漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

一回出来上がったものを壊して再構築するのはしんどい関連

 この話のようなことは昔から定期的にしているのですが、今の感じをまた書いておこうと思います。

 

 人間は長く生きて様々な体験をしてくると、自分の中になんというか、ある種の構造が出来てくると思います。初めて経験することに対しては、どのように対処すればいいのかをイチから作り上げないといけませんが、2回目以降は、前回の経験に則した構造を用いて対応をすることができるようになります。

 人生が進み、様々な経験を経てくると、最初の戸惑いは嘘のように多くのことに対処できるようになり、それは、その状況を処理することに慣れてくる、つまり、どのように対応すればいいかという方法論という構造が頭の中に出来ているということだと思います。

 

 一方で、現在の常識は未来永劫常識なわけではありません。自分を取り巻く環境は変わっていくものですし、それに合わせて考え方も変えなければならないこともあります。しかし、自分の中に作り上げたその構造が強固で美しく存在しているときに、それを壊すことがしのびないと感じてしまうことがあるのではないでしょうか?

 

 例えば卑近な話で、仕事で何かの資料を作ったとします。それを上司に見せたときにコメントを貰って修正することがあります。しかし、それが上司に見せるまでに自分なりに拘って調整しきったものを、大幅に直すように言われたとしても、嫌だ…直したくない…と思ってしまったりはしないでしょうか?

 自分なりのノウハウの詰まった自分の価値観の集合体であるような資料を、上司という他人の価値観に合わせて作り変えるとき、物事に対する考え方を変えるという嫌さが発生すると思います。上司からの指摘自体はごもっともだと思ったとしても、直すためには複雑に組みあがった一回これをバラバラにして、コメントを踏まえた上でのバランスをとった組みなおしをするのってやりたくないと思ってしまいます。

 なので、表面上の言葉をいくつか変えたり、一部分だけを差し替えただけで直したとしてしまうこともあると思います。でも、それは結局表層や部分的の修正でしかなく、本来直すべき骨子の部分が直されなかったために、結局また指摘を受けてしまうという徒労もあったりします。

 

 考えの根本の部分から見直してやり直すというのは大変なので、できればやりたくないなと思ってしまうものなのではないかと僕は感じてしまいます。それでも、そういう破壊と再構築をやらないといけないときはやらないといけないので、それができる人間であるかどうかで、周囲と上手くやっていけるかが変わってくると思っています。

 

 しかし、人間は歳をとると色々疲れてきます。疲れてくると、さらに疲れることは何もしたくなくなるので、今の自分のまま何も変わりたくない、今と変わらぬままで満たされたいと思ってしまうのではないでしょうか?

 

 そんな風に、一回自分の中で組み上げた構造を再構築のために壊すことをどうしてもしたくない場合、新しいものを目にしても、既に知っている概念で解釈しようとしたりすると思います。そこに新しい要素があったとしても、知っているものとして無理やり分類して処理すれすれば自分の中の構造を変える必要がないからです。

 このような傾向が加速すると、新しい何かを知ることそのものがリスクに変わっていきます。知ってしまうと、それを受け入れるために自分の構造を変えなければならないかもしれないからです。であれば、知らないままでいる方がずっと楽です。

 

 その結果、人は文章を読むにしても、タイトルだけ見て中身を読まずに自分の知っているものだと決め付けて、コメントするようになったりするのではないでしょうか?あるいはそこで、あえて中身をちゃんと読まないように心がけるなどの傾向が現れる場合もあります。

 例えば、作者に対して悪印象を持っている場合、うっかりその人の作品を見て心を動かされてしてしまうことは都合が悪いということになります。その作者の全てが悪いという話であれば、自分の中の認識を変える必要はありませんが、その人の素晴らしいと感じる部分を見つけてしまえば、その人に対する捉え方を認識を大幅に変えなければならないからです。

 なので、先入観の時点で悪いと思っているものは、悪くあって欲しいし、先入観の時点で良いと思っているものは、良くあって欲しいものでしょう。だからこそ人は、悪いと思いたいものが悪い理由や、良いと思いたいものが良い理由を探してしまい、結果的に自分の中にあるものを何も変えなくて済む方法を模索してしまったりするのではないでしょうか?

