漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

我々は翔丸組に入るか入らないかの話をしてしまう関連

 能條純一の「翔丸」は、暴力的ないじめを受けていた中学生の翔丸が、ある日、自分の頬をカッターナイフで切ることで何かに目覚め、強烈なカリスマ性を発揮する人間として、人心を掌握していく漫画です。

 

 「今なら間に合う 翔丸組に入るんだ」

 

 この言葉が全編を通して拡大し続け、最初は学校のクラスだったものが、学校全体、そしてヤクザ、果ては日本を牛耳る権力者までを翔丸組に入れようとします。翔丸にカッターで傷をつけられ、翔丸組に入ることを受け入れた人は、まるで魔法にでもかかったかのように翔丸組の一員であることを素晴らしいことだと語るようになります。

 僕がこの漫画を最初に読んだのは高校生の頃で、当時の印象としては「よく分からない」でした。そして、今読み返しても感想は「よく分からない」です。でも、ひとつだけ分かるのは、この漫画は強烈に面白いということです。

 

 最後まで読んでも、翔丸組が何の目的を持っているのかは分かりません。そして翔丸になぜそれほどの魔法のようなカリスマ性があるのかも分かりません。この漫画で詳しく描かれるのは、翔丸組に入らざるを得なくなってしまった人々の心の方です。

 ただ、ひとつ明確に描かれているのは、翔丸翔丸組に入らない人たちを、追い詰めているということです。翔丸は人々の心の弱い部分を的確に見抜き、そこに対するプレッシャーをかけます。そして、「翔丸組に入れば楽になる」というメッセージも発します。翔丸組に入らないことは、意地を張っているということになってしまいます。自分が誰かの傘下ではなく、自分自身がその場所の王として君臨することを望んでいた人たちが、どんどん心を折られて翔丸組に入ってしまうということ、その変化がこの漫画の面白いところなのではないかと思いました。

 

 つまりは、群れ同士の争いの話です。「誰がボスであるかを決める」という、群れで生きる人間がどうしても見ないふりをすることができないところに特化し、それ以外の部分を余計な物として排除したような物語ではないかと思いました。なぜなら、大きくなった翔丸組が何を起こすかについて、特に描かれなくても何も問題ないと感じてしまったからです。

 

 「群れが大きくなった先の目的」ではなく、「群れを拡大していく手段」こそが面白さとして描かれているのではないかと思ったのです。

 

 人間はとにかく、他人に対して自分と同じ群れの所属であるかを気にしてしまいます。そして、同じ所属の場合は、群れの中での序列を気にしてしまいます。これは僕自身もその部分があることを自覚していますし、そこから自由になることはとても難しいことではないかと思っています。

 

 世の中の揉め事を見ても、個別の揉めポイントの話以前に、相手が自分と同じ群れの人間かどうかが気にされている雰囲気を感じることがあります。なので、相手が同じ群れである場合と、違う群れである場合で、同じような問題があったとしても、人が言うことや態度や対応が変わってきたりします。

 個別の問題に対して考える前に、その対象が同じ群れかそうでないかをまず考えてしまうんですよね。そこから逃れることは本当に本当にとても難しいことです。

 

 だからこそ、物語の中でも、そこから目を離すことができないのかもしれません。翔丸は、能條純一の作品の中でも、そのエッセンスだけを抽出し、翔丸組そのものは抽象的に描かれることで、こんなによく分からないのにとても面白いという奇怪にも見える話になっているのではないかと思いました。

 この演出力を使えば、その抽象的に描かれている部分に、より具体的な話、例えば将棋や麻雀の話、ラーメンの話などを代入することで面白い漫画を描けてしまうような気がします。

 

 乱暴な物言いですが、翔丸が描ける以上、他の何を描いても人が目を離せない漫画を描くことができるということなので、これはとてつもない凄みだなと思いました。

 

 僕のこの考えも「なんとなくそうなのでは??」と思っただけなので、正しい理屈かどうかは分かりません。能條純一の著作の中に例外だって探すことはできるでしょう。

 そして、この文章も、僕を嫌いな人は「間違っている」という前提でものを読むでしょうし、僕を好いてくれている人はまず「理解しよう」と思って読んでくれたりすると思います。

 

 人間は誰しも、あちらとこちらを区切る境界線を持っていて、そのどちらに足を置かれているかで、様々なことが変わってきます。だからこそ、その境界線を越えるということは、価値観が根本から変わるというとても大きなことなので、人は夢中になってしまうような気がしています。

 僕は翔丸をそういう物語だなと思いました。このように考えると色んな事に説明がつくようになって、楽になるからです。

 

 今なら間に合う、ピエール手塚組に入るんだ。

「法律もウェッブルールもクソ喰らえだ。俺が嫌だと言ってる」関連

 「法律もウェッブルールもクソ喰らえだ。俺が嫌だと言ってる」は、昔、久保帯人先生が自分のウェブサイトに載せていた絵を、ダウンロードしたりプリントアウトしたりする人がいることに苦言を呈したときに出た言葉なのですが、ほんと良い言葉だなあと近年めきめき思っているのでその話を書きます。

 

