで、「人が傷つけあいたくないという理由で、他人とコミュニケーションをとらないことは少し寂しい」という話の流れを構築することができます。

 

 これで大体骨子ができ、キャラクターの名前はその格闘技に関する有名人からとっていきました。主人公の武田惣子ちゃんは、大東流合気柔術武田惣角からとりました。これは、合気道が現在の合気道として成立する以前の、打撃もありの柔術としての側面を描くにあたって、前振りでもあります(そう思って読んだ人がいるかはわかりませんが…)。

 八極拳は当然、二の打ち要らず(一撃で倒す)と呼ばれた李書文をベースですが、名前をどうもじるかの段階で、「拳児」に登場した李書文は本宮ひろ志のキャラを意識して描かれたという話を思い出し、本宮書文くんとしました。

 あとは脇のキャラクターで、女性同士の置かれている立場を話し合う相手として、深雲ちゃんというキャラに登場してもらうことにしました。これは郭雲深からとっています。「半歩崩拳、あまねく天下を打つ」と呼ばれた崩拳の使い手は2人いて、初代が郭雲深、2代目が尚雲祥です。女の子の名前にもじりやすい方として郭雲深を選びましたが、郭雲深は拳児だけでなく、藤田和日郎の短編「掌の歌」にも登場して、これがいい話なんですよね。

 

 ここで問題になるのは、書文くんと惣子ちゃんがなぜ戦わなければならないかの理由がないことです。格闘の攻撃が気持ちのやり取りのメタファーとなるのであれば、攻撃そのものが恋愛の成就と直接的に関係すれば一番話が早いはずです。

 そこで考えついたのが、「人に殴られたら相手を好きになる」という世界観です。であれば、惣子ちゃんが多くの人に暴力で狙われるという、他者からの一方的な好意への忌避感を描くことができ、互いに殴り合い、互いに好きになるという場面を描くことができます。

 これによって、クライマックスが相打ちで殴り合う場面となるといいということになり、しかもそれが最も幸福な場面であるという倒錯も同時に発生するので、わけがわからない絵面になって面白くなるだろうなと思いました。

 

 殴られると相手を好きになるという部分については、北斗の拳的な秘孔があればいいなと思い、それに人体のツボの名前を眺めながら、それらしく馬鹿馬鹿しい名前として恋門と名付けました(羽生生純恋の門」も言葉として意識しています)。

 秘孔の場所は、心に作用するので心臓のあたりがいいだろうなと思い、それによって喧嘩商売(稼業)の金剛の危険なイメージも加わります。さらには理屈として、吊り橋効果とかの話を絡めて言い切れば、道理が引っ込むだろうなと思いました。

 

 恋心の加害性というテーマと恋門という設定、格闘技が擬人化されたキャラ、そして、その裏の理屈で相討ちになって両想いエンドというところまで決まりましたが、まだ足りないのがキャラの心の動きの転換の部分です。

 少年対組織暴力では、自然に任せて展開していくと少年側の性愛(組織暴力)への敗北というエンドになりました。人類がずっと紡いできた組織暴力に、たったひとりの少年では抗うことができませんでした。

 しかし、恋のニノウチでは、対等の関係まで少年を引き上げなければなりません。そこに至るためのピースがひとつ足りないことに気づきました。

 

 そこで登場させることを思いついたのが甘犯です。

 

 甘犯とはごく一部でのみ通用するインターネットスラングで、「それでは一生恋愛はできないですね。恋はお互いがその関係を結ぶことに合意した甘い犯罪なのですから」の略です。僕はこの言葉が好きで、言い方が面白いのでイジラれ続けている言葉なのですが、言っていることは別に間違ってないよなと前から思っていました。

 恋愛関係に限らず、距離感の近い人間関係は、快適なことばかりではありません。例えば家族のような、日常的に顔を突き合わす関係では、やはり嫌なこともそれなりにあるものだと思います。年に2回ぐらいしか会わない人ならば許せるようなことが、毎日会う人にやられ続けると怒りが止められなくなったりすることもあると思います。

 

 恋人や家族のような近い距離感で人がいるということは、お互いに良い事ばかりではないが、それでも一緒にいることを選ぶということが必要なのだと思っています。つまり、甘犯と同じだと思います。相手を傷つけるようなことは、できればしない方がいいことですが、近い距離感の人が相手のときには、日々の生活の中で、少なからずそういったことも発生してしまいます。だからこそ合意が必要で、良くないとこともある程度は互いに許し合うことができる関係でなければ、いずれ破綻してしまうものでしょう。