 

 このように人間には、自分の中の既に組みあがった構造を変える元気がない場合があり、そういうときには新しいものに触れることができなくなっていくと思います。そうなると例えば、新作ゲームのルールをイチから覚える元気がなくなり、リメイクのゲームにばかり食指が動いてしまったり、昔好きだった漫画やアニメや映画なんかの復刻リバイバルのような既に知っているものにばかり目が向くようになってしまうのではないかと思いました。

 

 そのようにして、新しい何かを自分に取り入れないことで、自分の中の構造を強固に守ろうとしていくなんてこともあるのではないかと思います。例えば、人が新しい何かに手を出さないことをむしろ誇るようになったりしていたら、既にそのような状況になっているように思います。

 

 そうなってくると、新しい本を読む理由なんかもなくなってくると思うんですよね。新しいものを自分の中に取り入れて、それによって自分を変えるということはストレスだからです。仮に、新しい本を読んだとしても、自分の中にある既に知っている構造にのみ当てはめて理解することになっていると、何を読んでも知っていることしか読み取らないようになるでしょうし、退屈するだけだと思います。

 

 このように、人は元気がなくなってくると自分が今のままで変わらないということの満足度を高めていくように思うのですが、それが一概に悪いとも言えないとも思います。人間には何か目指すべき共通する目標があるとも思いませんし、なら、それぞれ自分が満足するように生きればいいと思うからです。

 しかしながら、そういった状況が、自分と同じ構造を持たない他人への攻撃に転化したりするとよくないなと思います。また、自分を変えるのも億劫なのはいいのですが、自分が変わらないことにとても退屈をしているのであれば、それは変えてみるというところにチャレンジしてみるのもいいのではないかと思います。

 

 結局言いたいことは、「人間は自分が楽しくなるように生きればよい」ということです。そして、「人間は人生をやっていると、自分の中に組みあがった構造が複雑で完成度の高いものになってくるので、一回壊すと再構築するのがどんどん大変な作業になってしまう」というのもあるなということです。

 元気が有り余っていれば、その構造を壊しては再構築を何度も繰り返して変わっていくことができるかもしれません。しかし、人間は歳をとると組みあがった構造が複雑になってきますし、それを再構築するには強い元気が必要になります。そして、歳をとると慢性的に疲れてもくるので、どんどん自分が変わらないことを求めてしまう傾向があるような気がしました。

 

 「変わらない」ということも結論のひとつだと思います。しかし、その状態で生きていると、周りが変わっていくことについて不満を感じ、自分が変わるのではなく周りの方が自分の中の構造に合わせられるべきだと思ってしまったりもするのではないでしょうか?なぜなら、その方が楽だからです。

 その結果、新しいものにまだ柔軟に順応しやすい若者が、自分が知らない新しいものに順応している様子を不快に感じて、そうあるべきではないという自分が変わらなくてもいい理由を押し付けてしまったりするようなこともある気がします。でも、それって違う側からすると、知ったことではないですし、ただの迷惑だったりするんじゃないかと思います。

 そうなったら嫌だなーとも思うんですよね。

 

 それは、自分が変わるのが面倒であるという理由から、他人に対して自分に合わせて変われと押し付ける行為だからです。世の中では、そういうことによっても多くの揉め事が発生しているのかなと思ったりしました。

 

 周りと上手くやっていくには、少なからず自分を変える必要があると思います。それは自分に合わせて周りも変わってくれるというこによって生まれる妥協点の話だからです。そういうことが上手くできないと人は孤立していくと思うのですが、でも、「孤立すること」と「自分を変えるしんどさ」の天秤で孤立の側を選んでしまう人もいるだろうなと思っています。

 いや、僕自身が、他人に合わせるしんどさよりも、孤立していた方がましと考える傾向があるので、この辺は細かく見ておいた方がいいなと思っているんですよね。

 

 という日記でした。

コミティア137に出ました関連

 事後報告ですが、9/20(月祝)に開催されたコミティア137に出ました。新刊は去年エアコミティア 用に描いた「暴力太郎」を紙の本にしたかったので、せっかくだから追加エピソードを10ページぐらい描きました。

 エアコミティア 版のは以下にアップロードしています。

manga-no.com

 

 当日は、入場前の検温など、色々対策もありましたが、前回よりもずっと入場がスムーズで、現地では、淡々と設営して、淡々と来てくれた人と軽く言葉を交わしながら本を売って、ちゃんと打ち上げも何もせず直帰した感じでした。

 スペースはとったものの世の情勢的に欠席している人も多かったですね。僕もワクチン2回目は打っていたものの、色々気をつけての参加となりました。サークル参加一般参加ともに人数はやっぱり少なめな印象でしたが、今後も予断は許さない状況でしょうが、開催が続くのはいいことだなと思います。11月のコミティア138も申し込みました。