 インターネットにアップロードしたものは、技術的にコピーされうるものですし、作者本人が合法的にアップロードした絵を、誰かがローカルにダウンロードする行為も法律上は問題ありません。その画像データをプリントアウトすることも、私的利用の範囲内なら問題になることはないでしょう。

 また、インターネットの雰囲気では、技術的に可能なことはしていいことと考えられがちです。そして、それを許容できない人は、時代遅れでインターネットに適応できない人だと認定されたりすることもあります。それについては、まあそうだなと僕もある程度は思います。

 

 法や場のルールでOKなのに、他人の行動を縛ることの強制力を発揮することはきっとできないでしょう。やっても問題ないとされていることは、きっとやる人がいますし、やめさせることはきっとできないだろうなと思います。

 ただそれでも、自分が嫌だと感じてしまう何かしらについて、「自分が嫌だ」と自覚し表明すること、世間に向かって表明できるということはとてもいいことだなとすごく思ってしまうんですよね。

 

 なので、久保帯人先生の「俺が嫌だと言ってる」発言は、たとえ、それらの嫌な行為がいかなる理由で世間的に認められていたとしても、自分が嫌だということは揺るがないと表明しているという意味で、とても好感が持てます。共感性が高いです。

 この発言の背後には、自分が嫌だと言ったことについて、「でも法律違反じゃないから」とか、「それがインターネットの常識だから」というコメントをされて、嫌だという気持ちを表明することすら咎められてしまうような状況が想像されます。実際に久保帯人先生がそう言われたかどうかは知りませんが、似たような光景をインターネットで目にすることがあります。

 それって、めちゃくちゃ嫌ですよね。ルールが許容しているのだから、アナタが嫌だと思うこと自体が間違っているという話にされてしまうからです。

 

 でも、嫌なものは嫌じゃないですか。

 

 関係ありそうで、あんまり関係ないような個人的な経験の話をすると、小学生のときに、友達に僕のノートに赤ペンで落書きをされまくり、嫌だったので先生に言いつけたことがありました。

 言いつけた瞬間、その友達はかなりビビった顔をしていましたが、そのときの先生は「それがどうしたの?」と全く問題にせず流しました。その結果、起こったことは、その友達はその後も延々と僕のノートに赤ペンで勝手に落書きを繰り返したということです。だって、それをしてはいけないと先生は言わなかったじゃないか、ということがそれをしていいという根拠になりました。

 目の前の人が嫌だと思っていても、それをやっていいということになったら、人が嫌がることを楽しむように人がその嫌がらせをしてしまうということはあります。それを咎める根拠がなければ、やめさせることはできないかもしれません。

 

 でもまあ、嫌じゃないですか。自分の感情の話をすれば。

 

 僕の思い出の話についてはその後暴力的な解決をしたので、今となっては、まあ子供はそういうところがあるよなと、友達に対しても僕自身に対しても思ったりします。

 

 嫌だと表明することは、まず、嫌だと思っていることを相手に伝えるためには重要なことです。その上で、自分が嫌だと思っていることを相手に繰り返され続けるなら、相手は明確に「この人に嫌な気持ちになって欲しい」という目的で行動していると解釈できるので、人間関係を保つことができないなという理解に至ることができます。

 こういうときに、早めに明確に嫌だと表明していないと、「だって嫌だと思っているなら言ってくれないと分からないじゃないか」ということを後から言われたりします。そんなふうに嫌だと表明をしなかった方が悪いという話にされてしまうことだってあります。

 なので、その表明が、相手の行為を止めることができるかどうかは場合にはよりますが(できないことの方が多いかもしれない)、自分がそれを嫌だと思っているということは表明しておいた方が、人間の距離感が掴みやすくていいなと思うんですよね。

 

 あと、何かが嫌だと言うと「あれ?フリですか?」とか言われて、わざとそれをやってくるタイプの人が世の中にはいて、これはもう無理なところがあって、仲が良い人だったとしても、めちゃくちゃ心が冷めていきます。

 いや、でも自分もそれを誰かにしたこともあると思います。そうやって人間関係には傷が入り、ときに維持できなくなっていくわけですよ。

 

 人と人が集まる場所だと、全ての人の望みは叶わないのかもしれません。誰しもが少なからず我慢をして社会をやっているような気もします。でも、そのような社会がそのままであるために、嫌なことがあっても黙っていろって感じの雰囲気があるとすごく嫌なんですよね。

 

 世の中には「あなたが我慢しさえすれば皆が幸せになれる」というタイプの圧のかけ方があるわけですよ。その我慢を内面化することが、その社会に属するためのチケットになったりもするわけです。

 でもなんか嫌だなという気持ちを押し込めてしまうと、心の調子がどんどん悪くなってくる感じがしていて、それよりは嫌なものは嫌なままだと認識しておいて、それでいて「社会をやっている」と思った方がいいなと思ったりしています。

 そんでもって、場合によっては嫌なものについては嫌だと公言することも必要だなと思ったりしています。それがたとえ、自分以外の他の人たちにとって、どれほどルール違反であったとしても。

 

 そういうことを感じるようになってから、20年も前に見た「俺が嫌だと言ってる」発言を思い返すと、ホントその通りだよなー!!という気持ちになって、久保帯人先生!僕はやっと分かるようになったよ!!ということを思いました。

