漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

漫画の人体損壊描写のストレス関連

 漫画を読んでいてたまに思うのが、あ、このキャラ多分死ぬなという予感です。そう思う根拠として、人体損壊描写があったりします。

 そりゃ人体が損壊したら死ぬ可能性高いでしょというのはそうなんですけど、ここで着目しているのは、命そのものには関係のない損壊が、死を予見させるということがあるという話です。

 

 例えば指です。刀で斬られるなどで、手の指がごっそり斬られてしまう描写を見ると、このまま死にそうだなと想像してしまいます。なぜならば、仮に生き残った場合に、手の指がない人をずっと描かなければいけないからということを考えてしまうからです。その傷が残ることは、その痛みや不便さの痕跡が延々残ることを意味します。人は、それを描くことにも、読むことにもある程度のストレスを感じてしまうのではないでしょうか?

 あるいは、顔面の大きな損傷です。例えば、顎がなくなってしまったりという描写にはその後に食事をするときの不便さなどを想像してしまいますが、顔は人物描写の重要な部分なので、それを描き続けなければならないということになります。

 だから作者側からも読者側からもストレスを抱えなくて済むように、その状態は意図的に避けられるようにされているのではないかと感じています。

 ただし、これは結構危うい感覚だと思っていて、現実には大けがをしたとしても、そのまま生きていくことになるからです。その、実際にあるようなことを忌避的なものとして捉えてもいいのだろうか?という感覚の疑問が個人的にはあります。

 

 とはいえ、この辺の想像から、どうせこのキャラはこの後すぐに死ぬから、思い切った人体損壊をやってしまうということがあるのではないか?と勝手に読み取ってしまうことがあります。損壊の結果が先の話でもずっと残り続けることはストレスになると思うので、それを避けがちなのではないかと思うからです。

 

 それは斬られる側からしてもそうですし、斬る側からしてもそうです。例えば、日常生活に不便が出るほどに損壊を与えてしまったキャラにその後の人生があるとき、それがいかに悪い相手であったとしても、何かしらの罪悪感が生まれやすいのではないでしょうか?

 その怪我によって生活上の様々な不便を抱えながら、かつて倒した敵が生きているのを見せられ続けるとき、いかに正しい目的のためになしたこととはいえ、主人公側の正しさに傷がついてしまうことはないでしょうか?いっそ、殺してしまった方がすっきりすると感じてしまったりするという、乱暴な考え方もあるかもしれません。

 

 このあたりの解決方法としては、回復役が存在することや、補う何かが存在するなどがあります。「ジョジョの奇妙な冒険」では、きつめの人体損壊描写が多い印象がありますが、シリーズごとに回復役がいることが多く、損壊描写を行ったあとに再び治せることで、気持ちよく人体損壊をしたあとに引きずるものをなくしてストレスを軽減させています。

 一方で、今連載中のジョジョリオンでは、これまでのそれを逆手にとったのか、肉体の失われた部分を取り戻す装置として、物語の根幹に存在するロカカカという果実を置き、その利用の結果がグロテスクに描かれています。

 

 もうひとつの解決方法である「補う何か」とは、例えば義手などのように、肉体としては失われていても、機能的には実質的に存在しているのと同じような状態になることです。結局のところ、その後のキャラの生活に不都合が存在し続けることに人はストレスを感じてしまうと思うので、そこがちゃんと補われていれば軽減されるということだと思います。

 その点で、「寄生獣」で右手に寄生していたミギーとの別れによって、心の欠損が、腕の欠損によって箸が上手く使えないというところと重ねられたのは、巧みな描写だなと思いました。

 

 失われることがストレスであるという意味で言うと、例えば、敵に強靭な再生能力があるということは、読者のストレスを軽減させる効果もあると思います。なぜなら、敵の傷がちゃんと治ることで、主人公側の暴力から取り返しのつかなさがなくなり、他人を傷つけるという部分における罪悪感を感じる必要がなくなるからです。敵の強い再生能力は、主人公側に不利な状態のように見える一方で、実は読者目線では気楽に読めるようにしてくれているのではないかと考えたら不思議ですね。

 そして、主人公たち側が再生能力のない普通の人間であれば、痛みは痛みのままなので、失われてしまうことの大きさを描くことができ、敵の悪さを強調することができるようになります。

 この辺は暗黙的に、様々な気の遣われ方がされて描かれているように、読者としては読み取ってしまうんですよね。

 

 最後に例外の話をしますが、代表的なもののひとつに山口貴由の「シグルイ」があります。シグルイは人体を損壊する描写に非常に真摯な漫画です。

 刀で人が斬られるとき、ストレスを軽減するためには、記号的な斬られ方が選ばれることも多いです。例えば、人の首が斬り離されるのは、記号的なのでストレスが低いです。ここで言う記号的でない描写というのは、例えば顔の表面を斬られて、太刀筋の通りに、顔の内部の断面が表出するなどの描写になります。人間は特に人間の顔から多くの情報を得ているため、顔が壊れるということに対しては、強いストレスを感じるものだと思っています。

 そして、シグルイのような、「人が人を斬る」ということをいかに力強く描くかという漫画では、そこをあえて描くことに意味があります。。そして、シグルイでは、そのような記号的ではない斬られ方をした人が、死なずにそのまま生きている描写も多く見られます。それによって、人と人が真剣で斬り合うということのリスクを、あるいは立場を変えれば愚かしくも思える行為として、描いているように思います。

 

 ある人間が何年も鍛錬してきた結果が、たった一度の戦いで、もう再び戦えなくなり、全てが無に帰すほどの欠損を残すこともあるわけです。だからこそ、現代の格闘技の試合では、いかに取り返しのつかなさというストレスを減らして互いの力を比べ合えるようにするかというための、道具やルールの発達があるのだろうということを思わされます。

 

 今思い出したのをさらに書きますが、戦いの漫画以外で人体の欠損が思い出されるのは、麻雀漫画の凍牌です。凍牌では、目が覚めた主人公の足の小指が切り落とされていて、麻雀で勝って帰ってこれたら繋げてやると言われるくだりがあります。指を再び繋げられるのにはタイムリミットがあります。そこまでに帰って来れなければ、主人公の足の小指は永遠に失われてしまいます。しかしながら、主人公は勝っている麻雀を続けることに意味を見出し、自分の足の小指を取り戻さないという選択をしました。