 あまり間がないので、新しい本が作れるかは分かりませんが…。

 

 そういえば、今回はスペースに同じ回のちばてつや賞を受賞した人が来てくれたのが嬉しかったですね。同じ回の受賞者については、やっぱり何となく今何か描いているのかな?と気にしたりもしています。授賞式では、僕は結構突出して年上の人間というか、30代後半の人とかおらず20代の若者ばかりだったので、おい!!若者は頑張ってくれよ!!(これからの漫画を支えてくれよ!!)という気持ちがすごくありました。

 僕は僕で色々停滞していたところを、ぼちぼち商業誌で描くことを始めることができたので、なんとかそういうのを継続してやっていければと思っています。

 

 ヤングマガジンは好きな雑誌で、賞で取り上げて頂いた恩もあり(それがなかったら自分が商業誌で描くことなんて想像もしていなかったので)、できればネームを描くなどしておもしろ漫画の提案を出したいとは思っているのですが、連載を想定する内容だと、ちょっと上手くネームを作れず提出できない状況が続いてしまったので、どうにか自分のスキル的に上手くやれそうになったら、どっかで仕切り直して出させてくださいと思っている状況です(と編集さんには伝えていますが…)。

 漫画を描くやり方ってどうやればいいんだろう?というところから考え直して、スキルアップをしようとしていて、なんとか漫画を継続的に上手く描ける方法を模索しているのですが、まだまだ難しいなと思っています。幸運なことに、今は他社から頂いた読み切りの話などがあるので(これまでの2本以外にもまだいくつか)、それらに手をつけながら、できることからスキルアップしつつやって行こうと思っています。

 今月も読み切り漫画を一本描いて提出しました。まだそれがいつどういう形で掲載されるのかも分かっていませんが、掲載情報が分かったら告知もすると思います。

 

 コミティアに出ようと思ってみなければ、今のこの仕事が貰える状況も、人間関係なんかも全部なかったと思うので、コミティアに出るようになってよかったなと思っています。これはコミティアに出るたびに思っています。次回もできれば新刊を作りたいですが、今また別に作業を始めている商業媒体を想定した漫画もあるので、上手く描けるのかが分かりません。

 それ以前に、一番責任の重い本業の仕事もどんどん忙しくなってきていてどうなるやらですね。コミティア会場でも、無理しないでくださいねと色んな人に心配されたのですが、今のところは無理せずできているので、今のところは大丈夫です。

 この先はまだ分かりませんが…。

インターネットにおける漫画のコマの切り取り関連

 インターネットでは面白い漫画のコマが切り取られて、1コマだけが有名になったりすることがよくあります。引用の条件を満たす使い方ではないため、著作権法に基づき訴えられればダメになるような使われ方ですが、それを権利者が訴えることはまれなので、黙認された状態になっているのが実情だと思います。

 

 「忍者と極道」なんかは、そうやって切り取られたコマによる宣伝効果に、プラスの効果を感じているようで、単行本の発売などに合わせた宣伝の必要なタイミングで、そういう使い方をしてよいと、公式に推奨していたりします。

 実際、読者はそのコマが面白いと思ったからネットに貼りたいと思ったのでしょうし、そうなってしまうようなコマはネットでバズることで、広く様々な人に届く可能性もありますから、まだまだ読者層を広げていく段階の漫画にとっては得なことも多いのではないかと思います。

 

 一方で、「キン肉マン」において、そういった使われ方が作者から苦言を呈されるという出来事もありました。とりわけ、漫画の重要コマが、ネットで最新話が公開されてすぐにそのように使われてしまうことは、漫画をちゃんと順序立てて読むことで体験を設計しているのに、それをむちゃくちゃにしてしまう行為だと言えますし、作者が嫌がるのも自然なことだと思います。推理小説の冒頭に犯人の名前を書き込むような行為に類似するかもしれません。

 とはいえそれと似た状況でも、悪意はないのだからと黙認してもらえることの方が多いと思います。そして、作者にはちゃんとした権利があるので、それを嫌だと言うことにも何の問題もないと思います。

 ただし、そのように使い方を否定されることによって読者側からの作者への信頼が毀損されるということはあるでしょう。でも、こういうときに、「読者の気分を少しでも害することは商売上有害なので、自分が嫌だと思っても我慢して黙認する方がいい」みたいな状況があるのだとしたら、それはそれで不健全であるようにも感じます。