 という話です。

「ちーちゃんはちょっと足りない」と言い訳が人間を狂わせる関連

 「ちーちゃんはちょっと足りない」は、阿部共実の漫画です。この漫画は、年齢に対して行動が幼い中学生のちーちゃんとその友達のナツの物語です。2人は同じ団地に住んでいて、あまり裕福な家庭ではありません。彼女たちの何気ない日常が描かれる中で、あるとき、2人はお金を盗んでしまいます。それが物語の転換点となります。

 

 2人は盗んだお金で、欲しかったものを手に入れます。でも、それはしてはいけないことでした。彼女たちはなぜそれをしてしまったのか。それは「足りないから」です。他人と自分を比較して、自分が他の人よりも足りていないという不公平な恵まれなさを感じてしまったからです。

 だからこそ、「自分はこれぐらいのことをしても許される」という言い訳が成り立ってしまいました。

 

 多くの場合、人の行動はその本人の中では辻褄が合っていると思います。いかに他人から見て不可解な行動であったとしても、その人の見えている世界では、それをすることが一番ましに見えていたからこそしてしまうわけです。

 「お金を盗む」ということが「悪いこと」であることを、ナツは分かっていました。その時点で、「悪いことだからしてはいけない」という理屈は無力です。なぜなら「悪いことだけれど、自分にはそれをしていいはずだ」という理屈がナツの中にはあるからです。

 

 お金持ちの家に生まれてさえいれば、そもそも盗む必要はありませんでした。自分のお小遣いで欲しいものが買えたからです。周囲のみんなが当たり前に持っているようなものを自分が持っていないとき、それを当たり前だと受け入れることは果たして当たり前でしょうか?

 いや、しかたないことではあります。それでも、生まれた時点で何かが決まっているということについての不公平感を感じることはあるはずで、それが全く認められないのは少し暴力的ではないでしょうか?

 

 罪を犯した人間と、そうはならなかった人間の差に、人間性ではなく生まれた環境の不公平もあるのだとしたら、それを人間性の話だけに落とし込むことには辛さを感じてしまいます。

 だからといって、窃盗が肯定されるわけでは決してありません。でも、その「自分が恵まれていない」という気持ちが「自分は窃盗をしたって許されるはずだ」という気持ちに繋がってしまったことはとても悲しい話だなと思いました。それが言い訳になりうる状況でさえなければ、彼女が窃盗をしてしまうことはなかったと思うからです。

 

 「貧しい」ということ以外にも、人は色んなことを言い訳として使うものだと思います。その言い訳が成立する状態では、普段のその人であれば、決してしないようなことをしてしまったりします。

 

 僕の場合だと、「忙しい」という状況がそれにあたります。何かをしなければならないことが、自分の中で優先度が一番高いところに入ってしまうと、それ以外のことがどんどんおろそかになっていまいます。なので、忙しいと部屋がどんどん散らかっていったり、節制なくご飯を食べてしまったり、髪を切りに行く気持ちになれずどんどん伸びてきたりします。仕事関連以外のメールやメッセージに返事ができなくなったりもします。

 忙しくない時期には割とちゃんとやっているので、自分は社会や健康をちゃんとやれない人ということではなく、それをやるためには、忙しくなり過ぎないことが必要な人なんだろうなと思います。「忙しいから仕方がない」という考え方が、自分の中の奥の方に存在していて取り除くことができないからです。何かやらないといけないことがあることは分かっていても、それをしなくていい理由を忙しさに与えられてしまいます。

 

 僕の考えでは、こういうのは仕方ないんですよ。強靭な意志の力でなんとかできる人もいるのかもしれませんが、僕はあんまりできません。だからこそ、自分を上手くコントロールするためには、忙しすぎない状況を作るということが重要で、忙しい中でも頑張ってやるのではなく、忙しくならない状態で気楽にやれるようにする方をした方がいいなと思っています。

 

 今すげえ忙しくて、あらゆることがおろそかになっているので、そういう気持ちの指差し確認をしました。

コミティア134にてフィクションの日記漫画を出します情報

 まず知ってほしいことは、11月23日(月祝)に東京ビッグサイトで開催されるコミティア134に僕が出るということです。

  • スペース番号:ち09b
  • サークル名:七妖会

 久々にコミティアが開催されるところに出るのだから新刊を出そうと思い、日記漫画で一冊作りました。なお、今回のコミティアは色々感染症対策がされている関係から、来場に対しては色んなルールがあるそうです。

www.comitia.co.jp

 

 さて、日記漫画って描くのが難しいなと思います。それは日記漫画は「日記」ではなく、「漫画」だと思うからです。日記である以前に、漫画として面白く読めなければなりませんし、そのためには日記としては不正確になっていまうかもしれません。

 例えば、コマを使って会話を描く以上、言葉の数は少なくした方がいいですし、テンポ感のためには、一つの会話を分割したり、省略したり、分かりやすさのために注釈になる言葉を付け加えた方がよかったりすると思います。そして、その行為は日記であるということからはどんどん乖離していく気がします。

 