 取り返しのつかないことを選択できるという主人公の心を描くという意味で、いいエピソードだったのですが、ここでも「足の小指」という、その後、「普段は描写されない部分」を欠損の対象とすることでストレスを低減する施策も行われているように思いました。

 今連載中の展開では、麻雀に連動して人質の足が冷やされ続けており、凍傷になりつつあるという異常な状況で麻雀を打っているのですが、読んでいる僕としては、あらゆる展開の会話の中で、「でも。この時間の間も人質の足は取り返しのつかないことになりつつあるんだよなあ」と思いながら読んでいるので、ずーっと落ち着きません。

 何かが失われて取り返しがつかない状況ということは、やっぱりストレスがあるんだよなと自分の実感としても思ってしまいます。

 

 人は、人間から情報を得ることが得意なため、人体が損壊するという描写に必然的に注目してしまうところがあると思います。それは強い意味のある描写であると同時に、摂取し過ぎてしまうと強いストレスに繋がってしまうという危惧もあるのではないかと思います。だからこそ、漫画の描写では読者の受けるストレスが強くなり過ぎないように、色んな手当てが行われているように思いました。

 それは例えば、壊れる部分が記号的となることで許容され得るというものであったり、壊れても何らかの方法で取り返せるという状況を作るなどという部分だと思っています。

 

 なので、世の中では、一見残酷な描写のように見えても、このような適切な手当てを行うことで、残酷すぎないように読者に届けることができたり、そこをあえて踏み越えることで読者の心を刺してくることができたりしているのではないかと思いました。

「鬼滅の刃」と絆の呪い関連

 昨日、ローソンに入ったら映画のキャンペーンもあるのか、これでもかと鬼滅の刃コラボの商品が並んでいて、家に帰ってきてからテレビをつけていたら、そこでも映画のキャンペーンで鬼滅の刃の話をしていたので、僕もなんかいっちょ書くかなと思ったので書きます。

 

(免責:雑誌連載で読んだきりでその後読み返してないため、細かいとこ間違ってるかも)

 

 鬼滅の刃は、人を鬼に変えることができる鬼舞辻無惨という鬼が、お話の中核となって生み出された物語です。この物語は、無惨によって、主人公、炭治郎の家族が殺され、妹の禰豆子を鬼に変えられてしまったところから始まります。炭治郎は鬼を殺すために組織された鬼殺隊に入り、無惨を倒すための戦いに身を投じます。

 

 この物語に存在する大きな価値観としては、「変わるもの」と「変わらないもの」の話があると思います。ざっくり言うと、変わるものは人間であり、変わらないものは鬼です。

 無惨が求めているのは、変わらないものです。永劫不変な完璧なる到達点を目指しています。そのために必要なのは、自分の弱点である太陽の光の克服です。だからこそ、太陽の光を克服できる変異を遂げる個体を生み出すために、鬼を増やしていました。

 そして、人間はそうはいきません。人は死にます。人は変わります。人から失われたものの多くは二度と戻ってはきません。

 

 だからこそ人間には絆があります。ここで絆というのは、人と人の繋がりのことです。誰かが誰かに想いを託すことも絆です。人の肉体は滅びても、想いは別の人間に引き継がれ、一人の人間では成し遂げられなかったことを成し遂げます。

 

 この物語は絆の物語だと思いました。

 

 そして、絆の物語であることのもう一つの意味は、人から鬼に対する怨みです。誰かに何かを奪われてしまったということによる、奪った相手への執着という意味での負の絆です。

 この物語は、そんな負の絆を手繰りながら、人から人への正の絆をより合わせて、不変なるものに挑む物語であったと思います。

 

 この絆で雁字搦めにされてしまった物語の中で、そこから最も自由であったのが無惨です。彼には特定の誰かに対する強い想いがありません。彼にとって自分が鬼に変えた者たちはただの道具であり、自分を殺そうともくろむ鬼殺隊も、その中でかつて自分を脅かす恐怖を与えた剣士、縁壱に対しても、邪魔とは感じていても、個人に対する強い執着の気持ちはないように思いました。

 彼が見ているのは、あくまで自分の境遇への不満、どれだけの強さを持ちえたとしても克服できない、太陽の光へのコンプレックスです。

 

 だからこそ、無惨は自分の存在に執着する鬼殺隊を理解しません。鬼殺隊が抱える自分に対する負の絆を、自分を大災になぞらえて一方的に断ち切ろうとします。自然災害で自然そのものに怒ることを無意味と捉えるように、自分が行ったことに対しても、何代にも渡って怨みを抱え続けることは無意味だと断じます。

 

 無惨が生み出す鬼は、そんな無惨の変わらないという理想を体現する存在でもあったと思います。彼らの中には、人間であった頃に強い怒りと怨みの気持ちを抱えていた者たちが少なくありません。自らの境遇に対する絶望から、鬼になることを受け入れた者たちがいるのです。しかしながら、彼らは鬼になり、長い時間が過ぎる中で、ただ感情だけを残して、自分が何に対して怒っていたのかも、何を怨んでいたのかも忘れていきます。

 彼らは純粋に、その感情だけを保存する器として、完成していきます。彼らの抱える負の感情は解決されることがありません。なぜならば、自分たちがなぜその気持ちを抱えたのかも忘れてしまっているからです。具体性を失った、純粋な感情を擬人化したような存在と化してしまいます。だからこそ、説得は無意味です。説得は、具体性に対して行われるものだからです。例えば、なぜか分からないが怒っているという人に対して、人にはかけられる言葉がありません。

 

 鬼の中には、過去の記憶を取り戻して死んでいく者たちがいます。彼らは自分たちが何故怒っていたのか、何を怨んでいたのかを取り戻し、自分の中で決着をつけていきます。

 変わらない存在であった鬼が、変わってしまうことによって自分たちの人生に決着をつけていきます。

 

 この物語は、変わらないものを追い求めていた無惨が、変わらないものを追い求めるあまりに、ついに変わっていくことで決着を迎えます。無惨は、最期の最期に、永劫不変なるものとは完璧なる自分自身ではなく、人間たちが紡いできた人の絆の中にあることを理解します。