 

 様々な領域で、「自分が我慢しさえすれば、場が表面上は上手くいく」みたいな状況はあります。しかし、それがやっぱり良くないと認識されるようになっている流れもあると思います。そこに誰かの我慢を求めることによって、問題を無視しないようにすると考えられるようになったことは、社会がよくなっていることだと僕には感じられています。

 

 僕の感覚としては、黙認するも禁止するもどちらでもよいのですが、ただ、作者の意志は尊重される状況であってほしいと思っています。

 

 さて、本題なのですが、1コマだけが切り取られることの弊害として、文脈の喪失があると思います。「少女ファイト」の1コマ「お前がそう思うんならそうなんだろう お前ん中ではな」は切り取られたり、コラージュされることで有名になっていますが、その言葉の使われ方は、元のコマが意味していた文脈とは異なっていたりします。

 他にも台詞がコラージュされたものの方が有名になっている漫画のコマや、漫画の本筋ではないコマだけが有名になったために、それが実際はどんな漫画であるかが誤認されている漫画なんかもあると思います。

 

 作者側が法的根拠を元に切り取られたコマの利用を強く禁止する状況は、おそらく主流にはならないと思うので、今のように曖昧に黙認されたり、知名度を上げるために積極的に利用する状態が継続するのではないかと思います。

 一方で、禁止はしなくても、切り取られたことによる文脈の喪失で、過剰に批判されてしまうというようなケースもあり、その場合は、何らか対策が必要なのではないかと思います。

 

 例えば、作中で悪い人間が悪いことを言っているコマだけが切り取られて流通した場合に、それによって、漫画全体がそのような悪い主張をしていると誤認されるケースなども目にしたことがあります。否定的に描いているか肯定的に描いているかは、前後のページやコマを読めば分かるかもしれませんが、1コマだけが有名になってしまった場合には、そもそも読んで貰えません。

 そのような状況で起こる批判は、そもそもその漫画がお金を出さないと読めないものの場合により加速しがちだと思います。なぜなら、わざわざお金を払ってどのような文脈でそのコマが存在するかを確認してくれる人は少数派だと思うからです。

 

 一方で、切り取られたコマの中にある主張は、極端であればあるほどバズりやすい傾向があると思います。1コマだけで特異さが分かるということには、強い力があるからです。そのようなことが起きた場合に、色々と面倒なことも起こるだろうなと思っていて、そこに気を使うべき領域があるように思って見ています。

 

 そういうことを考えていたときに思い当たったのが、「スナックバス江」なのですが、この漫画はスナックにクセのある人が来ては、話をするという内容で、色んな変な人が出てきます。そのスナックを訪れる変な人の中には、とても偏った極端な意見を言う人もいるのですが、バス江の安心して読めるところは、それらの極端な発言に対して、的確なツッコミがあるということです。

 このようなツッコミが存在していることで、偏見と決めつけにまみれた少々無茶なことを言っても、それが偏見や決めつけであると明示されるために、安心して面白く読めるのですが、一方で、このような発言のコマだけが切り取られると誰かから怒られそうだなという想像があります。

 しかし、バス江では、そのような極端な意見とその意見へのツッコミが1つのコマの中に併記される形式で描かれていることが多く、それを読むと、オッ!切り取り対策!!と思うんですよね。

 

 つまり、仮に、このコマだけが切り取られてネットに転載されたとしても、これはあくまで偏見と決めつけにまみれた悪い話であって、作品としてはそれを肯定していないですよということがコマの中だけで分かるようになっているということです。

 

 そういうことを思うと、こういう自衛策というのは、やっておいた方がいいんだろうなという感じに思いました。極端なことを言うと面白いですが、それが前提が共有された文化圏の外まで一人歩きしてしまうと、誰かを意図せず不快にさせる可能性が高まってしまうからです。

 不快に感じた人が、それを不快だと表明することも別段悪いことだとは思いません。しかし、そこに切り取りを経由したことによるコミュニケーションのすれ違いがあるのであれば、それは相互に正しく理解できた方がいいだろうなと思います。もちろん、正しくコミュニケーションできたところで不快だと言われることもあるでしょうが。

 

 インターネットにおける漫画のコマの切り取りは、あるもので、少なくとも今見えている状況の延長では、これからも存在し続けるだろうなと思います。切り取りをやっている人がそれを面白いと感じていることも分かりますし、それを作者がやめてくれと思うことがあることも分かると思います。