 自分ひとりで完結する話ならば、自分が何をして、何を感じたのかを他人に上手く伝える方法としてそれは大きな問題にはならないと思います。でも、他人が何を言ったかに加工を加えることには大きな抵抗感があります。だいたいこんなことを言ったということが合っていても、人間の言葉は少しの違いから細かなニュアンスが出てしまいますし、その人が言っていないことを言わせてしまうことで、別の印象を与えてしまうということも気になってしまいます。

 仮に、僕が他人の言葉を加工して日記漫画に描き、その対象となる人に対して読者からヘイト感情が生まれたとします。その場合、ヘイト感情が生まれたのはあくまで僕が描いた漫画の中の登場人物であって、元になった人自身ではありません。でも、それが取り違えられてしまう危険性があります。それは避けたいことだなあと思います。

 

 そもそも漫画に限らず、人の口から出てくる話には、少なからずその要素があります。ある人が何かを言っていたと伝聞で聞いたとして、聞いたのはあくまで伝聞ですが、その人が言っていたということになってしまいます。過程で勘違いや、悪意的な加工があったとしても、それがあるということを意識されないことだってあります。その場合、それは言葉が生み出した存在しないものなのに、事実に成り代わってしまうということでもあります。

 かといって、それを言わないでこれたかというと、僕自身も沢山言っているわけで、そういうところからは逃れられないんだなと思います。同時に、だからこそ、そこに気をつけたいなという気持ちも出てくるわけです。

 

 さて、日記漫画に他人を登場させるときにはこのように色んなことを考えてしまうので、上手く描くことができません。友達なら、許してくれたり、面白がってくれたりするかもしれませんが、知らない人だったりすると迷ってしまいます。

 そこで至った結論が、「全部を嘘にしてしまおう」という試みでした。日記漫画の登場人物は、僕ではなく、僕をモデルにした架空の人とし、その架空の人物が話す相手もまた架空の人物ということにします。そうやって全てをフィクションにすることで、現実とは切り離すことができると考え、描けるかもしれないという気持ちになりました。

 

 それは日記ですが、基本的に全て作り話です。この日記漫画の元ネタとしてあった出来事における「そのときの僕の気持ち」だけが本当にあったことです。

 

 さて、そんな考えで描いた漫画が「自分のことをヤクザの若頭だと思っているピエール手塚くんのグルメ紀行」で、いかにサンプルを上げています。

 

 これをひっさげて、久々に開催されるコミティアに参加しようと思います!今回は感染症対策を行った上での開催なので、入場制限もあり、どれぐらいの参加者がいるのかもよくわかりません。

 どれだけ対策をしても人が集まるイベントではあるので、情勢的に来てくださいとも言いにくいですが、もし来る人がいたら、僕のスペースまで寄ってみてくれると嬉しいです!

登場人物が言葉で説明することは表現として劣っているのか?関連

 インターネットで、たまに目にするのが「登場人物が状況や心情を言葉で表現するのは良くない」という価値観です。僕はそれを目にするたびに、「そんなもん状況によるだろうがボケ」と思うのですが、その辺についてのことを書こうと思います。

 

 例えば、僕は「うしおととら」の終盤で、うしおが「うれしいなあ」と言うシーンがとても好きです。うれしいときに、とてもとてもうれしいときに、「うれしいなあ」と言うのは劣った表現でしょうか?言葉で説明するのではなく、演出でうれしさを感じさせてくれた方がよかったでしょうか?僕はあそこはうれしいなあと描くのが最高に感動するので、これは言うのが最高の表現だと思ってしまいます。

 なぜなら、これはうしおがうれしいと思っていることを、読者も一緒に感じることこそが求められている場面だからです。

 

 つまり、言葉で説明するということは、作中の描写と読者の理解を一致させる上でとても効果的な手法であると言えます。そして、それが一方で劣った表現であると言われることの理由のひとつではないかとも思います。つまり、場面の解釈を読者に委ねるのではなく、作品側から一意に同定してくるということへの拒否感ではないかということです。

 

 読者と作者では、読者の方が偉いと思います。なお、これは読者の頭の中に限定しての話です。そのため、読者はときに、自分が考え付いた作品の解釈を、たとえ作者がそれを意図してはいないと言ったとしても、自分が感じた理解の方が正しいはずだと主張したりもします。作者にそれを伝えるまでするとどうかと思いますが、これは少なからずどの読者にもあることだと思っていて、自分が至った解釈は、他の人から伝えられたものよりも大切に感じてしまうのではないでしょうか?