 それによって、それまで誰に対しても強い絆を求めなかった無惨が、自分の力を継ぐことができる存在に対して、初めての絆を見出そうとしました。千年の探求の果てに、遂に、変わらないものは、変わりゆくものの中にこそ存在しうるという矛盾するような結論に至るのです。

 

 しかし、その絆は拒絶されてしまいます。多くの人々に対して長きにわたって自分に対する負の絆をばらまき続けてきた男が、自分から初めて唯一求めた絆を拒絶されることで、この戦いは終結に至るのです。

 それは、その絆が、人を絡めとる呪いでもあるからでしょう。

 

 鬼滅の刃の物語は、絆によって呪われた物語ではないかと思います。誰もが良くも悪くもその糸に雁字搦めにされていました。その全てを断ち切ることができた世界で物語は終わります。

 

 ここで、「断ち切る」とタイトルの「刃」をかけて締めたら、なんかカッコいいのでは??と思って、なんかいい感じにして文章を締めくくれるのでは??と思ったのですが、なんか上手くいかなかったので終わります。

 いや、鬼という存在を、不変なる感情、負の絆としてなぞらえた場合、それらを全て断ち切った物語として、鬼滅の刃というタイトルを理解すればいい感じですか?どうですか??

 なんか分かりませんので、もういいです。

いともたやすく行われるえげつないマリオ35関連

 皆さんは今月頭に配信されたスーパーマリオブラザーズ35をやっていますか?僕はぼちぼちやっています。

 

 さて、スーパーマリオブラザーズ35は35人で対戦するマリオのバトルロイヤルゲームです。このゲームはファミコンスーパーマリオブラザーズをベースにしているのですが、マリオで対戦ってどういうこと?って思いますよね。

 

 公式サイトの記述を見るとこのゲームは「おくりあいバトル」と書かれています。そう、マリオ35では倒した敵を別のプレイヤーのコースに送り込むことができるのです。

 このゲームの敗北パターンは3つです。敵にやられるか、地形にやられるか、時間切れになるかです。つまり、もともとのスーパーマリオブラザーズと同じですね。ただ、ここに「倒した敵を別のプレイヤーのもとに送り込める」という要素が入ることで、様々な面の様々な敵を、大量に誰かに送り込むことができるようになり、白熱してくると、どうしようもない量の敵が、本来なら出てこないような場所にまで送り込まれまくることになり、パニックになって楽しくなってきます。

 一瞬の判断ミスがヤバくなり、目の前に迫る危機に瞬間的に判断をし続けるということに、人は夢中になってしまいます。

 

 そんな感じにぼちぼち遊んでいるのですが、このゲーム、何かに似ていませんか?

 そう、ジョジョの奇妙な冒険第七部スティールボールランに登場した、アメリカ合衆国大統領ファニー・ヴァレンタイン大統領のスタンド能力D4C」=「Dirty Deeds Done Dirt Cheap(いともたやすく行われるえげつない行為)」にとても似ているんですね。

 

 D4Cは、無数の並行世界(作中では多次元と呼ばれる)を行き来することができる能力です。

 大統領は、この能力を使って、死にかけた自分を別の世界の自分と入れ替えたり、別の世界から連れてきた人を、この世界の人とぶつけて、そこに生じる矛盾から消滅させてしまったりします。

 この能力の発動条件は「物と物の間に挟むこと」です。自分を物と物の間に挟むことで、別世界に移動したり、他人を物と物の間に挟むことで、別世界に飛ばしたりすることができます。

 

 ここで思い出してほしいのは、マリオ35で倒した敵は別のプレイヤーのもとに送り込まれるということです。マリオが敵を倒す方法とは何か?踏むことです。踏むとは、足の裏と地面の間に「敵を挟む」ことです。ほら、繋がりましたね。マリオが使っているのはD4Cの能力なのではないでしょうか?

 

 35個の多次元世界の中でそれぞれ生きているはずのマリオたちを繋げているのは、おそらくD4Cの能力です。ファニー・ヴァレンタインの能力と同じタイプのスタンドを身につけたマリオが多次元で戦うゲームこそが、マリオ35なのではないかと思いました。

 空条承太郎スタンド能力スタープラチナが、DIOのザ・ワールドと同じ「時を止める」能力を使うとき、それをスタープラチナ・ザ・ワールドと呼称します。

 ならば、マリオが使うその能力はきっと「マリオD4C」なのでしょう。

 

 あッ!!!!ちょっと待ってください!!??

 

 D4Cとはもしかして16進数で解釈できるのではないでしょうか?だとするならば、D4C=13*16*16+4*16+12=3404となります。10進数になおせば「マリオ3404」ですね。なるほど、これはどれだけ卑怯な手を使ってでも「マリオ35」と繋げたくなってきました…。

 

 マリオ35には1-1から8-4までの計32個のコース、そしてチビマリオ、マリオ、ファイアマリオの3つの姿があります。つまりコースとマリオの組み合わせは96通り、ここにD4Cの3404を足して3500になります。ここでマリオは100枚のコインをとると1人生まれることから、100で割ると35になりますね。

 

 別解では、2Dマリオの基本となったスーパーマリオブラザーズと、3Dマリオの基本となったスーパーマリオ64に着目する方法もあります。

 その2つのマリオが同一人物の場合、

 2D×スーパーマリオブラザーズ=3D×スーパーマリオ64

 となり、

 両辺を2で割ると

 D×スーパーマリオブラザーズ=3D×スーパーマリオ64/2

 つまり、

 D×スーパーマリオブラザーズ=D×スーパーマリオ96

 となります。これを移項してまとめると、

 D(スーパーマリオ(ブラザーズ-96))=0

 です。

 D(ディメンション)は多次元なのでゼロではないですし、スーパーマリオも存在していることからゼロではないので、ブラザーズ=96ということが分かります。

 

 あとはこれをD4C=3404に足して、同様に100で割れば、またしても35という数字が現れました…。こんな一致が偶然であるとは思えません…。

 

 これで大体の謎は解けたかと思いますが、マリオでは、敵を踏まなくてもファイアボールを当てれば敵を倒せるのに、それでも別世界に飛ばされてるやんけというツッコミがあると思います。これもスティールボールランを読めば解消される話で、D4Cの能力以外で多次元を超えることができるものがあります。

 それが重力です。

 

 この重力を扱える能力こそが、スティールボールランジャイロ・ツェペリが、そしてその教えを受けたジョニィ・ジョースターが使う「黄金の回転」なんですね。ジャイロは黄金の回転を鉄球に与えることで大統領と戦います。

 つまり、ファイアボールの正体は、黄金の回転を与えられた鉄球のことなのではないかということです。黄金の回転は、動植物のような自然物の中から黄金の長方形を探すことを基礎としています。ファイアボールも、ファイアフラワーをとることで使えるようになります。

 繋がりましたね。

 

 さて、これで最後ですが、聖なる遺体の能力を得た大統領は「D4Cラブトレイン」という新しい能力を発現します。

 「D4Cラブトレイン」とは光の線の能力です。その光の線の中にいる限りは、「吉良(きちりょう)なるもの」だけがそこに集まり、「害悪なるもの」はその外に誰かのもとに吹き飛ばされます。

 これはスターをとったマリオととても似ているのではないでしょうか?

