漫画皇国

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一回出来上がったものを壊して再構築するのはしんどい関連

 この話のようなことは昔から定期的にしているのですが、今の感じをまた書いておこうと思います。

 

 人間は長く生きて様々な体験をしてくると、自分の中になんというか、ある種の構造が出来てくると思います。初めて経験することに対しては、どのように対処すればいいのかをイチから作り上げないといけませんが、2回目以降は、前回の経験に則した構造を用いて対応をすることができるようになります。

 人生が進み、様々な経験を経てくると、最初の戸惑いは嘘のように多くのことに対処できるようになり、それは、その状況を処理することに慣れてくる、つまり、どのように対応すればいいかという方法論という構造が頭の中に出来ているということだと思います。

 

 一方で、現在の常識は未来永劫常識なわけではありません。自分を取り巻く環境は変わっていくものですし、それに合わせて考え方も変えなければならないこともあります。しかし、自分の中に作り上げたその構造が強固で美しく存在しているときに、それを壊すことがしのびないと感じてしまうことがあるのではないでしょうか?

 

 例えば卑近な話で、仕事で何かの資料を作ったとします。それを上司に見せたときにコメントを貰って修正することがあります。しかし、それが上司に見せるまでに自分なりに拘って調整しきったものを、大幅に直すように言われたとしても、嫌だ…直したくない…と思ってしまったりはしないでしょうか?

 自分なりのノウハウの詰まった自分の価値観の集合体であるような資料を、上司という他人の価値観に合わせて作り変えるとき、物事に対する考え方を変えるという嫌さが発生すると思います。上司からの指摘自体はごもっともだと思ったとしても、直すためには複雑に組みあがった一回これをバラバラにして、コメントを踏まえた上でのバランスをとった組みなおしをするのってやりたくないと思ってしまいます。

 なので、表面上の言葉をいくつか変えたり、一部分だけを差し替えただけで直したとしてしまうこともあると思います。でも、それは結局表層や部分的の修正でしかなく、本来直すべき骨子の部分が直されなかったために、結局また指摘を受けてしまうという徒労もあったりします。

 

 考えの根本の部分から見直してやり直すというのは大変なので、できればやりたくないなと思ってしまうものなのではないかと僕は感じてしまいます。それでも、そういう破壊と再構築をやらないといけないときはやらないといけないので、それができる人間であるかどうかで、周囲と上手くやっていけるかが変わってくると思っています。

 

 しかし、人間は歳をとると色々疲れてきます。疲れてくると、さらに疲れることは何もしたくなくなるので、今の自分のまま何も変わりたくない、今と変わらぬままで満たされたいと思ってしまうのではないでしょうか?

 

 そんな風に、一回自分の中で組み上げた構造を再構築のために壊すことをどうしてもしたくない場合、新しいものを目にしても、既に知っている概念で解釈しようとしたりすると思います。そこに新しい要素があったとしても、知っているものとして無理やり分類して処理すれすれば自分の中の構造を変える必要がないからです。

 このような傾向が加速すると、新しい何かを知ることそのものがリスクに変わっていきます。知ってしまうと、それを受け入れるために自分の構造を変えなければならないかもしれないからです。であれば、知らないままでいる方がずっと楽です。

 

 その結果、人は文章を読むにしても、タイトルだけ見て中身を読まずに自分の知っているものだと決め付けて、コメントするようになったりするのではないでしょうか?あるいはそこで、あえて中身をちゃんと読まないように心がけるなどの傾向が現れる場合もあります。

 例えば、作者に対して悪印象を持っている場合、うっかりその人の作品を見て心を動かされてしてしまうことは都合が悪いということになります。その作者の全てが悪いという話であれば、自分の中の認識を変える必要はありませんが、その人の素晴らしいと感じる部分を見つけてしまえば、その人に対する捉え方を認識を大幅に変えなければならないからです。

 なので、先入観の時点で悪いと思っているものは、悪くあって欲しいし、先入観の時点で良いと思っているものは、良くあって欲しいものでしょう。だからこそ人は、悪いと思いたいものが悪い理由や、良いと思いたいものが良い理由を探してしまい、結果的に自分の中にあるものを何も変えなくて済む方法を模索してしまったりするのではないでしょうか?