 つまり、自分の考えが作者の描いたものよりも偉いという価値観に則れば、直接的に描写をされるのではなく、そう読者が自分で感じられるように促してくれた方が、よりその表現を大切に感じてしまうということに繋がります。

 あるいは、言葉にすることは、読者を信用していない行為であると思われるのかもしれません。わざわざ言わなくても分かることを、わざわざ言われることによって侮られていると思ってしまうということです。

 

 このように「言葉で説明すること」が、「正解をひとつに限定してしまうこと」であれば、確かにそれを嫌う人はいるかもしれません。それ自体は理解可能だと思います。しかし、最初に例示したように、それが読者と作品の間で誤解を生まず、同じものを共有できるという良い効果を生み出す場面もあるということにも目を向ける必要があると思います。

 

 つまり、解釈をぶれさせたくない場合には、明示的に言葉にした方がいいですし、間接的な表現によって読者の脳みそをパーツのひとつとして使うことを避けることで、より込み入った表現をすることが可能になります。例えば、ハンターハンターのキメラアント編における戦闘描写はその極地のひとつです。

 キメラアント編の特に王の城への突入のあたりからの戦闘描写は、一挙手一投足にその解説が文字で説明されます。登場人物が何を考えて、その行動を行ったのか、そして、相対する敵は何を考えてその行動に反応し、結果起こったことは何なのかが丁寧に言葉で説明されます。

 これによって、より深く戦闘描写を描くことが可能になります。

 

 これは例えば、スポーツの解説のようなものです。そのスポーツを見慣れていない視聴者は、目の前で繰り広げられている攻防を正確に解釈することはできません。

 例えば、サッカーの細かいプレーの意味が分からない人にとっては、その試合からは点が入ったか入らなかったかぐらいの意味しか読み取ることができないはずです(ちなみに僕のことです)。そんな人にとってみれば、サッカーは退屈なスポーツです。なぜなら、その場合、サッカーは長い一試合の中で片手で数えられるほどの数字が増えるのを見守るだけのスポーツにしか見えないからです。

 

 ある描写について、ひとつひとつ言葉で解釈してくれることは、つまりは、読み取る力が高い人の理解を共有してもらえることと同じです。それによって、描写の解釈力がなくとも、とても精緻にひとつひとつの描写を理解していくことができます。言葉で説明することは、上手く使えば、読者にとって大量の情報を流し込めるようになり、あるいは、その後の描写の理解を補助するための訓練にもなるやり方です。

 

 僕は言葉で説明することについてこのような理解をしているので、その表現そのものが劣っているとは思えず、使いどころの問題だろうなと思います。僕が最初にボケと思うと書いたのは、「このような表現をしているから、即ダメである」という短絡的な考え方をしていることにであって、実際、何かの作品において、ここで言葉でひとつひとつ説明されたら台無しだよ~と思ってしまうことは僕にもあります。

 

 また、言葉を使うことの他の弊害としては、言葉を使う場合には瞬間的な理解が難しくなる点もあると思います。例えば、「AはBという理由でCをした」という文章を理解するには、文字を追ってその意味を解釈しなければなりません。その文章が長くなるほどに読むことに時間がかかりますし、意味をとるのに解釈の時間が必要になってきます。さらにアニメや実写などで発声されたものを聞くならば、言い終わるまで聞かなければなりません。

 ここからは僕の独自理論ですが、人間の感動というのは、穴の開いたバケツから水を溢れされることに似ていると思っています。つまり、バケツに流れ込む水の流量が少なければ、穴からどんどん流れ出て行ってしまい、感動に至ることがありません。穴の開いたバケツから水を溢れさせるなら、同じ量の水を入れるにしても瞬間的に一気に入れる必要があります。つまり、「穴から漏れ出てしまうよりもずっと早く水を入れる必要がある」ということです。

 ここで言う水というのは人間の感情的なもののことです。つまり、文字でゆっくり説明していると、ゆっくり水を入れている間に穴から沢山漏れ出てしまい、じんわりといい気持ちになったとしても、一気に感情が溢れ出てしまうような体験にはなりづらいと考えています。

 貯め込んでいる感情を一気にバケツにぶちまけるには、一枚の絵でそれを示すなどが効果的です。それを見た瞬間に「AはBという理由でCをした」ということが読者の頭の中で一瞬で理解できれば、そこに至るまでのページで、同じものを積み上げて来ていたとしても感動度合いが変わってくると思っています。これは一枚の絵ではなくて、短い言葉でもいいと思います。

 つまり、それまで積み上げてきた感情を、ある一コマで一気に解放させて感動に繋げるには、それを瞬間的に解放させられる鍵(絵や短い言葉)が適切であるという考えです。

 

 ちなみに、僕がこの仮説を思いついて表現として試してみようとしたのがこの漫画です(それが上手くいっているかは読んだ人それぞれだと思うので、よかったら確認してみてください)。

comic-days.com

 

 この考え方に則れば、言葉で長々と説明される表現では感動をしづらいということになります。ただ、これに対しても結局は使いようという認識なんですよね。

 

 結局、僕が言いたいのは、ある表現が単体で良いか悪いかということはなく、「それが作者が表現したいことに対して、適切な選択であったかそうでないか」の話であって、「この表現だから即ち悪いみたいな短絡的な判断は、雑過ぎるだろう」と思っている感じです。

 そして、言葉で明示的に描かれない場合の弊害としては、読者が勘違いして理解しているということも多いわけです。モノローグで心の内が語られない登場人物が、このときどのように思っていたかというのは、読者が好きに想像できるため、色んな解釈があったりもします。

 そこを曖昧にしたければ曖昧にするのが適切な表現ですし、明確にしたければ明確にするのが適切な表現だと思うので、世の中の全てがそうであるようにケースバイケースだと思います。

 