 

 甘犯を導入することで、「暴力はいけないことであるが、対等な2人の互いに合意のある暴力は、例外的に許されうる」という結論を導くことができます。甘犯概念がこの世にあってよかったです。甘犯があることによって、このように物語全体をまとめあげることができました。

 

 このように、恋のニノウチの物語は、恋心の加害性をいかに取り扱うか?という物語的テーマと、漫画表現としての言葉と絵を一致させたいという表現的テーマを同時に達成するために、合理的に考えて作られました。

 変な物語になったと思いますが、僕はこれが最適な形だなと思って至った話なので、完成するべくして完成した話だなと思います。

 幸いそこそこウケて、たくさん褒めてももらえたので、結構上手く行ったかもしれないなと思ってよかったなあと思いました。

 

 よかったよかった。

コミティア138直前!出る情報

 コミティア138出ます情報の続報です。新刊とかの話が確定したので以下に追加でお知らせします。

 

mgkkk.hatenablog.com

 

 新刊としては、以前からぼちぼち描いてたプリティーシリーズ感想漫画のキングオブプリズムシャイニーセブンスターズの部分を切り出した、評論&日記漫画「七王ハンター」が出ます。

 

 

 あと、既刊はもう紙の在庫がない本が多いのですが、ネットで読めるようにしているのも多いので、それが分かる紙を無料配布します。

 

 ちなみに当初は本ごとにリンクのQRコードでもつけるかと思っていたら、マンガフォリオという、ポートフォリオとして過去作のリンクをまとめることができるサービスが始まったので、もうここに集約すればいいやとなり、めちゃくちゃ楽になってしまいました。

 紙のQRコードのリンク先は以下なので、紙は別になくてもいいのでは…となってしまいましたが、せっかくだから作りました。

manga-no.com

 

 あと、また別で記事を書くと思いますが、とりあえず新しい読切漫画が公開されているので、よかったら読んでください。紙にもそのリンクのQRコードを貼りました。

shonenjumpplus.com

 

 相変わらずの一人参加でぼんやりしていると思うので、会場に来る人は良かったら立ち寄ってくれると嬉しいです。以前の記事でも書きましたが、入場に必要なティアズマガジンに僕のサークルのインタビュー結果の記事が1ページ載っているので、待ち時間などに読んでもらえるといいなと思っています。

 以上、直前のコミティア出る情報でした。

「邦キチ!映子さん」の池ちゃんは善良だなと思った関連

 「邦キチ!映子さん」、シーズン7の第8話で描かれる池ちゃんの人物像が面白いなと思いました。

 

comip.jp

 

 池ちゃんは年間映画を85本観る映画好きの大学生で、インスタで映画レビューなどもしているそうです。他にはnoteでも8000字ものレビューなんかをしていて、自他ともに認める映画大好き人間です。そのように友達にも映画大好き人間と認識されていて、日々映画の話を沢山しているようです。

 しかし、友達には漠然とすごいね面白いねとは言われても、それはただの人物として肯定するというような意味であって、話の中身で人を動かす様子はなく、noteのフォロワーも増えません。

 

 池ちゃんが実際喋っている内容を見ると、ある映画の監督や脚本が誰であるだとか、その人が関わった別の作品を挙げることなどに終始していて、それを見た結果、池ちゃんがどう感じたかということに関しては、ぼんやりとした「良かった」「感動した」ということしか分かりません。

 つまり、池ちゃんが喋っていることは情報だけです。そこでは、池ちゃんがその映画でどのように感情が動かされたかということについては語られていないんですよね。でも、話で人を動かす強い力は感情から出てくるものだと思います。だから、池ちゃんの映画の話にはその部分がきっと足りません。

 

 池ちゃんの面白いところは、そこに自覚があるということです。「自分の話は面白くない」という自覚です。だからこそ、映画のツッコミどころを端的に提示しては、部長にテンポよくツッコまれる(つまり部長の感情を動かしている)邦キチに憧れの気持ちを抱いてしまうのではないかと思いました。

 