 ただ、それが存在してしまう以上は、それによる不利益を得ることがないかを想像することと、それを軽減するための対策は何かしら必要だろうなと思いました。そして、バス江は結構気を使っているように思ったという話です。そういう部分に気を使えるということは防御力が高いということで、防御力が高ければ、即死する可能性も低くなるので、極端な話もしやすくなりますし、結果的に攻撃力の方も高められるんじゃないかなと思いました。

 インターネット漫画切り取られ時代における、それぞれの漫画の防御力と攻撃力の関係性については、今後も起こるだろう揉め事を見る上で気にしてみたいと思います。

カイジのスピンオフと任天堂のゲームの類似関連

 近年、福本伸行カイジのスピンオフが面白く、中間管理録トネガワから始まりましたが、1日外出録ハンチョウや上京生活録イチジョウとそれぞれ別の魅力のある連載が続いています。

 

 最初のトネガワについては、正統派のよくあるスピンオフというか、本編の裏側をギャグとして描くという部分が大きく(パラレルワールドという認識です)が、ハンチョウやイチジョウは少し異なっていると思っていて、つまり、面白さの核の部分が別にスピンオフである必要のないものであったりする部分が面白いなと思っています。

 つまり、カイジから流用しているのは、キャラクターとフォーマットであって、ハンチョウは中年男性の生活、イチジョウは若者の生活における共感できる部分を中心に、カイジとは異なった種類の面白い話であるということです。

 

 おそらくその面白さを考えるに、実はカイジのスピンオフでなかったとしてもお話の中身は成立するのではないかと思います。しかし、福本伸行漫画のフォーマットをギャグ的に流用することと、既に立っているキャラクターの話とすることで、その内容をより広く届ける形となっているのが面白いなと思いました。

 

 ここで思い出したのが、以前読んだことのある任天堂のゲームに関するインタビューで、ゲームとしての遊びの核の部分が試験的に出来上がってから、既存のキャラクターのゲームとして仕上げられるケースの話です(他の会社でもおそらく同じことがあるのでしょうが、実情を読んだことがないので)。

 ゲームとしては新しいキャラクターものとしても成立するかもしれません。しかし、それが例えばマリオのゲームになるのであれば、「マリオのゲームである」ということによって、より注目度が上がると思います。

 マリオが登場するゲームには、アクションからレース、パズルや格闘、パーティーゲームスポーツゲームRPGも多種多様です。そこにはマリオを冠することができるという一定の品質保証とともに、新しい遊びを既に知っているキャラクターによって受け入れやすくするという力があるのではないかと思っています。

 

 つまり、こういったキャラクタービジネスとして成立しているのが、カイジのスピンオフの面白いところなのではないかと思うということです。そうなることで、あくまで本編の従属物でしかないオマケ的なものではなく、独立した別個の漫画として成立するものになっているのではないでしょうか?

 そうなることで、むしろ、カイジの方を読んでいなくてもハンチョウを好んで読む人なんかも出てくるはずです。そういうことができる個性があるという部分が福本伸行漫画の強いところだなあと思いました。

 

 そう考えると、アフタヌーンで連載されている「ああっ就活の女神さまっ」なども同じような狙いの作品のように思えます。

 漫画のキャラクタービジネスも、昔からよくあったギャグパロや、学園パロ、人気キャラクターの個別エピソードのようなものだけでなく、単体でも面白い漫画の認知度を上げるために、キャラクターブランドを用いて展開するタイプのスピンオフが、今後増えてくるのかもしれませんね。

 ただ、実際にそれで成功するのは難しいことかもしれませんが。

文化的記号としての定型的やりとり関連

 縄文時代の人は、健康な歯を何らかの意図で抜く、風習的抜歯をすることがあったことが、出土した頭蓋骨から分かっています。この抜歯の理由には諸説があるそうですが、その説のひとつとして聞いたことがあるのは、その人の何らかの所属を表すための不可逆な変化として歯を抜いたというものです。

 この説は、確かどこかの博物館の解説に書かれていたのを読んだもので、そこにどれぐらいの裏付けがあるのかは分かりませんが、その効果が分かりやすいので納得感があるなと思いました。

 

 人間は、群れの存在を意識しやすいのではないかと感じています。目の前の人が自分と同じ群れに所属する人間かそうでないかということを常に意識してしまうところがあると思っていて、そのための暗号のようなやりとりをよくしていると感じています。