 なので、登場人物が状況や心情を言葉で語る表現が良くないと思ったとして、なぜ、そのシチュエーションでは言わない方がいいのか、また、もし言わなかったときにそれは弊害なく本当に良くなるのか?ということがないと、主張としては明確ではないなと僕が思っているという話でした。

 

追記(2020/11/11)

ブックマークのコメントがついていたので、返事が必要そうなものについて書こうと思います。

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 僕は、匿名ダイアリーの何かを見てこの文を書いたわけではないので、「件の増田」というのが何の話かはわからないのですが、この部分は本が手元にない状態で書いたのでざっくりと書きましたが、正確引用するなら、

「うれしいなァ。うれしいなァ。うれしいなァ。うれしいなァ。」

「でも…みんなと一緒だ!」

「みんな知らねーと思うけど、お役目のおばさんっていたんだ…その人がいってたんだ…みんな仲良くしろって…オレ、それ人間だけのハナシかと思ってたんだ………でもちがうんだ。人間だけじゃ白面にゃ勝てねえ…もちろん妖(バケモノ)だけでも…白面(ヤツ)は強いさ。ああ、獣の槍だって、人間の自衛隊だって、やられちまった…だけど…人間と妖(バケモノ)が一緒に戦ったら わかんねえよな そうとう強いぜ…オレ達!」

「うれしいなァ…おばさんのいったとおりだ。強えおまえらと…一緒だ!」

うしおととら 32巻 92-95ページ) 

という一連のセリフなので、少なくともなぜ嬉しいかは明確に言葉で書かれています。

 

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 また、こちらのコメントに関しては、「作中の登場人物に向けた言葉」と「読者に向けた言葉による説明」が排他であるという前提が明確ではないと思います。作者は少なくとも、読者にうしおが嬉しく感じた理由を明確に提示するために、このセリフを書いているはずだと思うからです。

 それを、例えばモノローグのような自己完結する方法ではなく、他者への語りかけという形式にするのは技法として自然さを出すことができる優れたやり方であるというだけだと思います。

 

 この文章の主旨は「言葉で説明することそのものが、言葉で説明しないことよりも100%劣った表現である」ように言われることに対しての考えを述べたもので、世の中に「説明的過ぎるために問題がある表現」が存在していることは全く否定していません。

 藤田和日郎の漫画のように、言葉による説明をとても素晴らしい演出方法として使うこともできるということを例示しているだけです。

 

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 前述のように説明しなくて良いことを説明している表現がよくないケースはあると考えているので、ご指摘には当たりません。なお、ここでは「言葉で説明しなくても良いようなこと」というのが曖昧だと思います。世の中には沢山の読者がいるので、ある人には明確なことが、別の人には明確とは思えないかもしれません。その場合、誤解を避けたい部分を明確に書くということには一定の意味がありますし、その方法をとるかとらないかは作者の判断であって、ある人がその説明なくわかったとしても、それをしない方が優れているとは言い切れないと思います。

 

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 僕の考えとしても、どのような表現を使うかは作者の選択の結果であって、優劣はないと思います。言葉で書かれていても誤解をする人がいるのはそうですし、登場人物が発した言葉が心情を嘘偽りなく語っていない保証もありません。場合によります。

 念のため補足しておくと、この場合、言葉で説明することと言葉で説明しないことの比較をしているので、その言葉が登場人物の心情として本当か嘘かにかかわらず、一度言葉にされることで、理解の補助になるという効果はあると思います。

 

 ざっと見て目についたものについては補足として書きました。もし、他に何かあれば追加でお願いします。気づいたら返答します。

ファブラノヴァクリスタリスファイナルファンタジーとゲームで物語ることの模索関連

 ファブラノヴァクリスタリスとは2006年に発表されたファイナルファンタジーシリーズ(以下、FF)の共通コンセプトで、FF13(とその続編であるFF13-2ライトニングリターンズFF13)とFF零式(発表時はアギト13)、FF15(発表時はヴェルサス13)がそれに当たります。

 先日、FF16が発表され、この十数年、FFのナンバリングが抱えてきたファブラノヴァクリスタリスが終わったんだなと思いました。

 

 ちなみに僕は上記を全部プレイしましたが、FF零式のみ、途中のどこかで詰まったまま止まっていません。そのうちリマスター版等をやり直そうという気持ちはあります。

 

 ファブラノヴァクリスタリスは、その背後に共通する神話を抱えるゲームシリーズです。神話については、作中でも語られはするのですが、色んなものを見ないとイマイチ分かりにくいというか、僕もいまだによく分かっていない気がします(なので以下の理解も間違っているかもしれません)。

 

 ただ、このゲームシリーズに対して僕が感じたのは、ゲームという枠組みそのものを神やその代行者に置き換えることで、それにいいように操られてしまう人間の悲しさや、そこに反逆する人間の意志などを描くシリーズだったのかな?ということです。

 僕は両方好きですが、FF13FF15も、国内有数の代表的RPGであるにも関わらず、かなり歪なゲームです。そして、僕はその歪さが何らかの足掻きの結果のように思え、遊びながらそこに色んなものを感じることになりました。

 