 これを見て思ったのは、池ちゃんというのはなんて善良な人間なんだ!ということです。例えば、自分には面白い感想を書く力はないが読解力は十分にあるので、それが面白くないということは分かるとき、人には何ができるでしょうか?こういった部分をこじらせると「自分は感想を書かずに、他人の感想にケチをつける」という行動に出る可能性だって十分にあります。

 自分は映画の感想を書く能力がないくせに、他人の感想を探しては、こいつは映画を全然分かっていない!と文句をつける人間、めちゃくちゃウザいと思います。そんなことをされたら、感想を書いている側からすると、こいつと付き合いたくねえなと思ったりするでしょう。

 

 池ちゃんが友達は沢山いるのは、そういうことをしない、つまり「自分が分かっている人間である」ということを「あいつらは分かっていない」とあげつらい、蔑むことで示そうとしていないという善良さがあるからではないかと思いました。

 しかし、そのような善良さは、裏返すと自分への自信のなさとも理解できます。他人にマウンティングするということは、自分が優れているということを示したい、つまり、暗黙的に自分が優れた人間であるという自負が必要です。池ちゃんにはその部分が乏しく見えます。だからこそ、邦キチが自分より面白い感想を言っているとすぐに認めますし、自分を負けている側に置くということに拒否感が見られません。

 

 ひょっとするとそれは、池ちゃんが情報ばかりを羅列してしまうこととも関係しているのではないでしょうか?つまり、相手の知らない情報を提示するということは、相手にとって得があると感じられるということです。人とコミュニケーションをとる上で、自分が有益なものを提供できるときだけ話しかけるという傾向はよくあるものだと思います。

 普段は積極的に人に話しかけないけれど、相手が何か困っているときに解決方法を知っているときだけ話しかけられるとか、誤字脱字を見つけたので報告をするとか、相手の触れていない情報を付加的に提示することはできるというようなものです。

 これはSNSのリプライなんかで可視化されることが多いものだと思います。無邪気に有名人とやり取りをしたいと思って話しかける人もいると思いますが、無名で認識もされていない自分に話しかけられても迷惑だろうと思ってしまうような人でも、「相手に有益なものを提供できる」と思えたときには、そのタガが外れることがあります。なので、そういった相手に有益だと思える情報を、リプライとして送ってしまう人がいると思うんですよね。

 しかし、送られた側からすると、場合によってはそういう指摘は不要だと思っていたり、追加情報は別にいらないと思っているというようなすれ違いも発生したりします。

 相手に有益だと思えることでコミュニケーションをとろうとしても、それは別に上手くいくとも限りません。

 

 楽しいコミュニケーションをする上で大事なことのひとつは、相手から自分に興味を持ってもらうことだと思います。池ちゃんが出しているのはただの情報なので、そこから池ちゃんの内面について知ることはできません。なら、池ちゃんはなぜそれをしようとしないのでしょうか?

 可能性は大きく2つ考えられると思っていて、ひとつは自分について語ることは相手にとって有益ではないと思っているという自尊心の欠如、もうひとつは、自分の考えが間違っていたどうしようという不安です。両方とも、相手に自分の内面を提示したときの反動を考える行動であって、つまり、自分を守るために攻めができないというような感じかもなと思いました。

 

 自分語りは、お前の話なんて知らねえと嫌われる可能性がありますし、映画の観方が間違っていると指摘されても傷つく可能性があります。でも、傷つくリスクがあったとしても、内面を開示できないことには、他人から人間として興味を持ってもらうことは難しいのではないでしょうか?

 

 一方で、邦キチについては、その映画を見てその部分をチョイスする??というような提示を行っていると思います(あえてやっている)。それは聞く人のポイントを外すと興ざめされるかもしれませんし、実際、「邦キチ!映子さん」を、取り上げられている映画のファンが読んだ場合に、あの映画のその部分をピックアップする??と思って興ざめしているケースもあるのではないかと思います。

 つまり、邦キチの感想が場において面白く成り立っているのは、邦キチの話に対して部長が毎回ツッコむからこそ成立しているという話ではないかということです。そこにあるのは部長と邦キチの人間関係であって、つまり、それが池ちゃんにはないものだと思います。

 

 自分の何かしら偏った内面を開示しても、それに的確に反応を返してくれる人がいれば平気です(邦キチに関しては、それが無くても大丈夫そうですが)。だからこそ、恐れずに自分の思ったことをガンガン言っていくことができると思います。それがないなら、スベるリスクを怖れて、ぼんやりとした否定的なことを言われにくい情報だけの提示で済まそうとしてしまったりもするのかもしれません。