 

 スターをとったマリオは無敵になります。その身に触れた敵はどんな敵でも一撃で倒されてしまいます。そして、マリオ35では別の世界に吹き飛ばされてしまいます。まさしく「D4Cラブトレイン」の能力そのものではないですか。

 

 ここまで読むことができたあなたは、もはや、マリオ35とはマリオのガワを被せられただけの、ジョジョの奇妙な冒険第七部スティールボールランのゲームであることを理解することができたと思います。

 

 ジョジョの聖なる遺体とマリオのスターが同一のものであるということに、これを書きながら気づいたときには本当にびっくりしてしまいましたが、確かに、遺体はスタンド能力を発現させる力がありますし、スタンド能力は隕石に付着したウィルスの影響であるという話もあるんですよね。

 この、「遺体」と「スター」という一見全く別の存在が、スタンド能力という補助線を引けば繋がるという驚きがありますし、さらに星型の痣はジョースター家の血統の象徴でもあります。

 

 その意味は今の僕には分かりませんが、今後のジョジョの展開についての重要なヒントが「スーパーマリオブラザーズ35」には隠されているのかもしれません…。

「TENET」と「円盤」から時間の認識について考える関連

 「TENET」を何となく見に行くかと思って見に行ったのですがすごく面白かったです。劇場についてから、これクリストファー・ノーランの映画なのか!と知るぐらいに全然予備知識がなかったのですが、見に行って良かったです。なお、この鈍感さは意図的なところがあって、敏感に世の中を見ているとネタバレを読んでしまう可能性があるので、あ、この情報をシャットアウトしておこうとなんとなく思ったらそうして、それに成功しました(自分が見るまでネタバレを見ずに済みました)。

 

 さて、TENETは時間を取り扱ったSFの映画で、この映画を楽しむためには、この映画の中で時間がどのように取り扱われているかを上手く捉えることが重要だと思います。

 物語の前半には分からない描写が沢山ありますが、だんだんと理解を得てくることで、意味が分かるようになり、何より親切なのは後半からは時間を遡っていくことで、最初の分からなかった描写のところに戻って来てくれるので、より分かりやすくなります。

 僕が最後まで上手く理解できなかったのは冒頭のシーンだけで、それは冒頭のシーンは作中で再び訪れることがないからなので、もう一回見たら分かるのかもしれません。

 

 映画を見て思ったのは、「カメラを止めるな」と構成が似ているなと思うことで、映画の中で違和感があるが意味が分からない描写をたくさん前振りされ、それらの理解に対する補助線が引かれたあと、再び描写されることで意味がどんどん分かっていきます。

 TENETでいう補助線は「本作での時間に対する理解」であって、それがおもしろいところだなと思いました。

 

 TENETにおける時間は、可逆なものとして描かれます。時間が過去から未来の一方向にしか動かないという常識に反し、ある発明によって未来から過去の時間の流れを生きることもできるようになるのです。そして、物語のクライマックスは順方向と逆方向の時間の流れが交錯する場所、特異点たるその瞬間になります。

 

 人間は因果で物事を理解しようとしがちです。しかし、過去があって未来があり、原因があって結果があります。しかし、それは本当に自明でしょうか?人間は因果に固執するあまりに、物理現象としては説明のつかない因果も見出してしまうこともあります。

 例えば、ジンクスなどはそのような認識の不具合であり、黒猫が目の前を横切ったから不幸が訪れることを説明できる理屈はありませんが、人間はそういった認識をしてしまうことがあります(そういう話に実はまだ解明されてない因果がまれにあったりするのも小憎らしい)。

 

 人間が因果と認識しているものは、本当に因果でしょうか?目の前にあるその果は、因が存在しなければ本当に存在し得ないものなのでしょうか?もしかすると、人間が今自明だと思っているその認識が間違いなのではないか?と物語の中で示唆されることが、僕がTENETを見て面白いと感じた部分です。

 ただし、TENETの中でも、時間の認識に対する確たる正解はありません。この物語は、未来人と現代人の時間に対する解釈違いが起こした戦いの話でもあります。時間が可逆になった場合、過去に干渉することは未来に干渉することでもあります。なぜなら、過去の因にもとづいて未来の果があるからです。その場合の因果関係の矛盾が、どのようなことを引き起こすのかは分かりません。

 作中では、その分からない部分に足を踏み入れるほどの理由が未来人にはあったのでした。

 

 僕がこの映画を見ていて思ったのは、時間を特別視せず、ただの物理現象として捉えた場合に、親殺しのパラドックスは許容され得るのではないかということです(急進的未来人派)。なぜなら、人間が時間を遡って親を殺した瞬間に自分がその場から消えてしまうということは、物理現象としての説明ができないからです。

 

 また、このような時間認識はテッド・チャンの「あなたの人生の物語」で描かれていたこととも似ていたように思いました。「あなたの人生の物語」には、過去と現在と未来を区別せず、等しくただあるものとして捉える異星人の姿があります。例えば、時間を映画フィルムのようなものとして捉えたときに、過去も現在も未来も、区別なく同じように見ることができます。現在とは、たまたま映写レンズに映っている場面に過ぎません。

 こういう、日頃自分が当たり前と思っていることに対して、当たり前でなかったとしたらという仮定を設定できるのが、SFの面白いところで、頭の中に、未発見の領域を見つけることができて面白くなるのが面白いなと思います。

 