 この神話には、神とファルシとルシが登場します(なお、FF15ヴェルサス13からの変更のせいか直接的な言葉は消えましたが、その精神性は残っているように思いました)。ファルシとは神に作られた何らかの役割を持つ代行者、言うなれば機械で構成された天使のような存在です。ファルシは、人間をルシという存在に変化させます。ルシとは何らかの使命を帯びています。そして、使命を果たせばクリスタルとなり、使命を果たせなければシ骸という化け物に変えられてしまいます。

 また、FF13ではプレイヤー以外のルシはシ骸になったあと冥碑という存在となり、果たせなかった使命をプレイヤーに託すという形で、サブクエストのシステムを担う役割もあります。

 

 FF13ではルシに変えられた主人公たちが、その背後にそれぞれ別のファルシの存在がある、コクーンとパルスという2陣営の争いに巻き込まれていきます。

 シリーズを通して描かれているのは、ルシという存在の哀れさではないかと思います。そして、それは、それまでゲームが描いてきた物語への懐疑に繋がっていると思いました。FFの過去作には、クリスタルに選ばれたということが名誉のあることであり、その選ばれた人間が世界を救うために戦う物語があったりします。そして、そこに感じる懐疑とは、選ばれたということは果たして本当に良いことであったのか?ということです。

 

 ファルシにルシとして選ばれた人々は、それまでの自分が望んでもいなかった使命を与えられ、それを果たすために動かなければなりません。選ばれたということは世界を救うという名誉ある特別な立場と捉えることもできるかもしれませんが、誰かの考えた目的のために選択肢なくそうさせられてしまうという運命の奴隷であるという解釈もあります。

 

 ファブラノヴァクリスタリスのシリーズでは後者の理解がされているように思いました。プレイヤーの操作するキャラクターはゲームによって選ばれ、世界を救うという使命を、まるで呪いのように与えられた哀れな存在です。

 

 その意味に沿って考えていくと、FF13FF15は対になっているゲームだと捉えることができます。僕の理解では、FF13はゲームに与えられた使命から解放されていく物語で、FF15はゲームに与えられた使命を受け入れさせられる物語です。

 そして、ゲームの構造も対比するような作りになっています。FF13ではひたすらリニアなゲームプレイがなんと20時間以上ぶんぐらい続いたあと、ようやく広いフィールドに到達して自由なゲームプレイになります。そして、FF15ではオープンなフィールドでの自由なゲームを好きなだけ続けたあと、終盤に至るリニアなゲームプレイに押し込められます。

 これは、主人公が不自由から自由に至るFF13と、自由から不自由に至るFF15の物語という意味で、ゲームの構造とその物語性が一致しています。

 

 ゲームにおいて、決まった物語をプレイヤーに与えるという意味では、リニアなゲームの方が向いています。プレイヤーがどのような体験をするかを設計しやすいからです。オープンなゲームでは、プレイヤーがどのように遊ぶかを制限しないことに意味がありますし、人によって必ずしも同じ体験でないからこそ意味があります。

 その意味で、FF13FF15は、それぞれが極端な形で物語とゲームの構造が一致していて、そこを面白いと感じました。

 

 また、FF13に関しては、PS3に移行してHDのゲームを作るということにおけるリソース配分を改めようとした事情もあるのかな?と想像しています。なぜそう思うかというと、FF13は、かなりカッコいいゲームの作り方をしていて、取捨選択が潔すぎるようにも思うからです。

 従来のRPGを新世代に持ってくる上で、何を残すべきと考えて、それ以外の何を削ってもプレイヤーが欲している体験を再現できるかという判断において、マップを探索することを排除していたり、ショップをセーブポイントと一体化したり、バトル敗北時には直前からリスタートできるようにしていたり、他にもそれまでのFFに存在した様々なものを排除しています。

 つまり、物語の背後に感じた思想がそうであるように、システム面でもRPGの当たり前を見直そうとしていたように思いました。ただし、カッコよすぎたので、世間的にはあまり受け入れられていたようには思えず、続編では方針転換をしていますが。

 ゲームは何でもできるように進化しているので、むしろ、何をしないかに、その思想性が現れるように思います。

 

 ファブラノヴァクリスタリスはとにかくRPGの色んなものを問い直そうとした試みであったように思います。それは上手く行ったものも上手くいかなかったものもあるとは思いますが、僕はFF15の最後で、今までプレイしたFFの中でも最も大きく感情が揺れ動いたので、ゲームを通じて物語るという意味では、ひとつの到達点に至ったような気がしました。

 

 ちなみに、僕のFF15の感想はここで書いています。

mgkkk.hatenablog.com

 

 そういうこともあって、色々変なゲーム群だなあとは思いましたが、ゲームを使って何かを物語るという意味では非常にユニークな体験があって、僕はそれがとても面白く感じたんですよね。

 個人的には、ファブラノヴァクリスタリス以後も、FFはどんどん変なゲームであってほしいです。FF16にも期待しています。

人格の大部分はリアクションで出来ているのかも関連

 人間が目で何かを見るとき、物そのものは見ていません。見ているのは物に当たった光の反射です。だから光がない場所では、人間は物を見ることができません。そして、それは物以外でもそういうところがあるのではないかと思ったりします。

 