 

 一方で、この「自分の感想が面白くない」という池ちゃんの身も蓋もない内面開示に対しては、ネットで多くの反応が寄せられました。つまり人間は、人間のどうしようもなさのむき出しの部分に興味があって、それが提示されたときには反応を返してしまうんだと思うんですよね。

 この文章もまたそういった気持ちから書かれています。

 

 つまり、池ちゃんに必要なのは、感想において「自分がどう感じたのか?」という部分を隠さずに喋るということではないかと思っていて、そして、それを怖がらずにやるための、まず受け止めてくれる人間関係が必要という話ではないかと思いました。

 

 この話はまだ前編で、後編がどうなるかはまだよく分からないので、僕がめちゃくちゃ的を外したことを書いている可能性もあるのですが、ともあれ僕が思ったことの開示としてこの文章は書きました。

 なお、この文章は3000文字ぐらいです。

コミティア138出ます情報

 2021/11/21(日)開催のコミティア138に出ます。東京ビッグサイト青海展示棟開催で、スペース番号はH09bの「七妖会」です。

 

 それでお知らせなのですが、

 なんと今回は、ティアズマガジンにインタビューをしてもらった記事が載ります。良かったら読んでください。

 これまでプッシュ&レビューに何度か載せてもらったり、宣伝漫画を描かせて貰ったり、今回インタビューをしてもらったりしたので、今後も継続的に参加して、いつかは表紙なんかを描かせてもらえたら、コミティア育ちのある種の到達点まで行けるな!と思ってしまいますが、そんな話は今のところ全然ありません。

 

 とにかくそれは良かったな、やったぜ!という話なのですが、今回もできれば新刊なりコピー本なりペーパーなりを何か出したいとは思っているものの、今のところ、本業の仕事と他にやってることで全てが手一杯で何も目処が立っておらず、でも何か新しいものは出したいような気がしています。

 手がちょっとでも空いたら何か作るとして何が出せるかな?と思うのですが、今日でもう10月も終わりって話じゃないですか。時間が全然ないじゃないですか。厳しい。

 

 でもなんか出しますよ!きっと。いや、出なかったとしても僕は現地にいるでしょうし、前回の新刊も若干残っているので、売るものはありそうです。まあ、来る人がいたら、寄ってみてください。

 なんか描ける目処が立ったらまた報告します。

漫画で格闘シーンを描くのは難しい関連

 この前、新しく描いた漫画(そのうち掲載情報を告知します)で格闘シーンがあったのですが、なんかすごく難しかったんですよね。

 

 人が喋っているシーンは、顔とセリフが描けたらなんとなく成立するんですけど、格闘シーンって動きを描かないといけないじゃないですか。人と人がどういう位置関係にいて、どのような攻撃をした結果、受けた相手がどうなったかというように伝えないといけないものがとても多いです。

 漫画を描くのも基本的にはコミュニケーションだと思います。なので、僕が描いた絵と文字は、読者が意図通りに理解してくるような形になっていなければなりません。そのための技法に関して、僕自身にストックがなく、じゃあどうやったら頭の中にあるこの動きが伝わるのかなあと考え込んでしまいました。

 

 でも、それ以前に僕の頭の中にある動きが納得感のあるものなのかどうか?という課題もあります。

 

 八極拳の使い手を漫画に出したんですけど、そもそも八極拳について主に漫画、そしてゲームのバーチャファイターぐらいでしか知らないので、実際どういう原理で攻撃力が発生しているのかの理解があやしいなと思いました。

 そこで、YouTube八極拳の動画を色々見たんですが、それで分かったのは、僕のこれまでの理解の間違いみたいなところです。

 

 とりわけ八極拳がそうですが、漫画中国拳法の原理は「踏み締めた足(震脚)から上がってくる力を螺旋状に巻き上げ、打突部分に集中して吹っ飛ばす」みたいな感じだと思うんですけど、実際の動きを動画を見た感じだと、基本的には体当たりというか、大木のような太さを感じる体幹を相手に対してぶつけているというように見えました。

 つまり、直接ぶつける部分が肘であったり、背中であったりするものの、体全体を一体化した重みとして、相手にぶつけているようなイメージです。

 