 挨拶なんかはその典型的なもので、目の前の人に定型的な言葉を投げかけ、それがどのように返ってくるかによって、相手を見極める効果があります。思った通りの返事があれば、相手をコミュニケーション可能と判断したり、全然想定外かつ理解できない返答があれば、コミュニケーション不可能と判断したりします。

 そこで重要なのは、交わす言葉の中身そのものよりも、様式が存在し、それを把握しているかの見極めなのではないかと思います。

 

 このようなやりとりはコンピュータ同士の通信でも、プロトコル(通信の様式)として存在し、情報を伝達する前に、定型的なやりとりが可能かどうかを試すことで、相手が同じプロトコルに対応しているかを判断したりしています。

 

 さて、コミュニケーション対象としての相手を見極めるための定型的なやりとりは、オタク文化の中でもとても多く存在しています。例えば、オタクが元ネタのある発言をよくするのは、それが分かる相手をあぶり出す上でとても効果的です。会話の中にさりげなく元ネタのある発言を入れることで、それを分かる相手を探すことができるからです。

 近年オタクの数は増えているとはいえ、多数派ではありません。そして、オタクはオタク以外とオタクのコミュニケーションをすることは好まない傾向があると思います。であるために、オタクがオタクをあぶり出すための会話をすることがあり、友人関係で聞いた話だと、ママ友が実はオタクなのではないかと、会話の中にさりげなくオタクの定型句を入れるなどして、探るようなことをしてママ友をオタ友として発見することができたという事例もあります。

 

 あるいは、同じ趣味のオタク同士が、決まり切った定型的なやりとりをすることで結束を高めるということもあります。自分たちが同じものが分かる人間同士だということを確認することで、自分の所属を明らかにし、それによって仲間意識を高めているのではないかと思います。

 それは分かりにくければ分かりにくいほど、それが分かる人間同士の結束が高めやすいものであり、そして、それはその外部からは理解ができなくなるので、奇妙に見える部分もあるのではないかと思っています。

 これは例えば「アオいいよね」「いい…」みたいなやりとりなのですが、この例自体も、こち亀のエピソードや、ネットミームとしてのこれを知っている人を確認するための例示となってしまいますね。

 

 さて、そういうことがあるよなあと常々思っている一方で、何かの仲間うちに入るために定型句を使うということもあるのではないかと思いました。オタク同士が定型的なやりとりができる範囲で、緩く仲間意識を紡いでいるならば、そこに入るためには定型的なやりとりをするのが近道であると考えられるためです。

 そこで、オタクならばこういうときにこう言う、というようなお決まりのやりとりをやり始める人がいるのではないかと思っていて、Aという状況があれば必ずBと言うのが、部族の風習として正しいという認識のオタクの人がいるのかなと思っています。

 なので、それは広まっている定型句として採用されているのであって、その内容自体の良し悪しは実はあまり重要ではないのではないかと思うことがあります。

 

 オタクたるもの、こういうときにはこうしなければならない、それがオタクの仲間意識の上で重要というような環境は、今まで僕自身も経験したことがあり、しかしながら、それを窮屈だと感じることもあります。あと、僕はオタクですが、オタクの集団に属することがあまり得意ではないので孤立しています。だからこそ、そういうところがあることを人とのやりとりの中で強く意識してしまうのかもしれません。

 

 それは記号的なやりとりですが、記号的であるからこそ、味方と仲間を見分ける上では簡単な方法で便利なのだと思います。逆をいうと、このような記号による暗号的やりとりができれば、中身がオタク的でない人であっても、オタクの仲間として向かい入れてしまうということもあるかもしれません。

 そのため、例えば有名人がオタクを自称するときに、その人の発言から、真にオタクか実はオタクでないかというような判別がされているのを見ることがあります。

 

 これは、別にそれが良いとか悪いとかではなくて、そういうのがあるなという話です。

 

 ただ、悪いところがあると言えば、記号的なものとしてのやりとりであるという認識であればいいのですが、その中身が不変の経典のようになってしまった場合、敵味方を識別する文化的記号としての役割を温存するために、良くない考えが温存されてしまうというようなこともあると思います。

 それは例えば、なんらか差別性のあるような言葉が定型句として温存されてしまうと、それを言葉として悪しと認識する人からすれば、悪い文化圏だと判断されてしまうでしょう。

 