 僕は人間の人格というものは、どれほど明確にあるのだろうか?と考えることがあります。

 

 人格というものについても、他人から見ることができるのは、実はあくまで反射でしかないのではないか?という疑念があるということです。反射とは、つまりリアクションです。何かに対してどのようなリアクションをとったかの積み重ねが、その人の人格の形を見えるようにしてくれているのではないかと思いました。

 そして、そう考えたときに、自分の発言もその多くがリアクションに分類されるものであることに気づきます。本を読んで感想を書けば本へのリアクションです。美味しいものを食べた報告をすれば美味しいものへのリアクションです。世の中で話題になっていることに言及すれば、話題になっていることへのリアクションです。誰かの発言に反応すればリアクションです。

 自分が自分の外に発する言葉を分類していくと、それは実は自分の中から出てきたものではなく、自分と自分以外の何か接したときの反応でしかなく、つまり、その大半がリアクションに分類できることであるかのように思えてきます。

 

 そう考えた場合、他人が僕を見て認識する人格は、そのリアクションをかき集めた総体のはずです。僕の人格そのものではありません。いや、僕自身にとってすらそうなのではないか?という疑念もあります。自分がどのような人間であるのかを、自分でちゃんと理解していない気がします。なんか、自分が何かに反応しているときに、初めて自分が思っていることが分かることがあるんですよね。

 

 そのように、自分の形というのは全然分からないことが多くて、自分が何にどのように反応するかを確かめることが、自分の形を確かめる手段になりやすいのかもしれません。

 だからこそ、自分以外の何かに言及するということを、人は好んでしてしまうのかもしれないなと思いました。なぜなら、それは、自分が何者であるかということを周囲に知らしめる行為であり、同時に、自分自身が何者であるかを自覚することができる行為だと言えるからです。

 

 自分自身ですら、自分の姿を何かに対する反射でしか認識できないのだとしたら、何に対して自分の姿を映すかが重要なのかもしれません。

 

 実際、何かのシチュエーションで、事前に自分がもしそうなったらそうするだろうなと思っていた行動を自分が全然しないことがあって、そんなときに、自分ってこんな感じの人間なんだなと気づくこともあります。あるいは、人と喋っている中で、それまで思っていなかったようなことを、さも前から思っていたかのように喋ってしまったりすることもあります。そんなふうに、自分で自分を発見しています。

 そのように考えていくと、自分は自分だけで自分になるのではなく、周囲の人に対するリアクションとしての自分が、自分の中の多くを占めているような気がします。何にリアクションをとるかということが自分自身を規定することもあります。

 

 「自分探し」という言葉が流行ったとき、「ここではないどこかに自分がいると思うのか?」という疑問も数多く言われていたと思います。でも、それは実は、「環境探し」だったのかもしれないなと思います。自分がどの環境に接したときに、自分にとって好ましいリアクションをとれるのかということです。

 自分の存在の多くの部分が、周囲と接したときのリアクションで作られてしまうのだとしたら、自分がこうあって欲しいと思う姿になるためには、どのような環境に身を置けばいいのかという話になってきます。自分にとって最良な環境とは何かを知るために、色んなところを探すことには意味があるのではないかと思います。

 

 自分というものを掘っていって、自分の人格の色んなものを解体していくと、その先には何かしら人格の核のようなものはあるのかもしれませんが、実は解体する際にはがしたものの方が皆の思う自分なのかもしれません。その先に何かしらの核があったとしても、結局他人の目には見えないし、それよりも見えるガワの部分の方がよほど具体的だからです。

 

 昨日読んだ、「ここは今から倫理です」の最新話が、自分の心が言葉に引っ張られてしまうというような話で、すごくいい話だったので、詳細は雑誌を読むかそのうち出る単行本で読んでほしいのですが、そういうことはあるよなと思います。心の中にあるものは曖昧な形で、それに意味を与える言葉がどのように出るかで、形が変わってしまうようなことがあるように思います。だから、意図的にどのような言葉を口に出すかに意味があるような気がします。

 

 僕は自分はなんか虚ろだなと、ひとりでいるときにはよく思うのですが、一方で、他人と一緒にいるときには、いくぶんかはっきりしてくるように思っていて、それが嘘の姿というよりは、他人を写し鏡にすることで、そこにおける自分の姿がはっきりしているだけなんじゃないかなと思ったりします。

 そして、何に映すかによって自分の形は変わってしまうものなんじゃないかなと思います。だから、何に映すかに自覚的であった方がよく、どういうものに映しているときの自分の姿を好ましく思うかというところに、注意を向けるといいのかなと思っています。

 

 もともと仕事以外では人にろくに会わない生活なのですが、コロナ禍でそれが加速し、ここ半年以上、仕事関係以外の人と会ったのは1回きりです。そんな状態だと、なんだか自分の姿がどんどん曖昧になってきた気がしていて、あんまり良くないかもなと思っていたりします。

 ただ、来月久しぶりに開催されるコミティアのスペースがとれたので、久々に人に会えるなと思って今からウキウキしています。コミティアで僕のスペースまで本を買いに来てくれる人と喋るのは、ほんと好きですね。

 自分の姿は、そういうところに映しておきたいなと思っています。