 そして、ネーム(コマ割りとセリフを含めた漫画の設計図)で描いていたアクションは、漫画中国拳法の方だったので、早々にリアルな拳法の動きを描くのは諦め、嘘を描くことにしました。嘘とはいえ、その原理を読者に理解できる形にしなければならず、誇張表現としては震脚の強さと、流線による力の動きの表現を入れることにしました。

 力がどこから発生して、どのように伝わるかが描ければ、そこに理解できるものが生まれるのではないかと思ったからです。また、その威力は、攻撃を受けた相手が吹っ飛ぶことで表現できると思いました。

 

 衝撃の強さに関しては、ホワイトの飛沫を飛ばせば強調できるなとか、学ランの黒ならば、動きの流線と服のシワを一体化させることで見せやすくなるななどと、色々なことを考え、どうにか格闘アクションのシーンを組み立てていきましたが、すごく難しくて、それが上手く伝わるかどうかは、読んでもらってという感じです。

 

 色々細かいことが分からないんですよね。例えば、デカい擬音を描けば、威力の強さが出ると思うわけじゃないですか。でも、デカい擬音って絵を隠してしまうので、少しでも伝えるために描いている絵が隠れたら伝わりにくくなるかもしれません。

 僕はリアルじゃなくて記号的リアリティのある絵を描いているという自覚があって、例えば、光源的に何も正確ではない影であったとしても、描いておけば立体感を補足する情報と使えるとか、手前と奥に何かものをおけば、空間があることを演出できるとか、ちょっとした描写で上手く見る人の脳を騙して、頭の中でいい感じに再現してもらおうとしているわけです。

 でも、記号的であるからこそ、その記号部分が隠れたら意味が通らなくなりますよね?例えば「め」と「ぬ」の右下の部分が隠れていたら、文字情報は上手く伝わりません。記号は完全な形をしていなければ記号としてのていをなさないわけです。

 

 なので、擬音をデカく描きつつ、記号のディテールを隠さない配慮が求められるわけで、その方法としては、擬音の中を透明で抜くとか、キャラの後ろに擬音を回り込ませるみたいな技法が必要となってくるわけです。

 そういう気持ちで別の格闘漫画などを読み直すと、ほんと実に様々なアイデアとともに配慮の行き届いた表現がされていて、すごいなー!!って気持ちになったりしました。

 

 ちょうどその漫画を描き終わった後に、大ベルセルク展に行ったのですが、自分が格闘シーンを描くということを一回やってから見ると、本当にベルセルクの格闘シーン(というかバトルシーン)が、洗練されたアイデアとともに、高度な演出技法で構成されているものであることがよく分かった気がして、本当に感激してしまいました。

 

 ベルセルクは本当に高度な演出技法で作られた漫画だと思って、伝えたいものを万全の形で読者に伝えるということに対して徹底的に考え抜かれています。威力を表現する際に、どこから力が発生し、それがどのように伝わって、結果何が起こるかの組み合わせだけでも大量のバリエーションがあり、めちゃくちゃ伝わってきます。

 これはきっとバトルシーンだけではなく、それ以外の部分でもそうで、何かを伝えるときに、それを過不足なく効果的に伝えるということで僕は読みながら感激していたんだなという理解が深まりました。

 

 何か伝えたいものがあったときに、それをどのように伝えるのか?という部分があるわけじゃないですか。漫画はネームが命であると言われるのは、そこに「いかに伝えるのか?」という演出の設計図があるからではないかと思います。伝えたいことのテーマ性みたいなものが一致している作品があったとしても、そのいかに伝えるかという部分によって大きくその伝わり方が異なってしまうのではないかと思います。

 なので、物語の出来事の羅列としてのプロットや、そのつなぎ合わせのストーリーみたいなものは、読んだ側に訴えかける力としては、演出よりも重要度は実はかなり低くて、そこにある良さをどうすれば読者に伝えるか?という演出を考えるところがめちゃくちゃ重要なんだなと思いました。それがネームの部分である程度決まるので、だからネームを描くのは難しいんだろうなと思います。

 

 漫画の原作でも、文章原作とネームまで描く原作は、演出手法の記述という意味でかなり異なっていて、原作の意図する演出までを効果的に伝える手法がネーム原作で、より原作者の意図が明確になったものなんだろうなと思います。

 

 ほんと難しいですね。漫画はそのうちどこかに掲載されるので、その時がきたら読んでくださいね。