 ここで具体的に言葉を挙げると、色々アタリがあるのであまりしたくはないのですが、例えば「げんしけん」の「ホモが嫌いな女子なんかいません!」という言葉を、仲間を識別するための記号として使っている場合、その言葉が含む意味が人を傷つけることがあるかもしれませんし、仮に嫌いな人がいても、それを言い出すことができない圧力が発生したりすると思います。

 こういう他の文化圏と衝突する可能性のある文化的記号というものは世の中に沢山あり、それが便利に使えることや、これが共有できる仲間内では面白いこととは別として、自分が記号として使っているのか、その中身に意味を見出しているのかは立ち止まって考えてみた方がいいのかもしれませんね。

 

 僕もオタク仲間がそれほどいないとはいえ、元ネタのある発言を朝から晩までネットでひとりで言っていたりするのですが、それは別に誰にも伝わらなくてもいいと基本的に考えている一方で、「強さと悪さを兼ね備えたものだけがキャッチできる信号」としての役割も期待しているなと思っていて(この例示も幽遊白書の戸愚呂兄の発言からなのですが)、分かりにくい元ネタが分かる人が見つかれば、その人は感性が合う人だなと思って、自分と近しい仲間を識別するために使えているなと思うところがあります。

 人間はそういうことをしてしまうなという実感があり、そういうことをしているなと常々感じています。

表現は思った通りに伝わるとは限らない関連

 文章を書くなり、漫画を描くなり何かしら表現をするときには、そこにそれなりの意図があるものだと思うのですが、その表現は意図した通りに人に読まれるとは限りません。僕はそのような不確定さの部分が、表現における可能性でもあるとも思っていて、読者はときに作者が意図していないものを作品から勝手に読み取って感動したりもするものだと思います。

 つまり、それは世の中に存在し、そして存在することに意味があると感じているということです。

 

 人間と人間の口頭のコミュニケーションであれば、上手く伝わっていないなと思えば、その場で訂正できます。しかし、文章や漫画などによるコミュニケーションでは、双方向のやり取りが成立する時間的サイクルが長くなりがちです。また、とりわけ紙に印刷されたものは、それそのものを訂正することが困難です。

 

 なので、修正の難しい媒体において、自分が意図を持ってした表現が、自分の意図とは違った形で読まれてしまっているときに、とても困ったことになってしまうことがあると思います。日々目にするネットの炎上なんかでも、そういった理解のすれ違いから起こるものも多いのではないでしょうか?

 意図した部分ではない部分を、そう読まれてしまったときに、そのすれ違いがある中で、最終的にお互いの認識を合わせるところまで行けることはまれだと思います。

 

 具体的なタイトルには言及しませんが(今更取りざたされるのも良くないだろうと思うため)、10年ぐらい前に、ある漫画にある病気が登場するという展開がありました。それは作中の登場人物の行動の動機となるきっかけの出来事で、そこで描かれたのはある種の理不尽は悲劇であり、それによって作中では凶行が起こってしまいます。

 その病気の患者は日本全国でもそう多くはなく、そして難病です。当時僕はたまたま、実際その病気の患者である人による、その漫画の感想を読みました。それは、怒りと悲しみの含まれた文章で、今自分が闘病している病気が、物語の中で悲劇を演出するための道具として使われたという嘆きでした。

 その病気を抱えていない人にとっては、知らない病気、あるいは自分には関係ない病気で、その病気が物語に登場することには特に意味を感じないないかもしれません。ただ、今その病気に実際に相対している人にとっては、その病名であることは大きな意味を持ちます。だからこそ、その病気を演出上の道具として軽々しく扱われたことに対する辛さがあったのだと理解をしました。

 

 もちろん、その漫画の作者には、その病気の患者を傷つけたいというような意図はなかったと思います。でも、意図せずともそのように機能してしまうことがあるという話です。

 

 そういう出来事を見てから、その病気であることそのものに特段意味がないのであれば、実在する病気を使わない方が、不幸な事故は起こりにくくなるだろうなと思いました。病気の物語上の役割が、悲劇を発生させる装置でしかないのであれば、その実在性は問われないはずだからです。

 そして、どうしてもその病気でなければならないのであったならば、その病気にすることによって誰かを傷つける可能性があることを認識し、その覚悟を持って表現するのもひとつの選択だとも思います。

 

 表現が他人に作用する何かしらである以上、意図のあるなしに関わらず、自分のした表現が他人を傷つける可能性はどうしてもあるだろうなと考えています。しかし一方で、そのように「誰も傷つけない表現はない」ということを、「ある表現が誰かを傷つけ得るかを最初から考えない理由」として使うのも良くないように思っています。