 最後に、TENETを見ていて思い出した漫画としては黄島点心の「円盤」があります(単行本「黄色い円盤」に収録)。円盤はDJの漫画です。地球の空に突如として円盤が現れ、そして、赤道を取り囲んで星に密着した土星の環のような巨大な円盤が発生します。

 この円盤は何なのか?それはレコードです。それもただのレコードではありません、アカシックレコードです。アカシックレコードとは、この世界に存在する全ての記録が収められた存在です。

 地球上の人々は、突如現れた地球のアカシックレコードの再生によって、この地球の全ての歴史を追体験していくことになります。しかし、人々は気づきます。円盤のレコードにはいずれ終わりがあるのです。その終わりとはつまり、地球の歴史の終わりです。人々は、このアカシックレコードの再生が終わるとき、地球が終わることを理解するのです。

 

 円盤はDJの漫画です。DJとはレコードと別のレコードを繋ぎ、曲を終わらせない技術を持った人々です。終焉に向かって奏でられる地球のアカシックレコードに立ち向かえるのは、もはやDJだけなのです(この詳細と結末は是非単行本を読んで下さい!!)。

 

 TENETの未来人と、円盤のDJには共通点があるように思えます(僕には思えます!!)。終わることを諦観して受け入れることなく、繰り返す循環の中に永遠を見出そうとしているからです。

 永遠が、0から無限の先にあるのではなく、たとえ0から1の間であったとしても、そこを無限に循環させていく中に見いだすという認識がそこにあり、TENETを見ておもしろかったと思った人は、黄島点心の黄色い円盤も買って読むといいのではないか??という今回言いたかったことがやっと出てきました。

 

 なので、読んでくださいね。

「The Wonderful 101」を何回もクリアしている関連

 プラチナゲームズの「The Wonderful 101」はめちゃくちゃ好きなのゲームですが、僕の周りではあまり遊んでくれない、もしくは遊んでも自分には合わないと告げられることがあり、ほんとめちゃくちゃ面白いのに、なぜ理解しない?という気持ちになるとともに、だいたいそうなってしまう気持ちも分かります。

 

 このゲームのチュートリアルは、とりあえず全部クリアするところからなので、全部クリアして操作に慣れると、その先にめちゃくちゃ面白い世界があるのですが、そこに至るまでに遊ぶのをやめてしまう人が多いのではないかと思います。

 それは仕方がないかなと思うところもあるのですが、とりあえず僕がどう楽しんでいるのかだけは記録しておこうと思います。

 

 ちなみに、僕は最初のWiiUで遊んでハマり、WiiU自体があまり流行らなかったゲーム機なので、他人にオススメしにくいなと思っていて、現行機に移植してくれないかな?と思っていたところ、ついに移植を行うためのKickStarterクラウドファンディングが始まったので、よっしゃ頑張ってくれ!と何万円かを突っ込んだのですが、おかげでSwitchのカートリッジ版とSteam版が手に入り、Switch版はとりあえずクリアして、最近GPD WIN MAXという小型のゲーミングノートPCを買ったので、Steam版もまた最初からやってさっきクリアしました。

 

 さて、The Wonderful 101は、宇宙からやってくる悪い奴らと戦う戦隊もののゲームです。プレイヤーはThe Wonderful 100(ワンダフルワンダブルオー)を操作しながら敵と戦います。このThe Wonderful 100、名前の通り、100人の部隊で、100人のヒーローを操作しながら敵と戦うことになります。

 

 このゲームを知らない人はどうやって100人を同時に?と思うかもしれません。それができるのがユナイトモーフという技です。ユナイトモーフはヒーロー同士が組体操のように合体することで、様々な形態に変化し、様々な行動がとれるようになる技です。

 

 このユナイトモーフがゲームシステムとして最高に良くて、ただし、操作に慣れるのが難しい部分でもあります。

 

 ユナイトモーフの発動には図形を描きます。もともとWiiUという手元にタッチパネルの入力装置があるコントローラに向けて作られており、Switch版でもタッチパネルで操作できると思いますが、僕はもう右スティックでしか図形を描いていません。

 これが難し要素のひとつだと思っていて、タッチパネルなら画面と手元を両方見ないといけないのが難しいですし、右スティックなら、マウスで絵を描くのだって難しいのに、スティックで任意の図形を描くのなんて、まあやりにくいわけじゃないですか。でも、クリアするぐらいまでプレイすれば普通にできるようになりますし、この仕組みが描き損じしにくくなるように工夫されてできていることも分かるんですよね。

 

 例えば拳を作りたいときには円を描いたり、剣を作りたいときには直線を描いたりします。様々なユナイトモーフが、ゲームを進める中で順次アンロックされていき、だんだんと複雑な図形を描く必要ができたりします。でも、曲線と直線を描けると、あとはその組み合わせなんですよね。

 例えばハンマーを作りたいときには直線の先に円を描く必要があるのですが、これは普通に剣を作るときのように直線を描いたあと、一瞬止めて、拳を作るときのように円を描けばいいだけです。時間をゆっくりにするボムを作るときはその逆で、円のあとに直線です。

 線を直線に曲げることで作れる銃のあと、もう一回鋭角に線を引けば爪になります。基本の動きが見についていれば、あとはその組み合わせの問題なわけです。格闘技の型稽古みたいですね。必要な動きは最初から使える基礎の型の中に存在しています。

 

 自分が描いた図形がゲームでどのように認識されているかは、描いている線の色で判別できます。また描いている時間はゲーム内の時間がゆっくり流れるので、割と落ち着いて描けるというのもあります。

 

 このユナイトモーフの何が素晴らしいと思うかというと、通常のアクションゲームではありえない数の多彩な技を出すことができる点です。いや、コマンド入力で技を出す格闘ゲームと同じじゃんと言われると、まあそうなのですが、3Dアクションゲームとコマンド操作を融合させたゲームを僕がプレイしたことがなかったので、すごく新鮮に感じてしまったんですよね。

 

 例えば、他のゲームでよくある操作だと、技を発動する際に、左右のボタンを何度か押して技を選んでから実行ボタンを押すとか、予め十字キーに4個だけのショートカットを登録しておくなどの操作が求められます。前者は技の名前を見ながら選んで実行するという時間のかかる操作ですし、後者は使える技の数が制限されてしまいます。