 

 このように人間には、自分の中の既に組みあがった構造を変える元気がない場合があり、そういうときには新しいものに触れることができなくなっていくと思います。そうなると例えば、新作ゲームのルールをイチから覚える元気がなくなり、リメイクのゲームにばかり食指が動いてしまったり、昔好きだった漫画やアニメや映画なんかの復刻リバイバルのような既に知っているものにばかり目が向くようになってしまうのではないかと思いました。

 

 そのようにして、新しい何かを自分に取り入れないことで、自分の中の構造を強固に守ろうとしていくなんてこともあるのではないかと思います。例えば、人が新しい何かに手を出さないことをむしろ誇るようになったりしていたら、既にそのような状況になっているように思います。

 

 そうなってくると、新しい本を読む理由なんかもなくなってくると思うんですよね。新しいものを自分の中に取り入れて、それによって自分を変えるということはストレスだからです。仮に、新しい本を読んだとしても、自分の中にある既に知っている構造にのみ当てはめて理解することになっていると、何を読んでも知っていることしか読み取らないようになるでしょうし、退屈するだけだと思います。

 

 このように、人は元気がなくなってくると自分が今のままで変わらないということの満足度を高めていくように思うのですが、それが一概に悪いとも言えないとも思います。人間には何か目指すべき共通する目標があるとも思いませんし、なら、それぞれ自分が満足するように生きればいいと思うからです。

 しかしながら、そういった状況が、自分と同じ構造を持たない他人への攻撃に転化したりするとよくないなと思います。また、自分を変えるのも億劫なのはいいのですが、自分が変わらないことにとても退屈をしているのであれば、それは変えてみるというところにチャレンジしてみるのもいいのではないかと思います。

 

 結局言いたいことは、「人間は自分が楽しくなるように生きればよい」ということです。そして、「人間は人生をやっていると、自分の中に組みあがった構造が複雑で完成度の高いものになってくるので、一回壊すと再構築するのがどんどん大変な作業になってしまう」というのもあるなということです。

 元気が有り余っていれば、その構造を壊しては再構築を何度も繰り返して変わっていくことができるかもしれません。しかし、人間は歳をとると組みあがった構造が複雑になってきますし、それを再構築するには強い元気が必要になります。そして、歳をとると慢性的に疲れてもくるので、どんどん自分が変わらないことを求めてしまう傾向があるような気がしました。

 

 「変わらない」ということも結論のひとつだと思います。しかし、その状態で生きていると、周りが変わっていくことについて不満を感じ、自分が変わるのではなく周りの方が自分の中の構造に合わせられるべきだと思ってしまったりもするのではないでしょうか?なぜなら、その方が楽だからです。

 その結果、新しいものにまだ柔軟に順応しやすい若者が、自分が知らない新しいものに順応している様子を不快に感じて、そうあるべきではないという自分が変わらなくてもいい理由を押し付けてしまったりするようなこともある気がします。でも、それって違う側からすると、知ったことではないですし、ただの迷惑だったりするんじゃないかと思います。

 そうなったら嫌だなーとも思うんですよね。

 

 それは、自分が変わるのが面倒であるという理由から、他人に対して自分に合わせて変われと押し付ける行為だからです。世の中では、そういうことによっても多くの揉め事が発生しているのかなと思ったりしました。

 

 周りと上手くやっていくには、少なからず自分を変える必要があると思います。それは自分に合わせて周りも変わってくれるというこによって生まれる妥協点の話だからです。そういうことが上手くできないと人は孤立していくと思うのですが、でも、「孤立すること」と「自分を変えるしんどさ」の天秤で孤立の側を選んでしまう人もいるだろうなと思っています。

 いや、僕自身が、他人に合わせるしんどさよりも、孤立していた方がましと考える傾向があるので、この辺は細かく見ておいた方がいいなと思っているんですよね。

 

 という日記でした。