 これはつまり、自分が投げたボールがどのように他人に受け止められるかの想像は、投げる前にできるだけしておいた方が良いと僕が考えているという話です。

 

 もしそのボールが意図しない部分に当たる可能性に気づいたならば、自分が当てたい部分にだけ当たるように投げ方を変える方がいいだろうなと感じています。なぜなら、そのボールは自分が本来伝えたかった意図があって投げているはずだからです。なので、それが本来意図しない部分に当たったことで反響が大きくあったとしても、そこにはコミュニケーションの失敗があると思ってしまいます。

 とはいえ、どれだけ気を遣ったところで、自分の投げた表現のボールが、意図しない当たり方をすることはきっと避けられないでしょう。それはそのボールが多くの人の目に留まる場合ならば、絶対にあることだと思います。でも、そうであったとしても、自分が本来どのような場所に向かってボールを投げているかを自覚し、そうではない部分に不用意にボールが当たらないように気にかけることは重要であるように思っています。

 なぜなら、それが意図しない脱線を避け、自分が本来伝えたかったことをより正確に伝えるための道だと思うからです。

 

 自分のした表現がどのように受け取られるかについては、自分にコントロール出来ない領域が多いので、仮に上手く行かなくても気にしすぎないことももちろん重要だなと思います。そして、その一方で、そもそもその表現を通じて何かを伝えたかったのであるなら、予めそれをより伝わりやすい形にしておくことも重要だなと思います。

 

 前述した例のように、自分が伝えたかったところ以外の部分で他人を傷つける表現があったとしたら、その傷ついた人には本来意図したものが伝わらないかもしれません。なので、どういう言い方をすればより多くの人に分かる表現になるか?ということを考えるのが得だろうなと思っています。

2021年8月に出た漫画仕事情報

 今月やった漫画の仕事情報です(宣伝です)。

 

 ヤングキングの8/6に出た号に前編、8/23に出た号に後編という形で、「いじめ撲滅プログラム」という漫画を描きました。前後編が両方載ったコンビニ本も出ており、その電子版も出ていて買いやすいので、これを買って読んでくれたら僕は嬉しく感じてしまうでしょうね。

https://www.amazon.co.jp/最恐-2021-ヤングキングベスト-小池ノクト-ebook/dp/B0986SV9HP/

 

 7月発売のコミックビームと、8月発売のヤングキング(+コンビニ本再録)に連続して漫画を掲載してもらうことができました。両方の仕事とも、やっている間に漫画を描くスキルが目に見えて向上した部分があったので、個人的に面白かったです。コミックビームも店頭からは無くなったと思いますが電子版は買えると思うので、良かったら買って読んでください。

https://www.amazon.co.jp/【電子版】月刊コミックビーム-2021年8月号-雑誌-コミックビーム編集部-ebook/dp/B0991HXDFX/

 

 9月には特に何もないと思いますが、次は10月あたりにでも何かあればいいですね(確定した掲載予定は今時点ではないです)。

 

 ただ、読み切りの話は他にももらっていて、連載を目指す話もやっていたりはします。それぞれ、上手くいくかは全然分かりません。

 僕は今、どうにか連載に漕ぎ着けて、兼業漫画家としてやれないかなと思っているのですが、そのためには、本業をやりつつ安定して漫画を描けなければならないので、今はそれをやるやり方を探っているようなところがあります。

 少なくとも月刊ペースでは描けなければならないので、その速度で自分が描けるのか?描けないなら、どうやったら描けるようになるのか?を、本業の仕事でやっているみたいに、プロセス改善したり、スケジュール管理をしたりして、どうにかならんもんかなあと思ってこねくり回している感じです。どうなるんでしょうね?

 

 難しい話ですよ。でも、やらないでいると一生やらないで終わりますからね。「やるなら今しかねえ」と長渕剛も西新宿の親父の唄で歌っています。やりたい気持ちがあるので、今やった方がいいだろうなと思います。

 

 今、たまたま僕のやる気と一致してくれて、読み切り企画をやっている雑誌が多い気がします。もしくは、前からも結構あったのに僕がやっと気づいただけかもしれませんが。とにかく今運良くそういう企画で色々と声をかけてもらっているので、できるのはやりたいなという気持ちと、でも、そんなにできるかな??という気持ちがあります。

 そういう日記です。