 でも、ユナイトモーフはその制限がありません。素早く全ての操作を瞬間的な判断で発動することができ、今まさに迫ってくる敵に対して、適切な技を選択し、バトルのテンポを阻害することなく、自由自在な戦い方ができるようになります。

 

 また、このユナイトモーフのもうひとつの良さは、描いた図形の大きさで威力が変わることです。図形をデカく描けば強くなります。これも再プレイをする上でいいところで、ゲームを進める中で隊員を増やしていけばより大きく強力に技を出せるようになるので、2周目以降は明確に強くなって戦えるんですよね。

 またマルチユナイトモーフという、同時に複数の技を発動することもできるのですが、そのときの隊員数の振り分けをどうするかも直感的に行うことができます。

 ユナイトモーフは、種類の選択と強さの選択、そして振り分けの選択を、ひとつの操作で実現できる、非常に優れたアイデアなのです。

 

 また、敵の動作はパターン化されており、弱点も設定されています。つまり、そこに正解の対処が存在します。この正解に気づいて覚えていくというのも、一回クリアする必要がある要素なのですが、一度理解に至れば、相手の行動に対してユナイトモーフで高速に正解を選んでいくことができます。

 そのように集中することで、頭がフロー状態になっていくんですよね。それが気持ちいいわけです。また、完全な正解だけを延々選んで発動できているとき、今、自分はゾーンに入っているなと思うときもあります。

 

 僕はこの状態をWiiU版を遊んでいたときから、ハンターハンターのネテロ会長が、キメラアントの王メルエムと戦ったときの百式観音という技になぞらえて感じています。強大な敵を前に、相手からのダメージを一切受けないままに高速の正解を出し続けることで、相手を圧倒することができるということに、ものすごく興奮してしまいます。そしてネテロは負けましたが、ゲームの僕は勝てるわけです(ネテロ会長の意志は僕が継ぎますよ…)。

 

 慣れてくると音ゲーに近いというか、音楽のセッションをしているような気持ちでバトルをすることができるので、それがなんかホント気持ちよく楽しくて、何回もクリアしている感じです。

 

 とにかく今は現行機で遊べるようになっていて非常にチャンスなので、もし興味を持った人がいれば、まずは一回クリアしてみてください。

 

 以下、参考用のビデオクリップです。

 

 

 

 

 

面白奉行とスベりフリー関連

 僕が「面白奉行」って読んでいる行為があります。それは人が集まっている場において、他人の言動について、何がおもしろいとか何がおもしろくないとかをジャッジする行為なのですが、これがあんまりよくない使われ方をされているのを昔よく見ました。

 おもしろをジャッジするとは、例えば、他人の話について「オチは?」と聞いてきたり、「スベった」と認定してきたりすることです。

 

 大阪に住んでいたときには、「おもしろい人である」ということが、他の土地よりもより意味を持っていたと感じていて、特に若い男なんかは、おもしろい人間であると思われたいと思いがちであったように思います。そのためにおもしろいことを積極的に言おうとすることは、僕は基本的に良いことだと思っていて、なぜなら、周りの人が笑うようなことをお互いに言い合うような場所は楽しいからです。

 

 ただし、ここで注意しないといけないことは、おもしろいことについての絶対的な尺度はないということです。100人いたら100人が笑うおもしろいことということはなく、それぞれの人には何をおもしろいと感じるかという感性があります。また、人間の性質として、100人いたら5人ぐらいしか笑わないことの、その5人に自分がなったときに強烈におもしろくなったりもします。

 だから、おもしろいことを言うということは、きっと目の前の人が何をおもしろいと感じるかに寄り添うということでもあって、そこには他者とのコミュニケーションの問題がある気がするんですよね。

 

 だから、ある場所でウケている人が、他の場所に行くと全然ウケないことも普通にあります。人が何で笑うかには様々な下地が必要だからです。何かしらの共通認識が下地となったおもしろは、それがない場所では伝わりません。そう思うと、お笑い芸人が、舞台の上やテレビの中で、自分が笑わせようとしている相手が誰かを明確に認識することなくお笑いをやることの難しさについても考えることになるわけです。

 個人的な経験としても、インターネットで、この人は面白いなと思う人が自分と同年代であることが分かることが多くあります。それはきっと、世代的な共通の下地を持っていることが多いからではないかと思います。そう考えれば、自分より世代が上だったり下だったりする人たちが、もし自分が分からないことで笑っていても、それは、そこにそれぞれ独自の下地があるからで、決してつまらないことで笑っているわけではないという理解ができます。

 

 さて、話がめちゃくちゃずれたので面白奉行の話に戻しますが、面白奉行とは、他人のおもしろをジャッジする行為であるとともに、「自分、お笑いのレベル高いですよ?」とアピールする行為となることがあります。

 この使い方は危ない行為だと思っていて、おもしろい人はすごいという価値観に寄り添う上で、「他人をおもしろがらせる」というやり方ではなく、「他人におもんないと言いまくることで、相対的に自分がおもしろい人であるということを示せる」と思い込んでいるということです。

 ただ実際、それが効果が出ることもあって、特に年長者や立場的に強い人が面白奉行行為をしてしまうと、立場の弱い人たちは、自分の言うことがおもしろいと判断されるのか?ということに委縮してしまい、口数が少なくなってしまったりします。というか、大阪に住んでたときに、こういうことがちょいちょいあったんですよね。

 場におけるおもしろいおもしろくないを立場の強い人が面白奉行として一手に握っていていることはあって、でもよくよく考えたら、その面白奉行、他人を全然笑わせてなかったりもするわけです。結果として起こるのは、その「別に他人を笑わせることができない人」が、自分はおもしろのレベルが高いとアピールするために、場からおもしろをどんどん減らしていくということになります。辛い。

 

 前述のように、おもしろの尺度は多様です。全世界の誰も笑っていなくても、ひとりの人が自分自身で心から爆笑できていれば、それはきっとおもしろであるはずです。ただ、その人からすれば、世界の残りの全てはおもんないかもしれません。

 それは、その人の中で閉じているなら全然いいんだと思います。そして、より多くの人がおもしろいと感じるからこそより意味があるとも限りません。100人が100人おもしろいと思うものと、100人のうち1人しかおもしろいと思わないものの間に根本的な優劣はないわけです。あるとしたら、「より多くの人を笑わせた方が勝ち」というような、別の価値観を流し込んだ場合でしょう。それだって、100人がどの100人かによって結果が全然変わってきてしまうことです。

 

 ただし、何らかの場においては、この辺に考える余地があると思います。おもしろに優劣も貴賤もありませんが、その場が全体として結果的に楽しくなるかならないかという差はあり、僕はあまり楽しくない場所にはいたくないので、この手の面白奉行行為をされると非常に嫌です。

 誰かをおもしろくないと言うことで自分をおもしろい人間であると言えるのであれば、周りの全員をおもしろくないと思う人が一番おもしろいことになります。さらに、他人を笑わせることから一番縁遠い人がおもしろいということになっている場所だったりするとき、その場所ってめちゃくちゃ居心地が悪くないですか?

 

 だから、僕はそういう場所からはスッと逃げるか、面白奉行を完全に無視するかみたいな感じになってしまったりするんですよね。

 

 今ここで出した面白奉行行為についてはとても極端な例示です。誰しも心の中に、ある程度の面白奉行は飼っているでしょうし、他人のおもしろについてジャッジしてしまうのは、ある程度は仕方ないとも思います。その上で、皆がいる場所で、どの程度のことをやっていくかが、まさにコミュニケーションなんだと思うんですよね。

 場にいる人がどのような人でも、絶対に勝てるやり方はありません。そこには自分の価値観と相手の価値観があって、その相互作用を読み取って、場所をいい感じの雰囲気にしておくことが求められているんじゃないかと思います。

 そのために必要なのは、自分がおもしろい人であるということをアピールすることではなく、目の前にいる相手を笑わせようと思うことなんじゃないかと思っていて、そういう気持ちでいる人が集まると楽しい場所ができる感じがしています。

 

 だから、僕は大阪に住んでて、気の合う友達と一緒にいる時間はめちゃくちゃ楽しかったです。

 

 面白奉行への対抗策として、存在しているのは「スベりフリー」という概念です。おもしろいおもしろくないのジャッジはどうしても完全には無くせないと思いますが、それが無くせる特殊な時間と空間がスベりフリーです。それは、今からスベるという概念は消失しましたと宣言することで、誰がどれだけおもんないことを言っても、それを一切否定しないという時空間をあえて作ることで、皆が好き勝手ものを言うようになるんですよね。常にそれだとアレかもしれませんが、これがたまにやるとめちゃくちゃ楽しいんですよ。

 自分の中で、これはおもんないなと思って外に出さなかったようなことを、うっかりスベりフリーに乗じて出してみると意外とウケてしまったりして、自分自身のジャッジは当てにならねえ!と思ってしまったり、友達が思ってたけど言わなかった新しい側面を出してきたりして、まあとにかく楽しくなります。

 なので、スベりフリーはすごくオススメです。

 

 おもしろの話をしてきましたが、これっておもしろに限らない話だとも思います。例えば、漫画や映画、ゲームに対しても、何かをおもんないと世の中に向かって発言する人が、「自分はその作者よりもおもしろの本質に近い」と思っていることがあると思います。それはきっと、その人の個人としての頭の中に閉じていればそうなのだと思います。しかし、何をおもしろいとするかの絶対的な基準が世間的にその人であることはありません。

 

 ある種の批評家が嫌われるのも、そのような理屈だと思っていて、つまり「自分がその分野で秀でているという自己アピールのために、他人が作った何かをおもしろくないと言っている」という態度が、どれだけ出ているか?(より正確には、出ていると思われているか?)という話ではないかと思います。

 ただし、そのような気持ち自体は誰しもの心から完全には分離できないとも思います。だから、自分で振り返る気持ちがあるかないかという感じもしていて、自分も振り返った方がいいなと思ったりするんですよね。

 

 誰の心にも少なからず面白奉行はいると思います。でも、面白奉行だけに囚われてしまうと、場がめちゃくちゃ楽しくなくなっていく感じがしていて、僕はそういう場所にいるのが嫌だなと思ってしまいます。

 ただ、どうしても面白奉行は完全には分離できないわけじゃないですか。だから、付き合っていくしかないんですけど、たまにスベりフリーをやると、そこから一時解放されたりして楽になったりしますよという話でした。

「タイムパラドクスゴーストライター」をおもしろく読んでた関連

 タイムパラドクスゴーストライターは、ジャンプで連載されていて、この前完結した漫画で、終わる直前は特にかなりおもしろく読んでいたので、短く終わってしまって残念でした。

 

 おそらく打ち切りで終わっており、もっと長く続くなら回収されるはずだったと思われる要素のいくつかも宙ぶらりんの状態でしたが、短く終わったために結果的にテーマ性のようなものはむき出しになったように思ったので、そこが分かりやすくなっていったのが終盤おもしろく感じていた理由のひとつではないかと思います。

 

 この物語は、連載をどうしても勝ち取れず、編集者に強めにダメ出しばかりをされていた漫画家の卵の佐々木くんの家に、ひょんなことから未来のジャンプが家に届くようになり、そこに載っていたとてもおもしろい漫画「ホワイトナイト」を、うっかり無自覚に盗作してしまうところから始まります。

 僕が序盤で感じていたことは、佐々木君がやってしまう盗作という事実の悪さと、人間としての善良さのバランスの合わなさであり、また、佐々木くんが抱えている美学がイマイチよく分からない感じだったりしたことがあったための困惑でした。

 

 主人公なのに、どういう考えのもとに何を正しいと考えているのかがよく分からないという、作中の倫理観や美学の基準が全然分からなくて、これはいったいなんなんだ?というのが当初読みながら思っていたことです。

 僕が思うに「漫画を描く」ということもある種のコミュニケーションの形態のひとつで、だから「誰かに何かを伝える」ということが重要ではないかと思うのですが、佐々木くんは漫画を読んでほしいのは特定のどういった人ではなく、漠然とみんなだと言いますし、内容としてもそこに対して自分の中にある誰かに伝えたいものがあるわけでもありません。

 それは悪いことではなく、ただ平凡なだけだと思います。いや、特別な何かになりたいのに、平凡でしかないということは、限られた人しか立てない場所に立とうとする上では不利なことなのかもしれませんが。

 

 なので、最初の方ではよく分からない漫画だなと思っていました。

 

 ただし、「透明な傑作」という概念の説明が登場してから、そこはがらりと変わります。透明な傑作とは、後にホワイトナイトを描くはずだったアイノイツキちゃんが抱えていた概念です。それは、作家がどうしても持ってしまう個性としてのクセを極限まで排し、全人類の誰が読んでも気兼ねなく楽しむことができる究極の漫画のことです。実際、日本で一番売れている漫画でも単巻では数百万部が限界です。

 日本人口から言うと、95%以上の人たちは単行本は買わないということを選択した漫画と考えることができます。それを100%にすることは現実的に可能でしょうか?不可能だと思います。

 でも、そんな不可能な場所を目指してしまう人間がここにいたと考えれば、全て辻褄が合うと思いました。そこで今まで分からなかったことに対する理解を得たと思ったわけです。

 

ここでもうちょっと詳しく書いてます。

mgkkk.hatenablog.com

 

 囲碁漫画の「ヒカルの碁」で、塔矢名人とどうしても打ちたいと言った幽霊の佐為に対して、ヒカルは佐為の存在がバレてしまわないように、15目差で大勝することを目標とさせるハンデをつけるなら…という条件付きで打たせるという展開がありました。同等の条件でも勝てるかどうかが分からない相手に、大差で勝とうと思えば、それは一見むちゃくちゃな碁になってしまいます。ただし、名人に対してそんな勝ち方をしようとする人がいるなんて思えないため、その真意に気づける人は普通はいません(塔矢名人は気づきましたが)。

 タイムパラドクスゴーストライターもこれと同じじゃないかと思っていて、そんなむちゃくちゃな場所を目指しているのならば、これまでのはちゃめちゃな展開をその解釈で読むことができるということに気づくわけです。そのスケールのデカさを目指しているならば、正攻法な面白い漫画を作ろうとしている編集者との意見が合うわけがありません。

 

 佐々木くんとアイノイツキちゃんの漫画を盗作してしまいましたが、その一方で、この物語の中で、他の誰にも理解できない同じ場所を目指している数少ない同志だということになります。そして、未来のジャンプが届かなかった場合の別の未来では、むしろ佐々木くんの描いた漫画がアイノイツキちゃんに影響を与えていたという事実も告げられます。

 

 このように、ありえないような理想の場所に向かって突き進む無謀な人たちであったということが分かったことで、この物語に対する理解が僕の中に生まれました。また「透明な傑作」は現実的にはあり得ない漫画であったとしても、漫画の中ならば存在することができると思います。

 それがどのように生まれるのか、生まれないのか?もし否定されるなら、どのように否定されるのか?彼らが目指すべきところはどこなのか?そして、そこに辿り着くことはできるのか?ということにとても興味が湧いてきました。

 

 例えば、そんな「透明な傑作」は、ひとりの力ではできなかったとしても、時空をゆがめてそれぞれの人が時代時代に積み重ねたものを継承し続けた果てには、もしかすると生まれ得るかもしれません。もしかすると、それがタイムパラドクスゴーストライター、時空の歪みの中で誰が生み出したのかも曖昧なままで生まれる究極のクリエイティブなのでは?などと想像したりしました(なお、この想像は全く外れています)。

 

 現代の漫画表現も、過去の様々な漫画家たちが生み出したものの上にある最先端です。ひとりの人間だけでは生み出せなかったものを、これまで読んできた沢山のものを取り込んで前に進んでいることに自覚的な漫画も沢山あります。例えば、ジャンプではチェンソーマンがそうですし、他には忍者と極道もそんな漫画だと思います。影響を受けたものを隠すことなく取り込み、推進力として、ひとりの人間のクリエイティブだけでは突破できない先に行こうとしている漫画です。

 

 この物語は、最終的にアイノイツキちゃんを救うことを目的とした物語だということが分かりますが、その過程の無数の試行錯誤があり、どうしても助けられない誰かを助けようとする無限の試行錯誤の中で、遂にはその透明な傑作が生まれたりするのではないのか?そして、それはいったいどういうものなんだろうか?ということを期待したりしていたんですが、実際、最後まで読んでみるとそういう感じにはならず、割と落ち着きそうなところに落ち着く話になってしまったように思いました。

 

 まだ完結巻も出ていないので、ここでは終わり方はぼやかしておきますが。収まりのいい話としては落ち着いたように思います。

 

 ただ、個人的にはどうせなら突き抜けて欲しかったような期待を勝手に抱いてしまっていたんですよね。爆走する車が上手い具合に駐車場に止まるよりも、なぜだかさらに加速して空を飛び、大気圏の外に飛び出してしまうような感じに。

 

 話を綺麗に収めてしまったのは、短く終わらせることになったからということも関係しているように思うので、もしもっと連載が続いていたら、どのような展開や終わり方をしていたのか?というところは気になります。

 

 僕は漫画をテーマ性みたいなもので読みがちなところがあって、僕が言うテーマ性とはつまり価値観のことです。何を良いと考えて何を悪いと考えるか。物語が何に寄り添っているのかという価値観が持つ個性に興味が湧いて読んでいることが多いです。

 漫画を誰のために描いていて、そこで何を描こうとしているかというのは、僕自身が漫画の同人誌を作るようになって考えることがある話で、だから分かる話だと思うんですよね。

 

 そういえば、僕自身の感覚はそれをそのまま漫画にしてみるかなと思って描いたやつがあります。

誰ガ為ノ草枕www.pixiv.net

 ここで描いたものは、同人誌でもあるし、結局自分は自分が読みたいものを描くしかないなと思って、それを同じく面白く思ってくれる感覚の人が他にもいるということを祈るという姿勢でした。それが自分にはしっくりきたんですけど、まあ狭い話だなとは思っていて、そういうところにも、なんかもっとでっかい何かに対する期待があったのかもしれません。

 

 タイムパラドクスゴーストライターは、せめてあと1巻分多く続いたら、もう少し駆け足でなく色々描けることもあっただろうになと残念な気持ちになりましたが、世の中は色々仕方ないので、仕方ないなと思います。

 何か僕が思いもよらなかった概念や、読んだ後、自分の考えられる範囲が広がるのではという可能性があっただけで十分面白く読みましたし、それが描かれるぐらいに連載が続いていればもっと良かっただろうなと思います。残念。